2014.05.27

日本の神父様方は公会議後も自分の頭で考えてなどいない

錯 覚

 第二バチカン公会議以降、地方教会の自律性が高められ、日本の司牧者の皆さんも、日本の教会をどうしたらいいかについて、何かを真似るのでなく、自分達自身の頭で考えられるようになったと思っておられるかも知れないが、私は、それはあなた方の「錯覚」と云うものだろうと思う。

 例えば、上智大学神学部の「神学ダイジェスト」である。
 次の場所で創刊号から106号までの総索引を見ることができる。

神学ダイジェスト
あるいは、こちら

 そこにはなんと多くの〈西洋人〉の名前が並んでいることか。上智大学は日本に於けるイエズス会の拠点だからそれは当り前だと言うなら、それはそうかも知れない。しかし、日本のカトリック界にとってイエズス会が──そしてそれを通じてやって来る西洋の新しい神学が──常に多大の影響力を持って来たことは事実だろう。

トリーア典礼研究所

 そしてまた、例えばこれである。

 国井神父様の経歴には「1967‐68年、ドイツ(トリーア)の典礼研究所で典礼神学(礼拝学)を研究」とある。第二バチカン公会議後の日本の典礼の "刷新" に活躍しただろう土屋吉正amazonという神父様もそこで学んだようだ。参照

 次のことは国井神父様に言ってみても仕方がないことで(聞く耳を持たないから)、これを読んでくれている平信徒の皆に言うのだが、聖ピオ十世会の故ディディエ・ボンテール(Didier Bonneterre)神父様がお著わしになった「The Liturgical Movement」という本の中に次のような記述がある。Internet Archive で読むことができる)

Annibale Bugnini & Balthasar Fischer

 ブニーニ大司教と並んで一人の司祭が紹介されている。

バルタザール・フィッシャー神父(1912-2001)
典礼運動のゴッドファーザー” と呼ばれる。…
トリーアの典礼研究所に加わる。

 上の記事では「加わる(be involved)」という程度の言い方になっているが、別のインターネット記事はフィッシャー神父のことを同典礼研究所の「founder」「head」「director」などと呼んでいる。

 国井神父様は、どのようなワケでか、そのような「典礼運動のドン」みたいな人が居るその場所に引かれ、海を渡られたのである。そして、そこで学ばれたのである。

 国井神父様は、ご自分ではこうお考えかも知れない。
 「学ばれた? 確かに、私はその場所で『学んだ』と云えば『学んだ』のかも知れない。しかし、それは決して〈先生〉と〈生徒〉と云うような関係の中で学んだのではない。私は一人の〈自立した研究者〉として行ったのだ」

 実際にはそのようにアケスケには仰らないに違いない。しかし内心では、そのような事になっているに違いない。(必ずしも悪いとは限らない。人は自分の仕事にプライドを持たなくてどうするのか。しかし、人生は多少複雑なもので、人はプライドでしばしば盲目にもなるのである)

 しかし、私は思う。
 人は、実は、ご自分で思うほど、自立的な頭なんて持ってやしない。

彼らの「親切」

 私は、ある意味「滑稽」に思うのである。日本人の神父様方、あなた方はご自分がどれだけ「西洋」から自由になったおつもりなのか、と。あなた方に「西洋のカトリシズム」を取り立てて殊更に)意識させたのも、実は圧倒的に「西洋発」の思潮ではなかったか、と。
浦川和三郎司教様や岩下壮一神父様の時代に、一体どれほどの日本のカトリック信者が、取り立てて殊更に、「西洋」を意識したろう?)

 私がそのように言うと、あなた方は「教会論」やら「神学」やらの方向から考え始めるかも知れない。しかし、私はここで、あなた方に「人間」についての質問を投げたいと思う。

 私が私の乏しい視覚によって今まで見て来た若干の人達──ヘーリング、 スキレベークス、そしてスケールは違うが私達のすぐ横に居るグリム神父、そしてその他諸々のその種の人達があなた方に語りかける〈親切〉・・・

 「各国の教会はそれ自身の文化に適した仕方で教会を運営すべきだ。典礼もその文化に馴染むように形作るべきだ」と云ったような彼らの〈親切〉・・・

 日本の神父様方、あなた方は本当にそのような彼らの〈親切〉が彼らの〈善意〉から来たものだと信ずるのか???

 私の考えでは、あなた方は「自分の頭で考えて」来たと云うより圧倒的に彼らに「影響されて」来たのであり、彼らがあなた方の前に差し出したシートに従って「考えさせられて」来たのである。

 あなた方は「非西洋の文化 vs. 西洋の文化」という対立軸を強烈に見せられ、確かに各国間には文化の違いがあるので、しかし真に考えるべき対立軸から「目を逸らされて」来たのである。
(「真に考えるべき対立軸」とは「キリスト教 vs. 反キリスト教思想」という対立軸である。西洋には古来から、東洋人の想像の及ばないような形で、それがある。)

 プライドの高い神父様なら、これを真実だと知った時、屈辱を感じるかも知れない(屈辱ぐらい感ぜよ、弱虫たち)。しかし、これは真実である。

 彼らはあなた方に親身になってくれているわけではない。
 彼らはただ彼ら自身の思想戦を戦っているだけである。

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