2013.06.10

小学生でも感ずべき疑問

異教を勧めるつもりはありません。異教については積極的な関心はありません。だから、「だいたい」のことしか言いません。
上のこれらの情景は、だいたいは、台湾の寺院の情景です。
ここには私達の教会に回復したいような跪き台があり、人々はそこに跪いて祈っています。
言いたいことは簡単です。
もし人が「跪きは西洋の習慣だ」と言うならば、それは ERROR です。
崇拝は、主の面前で片膝をつくこと、深くお辞儀すること、跪くこと、平伏すること、そして沈黙することのような所作の中にそれ自身を表わす。アジア文化は聖なる者と超越者に対する深いセンスを持つ。世俗の権威者に対してアジアが持っている敬意はしばしば、指を組み合わせて両手を握り締めること、跪くこと、お辞儀すること、平伏すること、そして高官に対する時は離れて歩くことなどの中に見出される。この文化的価値を聖体のイエズスを表敬する目的のために適用し高めることは、それほど難しいことである筈がない。世界の幾つかの地域に見られる教会の中に跪き台を設置しないという流儀は、アジアの教会にコピーされてはならない。
但し、アリンゼ枢機卿様のこの議論は、私にむしろ少しの喜びと大きめの悲しみを起こします。
喜びというのは、アリンゼ枢機卿様が跪きを支持しているからです。
悲しみというのは、「アジア文化」は一般に真の神(三位一体の神)を知りませんから、「アジア文化は聖なる者と超越者に対する深いセンスを持つ」などと言うべきではないからです。そして、カトリック教会のあるべき姿を探るために「アジア文化」(東洋の霊性?)を参照・援用しなければならないというのは、これ自体、如何にも悲しいことです。
でも、それでも、アリンゼ枢機卿様のこの御言葉は、全くリベラル/モダニスティックな聖職者の言葉よりは、当然ながら遙かに良いものです。
小学生でも感ずべき疑問
「崇敬に於ける体の姿勢」の問題、これは半分は典礼学の問題です。
半分は?  いや、その殆ど全部が典礼学の問題だろう。
・・・とおっしゃるかも知れません。
あるいはまた、それは歴史学、文化人類学、身体心理学(と云う学問があるそうです)など、他の様々の「学」によっても扱われ得るものかも知れません。
とにかくそれは、それらの “アカデミックな網” にかかるものです。
半分は。(四分の三でもいいですが。)
しかし、この問題を扱うべきもう半分は──「心理学」です。
否、「心理学」と言っちゃうと、またまた「学」の世界になりますか。
言い直しましょう。「心理学」ではなく「心理的洞察そのもの」と。
「崇敬に於ける体の姿勢」の問題は、確かに、その半分は、人間心理に対する「洞察」の目によって見られるべきものです。
でも、「洞察」などと言って、私はエバっているのではありません。
本来、小学生でも「変だなァ。どうしてこうなったの?」と不思議に思うようなものが、「崇敬に於ける体の姿勢」に於ける近年の(第二バチカン公会議以降の)《移行》の中にはあるのです。
そうです、小学生でも。だから、謂わば「アカデミックな反知性」は捨てて、神様から頂いている筈の、天然自然、素朴ではあるが最も勝れた洞察力を取り戻して下さい。
と云うのは───
「崇敬(reverence)」に於いて跪くこと(身を一段低くすること)は、特に西洋の習慣でも東洋の習慣でもなく、天主様によって造られた人類一般にかなり共通した、かなり「普遍的」とも云える、「生理」と云いたいようなところから出たものです。
そのように言えば、アカデミックな人達も、上の台湾の情景を見ては、一応は同意してくれるかも知れません。
しかし、アカデミックな人達に於いては、その先が問題です。
彼らは往々、こんなふうに思考の羽根を広げます。
しかし、それなら、身を一段低くすることよりも、二段、あるいは三段低くした方が良い、跪くよりもひれ伏した方が良い、と云うことにはならないか。
見直せば、上のこれは別に「アカデミック」でもありません。しかし、とにかく、何かそんなふうなのです。彼らはそのように無益に知性を走らせます。
無益と云うのは、それよりも遙かに優先して考えるべきことがあるからです。物事の推移に対する、人間の心理に対する、素朴な “何故”。
「崇敬」に於いて、“跪く” という「より身を低くした姿勢」は、“立つ” という「より身を起こした姿勢」よりも、比較的に、より目的(崇敬)に適っているだろう。
──これに一応は頷いて下さい。(だって、そうでしょ?)
そして、
それが「崇敬」であるならば、「崇敬」の場面であるべきならば、「より身を低くした姿勢」から「より身を起こした姿勢」への《移行》は、少なくとも特に必要ではなかったかも知れない。
──これにも一応は頷いて下さい。(だって、そうでしょ?)
そして、最後の質問。
少なくとも「特に必要でなく」、悪くすれば「崇敬を害いかねない」ものを、あえて導入しようとした者達の「心理」は何なのか。
これこそが考えるべきことです。
「教科書」を探しに行っても駄目です。
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