2013.08.26

フリーメイソンの檄文とチャペルの爆破

宣言はパンフレットとして印刷され、フリーメイソンによってポルトガル中に回された。
1918年頃のフリーメイソンのパンフレット
全ての自由主義のポルトガル人に告ぐ。反動が緩められた!!
市民登録協会とポルトガル自由思想家連盟はファチマの馬鹿げたコメディに精力的に抗議する。
市民諸君!
あたかも反動家達の悪質なプロパガンダだけでは足りなかったとでも云うかのように、我々は今、人々を更に狂信と迷信の中に堕落させようとしてこれ見よがしに持ち出された奇跡を見ている。何千もの人々が馬鹿げたスペクタクルを支援したファチマに於いて、一つの無様なコメディが繰り広げられたのである。集積された示唆によって巧妙に騙された単純な人々が、三人の子供に──聖職者の反動を宣伝する目的のために恥ずべきスペクタクルの中に騙されて落し込まれた三人の子供に──ナザレのイエスの母親が現われた、などと云う迷妄を信じるようになったのである!
そして、そればかりか、「聖母」を見たと断言する──誰も見ることも聞くこともできないそれを見たと断言する──それらの哀れで小さなカモ達の宣言でも足りなかったとでも云うかのように、1917年10月13日(フランシスコ・フェレル暗殺の8回目の記念日)の或る時に──この20世紀の高みに於いて──太陽が雲の中でファンダンゴを踊るのが目撃されたなどと云う話が断言、と云うより発明されたのである!
市民諸君! これはポルトガルの人々を再び過去の──去ってしまい、決して戻ることのない過去の──濃い闇の中に戻そうとする哀れで後ろ向きの試みである。共和国は、そして共和国を「文明」と「進歩」の輝かしい道に沿って導くと云う困難で高貴な仕事を課されているその市民は、人々を狂信と軽信に導く退廃に同意することはできない。何故なら、そのような事は市民としての第一義務に於いて許されざる堕落であるからである──国に対してばかりでなく全人類に対しても。従って、我々の義務は、反動勢力が人々を再び中世趣味の中に落し込もうとする恥知らずの計画に対して最も効果的で即時の予防措置を取るよう公の諸機関に要求することである。
我々が想定するゴールのために必要な行動を要求すべきその人々との協力関係に於いて我々が取るべき手段とはどのようなものであるべきか? 徹底的で粘り強い宣伝である。我々の共同市民(co-citizens)のメンタリティを「真理」「理性」そして「科学」の領域に引き上げ、彼らをして、自然界の法則に逆らえるものなど何もないのだ、いわゆる奇跡などと云うものは無知の結果である軽信性を悪用した哀れなトリックに過ぎないのだ、と悟らしめる体の宣伝である。
学校と大学の教授達をして、彼らの生徒達を合理的な仕方で教えさせよ。そしてそのようにして生徒達を、他の全ての先入観と同様、宗教的先入観から解放せよ。そのようにすれば我々は、明日のための世代を準備することになるだろう。幸福により値するが故に幸福な世代を。
それから、我々自身をも解放し、心を浄化しよう。ファチマのような下等で笑うべきトリックに対する馬鹿げた信仰からばかりでなく、とりわけ特に、超自然なるもの、所謂 Deus Omnipotente、つまり全能にして全ての全てなるもの、彼らの目的のために民衆の軽信性を利用したい不届者らの巧妙な想像力から生まれた道具、これに対するどのような信頼からも我らの心を浄化しよう。
市民諸君!
共和国万歳!
反動に没落を!
自由万歳!
そして4年後、爆破
聖母が御出現になった正確な地点に建てられたファチマの聖母の最初のチャペル。それは1922年3月6日にポルトガルにおける反カトリック勢力によってダイナマイトで爆破された。上の写真は爆発によって生じた屋根の穴を示している。摂理的にファチマの聖母のオリジナルの像(トップにある)はその時チャペルにはなかった。
1922年、ポルトガルのフリーメイソンは、聖母が子供達にお現われになった場所に建てられたチャペルに四個の爆弾を置いた。爆弾は3月5-6日に爆発し、チャペルに酷い損害を与え、屋根を吹き飛ばした。
私達の恐れはまったく正しかった。翌年の3月6日、私達は夜間に大きな爆発音を聞いた。フリーメイソンがチャペルに四個の爆弾を、そして聖母が御出現になった木のそばにも一個の爆弾を仕掛けていたのである。屋根は吹き飛ばされた。しかし、木のそばの爆弾は爆発しなかった。
1917年
8月12〜15日
フリーメイソン、ファチマの三牧童を拉致・監禁・脅迫
 
10月13日 太陽の大奇跡
1918年
フリーメイソン、上記のパンフレットを撒く
1919年
4月28日 御出現のチャペル着工
6月19日 御出現のチャペル竣工
1921年
10月13日 御出現のチャペルで初めてのミサ
1922年
3月6日 フリーメイソン、御出現のチャペルを爆破
 
爆破は太陽の大奇跡の直後だっただろう
パンフレットの配布時期についてですが、上の引用資料では「1918年頃」となっていますが、私はどこかで(どこでだったかは失念)「1917年のリスボン」での配布が確認されているという記述を読んだことがあります。もしそうだとすれば、パンフレットは太陽の大奇跡のことに言及していますから、パンフレットの配布は1917年の10〜12月、太陽の大奇跡の正に「直後」ということになります。
あり得る話だと思います。フリーメイソンはそれだけ太陽の大奇跡のことを恐れた(忌々しく思った)ということでしょう。
右に見える御出現の木に仕掛けられた爆弾は爆発しなかったと云うことでした。天国がそれを許さなかったのですね。
爆破後の屋外ミサ
ファチマ公式はこの写真に「初めてのミサ 1921年10月13日」と云うキャプションを付けているけれども、私はそれは間違いだと確信します。
何故なら、もしこれが「1921年10月13日」の写真とした場合、その日は竣工(1919年6月19日)と爆破(1922年3月6日)の間ですから、チャペルには屋根がある筈なのです。しかし、上の写真のチャペルには屋根があるようには見えません。
光の加減でこうなったとか、現像の時におかしくなった(?)とか、その種のことではないでしょう。
何故なら、屋根の消失の仕方を見て下さい。それは直線的で、まるで切り取られたかのようです。そしてそれは爆破後の屋根の様にそっくりです。
この屋根の消失は、画像上の消失ではなく、物としての屋根の消失に違いありません。
だから、この写真は爆破後の、1922年3月6日以降のものでしょう。
そして、「初ミサ」のものでもないでしょう。
何故なら、初ミサの日付に関しては、上に挙げた二つの年表もファチマ公式と同じく「1921年10月13日」と書いているので、「初ミサ=1921年10月13日」ということ自体は正しいと思われるからです。
上の写真は、チャペルが爆破されたことへの償いの御ミサだったかも知れません。
ユダヤ人の危険性とカトリック教会」は読んで頂けましたか。
私が、彼らについて、彼らの敵意について、これほど多く書いているのは、私達の「信仰」のためです。
もしあなたが、彼らのこのような敵意を見て、ベラ・ドッドの証言も読んで、大阪梅田教会のことも見て、偽シスター・ルチアのことも見て、それでいてなお「もし彼らが何かをしたのだとしても、それは全て “外的” なことであって(彼らの子弟を侵入させるとか、教会の建築をいじるとか、替え玉を入れるとか)、彼らは結局、私達の “信仰” に対しては何も出来ていないのだ」と思うとするなら、あなたの感覚は現実的ではありません。
英語をスラスラ読める神父様方、Alta Vendita と云うユダヤ文書も読んで下さい。
時々、次のようなことを言う人に出会います。
「私達カトリック教徒はカトリックの信仰に目を向けていればいいのだ。それで十分なのだ。教会の敵について研究する必要なんか無いのだ」
しかし、もし軍の司令官が、或いは兵法家が、そのような意見を聞いたなら、どうでしょう。笑いませんか?
「君は敵を知らずしてどのように戦おうとするのか」と。
で、私達の教会は、確かに敵を持っているのではありませんか?
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