戦後の窮乏期にかなり孤軍奮闘的に頑張って世田谷教会を作ったらしい、ガッツのある、また気骨のある司祭、今田健美(こんだ たけみ)神父様(1910-1982)。
「公教要理」を非常に大事になさった。
第二バチカン公会議以降の教会の風潮を非常に憂いておられた。それが窺われる御文章を次回から紹介する。
御経歴
(『種蒔く人』下巻より抜粋)
1910年 |
北海道渡島郡七飯村に生誕。ア・シャンボン師(後の東京大司教)の巡回を得て自宅にて受洗。 |
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1927年 |
召命を感じ東京関口の公教神学校に入学 |
1930年 |
函館で徴兵検査を受ける |
1931年 |
旭川第七師団に現役入隊(三か月間) |
1935年 |
関口の大司教座聖堂で司祭に叙階(満二十四歳) |
1937年 |
麹町教会助任司祭に任命される |
1938年 |
喜多見教会主任司祭に任命される |
1940年 |
召集解除、八王子教会主任司祭に任命される(一回目) |
1941年 |
第二次の召集、満州に派遣される(一年八か月間) |
1943年 |
召集解除、八王子教会主任司祭に任命される(ニ回目) |
1944年 |
第三次の召集、内地にて勤務(一年九か月間) |
1945年 |
復員、帰京 |
1946年 |
「聖堂を建てよう」と信徒に呼びかけはじめる |
1948年 |
土井大司教司式により、世田谷教会献堂式挙行 |
1960年 |
銀祝記念ミサと祝賀会開催。“東京でいちばん活躍している神父” といわれる。 |
1971年 |
浅草教会主任司祭に任命される |
1982年 |
7月12日、帰天(71歳) |
1938年10月 一回目の出征 麹町教会の助任司祭時代 1950年 教会の釣り大会にて |
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富士御殿場 復生病院にて 1980年 聖マリア像と共に |
顎鬚などをたくわえて、あなたの目には、この神父様が「威張って」いるように見えるだろうか? 私の目には必ずしもそうは見えない。と云うか、むしろ、或る意味、こう思う──「男には、或る程度、威張らせよ」。これは暴言か?
否、私はもちろん「傲慢」を支持しない。しかし「威厳」は支持する。「矜持」も支持する。司祭が「威厳」を持たなくてどうする。司祭が「司祭としての矜持」を持たなくてどうする。そして「司祭としての責任感」と、それ故の「厳しさ」を持たなくてどうする。
私は、司祭は「優しいと同時に厳しい」というのが本当だと思う。私の目には、今田神父様はそのような司祭に見える。
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」