2014.05.02

カトリック新聞元編集長 ウイリアム・グリム神父 Part 1

今回は時々敬称を略させてもらう。

カトリック新聞の元編集長

ウイリアム・グリム神父
(メリノール宣教会)

Fr.William Grimm
MM
(Maryknoll Missionary)

ウイリアム・グリム神父

神学を東京カトリック神学院で修め、 叙階後アメリカでジャーナリズムの修士号を取得。参照
2003年?〜2009年3月: カトリック新聞の編集長を務める。

現在、カトリック通信 UCAN(UCA News, Union of Catholic Asian News)の東京からの発信者である(Fr William Grimm is publisher of ucanews.com and is based in Tokyo. 参照

UCAN の記事は日本では「カトリック新聞オンライン」を通じて発信されている。検索

2011年

この神父様は、UCAN のウェブサイトで、2011年9月26日付けで、次のような表題の記事を書いている。

ローマの迫害はその醜い頭をもたげる

Roman persecution rears its ugly head

UCAN

 「ローマの迫害」とは "バチカンによる迫害" という意味である。そしてその「醜い頭」の一部はベネディクト16世教皇様のようなのだ。

表題の直ぐ下には副題としてこうある。

教会の構成を反映しようとする教会のグローバル化への努力は再び引っくり返されている

Efforts to globalise the Church to reflect its composition have been overturned again

(私は思わずあれと似た匂いを嗅ぐ)

本文では「バチカンの高官に占めるアジア人聖職者の比率が落ちている。バチカンは再び教会の〈西洋化〉或いは〈イタリア化〉を強めている」というような事を言っている。

彼は酒井新二氏みたいな人ととっても気の合う人である(断定)。酒井氏は教皇様のことを「バチカンの "ぬし" 」と呼んだが、グリム神父は聖座に「ugly」という語を付すのである。

彼は典礼をめぐる状況も気になっていたようだ。こう書いている。

3のルール(RULE OF THREE)

日本では、子供達は、「人はどんな親切にもお礼を三回言わなければならない。しかし、謝罪を三回繰り返す人は不誠実である」と教えられている。もし教会の典礼を初めて見た日本人が、無意味な言葉や謝罪の言葉「mea culpa(わが過ちなり)」が三回言われるのを聞いたら、福音宣教はどうなるだろうか。

In Japan, children are taught that one must give thanks three times for any favor, but that anyone who apologizes three times is insincere. How will evangelization be served when Japanese who encounter the Church’s liturgy for the first time hear meaningless words or the apology mea culpa (through my fault) three times?

ウイリアム・グリム神父

 「不誠実である」というのは「信用がおけない」というニュアンスだろう。私は、誰かがこう言うならば──「不自然に必要以上に謝罪の言葉を繰り返す人が居るなら、その謝罪は "上っ面" のものかも知れない」──これに一定のリアリティを認める。しかし、ここで問題なのはそんなことではない。

日本文化という観点から日本の典礼のことを親身になって心配してくれているらしいこの神父様は、どうも大変な「日本通」であられるようである。
しかし残念ながら、日本の子供達は、日本文化の中で、慣習的に、「お礼は三回言わなければならない。しかし、謝罪を三回繰り返す人は信用がおけない」とは、特に「教えられて」いない。

彼が何処からそんな事を拾って来たのか知らないが、彼が「日本文化の中にある」と主張するその曰く「3のルール」は、彼が「3回の mea culpa」を斥けるために役立っているだけである。

私は、彼が「3のルール」とまでカチッとした(ほとんど固有名詞的な)タイトルを与えたそれは、彼が日本の文化と何処かの他のアジアの国の文化(格言か何か)を "取り違えた" とかいうのでなく、下手をすれば、彼の全くの意識的・意図的な「作り話」かも知れないと思う。
UCAN の英語記事は多くの日本の信者の目には触れないだろう。反して、多くの諸外国(特に西洋、そしてローマ)の人々の目には触れるのである。それを見た人々は「ほぅ、日本にはそんな文化があるのか」と思うかも知れない。(事実、彼のその "証言" は CatholicCulture.org で取り上げられている。)
日本人の誰かに指摘されたら、彼は「あ、勘違いでした」で済ますことができる。
人は私のこれを「邪推」と言うかも知れない。しかし、考えてもみて欲しい。彼はカトリック司祭であるが、一面「ジャーナリスト」でもある。「ジャーナリスト」というのはどのような人か。まず「事実」に接触し、「事実」を調べる人である。だから、日本に既に十分永く住み、今も住んでいるだろう一人のジャーナリスト、「事実」と親しい筈の人が、日本の文化・慣習に関して上のような事実無根の事を、ただの純然たる「勘違い」で書くことが可能だとは、私には思えないのである。

2008年

グリム神父がカトリック新聞の編集長を務めていた2008年、カトリック新聞は上と似たような事を書いたのだった。
参照: ナンセンス「日本には謝罪の言葉を繰り返す習慣がない

2006年

そして、同じくカトリック新聞の紙面で、2006年、グリム神父は自分が「全実体変化」を信じていないことを表明したようである。
(「実質的に」という副詞を慎重に付け加える必要はないだろう。彼は不信仰を「まともに」表明しただろう。)

参照 聖ピオ十世会司祭・トマス小野田神父様による記事
カトリック教会は『全実体変化』というドグマを宣言し信じているが、これは理論ではない」 の後半

私達はそこに、全実体変化を信じていない人の「現存」という言葉の使い方を見ることができる。彼は言う。

「聖書では、何かを思い起こすということはそのことを再現すること、現存させることです」

ならば、私が「死んだおばあちゃん」のことを深く思い起こせば、「死んだおばあちゃん」を「現存させる」ことになるんだ。
言葉のこんないい加減な使い方は初めて見た。

彼は「全実体変化」を否定したのち、こう言う。

「私たちは、聖体祭儀のうちにキリストが私たちと共にいることを信じています」

まともに「御聖体のうちに」ではないのである。

だから、モダニスト達の言葉遣いに注意。「キリストはそこに居られる。現存しておられる」と彼らが言っても、その意味するところをよく知らなければならない。

この神父様については、「モダニスト」とか云うよりも、「リベラリスト」「ふざけた人」という気がするけれども。

ウイリアム・グリム神父

彼は YouTube で Fr. Bill Grimm として( Bill は William の愛称)ペラペラ喋っている。(私もベラベラ書いているけれども。)
司祭服を着て出ているものは一つもないようだ。

メリノール会の本部はニューヨークであるし、「叙階後アメリカでジャーナリズムの修士号を取得」とあったから、彼はアメリカ人なのだろう。
メリノール会は今(創立当初ではなしに)「解放の神学」が強そうな宣教会である。

参考記事(聖ピオ十世会司祭トマス小野田神父様による記事)

カトリック教会は「全実体変化」というドグマを宣言し信じているが、これは理論ではない(2006年08月26日)

私たちはカトリック新聞編集長が、公教要理とは離れた説明をしても、驚くべきではなかった(2006年09月02日)

「贖い」 ということについて公教要理をみてみます(2006年09月13日)

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