2008.02.02

ナンセンス「日本には謝罪の言葉を繰り返す習慣がない」

日本語のミサ典礼 梅村司教ら バチカンと対話した5項目
回心の祈りでは、ラテン語版の「わが罪、わが罪、わが大いなる罪」を、日本は「たびたび罪を犯しました」「罪深いわたしのために…」としている。同省は日本には謝罪の言葉を繰り返す習慣のないことに理解を示したが、一方でラテン語の文意をもう少し踏まえて表現して欲しいと要求した。長官は「大いなる」の表現をもう少し強調するよう求めた。
カトリック新聞 2008年2月3日号 第一面
私は「日本には謝罪の言葉を繰り返す習慣がない」などというセリフはおかしなものだと思う。そもそもいったいどこの国の人が、日常、自分の非を誰かに詫びる時に、「それは私の間違いです、私の間違いです、私の間違いです」と繰り返す〈習慣〉を持っているというのか。
彼らが本当にそのような理由をバチカンに言ったのだとしたら、「ナンセンス」の名に値する。
祈り言葉が〈詩文〉のようなものであって何故悪いというのか。
詩文のようなものであっても、それは日本語である。
私達のハートはそれに難なく乗るだろう。
しかし私はそれよりも、日本の司牧者の皆さんはあまり「罪、罪」と言って騒ぎたくないのではないかと思う。罪に関して「大袈裟」(彼らにとって)に捉えたくないのだろうと思う。
何故そう思うかというと・・・
  • 私は受洗前に、洗礼準備教室で、「罪とはなんぞや」に関して教わることがなかったからだ。
  • そして受洗直後に、「順序としては明らかに受洗前に教えるのが正しいのではないですか?」と訊いたら(もう少し柔らかい言い方でだが)、「だって、私は人々がそんなにすぐに罪を犯すとは思えないですもん」という答えを受け取ったからだ。
  • そしてまた、これはカトリック信者なら誰しも経験していることだと思うが、私もゆるしの秘跡を受けた時、司祭から「その程度のことは罪ではありません」と言われたことがあるからだ。
  • そのような態度の司祭は一人ではなかったからだ。
故に、私は、今やカトリック司牧者達の「罪」というものの捉え方は前回のルター派の牧師が持っているものと大差ないのだと思う。
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