聖体拝領の際の跪きのこと
跪きの大切さ
最近の教皇様は、御自分のお立てになる御ミサでは、必ずと言っていいほど信者の拝領の位置に拝領台を据えさせ、跪いた信者に、そしてその舌に、御聖体をお授けになっておられます。
昔の聖人方にとっては「御聖体拝領の際の跪き」は議論の的にさえなりませんでした。何故なら、彼らにとってそれはあまりに「当り前」のことだったからです。
しかし、現代の人は往々、この「当り前」ということを「当時の習慣」に帰します。あまりに簡単にそうします。
しかし、それは誤りです。何故なら──これは単純な話です──「身を低くする姿勢」の方が「身を起こす姿勢」よりも “より謙遜な心” を表わすというのは、ほとんど時代や民族を超えた “普遍的” なことだからです。参照
一見、時代や民族に伴う風習は多種多様なように見えるけれども、どうか、「目上の者の前に出る時、“身を起こす” ことの方が “身を低くする” ことよりもより “謙遜” を表わす」という風習を持った時代あるいは民族があれば、私に教えて下さい。
そんな風習を持った時代も民族もまず無い筈です。何故そうなるかと云えば、私達は「時代の子」や「民族の一員」である前に、唯一の神がお創りになった「人間」であるからです。
「人間に於ける体と心の有機的な結び付き」ということを考えなければなりません。その基本的なところは、ちょっと変な言い方になりますが、天主様が “セッティング” なさったものです。だから、各時代や各民族の風習は表面では甚だしく異なるように見えても、一皮めくったところでは「大同小異」であることが多いのです。
とにかく、私達は、「立つことよりも跪くことの方がより謙遜を表わす。これは時代や民族の違いを超えてかなり普遍的なことである」ということを、あまりゴチャゴチャ言わず、素直に納得しなければなりません。(現代人は、利口ぶっているのか、素直さが足りません。)
現代は「御聖体拝領の際の跪き」が議論の的にならなければならない不幸な時代、そして反知性の時代です。(アカデミックな反知性の時代)
しかし、こうなってしまった限り、「跪き」を擁護する善い議論の幾つかを以下にご紹介します。
〔バチカンの高位聖職者達の言葉〕
〔他の聖職者の言葉〕
〔カトリック・ライター達の言葉〕
規定も整理しておきます。
私から単純な質問をさせて下さい。
ファチマの天使は、ルチア、ヤシンタ、フランシスコに現われ、祈りを促したあの場面で、「お祈りは心が大切ですから、何なら立ったままでも構わないですよ?」と言った可能性が 少しでも あったでしょうか?
では、祈りではなく「御聖体拝領」については?
天使の出現時の様子を見て、よく考えてみて下さい。
管理人の経験
私が洗礼を受けたのは2006年のことですが、私は洗礼を受けて直ぐに(それまでは大人しくしていました)、次のような考えを基に、司牧者の方々に働きかけ始めました。
そして2006年10月7日、地元(札幌)の司教様から「あなたは御聖体拝領の時に跪いてよい」とお認め頂きました。
そこに至るまでの具体的な経緯は、2006年の日記の中に、おおよそのところは読み取って頂けるのではないかと思います。
また、その経過の中で司教様と典礼秘跡省に出させて頂いた書簡も、大したものではありませんが、次の場所で公開しています。
その他
敵 の 影
教会自身としてはどんな人とも仲良くやりたいところですが、如何せん教会を害そうとしている人達が存在します。教会が「使徒継承」であるのと同様、彼らも彼らの悪の目論見を諸世紀を通して継承しています。
さて、あなたは死ぬまで次の二つ事を繰り返しているかも知れません。
1. これらの文書の信頼性は? 本物なのか? 本物であるという証拠は?
2. 悪魔は99%の真実に1%の嘘を混ぜるので、慎重にしなければならない。
多くの人はおそらく、そのように死ぬまで「慎重」に留まります。
否、「慎重」であることに問題があるのではありません。問題は、「慎重」(或いは「警戒」)という “基礎” の上だけに永久に留まり、そこでただ “足踏み” をし続けて終わるらしいということです。私はこれを残念に思います。
そうではなく、私達一人一人が、慎重にしつつも、警戒的でありつつも、事の真偽性を “己が心” で確かめようとする方向へ、一歩でも二歩でも足を「踏み出す」ことが必要に思われます。
この世の或る種の事柄に於いては──“陰謀” に於いては──「証拠」は挙がらないことの方が多いものです(おそらく圧倒的に)。また私達は、教会に関する或る種の事柄に於いては、教会の調査やら判断やらを “待つ” ことはできない筈です。何故ならば、教会は、自身の権威性・信頼性を甚だしく傷つけるようなものに関しては調査しないからです。例えば、私的啓示であれエクソシズムの記録であれ、それが「手による聖体拝領の否定」一つ含むだけで、教会は調査しません。それが現実的なところなのです。
さて、「敵の影」とはこれです。
6. 聖体拝領のときに、跪きを止めさせよ。聖体拝領のときに、子供たちが両手を合わせるのを止めさせるよう、修道女を仕向けよ。神はありのままの彼らを愛するのだと言え。彼らが完全に気を緩めるよう仕向けよ。
1975年12月12日
ルシファー: もしまた行くなら(聖体拝領に)、その時はこの女を八つ裂きにしてやる。それ(聖体)を吐き出してやる。最悪なことに、この馬鹿な雌豚、跪きさえしやがる!
これらは確かに「証拠」ではありません。しかし、二言目には「証拠」とは、笑わせます。何故なら、私達の生活自体、言うほど「証拠」の上に立っていないからです。私達の生活は、実際のところ、圧倒的にただ “権威” への、また “統計的/経験的なもの” への、「信頼」の上に立っているのです。「証拠」の上によりもです。
もう一度言います。そもそも私達の生活自体、言葉通りの「証拠」の上には左程立っていないのです。──まず、ここに醒めて頂きたい。
そして、言葉通りの「証拠」は無くても、私達はもう少し自分の「直観」をも活用しましょう。生活の他の面では、実際そうしているのですから。
そして、上のこれらを見ながら、こう言うことを覚えなければなりません。
「私達にとってはこれらの “徴候” だけで十分である」
〔超自然〕
〔陰 謀〕
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