2013.06.10

蒸し返します

蒸し返します。
且つ、カトリック教会のあるべき姿を探るために「アジア文化」(東洋の霊性)を参照・援用したアリンゼ枢機卿様と同じ轍を踏みます。(ガクッ)
カトリック新聞 2007年7月15日号
私は他宗教経験者です。
しかし、かつて次のような発想・捉え方に出会ったことがありません。
冷たいことに、われわれの神職はわれわれに背を向けて司式する。
これは例示のために私が作った(というより配置した)画像です。
私は、かつて経験した世界で、このような発想・捉え方に出会ったことがありません。こんなふうなことを言いたげな、あるいは言いかねない宗教は、おそらくカトリックぐらいのもんです。
祈りの先達〔せんだつ〕が私達に背を向けていることに問題を感じたことは一度もありませんでした。むしろ、「祈りの先達」なんですから──神への祈りの先達なんですから──彼または彼女は神の方を向き、従って私達に背を向けているのは当然・自然なことでした。
その時、私達も神の方を向き、神のみを意識していますから、神職が私達に背を向けているからどうのとか、まるで寂しがり屋の子供みたいなことを思ったことはありません。
(カトリック信者は子供扱いされ、自らも子供っぽいところに落ち込んでいます。〜♪お・う・ち・に・かーえろー♪〜。あなた方の謂う所の愛・優しさで何が劣化するかを、少しは考えるべきです。)
(そして、祈り言葉のことを言えば、それは「古語」でした。「文語」どころの騒ぎではありません。しかし、それでもそれはどこか「日本語」でした。そして私達の先祖の言葉でした。少しの解説だけで大要を掴むには十分でした。完全には理解できない部分も “詩文” のようなものとして、“祈りの調べ” のようなものとして受け入れることができました。総じて、何の不自由も感じませんでした。)
それで、次の言葉をすんなりと理解するのは、今やカトリック信者よりも他宗教信者かも知れません。
司祭が会衆に向くことは、信徒共同体がそれ自体で完結した社会を形成することになります。それは、その形態からして、もはや前方へ、また上方へ開かれたものではなく、自分自身の内に閉じこもったものです。こぞって一緒に東を向くことは、「壁に向かってミサをささげる」のではなく、司祭が「会衆に背を向ける」ことを意味したのではありませんでした。司祭がそれほど重要とは受け止められていなかったのです。なぜなら会堂で一緒にエルサレムを仰ぎ見たように、ここではこぞって「主に向かって」仰ぎ見ているのです。
ヨゼフ・ラッツィンガー著『典礼の精神』サンパウロ刊 p.88
「司祭がそれほど重要とは受け止められていなかった」とは誤解を招きかねない言い方です。司祭は重要です。
しかし、今の御ミサの中でのように、司祭その人が人々の視線を浴びる必要はありません。ラッツィンガー枢機卿様、前教皇様は、そのようなことをおっしゃっているのだと思います。
また、こういうこともあります。
司祭に向こうを向かせ、会衆の視線を浴びさせないこと、それを意識させないことは、司祭の心を保護します。
会衆の視線を意識した司祭は、極端な場合、こうなります。
ケン・スレイマン神父
そして、極端にならなければそれで良い、という話でもありません。
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