2018.03.19

今田健美(こんだ たけみ)神父様 2

今田健美(こんだ たけみ)著
『鳩と蛇の語らい』
1980年、中央出版社、絶版amazon

カトリック新聞に毎回(つまり毎週)連載されていた今田神父様の御文章をまとめた本。

いつごろ連載されたものかと云うと、今田神父様御自身による1980年4月8日付けの「まえがき」の中に「数年前カトリック新聞に連載したもの」とあるから、1970年代の中頃ではないか。

今田神父様の御文章に於いては(或いは、昔の人の文章に於いては)現代の私たちからすれば「句点」であるべきところを「読点」にしている箇所にたびたび出くわすが、ともかくそのまま引用する。

p.133~

信仰の厳しさ

今田健美神父様

(1910-1982)

 「罪を憎んで、人を憎まず」。だれが言ったかいいことばだ。管理人注1

 わたしの子どものころは教会の社会に向ける目が厳しくて、一歩門を出れば邪悪の国と言えるくらいだったと思う。異教国ではあることだし、邪悪も多い世の中だから、厳しく警戒するのは当然だと思う。管理人注2

 しかし、邪悪を憎むあまり、社会そのものまでも憎めば、それは行きすぎだろう。「邪悪を憎んで、社会を憎まず」と言えば拡大しすぎだろうか、同じころ、社会の眼には教会がどのようにうつったか。閉鎖的で独善的で、つきあいにくいものではなかったかと思う。

 信者は、社会で生活するほかはないから、ひどく窮屈だった。敵国に住むように、地雷原を歩くように、のびのびしなかった。今の新しい信者には想像もできないだろう。
 「わたしの国は、この世のものではない」と仰せになったのだから、神の民の世にあるは、異国を旅するがごとくであるのに不思議はないが、「神はそのひとり子をお与えになるほど、世を愛された。……神がひとり子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、子によって世が救われるためである」。この、世というのは教会だけをさしているのではない。

 ところが、今では古い信者にとっては、まともに目を向けることも辛いほど、急速に方向転回して社会に合わせよう、合わないところは片はしから捨ててしまえ、変えてしまえ、引っこめてしまえというように見える。一方の極端を戒めて、反対の極端に走る。中道がないのではない。あるからこそ、それを基準に極端を考えられるのだ。

 昔の厳しさには、行きすぎもたしかにあったと思う。いらないところで、こわおもてをしていたと反省する。しかし、そのころの信者は、驚くほどに忍耐づよかった。それで立派だった。

 教えの真理を認めたとなると、生活の不便も苦しみも受け入れ、信仰を守った。同じ真理を認めているにしては何をやってもいい、わけのわからない、変な時代が来たものだ、と古い信者は、まったくあきれている、あきれてはいるが、それを口にすれば、ばかで、無知で、時代おくれで、そのうえ刷新の邪魔者にされてしまう。古い神父も同じだ。

 昔は社会が住みづらかった。今では教会が居づらくなっている。社会が変わったよりも、教会が変わったのだと、感じるのが古い人だ。中道はどこにあるのだろうか、古い人は見たことがないだろうし、新しい人は自分では中道に向かいつつあると信じているだろう。管理人注3

 この先はどうなるだろう、こわいもの見たさもあり、早く目をつぶりたくもある。そんな中でつくづく思う。「ひとり子をお与えになるほど、世を愛された」神のみ旨はどこだろうかと……。

 はっきり分かっていることは、世を救うために来られたおん子はモーセが上げた蛇のように、十字架に上げられ、殺されて、それから、よみがえられたということだ。

 あの復活は肉体の復活ではなかっただの、だからほかの死者の肉体も復活することはないだのというものがあれば、それがだれであろうとわたしは信者と認めない。管理人注4

 敵を、愛するようにしか愛せない管理人注5社会を愛するけれども、信仰や神の掟を、そのために変えることはできない、たとえ殺されてもだ。

 ばかで結構、時代おくれでも結構、目があいているうちは、一歩も後退しない。世を愛しよう、キリストと共に。世を旅しよう、キリストと共に。十字架と共に。

 教会は、この世に負けることはないが、この世を教会にしてしまうこともできない。キリストは再臨の日まで、十字架の道を、信者と共に歩まれる。再臨の日には、何事もととのえられるから、今はどうでもいいじゃないかと、言うのんきさはうそだ。

 昔は少々行きすぎもあったが、よろこんで、十字架を担って歩く雄々しさだけは、立派なものだ。その気持ちをなくしたら、憲兵も特高もない今の自由な時代は、あの窮屈な時代よりも、もっともっと危険なものになるだろう。

 古い人たちよ、黙っていないで思っていることを言いなさい。こっそり天国へ行かないで、言うことを言い残してから行きなさい。

[管理人注1] 「いいことば」であると同時に是非とも理解しておかなければならない言葉だ。「罪を憎んで、人を憎まず」、私には、特に理解するのが難しい言葉には思われない。しかし、現代の神父様方には理解するのが難しいのか(或いは、理解したくもないのか)、「罪を憎んで、人を憎まず」ではなく「人を憎まず、罪も憎まず」になってしまっている神父様が多い。戻る

[管理人注2] 当サイトでは今まで二度、かつて厚木教会などで司牧なさったボブ・ザラテ神父様を取り上げた参照参照。フィリピン出身の彼は「コンビニエンスストアでソフトポルノ雑誌が買える」日本の状況を嘆いている参照。しかし私は、日本の司祭がそれを嘆いているのを聞いたことがない。戻る

[管理人注3] 「新しい人」は「昔の教会の行き過ぎ」を指摘し、それを取り除いて教会に「バランス」を取り戻したつもりが、実のところもう一つの「極端」に走ってしまっている。もう一つの「行き過ぎ」をやらかしてしまっている。そして更に、事実上「信仰の破壊」にまで行ってしまっている者まで居る。居るなんてもんじゃない。「司教職」の中にさえそれが居る。後で見よう。
注)私自身は「昔の教会の行き過ぎ」なるものをほとんど認めない。もちろん、信者の個人レベルでは、色々な人が居ただろう。思慮の足りない人も居ただろう。しかし、それは現在も同じだ。
私は「昔の教会」を「昔の本」を通して知るしかないが、そこには人間にとって “極度に有害” な程の「行き過ぎ」は認められない。戻る

[管理人注4] その代表格は、現在では、もちろん本田哲郎神父である。彼は「復活」を訳の分からないものにしている(参照)。戻る

[管理人注5] 念のために言うと、「あの復活は肉体の復活ではなかっただの、だからほかの死者の肉体も復活することはないだのという信者があれば、私はその人のことを敵を愛するようにしか愛せない」という意味。戻る

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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