2014.05.27

「懸命な宣教の努力にもかかわらず」

 グリム神父が酷評したバチカンの準備質問に日本の司教団が回答したものがアップされているPDF。その中にこの言葉がある。「懸命な宣教の努力にもかかわらず」。しかし私は思う、この筆者はどのような「現実感」をもって「懸命な宣教の努力」と言っているのかと。

 と云うのは、第一に、私達が置かれている「現実」の中に一つ圧倒的な「初期的状況」があるからである。それは何かと云えば、普通の生活を送っている大部分の市民(未信者)にとってはカトリック信者の姿を見る機会すら殆ど「ない」という事である。それは圧倒的に「ない」。殆ど「皆無」である。彼らが知っている事と云えば、彼らの街の中にどの宗派のものかは分からぬが、兎に角キリスト教らしい「教会」が建っている、その「建物」が建っている、という位のものである。「宣教」を口にする人達は、この圧倒的な「初期的状況」をどれほど意識しているのか? あまりに「当り前」のことになっており、改めて考えてみることなど "皆無" なのではないか?

塩狩峠(Shiokari Pass)

 上は三浦綾子原作の映画「塩狩峠 (Shiokari Pass) (YouTube, Veoh) の一場面である。彼は牧師で、今「辻説法」をしており、やがて「耶蘇だ!」と叫ぶ子供たちに雪玉をぶつけられるだろう。
 三浦氏のその小説は大正期のプロテスタント信仰に材を取ったもので、今はプロテスタントもこんな事はしていない。(昔だって、そう多く行なわれたわけではないかも知れない)
 しかし、カトリック世界でも、例えば聖フランシスコ・ザビエルなどは、日本でこのような事をしたのではないか? もちろん横に通訳を付けながら。しかし、街の辻に立ったのではないか?
 「このような事をやれというのか」と短兵急に反応しないで欲しい。そうではなく、私は、このような事を少しも考えないようでありながら「私達は懸命な宣教の努力をしている」と言うその〈感覚〉が分からないのである。圧倒的に分からない。どのような〈現実感覚〉をお持ちなのかと訝るのである。

派遣

 そして第二に、「福音宣教」と口にする限り、「教会の発展」を願う限り、誰もが基本的に左のような図を思い浮かべなければならない筈である。これは「派遣」の図である。

 私達は主によって教会から外に送り出される。そして、本来は、何らかの形で2のようにならなければならない。以前の記事で言ったように、教会は「しるし」であるより「目的地」でなければならないからである。そう言わなければ教会は絶対に発展しない。

 左の2は、派遣された信者が「もう一人の人」を連れて教会に戻って来た図である。しかし、この「もう一人の人」は必ず《未信者》でなければならないというわけではない。しばらく教会に来ていない《信者》を「どうしていますか?」と訪ね、話を聞き、「まあ、いろいろありましょうが、折角ご縁を頂いたんですから、今度一緒に御ミサに行ってみませんか?」とお誘いすることだっていいのである。(基本的には代父母の役割かも知れないが、全く代父母だけの仕事にしておくこともない。代父母が亡くなったらどうするのか)

 「懸命な宣教の努力をしている」と豪語するが、果たしてその「努力」の内容や方向性に関してどのようなお考えをお持ちなのか。

 整理するならば、

(1)「一般の市民(未信者)はカトリック信者の姿を見る機会すら殆ど持たない」という初期的状況を痛切に感じることもなく、

 且つ、

(2)「派遣」と云えば「社会の(内部的)福音化」のことばかりで、教会は「目的地」であるよりも「しるし」であると言うならば、

その人は一体どのように、その同じ口を以て「私達は懸命な宣教の努力をしている」と言えるのか、その人はどういう「現実」を生きているのか、ということである。

 告白すれば、私は昔、若い頃、或る宗教で、所謂「布教」然とした布教の為に、街の辻に立ったこともあるし、家々を一軒一軒訪ね回ったこともある。また、来なくなった信者を訪ねることも常の業[わざ]であった。(だから、まあ、上の「塩狩峠」の場面に反応したりもするのである。)

 布教しながら、次の聖言[みことば]をしばしば思い出したものである。

「もし歓迎されなかったり、あなたたちの言葉が受け入れられなかったりした場合は、その家、その町を去り、足のちりも払い落としなさい」 (マタイ 10:14)

 何故なら、人々の反応は様々だったからである。常に優しく迎えられたわけではない。勿論である。そこには世間との、言ってみれば「対決」のようなものがあった。

 私は今、その宗教を決して良いとは思わない。しかし、学ぶところはあったと思っている。人間的な部分で。経験として。

 だから、偉ぶって言うわけではないが、一応そのような経験をして来た私からすれば、頻りに「公会議の精神」を言いながら、「教会は開かれた!」と胸を張りながら、さも大した進展があったかのように言いながら、その実チッとも世間に「カトリック教会」の存在を届けられていない司牧者達の姿は、酷く「残念」なものであり、見るも「虚しい」ものである。

「手による聖体拝領」の真実一つ確信できない限りは

 しかし、本当云えば、教会の今の状態の中では、上の私の議論も虚しいものである。日本の司牧者の皆さんが、例えば「手による聖体拝領」の真実一つ確信できない限りは、上の議論も虚しいのである。

手による聖体拝領はオランダの背教者どもから始まった

 日本の司牧者の皆さんが、こんな簡単な、こんな〈明々白々〉な真実さえ確信しないないならば、殆どどんな希望も持つことはできない。
 また、国井神父様具神父様に見たあのような考え方を問題視しない教会では、殆どどんな希望も持つことはできない。

 何故ならば、物事には「順序」と云うものがあるからである。それは建物のように、先ず「基礎」があり、その上に「上部構造物」が建つものだからである。

 例えば、冒頭で言ったバチカンの準備質問に関連して、新潟の菊地司教様はこう書いている。「現状を分析」と。それが必要だと。参照

 しかし、あなた方の「分析」は何処に向かうのか?

 あなた方があのようにハッキリした「手による聖体拝領」の真実一つ確信できない限りは、或いは、あのような "典礼学者" 達の言説をハッキリ問題視するところがない限りは、あなた方がするどんな「分析」も役に立たないだろう!
 この世の事象の上っ面を撫でたようなあなた方の「分析」(その多くは社会的な分析だろう)は役に立たないだろう!

 尊敬のない言い方に聞こえるかも知れないが、或いは更に侮蔑的な言い方にさえ聞こえるかも知れないが、それでも誰かがハッキリと言っておかなければならないのではないか? 人間に於いては、常に、そしてかなり、「ハッキリ言わなければ分からない」というところがあるのではないか?(つまり "鈍さ" である)。私にはそう思えてならない。
 だから、別にその役を買って出るわけではないが、言う。

あなた方は問題の解決や改善のために「あさって」の方を向いているのである。問題の真の在処を知らないのである。

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