41 雄山神社前立社壇 雄山神社祈願殿 相倉(富山県) 白川郷(岐阜県)


・平成30年10月15日(月) 雄山神社(おやまじんじゃ)岩峅(いわくら)前立社壇(まえたてしゃだん)

 東京駅6時16分発北陸新幹線「かがやき501号」に乗る。8時26分、富山駅に着く。今日の宿泊を予約している駅の近くのホテルへ行き、荷物を預かってもらう。

 富山地方鉄道電鉄富山駅へ行く。立山線9時1分発の電車に乗る。9時33分に岩峅寺(いわくらじ)駅に着く。


岩峅寺駅


 岩峅寺駅の駅舎は古い建物に見えるが、昭和31年(1956年)の建築である。岩峅寺駅の開業は大正10年(1921年)だから、現在の駅舎は2代目か3代目になるのだろう。
 駅舎の玄関の屋根は、神社、仏閣に多い唐破風(からはふ)である。岩峅前立社壇に合わせて造られたと思われる。

 立山は、古来、富士山、白山とともに日本三霊山として信仰されてきた。
 
雄山神社は、立山連峰の雄山山頂3、003mに位置する峰本社、山裾に建つ芦峅中宮祈願殿岩峅前立社壇の三社から成り立っている。前立社壇は最も平野に近く、立山の前に建つことから前立社壇と呼ばれている。

 かつて日本人が山へ登ることは、登拝という信仰のための登山であった。
 これから訪ねる岩峅前立社壇の所在地は富山県中新川郡立山町岩峅寺(いわくらじ)1番地である。明日訪ねる予定の芦峅中宮祈願殿の所在地は富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ)2番地である。岩峅寺、芦峅寺ともに、信仰のために立山に登拝する客を泊める宿坊として発展した町であり、立山信仰の基地であった。

 駅を出て右へ曲がる。駅の隣は公園になっている。公園の中を通って右へ曲がる。用水路に流れる水音を聞きながら歩く。
 200m程歩き、雄山神社の参道へ入る。用水路の水音は聞こえなくなったが、今度は、近くを流れる
常願寺川(じょうがんじがわ)の水音が聞こえてきた。左側の杉林を隔てているために川の流れは見えない。

 80m程歩く。雄山神社の東神門が見えてきた。東神門を潜る。


雄山神社岩峅前立社壇 東神門


 右手に、雄山神社岩峅前立社壇の拝殿が建っている。昭和17年(1942年)竣工され、平成17年銅板葺きとなった。山岳信仰の厳しさを表しているような重厚な拝殿である。


 拝殿


 建久年間(1190年~1198年)、源頼朝(1147~1199)によって再建され、明治39年(1906年)、国指定重要文化財に指定された北陸最大と言われている本堂は、拝殿の奥深くにあり、拝観することはできなかった。

 境内は清浄の気に満ちている。



 電鉄富山駅に戻る。2年前の平成28年2月8日、「富岩運河環水(ふがんうんがかんすい)公園」内に建つ世界一美しいと言われているスターバックス・コーヒーの店を見に行った(目次25参照)。
 戻ってから、JR富山駅に隣接する名店街の回転寿司の店に入り、店頭に書かれていた「朝とれ地物盛り11貫」を食べた。これがおいしかったので今日も同じ店へ行き、同じ「朝とれ地物盛り11貫」を食べる。やはり今日もみんな新鮮でおいしかった。富山湾で獲れるホタルイカ、白エビも入っていた。


・同年10月16日(火) 雄山神社芦峅中宮(あしくらちゅうぐう)祈願殿(きがんでん)

 ホテルで朝食後、立山線8時13分発の電車に乗るために富山地方鉄道電鉄富山駅へ行く。行って驚いた。立山線8時13分発の電車の改札はまだ行われていなかったが、改札口の前に2列になっておおぜいの中国人が並んでいた。
 電車が入線する直前に改札が行われた。入線した電車は満席になった。乗客のほぼ90%が中国人だった。この電車は終点が立山駅である。立山駅から、ケーブルカー、バス、トロリーバス、ロープウェイと様々な乗り物を乗り継いで黒部ダムを見に行くのだろう。

 進行方向左側の車窓から標高2、999mの剱岳(つるぎだけ)が見えた。剣を立てたような尖った峰が連なり、日本の山ではないような峻険な山容は、見るだけでも緊張する。

 9時に、立山駅の三つ手前の千垣(ちがき)駅に着く。無人の駅だった。降りたのは私だけだった。千垣駅と雄山神社の間を立山町営バスが運行しているが、バスは10時9分にならないと来ないので歩く。
 駅を出て右へ曲がり、緩やかな坂を上がる。20分程歩く。右手に石仏が立っている。


石仏


 横に立っている説明板によると、この石仏は富山県指定文化財に指定されている。説明の全文を記す。


 「『立山参道の石塔並びに石仏群』 第6番石仏

 この石仏は、立山町岩峅寺の雄山神社前立社壇から立山雄山山頂の峰本社まで、俗に10里半といわれる参道沿いに、信徒によって奉納安置された石塔・石仏群の一つで、『西国33番札所観世音菩薩霊場』のうち第6番札所、大和国は壷坂寺の千手千眼観世音菩薩の分霊像です。

 かつては三途の川(庚申谷川)を渡り、死出の山を越える旧参道沿いに祀られていましたが、いつの頃からかここに来て現在に至っています。」


 20分程坂を上がると道が平らになった。右手前方に標高2、501mの大日岳(だいにちだけ)が見えた。


大日岳


 大日岳の美しい姿を眺めながら歩く。

 駅から約1時間歩いて、雄山神社芦峅中宮祈願殿に着く


雄山神社芦峅中宮祈願殿


 鳥居を潜る。境内も参道も、国の天然記念物に指定されている樹齢500年の杉の木が聳えて荘厳な雰囲気が漂う。時おり、杉林の奥から鳥の鋭い鳴き声が聞こえる。
 反り橋を渡ると参道が二つに分かれる。中央に祈願殿(拝殿)が建っている。


祈願殿


 祈願殿の説明板が立っていて、「明治維新まで芦峅大講堂と称したが、維新後、祈願殿と称し、諸祭儀、御神楽等を修する所である。」と説明されている。

 右側の参道を歩く。「立山若宮」の本殿が建っている。


立山若宮 本殿


 説明板に次のように説明されている。


 「古来より立山若宮権現と称し、刀尾天神21末社の総本宮として厚く崇敬されてまいり、殊に足利将軍義植公の祈願奉幣の社として尊敬を受け、以来戦国武将、江戸時代清里武門より敬心の誠を捧げられ、大願成就、必勝不敗、災難除けの神として信仰される。
 また、霊峰立山登拝の諸人は必ず参拝を例とした。」


 元に戻り左側の参道を歩く。途中、参道から離れた右手に、木の香が漂うような美しい社殿が建っていた。祀られている七つの末社の内の神秘社(山神社)の本殿である。山仕事に関わる人々の崇敬が篤い。


神秘社 本殿


 参道を80m程歩く。「立山大宮」の本殿が建っている。



立山大宮 本殿


 説明板に次のように説明されている。

 「立山権現麓芦峅中宮の末社にして、媼堂と竝び立山信仰の中心社堂で、本堂・大拝殿と威容を誇っていたが、明治初年、山中よりの落石の災害に遭い、両殿ともに破壊される。」

 杉並木の厳かな参道をゆっくり歩いて戻る。



 帰りは、停留所「雄山神社」から12時38分に発車する立山町営バスに乗る。バスは定員13名のジャンボタクシーだった。乗客は私一人だった。5分後の12時43分に千垣駅に着く。
 千垣駅12時46分発の電車に乗る。来るときとは違って電車はがら空きだった。13時34分に電鉄富山駅に着く。

 JR富山駅へ行き金沢行きの電車に乗る。約18分で高岡駅に着く。駅の構内にある観光案内所へ行き、明日と明後日訪ねる予定の白川郷と相倉の観光パンフレットやマップをいただく。チェックインの時間になったので駅前のホテルへ入る。3泊予約していた。


同年10月17日(水) 合掌造り集落(白川郷)

 ホテルで朝食後、高岡駅前8時10分発「世界遺産バス」に乗る。
 合掌造りの
白川郷を訪ねるのは2回目になる。初めて白川郷を訪ねたのは今から14年前の平成16年9月26日だった(「奥の細道旅日記」目次23参照)。
 
そのときは、高岡駅始発の城端線のディーゼル・カーに乗った。終点の城端(じょうはな)駅に着き、駅前で待っていると、高岡駅前を発車した「荻町神社前」行きの定期の路線バスが来るので、そのバスに乗った。 
 現在は、定期の路線バスとは別に「世界遺産バス」と名付けられたシャトルバスを運行している。

 バスは城端の町を通る。城端は14年前の平成16年9月25日に訪ねた(「奥の細道旅日記」目次23参照)。城端は越中の小京都と呼ばれている静かな町である。右手の窓から真宗大谷派城端別院善徳寺の巨大な山門が見える。

 バスは、富山県五箇山の相倉、上梨、菅沼、西赤尾の四つの合掌造りの集落に停まる。平成7年、白川郷は、相倉(あいのくら)菅沼(すがぬま)とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として、ユネスコの世界文化遺産に登録された。

 岐阜県白川郷に入る。10時20分、停留所「白川郷バスターミナル」に着く。
 以前の停留所は、ここから300m程先へ行った白川八幡神社の前だったが、白川郷に入ってすぐの所に停留所が変更になっていた。

 14年前に来たときは大勢の観光客がいて、通りや合掌造りの民家の周りなど、どこへ行っても人が歩いていた。今回は更に外国人の観光客も増えて、混雑して大変な状況になっているだろうと思って来たが、平日ということもあるのだろうが、意外なことに14年前よりも人は少なかった。通りも整然としていて歩きやすい。

 バスターミナルを出て中心の通りである白川街道へ入り、左へ曲がる。観光マップを見ながら歩く。一つ目の小路を左へ曲がる。田畑の間を歩く。突き当たって左へ曲がり坂を上がる。20分程上がると展望台になっている荻町城跡に着く。

 合掌造りの建物は荻町地区とその周辺に100棟以上建っている。よくこれだけ残っていたものと思う。昭和51年(1976年)、荻町地区は「国重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。
 荻町城跡から、荻町地区の
一部だけれども集落を俯瞰することができる。100年以上たっても変わっていないと思われる風景を望むことができる。


白川郷荻町地区


 下へ下りて白川街道に戻り、左へ曲がる。左手に、約400年前に建てられた3階建ての和田家住宅が建っている。平成7年、国重要文化財に指定された。前回訪ねたとき内部を見学したので、今回は中へは入らなかった。
 建物の前に消雪用の石組みの池を配し、池の水は用水路に流れ込むように造られている。用水路には澄み切った水が流れている。
 先ほど荻町城跡へ行くときに通った道に戻る。和田家住宅の妻側を見ることができる。


和田家住宅


和田家住宅


 和田家住宅の説明板が立っていた。一部を記す。


 「和田家は、天正元年(1573年)以来、代々弥右衛門を名乗っていたことが知られ、江戸時代には名主や牛首口の番所役人を務めるとともに白川郷の重要な現金収入源であった焔硝の取引によって栄えた。

 建築年代は不明であるが、主屋・土蔵・便所ともに江戸時代中期の建築と考えられている。
 主屋は桁行22、3m 梁間12、8mの平面をもつ3階の合掌造り民家であり、両側と背面に庇が附属する。

 和田家住宅は、合掌造り民家として最大級の規模をもつ質の高い建築であり、式台付きの玄関を備えるなど格式の高い造りとなっており、世界遺産白川郷の合掌造り集落を代表する民家である。」


 和田家住宅の前を通って右側の小路へ入る。庄川が現れる。蒼味をおびたきれいな水が流れている。


庄川


 通りの両側に建つ合掌造りの民家や、民家の縁側などを見ながら緩やかな坂を上がる。



 十字路を左に曲がる。白川街道に戻って街道の反対側へ渡る。
 十字路の左手の角地に
約230年前に建てられた真宗大谷派明善寺(みょうぜんじ)が建っている。
 境内の奥に建つ本堂と、山門の上に鐘楼を載せた二層の鐘楼門は茅葺、山門の左手に建つ庫裏は合掌造りである。鐘楼門と庫裏は県の重要文化財に指定されている。


明善寺 鐘楼門


 鐘楼門と庫裏の前を通って左へ歩き、最初の角を右へ曲がる。庫裏と本堂の妻側が見える。


明善寺(中央、本堂  右、庫裏)


 バスセンターに戻り、13時50分発の世界遺産バスに乗る。16時に高岡駅に着く。

 世界遺産バスは、区間に応じてフリーきっぷを発売している。今朝、バスに乗る前に、高岡駅に隣接している加越能バスセンターで、「五箇山・白川郷フリーきっぷ」3、500円を買った。高岡駅と白川郷間は、片道1、800円である。白川郷を往復するだけでも100円得になる。しかも、フリーきっぷは種類によって2日間有効である。今朝、買った「五箇山・白川郷フリーきっぷ」は2日間有効の切符である。
 明日、相倉を訪ねる予定である。高岡駅と相倉の往復は2、000円である。今朝、買った「五箇山・白川郷フリーきっぷ」が使えるから、この分も得することになる。


・同年10月18日(木) 合掌造り集落(相倉)

 ホテルで朝食後、高岡駅前8時10分発「世界遺産バス」に乗る。

 相倉を訪ねるのは3回目になる。初めて訪ねたのは14年前の平成16年10月10日だった。この日、西赤尾、菅沼、上梨の順にバスと徒歩で巡り、最後に相倉を見学した(「奥の細道旅日記」目次23参照)。
 2回目は3年前の平成27年2月11日の雪の深い日だった(目次20参照)。

 2回目に乗った「世界遺産バス」は、新高岡駅から高速道路へ入り、ノンストップで城端(じょうはな)駅前まで走り、高岡駅から40分で着いた。城端駅前で5分間停車したが、30分以上短縮して、停留所「相倉口」に着いた。

 その後、2年前の平成28年2月9日、西赤尾、同年2月10日、菅沼をいずれも雪が降る日に再度、訪ねた(目次25参照)。 

 今回乗った「世界遺産バス」は、新高岡駅の次に新しくできた停留所「能作前」に停まり、その後、高速道路へ入る。そのため、その分の所要時間がかかるようになった。
 因みに、「能作(のうさく)」というのは、鋳物メーカーで、昨年、ここに新社屋をオープンした。鋳物作業を見学することができる。

 高岡は鋳物の町である。現在でも銅器の生産は全国生産の90%を占めている(高岡について、「奥の細道旅日記」目次21同23同25参照)。

 9時28分、停留所「相倉口」に着く。バスを降りて道路の反対側へ渡る。過去2回相倉を訪ねたときに歩いた道とは別の道を歩く。左側に駐車場がある。駐車場の中を通ると、樹木に囲まれた遊歩道がある。遊歩道の近くに庄川が流れている。水音は聞こえるが、樹木に遮られて川の流れは見えない。

 20分程歩く。相倉(あいのくら)の入口に着く。右側に広い駐車場がある。観光バスや外からの車はここに停める。ここから先は車は入れない。ここから先に入れる車は、住民の車と住民の用をなす車だけである。また、歩きながらの煙草も禁止されている。

 相倉に現存する20棟の合掌造りの家屋の多くは江戸時代から明治時代に建てられたものである。
 相倉は、昭和45年(1970年)、「越中五箇山相倉集落」として国の史跡に指定され、平成6年、国重要伝統的建造物群保存地区に選定された。平成7年、世界文化遺産に登録された。
 国の史跡として保存される範囲は、合掌造りの家屋だけでなく、田畑、山林、池、道路、屋根葺きに必要な茅を取る
「茅場(かやば)」や、集落を雪崩から守るための「雪持林(ゆきもちりん)」までもが含まれる。 

 駐車場に立っている案内板に従い、駐車場の上の畑の間の道を上る。15分程上る。集落のほぼ全景を見渡せる場所に出た。
 山に囲まれ、一部段々畑になっている斜面の下に静かに佇む合掌造りが見えた。遠くに白山連峰が見える。


相倉

 下へ降りる。



 「越中五箇山相倉集落」と題して、説明がされていたので、その一部を記す。


 「五箇山は、庄川上流と支流利賀川の深い谷間に点在する70の集落(旧・平村、上平村、利賀村)の総称で、相倉はその典型的な集落のひとつである。五箇山には古くから人が住んでいたが、史料の上ではっきりするのは浄土真宗が広まってきた15世紀末頃である。

 合掌造りは豪雪に耐えるために60度正三角形に造られた急傾斜の屋根を持つ。アマ(屋根裏)で蚕を飼ったため、切妻として明り取りを設け、床下で塩硝(鉄砲火薬の原料)の土を培養したため床が高い。養蚕・塩硝・紙すきは江戸時代の五箇山の三大産業で、これらの生産と厳しい環境への対応から合掌造りが生まれた。」


 左右の風格のある合掌造りの民家を見ながら歩く。段々畑の石垣も懐かしい。




 300m程歩くと集落の端に着く。後戻りする。田圃を挟んで道が二つに岐れる。ススキが風に揺れ、長閑な風景である。
 白川郷と違って訪れる人も少なく、穏やかで静かな時間が流れている。初めて相倉を訪ねたときも思ったが、今日も、畑の石垣に座って、いつまでもここにいたいと思った。


・同年10月19日(金) (帰京)

 ホテルで朝食後、電車に乗る。約18分で富山駅に着く。富山駅9時7分発北陸新幹線「かがやき506号」に乗る。11時20分、東京駅に着く。





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