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「一致」への呼びかけはしばしば敬虔な振る舞いの抑制に使われる

Les Femmes, The Women of Truth
『THE TRUTH』2002年夏号
編集長のキッチン・テーブルから
管理人
記事の前半は「ゴシップ」の羅列のように見えます。しかし後半は違います。なかなかいいこと言ってます。
親愛なる読者の皆さん。
悪魔は曖昧さが好きに違いありません。彼らは信者達をシーソーの罠にかけます。信者達が、自分達が上がっているのか下がっているのか分からなくなるまで。正直なところ、これは私が司教区について感じていることです。私達には多くの保守的な司祭達がいますし、神学校での訓練も比較的堅実ですが、しかし気掛かりな兆候もあります。
Verrecchia 神父のスキャンダルは展開し続けています。そして、司教区においては法に素直に従うことよりそれを操作することの方が多く見られることが報告されています。Loverde 司教様は、司教区は「立派に、そして適切に」対処したと言っています。しかし、司教区の弁護士達は、司教区にはナンシー・ランバートのいわゆる「プライバシー」なるものを「保護」する「義務」があると主張する Verrecchia 神父と一緒になって、ジム・ランバートの妻に関する情報をジム・ランバートに与えないことを許していますが、彼らを見る人々の目は冷ややかです。もし司教区によって恋人たちの熱い電子メールが隠蔽されることがなかったなら、ジム・ランバートは彼の子供たちの親権を勝ち取っていたかも知れません。沈黙は誰に貢献しましたか? 姦通者にです。そして、このことはどのように、教会の言う怠りの罪と関わりますか? 司教区は裁判に勝ちました。しかし、裁判官がランバートの民事訴訟を却下した時、それは不道徳でした。
ヘラルドのコラムニスト、ロバート・オークイン師を見ると嫌な気がします。彼はオグデンスブルグの Wadhams Hall College Seminary(現在は閉鎖)の監督だった人ですが、悪名高い性教育家であるリチャード・スパークス神父を招き、カテキスト達の前で話させました。スパークスは、若者達に同性愛の核心を教える身の毛もよだつ愛の成長プログラムに責任があります。話者としてスパークスは、イエズスとマグダラのマリア、聖母と聖ヨゼフについて、引用するにはあまりにウンザリするようなの冒涜的なコメントを吐きました。彼の話を償うためにカトリック信者達がヴィジルをした時、報復は早いものでした。ある一組のカップルは司教座聖堂の特別聖体奉仕者を続けるのを禁じられました。その男は若い神学生達にどんな模範を与えましたか? そして何故、司教様はヘラルドに彼を雇うようにと指示しましたか?
Loverde 司教様は、就任以来の3年間で多くの良いことをしました。妊娠中絶工場での彼の毎月のヴィジルは称讃されるべきものです。彼の大聖堂での定期的なミサの挙行は、義務の誠実な履行と祝福された教えの機会です。彼の在職の初期に、彼はメアリー・ハントと Diann Neu に、ドミニカン・リトリート・ハウスで意見を述べることを禁じました。これは難しい要求ではありませんでした。レズビアンのカップルは異教的な少数過激派を意味しますから。しかし、他の反対派は、違いが「微妙」であるために、より危険なもので、妨害されていない信者にも毒を盛ります。キリストの神性を否定するモニカ・ヘルウィグ、そしてこの国で最悪の抗議グループであるカトリック信者権利協会(ARCC)の創立メンバーの一人であるジェラード・スローヤンは、この司教区のどの教会でも何の問題もなく話してきました。ヘルウィグは一度ならず。司教様はそのことを知っていたでしょうか? はい、私達は司教様に言っていました。
シスター・ジョーン・チティスター。彼女は教皇様に直接逆らった人ですが、彼女が国立カトリック教育協会(NCEA)の2001年の定例会議で基調演説をした時、五つの司教区が異議を出しました。しかしアーリントンはそうしませんでした。アーリントン司教区は、ティモシー・マクニフ学校本部長に率いられた代表派遣団を送りましたが、彼は、人工中絶の合法化を支持している政治家達が──もし彼らが他の話題を申し出るならば──学校で話してもOKである、と言う人です。両親の権利は、性的で必要でもない侵入的なホモ学校のガイドラインによって侵害され続けています。
しかし、私が最も不穏であると気づいたのは、ミサに関するものです。何故司教様は、与えられた特典の緩やかな適応を求める教皇様の御意向にも関わらず、トリエント・ミサの挙行を拒否し続けているのでしょうか? 私は個人的には、敬虔なノヴス・オルド・ミサを好みますが、しかし教会には多くの典礼があります。何故、私達の祖先が何百年間もし続けて来たと同じ礼拝の方式を好む人々が、さまよう継子のように扱われなければならないのですか? それは狭量で、反司牧的なことです。
何故司祭達は、信者に御聖体を舌で受けることを勧めることを禁じているのですか? 私が今迄聞いた中で最も美しい説教の一つは、私達の人生の中での食事をめぐる二つの場面のことを語りました。親に自分を委ねきっている幼児と、私達が愛の中にある時のことです。神と私達の関係の何と強力な比喩でしょうか!
Loverde 司教様は一致について話します。しかし、キリスト教世界の初期のミサに関しては、彼の行動は分離を持ち込みました。キリスト教世界の習慣は、聖体拝領台で御聖体を受けることになっています。大学総長、教職員、そして学生達が、共に等しく跪き、私達の主の御体と御血を拝領することより以上の、偉大な一致のしるしがあるでしょうか! Robert Ruskamp 神父様が聖体拝領台に跪いている人々に御聖体を配布している時、司教様が御聖体を配布するために立ち上がると、その一致は崩れます。教職員が教会への彼らの忠実を誓約するために司教様の前に跪く一方、天主様御自身の御前には立つことを強要されるのを見るのは、何と悲しいことでしょう! あまりにしばしば、「一致」への訴えかけは、より少ない敬虔さに賛成して、より敬虔なふるまいを抑制するために使われて来ました。Verrecchia 神父様も、Manassas のセトン・スクールから来た学生達に、御聖体拝領のための跪きを禁じ、拝領前に片膝をつくことさえ禁じました。
私は読者の皆さんに、Loverde 司教様とアメリカの全ての司教様達のために祈ることをお願いします。私達は悲劇の中に、そして精神分裂的な時代の中に生きています。注意深く信仰の道を歩んで下さい。そうした者だけが、それを得ます。あなたがあなたに平衡感覚を失わせるような矛盾した光景を見る時、どうか気をつけて下さい。主イエズスは私達に、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさいと教えました。曖昧さは彼の道ではありませんでした。
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