メディアとつきあうツール  更新:2004-11-01
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

放送お騒が史1960〜1969
――局や局員の事件事故・規制・放送中止・不祥事・テレビ珍事件を読む放送年表

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≪1961年〜1964年分のリード≫
所得倍増を謳う池田勇人内閣のもと、日本の高度成長は本格化。テレビ普及が急速に進みカラー化も始まる。テレビの力が強大になるにつれて、これをコントロールしようという権力の動きも顕著になっていく。そんな時代の放送事件を振り返ろう。(「GALAC」2004年6月号)

≪1965年〜1967年分のリード≫
カラーテレビ・カー・クーラーが「3C」と呼ばれたのは1966年だ。日本は高度成長のピークに向けて邁進する。その陰で公害や交通戦争といった国内矛盾が噴出。国際社会もベトナム北爆、中国文化大革命と激動する。そんな「政治の季節」を迎え、放送をめぐる事件は引きも切らない。(「GALAC」2004年10月号)

≪1968年〜1970年分のリード≫
ソンミ虐殺などベトナム戦争泥沼化の1968年、プラハの春、パリ5月革命と、世界は闘争の季節を迎えた。日本でも日大・東大闘争はじめ大学紛争が勃発。69年安田講堂陥落、70年よど号ハイジャック、三島由紀夫自決と激動が続く。高度成長の集大成「70年万博」開催と同時に公害もピークに。そんな矛盾の噴出した時代、放送をめぐるどんな事件があっただろうか。(「GALAC」2004年12月号)

取材・執筆/高坂龍次郎(6月号は日比俊久と共同執筆) 校正協力/小林潤一郎

≪おことわり≫
この年表は、放送局(員)をめぐる事件や事故、テレビへの規制や圧力、放送中止事件、いわゆる「やらせ」をはじめとする不祥事、放送やテレビをめぐる珍事件などを集めています。日付が空欄のものは確定できないことを示します。参考文献は最終回にまとめて提示します。

≪サイトアップに際して≫
初出の原稿に大幅に手を加える場合があります。また、必要に応じて項目の末尾に【 】で括《くく》って、現時点からその出来事を振り返ることの意味、感想、注意などを付記します。

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1960 昭和35年―60年安保が国論を二分 
3/1 ラジオ山口テレビ、午後8時に「子供番組終り」の字幕を入れ始める。子どもの夜の視聴を抑制するため。
3/2 ラジオ関東が横浜公園体育館で主催した「歌謡曲ゴールデンショー」に客が殺到。先頭の約100人が折り重なって倒れ、婦女子ら12人が圧死。収容人員3500人のところ招待券6000枚を出していた。
3/20 日本テレビ、「宗教の時間」を放送開始。テレビでは初の宗教番組。
4/30 ソニー、世界初のトランジスタテレビ受信機を発売。8型で6万9800円。
6/1 ラジオ東京「岸総理と街の意見」の街頭録音中、動員されたと見られる安保賛成派がマイクを占領し、反対派200人がラジオ東京に押しかけて抗議。
6/3 閣議でラジオ・テレビ番組が問題とされ、閣僚らが「NHKが政府に批判的な人物を出演させるのは好ましくない」「郵政大臣を通じてNHKに注意を促すことも考慮」「フジ『これが真実だ』が原敬暗殺事件を取り上げたのは時節がら不穏当」などと発言。
6/7 岸信介首相、報道各社代表に米大統領アイゼンハワー訪日で協力を要請。
6/15 反安保デモの全学連主流派7000人が国会に突入し、警官隊と衝突。東大生の樺美智子が死亡。ラジオ関東は島碩弥アナが「あっ、いま肩をつかまれました。警官隊が私の顔をなぐりました。……これが現状であります。すごい暴力です」と警官に暴行されながら、衝突を実況中継。
【まさか警官隊が報道記者をなぐるとは、と思うかもしれないが、当時はこの種の事件がしばしば起こった。1958年9月16日には、全学連デモを取材中の東京新聞記者と日本経済新聞記者が、警視庁第1機動隊員から暴行を受け負傷。この年の春から労働運動などに対して警官が実力行使し、無抵抗の人が負傷する事例が増加していたため、警視庁七社会はじめ3つの記者会は第1機動隊第3中隊長と関係隊員を暴行傷害の疑いで告発。10月3日、警視庁捜査二課は第1機動隊第3中隊長ほか隊員11人を書類送検した。このときは東京地検が10人を起訴猶予、2人を不起訴処分とした。連日の出動で極度に疲労しておりデモ隊からののしられて隊員が冷静さを欠いていたこと、加害者が反省しており減給戒告などの処分も行われたことなどから、情状を酌量したとされる。】
6/16 民放報道協議会、国会デモ取材の報道部員への警官隊の暴行に対し抗議。
6/16 NHK大阪、ドラマ「悪い奴」(作・内田栄一、演出・和田勉)を放送中止。国会議事堂を爆破するストーリーが不適切と判断された。
6/20 NHK、安保座談会の音声をカット。NHK解説員による座談会が、ラジオとテレビで放送されたが、テレビでの福井文雄解説員の「民衆を軽視しているのですよ。たとえば安保条約にも……」のあと約20秒間音声が空白に。ラジオには手が加えられていなかったため、「政府は安保条約についてウソをついている」という趣旨の発言であると判明。NHKは機器の故障による事故と主張したが、報道最高幹部の判断によるカット。
6/23 岸首相が退陣表明。5月19日の衆議院での安保条約強行採決から6月19日の自然成立をへて、この日までに放送された安保関係の番組は、NHKがテレビ54本・ラジオ101本、民放がテレビ(30社)549本・ラジオ(37社)613本。
7/4 NHKは野村秀雄会長のトップダウンによって娯楽番組から暴力場面を追放。「西部のパラディン」「ハイウェイパトロール」「月下の美剣士」などが放送中止となり、番組からピストルものとチャンバラが姿を消した。
7/ 公正取引委員会、誇大広告の規制を決定。不当景品・不当表示の監視体制を強化。
7/ 東芝・三菱・日立がカラーテレビを市販。21型50万円前後、17型40万円前後。大卒初任給が1万5000円という時代。
8/ 民放連レコード専門部会、「要注意歌謡曲取り扱い内規」を改訂。
9/10 NHK東京・大阪(それぞれ総合と教育)・日本テレビ・ラジオ東京など8局がカラー本放送開始。アメリカに次ぎ世界で2番目。
9/17 民放のラジオ全国中継共同企画「三党首と国民の声」が池田勇人首相の出席拒否で放送不能に。ラジオ東京報道部長らが釈明を求める質問書を提出。
9/18 日曜夜10時45分からのフジテレビ「ピンク・ムード・ショー」で、チラリと乳房が見えるお色気ショーを始めるが、批判や抗議が強く4回目から自粛。
10/12 社会党委員長・浅沼稲次郎が三党首立ち会い演説会(日比谷公会堂)で右翼少年・山口二矢に刺殺される。NHKラジオ第一では演説を中継しており、大塚利兵衛アナが惨劇を実況。映像も撮っていたNHKは、プロ野球日本シリーズを中断して放送し、視聴者に大きな衝撃を与えた。
10/14 浅沼刺殺事件をきっかけに関西テレビが番組から暴力場面の追放を宣言。フジテレビ・東海テレビ・九州朝日放送も同調。17日にはフジテレビ・文化放送・ニッポン放送が暴力追放キャンペーンを実施。
11/14 共産党が「三党主催テレビ討論会」(三党は自民・社会・民社)の共産党除外は放送法・公職選挙法違反としてNHKを東京地検に告訴。15日には日本テレビ・NET・ラジオ東京のスポット放送・政策放送時間の提供拒否についても告訴(62年1月に不起訴処分)。
1961 昭和36年―テレビはカラー化へ 
1/21 三菱電機が21型カラーテレビ受像機を52万円から44万円へと大幅値下げ。同時に17型を35万円で新発売。
1/31 民放連が関西地区で実施した第1回「テレビの青少年に対する影響調査」の結果を発表。「テレビの悪影響」を否定した。
3/4 TBSが土曜午後11時15分〜日曜午前0時40分に「週末名画劇場」を放送開始。テレビ深夜放送の初めといわれる。
5/9 米FCCミノー委員長が全米商業放送連盟(NBA)年次大会で「テレビは一望の荒野」と演説し低俗化を批判。社会的責任を果たさない放送事業者には免許を拒否する場合もあると警告。日本のテレビ界にも影響を与えた。
7/17 日本トンプソン市場調査研究所が5月最終週に都内23区で実施したラジオ聴取率調査結果を発表。全体の平均聴取率がますます低下、人気番組ベスト20中18が午前6時〜8時半の早朝番組で夜番組はひとつもなしという結果。
9/18 迫水久常郵政相が記者会見で「テレビ局が教育・教養番組や娯楽番組の割合など免許条件を守らない傾向が目立つ。来年6月の免許更新に当たって拒否することも考えている。一部には放送事業への国家統制との声もあるが、放送内容を高める意味から、この措置を取ることは当然と思う」と発言し、放送界に衝撃を与える。
9/ 倒産した新東宝の旧作映画が、映画界の必死の防戦のかいなく7月末にテレビ局に大量流出。テレビ局側は映画界に遠慮して放送を見合わせていたが、倒産でその理由もなくなったため、9月からTBS「お好み映画館」フジテレビ「奥さま映画劇場」などをスタートさせて放映。各局で激しい競争になった。
11/13 NHKが総合とラジオ第一で特別番組「総理と語る」(首相池田勇人と中山伊知郎)を放送。7月の徳川夢声との対談の成功がきっかけで、ここから総理対談の定期番組化が始まり、62年からはNHKと民放が隔月交代で実施することに。「総理が時事問題について発言すれば放送の後追いとなり、総理への単独取材はしないという内閣記者会の取り決めにも違反する」と新聞が難色を示したが、時事問題にはなるべく触れないということで決着。
12/1 年末手当をめぐり11月27日からストに突入した大阪・朝日放送は、会社側が「再び放送が可能になるまで放送を中止する」と臨時放送して、テレビとラジオの電波を停止。12月3日もストは続行され「放送のない日曜日」となる。
12/13 中部日本放送が「夜毎のサンタクロース」なるラジオスポットCMをスタート。聴取者の家を訪問したサンタクロースが当日放送された合言葉を応えた人に5000円を贈るという懸賞付きCMで話題に。
1962 昭和37年―NHK受信契約1000万超 
1/18 日本テレビが木曜夜9時15分の30分番組として「ノンフィクション劇場」放送開始。生みの親は牛山純一。4月には視聴率不振を理由にスポンサーが降り、打ち切りの憂き目を見たが、第2回放送「老人と鷹」がカンヌ国際映画祭でテレビ部門グランプリを獲得したことが追い風となり、63年4月から放送再開。
1/20 警視庁は東洋電機が丸の内・東京會館で発表会を開き売り出すとした「10万円カラーテレビ」をめぐって、東芝製品を使ったニセ物らしいこと、売り出しの噂が出た61年2月以降に同社の株が130円から500円に値上がりしたこと、発明者の長尾磯吉が発明をネタに詐欺を働いた前歴があることから内偵を進め、株価つり上げを狙った証券取引法違反の疑いで東洋電機、その元社長宅、長尾宅などを家宅捜索。3月に同社取締役、勤労部長、総会屋2人を逮捕。
2/18 浜松市三方が原の小学3年男子が首をつって死亡。浜松署の調べによると、この日の夕食時に両親から「試験が近いのに、テレビの西部劇ばかり見ていないで、勉強しなさい」と叱られ、おどしのつもりで首をつったのが、本物になってしまったらしい。
3/1 NHK受信契約件数が1000万を突破。
3/21 TBSがドキュメンタリー「カメラルポルタージュ」を放送開始。
3/24 北海道放送(〜4月13日)、テレビ西日本(〜4月7日)などで民放がスト。3月27日に迫水久常郵政相が閣議で「放送法の改正を考える」と発言し、9月には放送関係法制調査会が設置される。
3/ TBSが中華人民共和国制作のフィルム「中印国境をゆく」の放送を直前になって中止した。理由は不明。
4/1 NHKが放送受信規約を全面改正し、新受信料体系をスタート。契約甲(ラジオとテレビの包括契約で月額330円)と契約乙(ラジオのみ月額50円)の二本立て。
4/8 NHKが「宗教の時間」放送開始。82年4月から「こころの時代」にタイトル変更。
4/27 テレビでプロレスを見ていた京都府相楽郡の農業・玉かじさん(76)が心臓マヒで死亡。プロレス中継が始まってまもなく、額をブラッシーにかみつかれて血だらけになった東郷を見て倒れた。愛知県瀬戸市では青果業・橋本杉三郎さん(63)が脳出血で死亡。プロレスの強い刺激が血圧の高かった橋本さんに致命的なショックを与えた模様。この日の放送は神戸市王子体育館で行われたテーズ・ブラッシー・シャープ対力道山・豊登・東郷のタッグマッチで日本テレビ系が夜8時から実況中継。
4/30 大阪府警防部はプロレスのテレビ中継が「青少年への有害興行」に該当する疑いがあるとし、5月11日に大阪・難波の府立体育館で行われるプロレス中継を規制したいとして、府青少年保護審議会に検討を申し入れ。5月1日、読売テレビは「残虐な場面の大写しはしない。青少年に有害と思われる場面は避ける」との意向を伝えた。
5/ 佐世保で米軍基地を撮影していたとしてNHKのプロデューサーとカメラマンが米憲兵隊に逮捕される。取材は事前に了解済みだった。
6/ 郵政省は放送局の再免許で、一般総合番組局について、教育・教養番組30%以上の編成条件を教育10%以上、教養20%以上に改める。初の民間教育専門局で教育番組の高い編成比率(59年の開局時に53%)を義務づけられていたNETは、大赤字が続き、比率の低減を陳情。
7/1 第6回参議院通常選挙の投票が行われ、テレビタレント藤原あき(64)が全国区の最高点116万5046票で当選した。藤原は藤山愛一郎の従姉妹《いとこ》だが、55年4月にスタートしたNHKクイズ番組「私の秘密」に、藤浦洸、渡辺紳一郎とともにレギュラー出演。タレント議員の先駆けとなった。開票が始まった2日午前中、トップで当確が打たれると報道陣が東京・数寄屋橋の選挙事務所に殺到したが、本人の所在は不明。実は帝国ホテルの美容室で髪をセットしメイク中だった。なお、「私の秘密」は米3大ネットで放送中の2つのクイズ番組を組み合せた企画。登場人物の秘密を当てるもので、ご対面コーナーが人気だった。司会は「事実は小説より奇なりと申しまして」のセリフで有名な高橋圭三で、高橋も後に参院議員に。
9/15 民放18社、電通、東芝が出資して「ビデオ・リサーチ」設立。12月から東京23区内の家庭に設置したビデオメーターを利用し視聴率調査スタート。高価なテレビにおかしな機械を取り付けるというので住民に警戒され、説得が容易でなく、246台を設置するのに社員総出で1か月かかった。機械式視聴率調査は61年4月にスタートしたニールセンに次ぐ。
10/1 TBSが夕方6時から30分の「ニュースコープ」を放送開始。キャスターは田英夫、戸川猪佐武で、キャスターニュースの草分け。
10/6 東京都が発表した「都民の生活」白書によれば、区部の上水道普及率は83%、下水道普及率は22%で、いずれも名古屋市以下。生活保護スレスレの低所得者層は都民の約3割で300万人にのぼる。しかしテレビはすでに73・6%の世帯に普及しており、電気冷蔵庫35・5%の倍以上の普及率。
【東京23区にある世帯の10軒のうち1〜2軒に水道が普及しておらず(井戸水や、もらい水で生活し)、10軒のうち〜8軒に下水道が普及していない(水洗トイレでなく汲み取り式の「ぼっちゃんトイレ」である)うえに、10軒のうち3軒は生活保護スレスレの貧しい生活をしているにもかかわらず、10軒のうち7軒以上がすでにテレビを持っている!! これは世界でも群を抜く日本人の「テレビ好き」を示す象徴的なデータであると思われる。なお、地上デジタル放送など新しいテレビ受像機が順調に普及することを示唆する数字と受け取る人がありそうだが、私はそうは思わない。これは水洗トイレや冷蔵庫などまだまだいらないという「貧乏人のテレビ好き」を示し、かえってプラズマ・液晶ハイビジョンのような高級テレビ受像機の普及の難しさを示唆するのではないか。】
10/7 NHKが「NHK杯争奪(囲碁・将棋)トーナメント」をラジオ第二から教育テレビに移行。囲碁と将棋をそれまでラジオで伝えていたこと自体が驚異的であった。
10/13 読売新聞調査で、ニュースを最初に知る速報メディアとして、テレビが前年1位だった新聞を抜く結果に。
10/18 ニッポン放送が予定していた帝銀事件を描くセミドキュメンタリー・ドラマ「平沢は訴える」に隠しマイクによる録音が使われたとして、法務省が中止を申し入れ。
11/13 京浜地区に残された第12チャンネル(米軍がレーダー用に使っていたのを返還)について、郵政省が財界系の「日本科学技術振興財団」に対し「科学技術教育番組60%」の条件付きで予備免許を与え、中央教育放送など4社は免許拒否。後に中央教育放送は異議を申し立て、郵政省が棄却すると取り消しを求めて提訴し、68年の最高裁判決(上告棄却)で郵政省の敗訴が確定。
11/20 25日に放送予定だったTBS東芝日曜劇場の芸術祭参加ドラマ「ひとりっ子」(RKB毎日放送制作)が放送中止に。兄が特攻隊で戦死しひとりっ子になった次男が父の勧めで防衛大に合格するが、母と恋人の反対で別の道を進む決意をするという内容。11月上旬に東芝が「理由は聞いてくれるな」として提供中止を申し入れ、TBSもネットは受けないと通告したが、制作は続けられ完成。労組はスポンサーなしの自主放送を要求。RKB毎日は番組審議会に決定を委ね、「出来映えが感心できない」との答申を受け中止を決めた。防衛庁、自民党、右翼、防衛産業と関係するスポンサー、財界などが圧力をかけたとされる。民放労連は翌63年の春闘で「ひとりっ子を放送させよう!」キャンペーンを展開。後に舞台化や映画化がなされた。
12/1 NHKとNHK交響楽団からボイコットされた指揮者・小澤征爾が、演奏予定のこの日、オーケストラも聴衆も誰一人いない上野・東京文化会館に姿を見せ、演奏予定の12・13日も来ると発言。18日、小澤征爾は記者会見で、NHKとN響を名誉毀損と契約不履行で訴える意向を表明。
1963 昭和38年―放送中止相次ぐ 
1/1 フジテレビが連続テレビアニメ国産第1号の手塚治虫・作「鉄腕アトム」を放送開始し、爆発的な人気に。10月には横山光輝・作「鉄人28号」も放送開始し、アニメブーム起こる。
1/13 フジテレビ社会派ドラマ「検事」の主役・宇津井健が、専属となっていた大映の強権発動によって出演を打ち切られる。
1/28 豪雪取材のためNHKテレビニュースがチャーターした三ツ矢航空のR8型ヘリコプターが石川県で北陸本線の線路上に墜落。日本海側一帯は13日頃から豪雪に見舞われ、この日までに被害は23府県に広がり、死者76人、行方不明8人。
2/24 TBSラジオの報道が、安保闘争時の唐牛健太郎・元全学連委員長らが右翼の田中清玄から資金援助を受けていたことを暴露。
2/28 中部日本放送と東海テレビが「日本の厳窟王」こと吉田石松の再審公判で特別番組を編成。開廷3分前まで初の法廷内テレビ中継を実施した(名古屋高裁)。
3/15 NHKラジオ第一が「私たちの言葉―定時制高校の皆さんへ」を放送。高校生の訴えを聞いた池田首相が、閣議で定時制高卒者の就職差別撤廃を指示。
4/16 放送批評懇談会が発足するも、まだ世の中をお騒がせはせず。
4/25 3月31日に発生した吉展《よしのぶ》ちゃん誘拐事件で東京・下谷北署捜査本部は、犯人から被害者宅にかかった脅迫電話の録音(9本のうち5回目と7回目を除いた7本分)を「犯人の声」手配として、ラジオとテレビを通じて全国に放送。心当たりのある人から情報提供を求めた。正午までに捜査本部に届いた情報は220件以上。しかし、捜査の決め手にはならなかった。なお、メディアが犯人の声の公開で捜査協力したのは初めて。ここに至るまでに、4月7日未明に犯人から被害者宅へかかってきた9回目の電話で身代金の受け渡し場所(被害者宅から300メートル)が指定され、母親が自動車で50万円を届けたが、6人の刑事は歩いていったためカネだけ奪われるという警察の大失態があった。
4/25 総理府中央青少年問題協議会が「暴力場面・暴力思想をともなったテレビ番組および映画の影響」を指摘。
4/30 フジテレビが「テレビ結婚式」の第200回記念として50組の集団結婚式を放送。
6/ 東京母の会連合会が低俗番組を提供するスポンサーの商品に対して不買運動を起こすと声明。
7/3 日本テレビ「今晩は裕次郎です」に石原裕次郎が登場。このころから映画界の大物スターのテレビ出演が目立つようになる。
8/19 邦画5社が劇映画のテレビ放出制限を撤廃。これ以後映画界のテレビ敵視が軟化。
8/ NETの政府広報番組「東西南北」で学校給食に使うアメリカ製脱脂粉乳の話題が取り上げられたが、出演した小学生のほとんどが「嫌いな人」のほうに手を上げたため、文部省の横やりでそのシーンをカット。
9/2 岐阜県で有線共同視聴施設(CATV)初の自主放送局として郡上八幡テレビ共同聴取施設組合が開局。
10/4 郵政省が、青少年に影響の大きいテレビ番組の向上を図るための放送番組懇談会を開催(第1回)。NHK、在京民放4社、放送連合、民放連が出席。12月の第2回では放送倫理管理委員会の設置を検討(これがのちの放送番組向上委員会につながる)。
11/9 この日放送予定のNET「判決」第52話「老骨」が放送中止に。酒に酔った主人公が傷害事件を起こす話で、スポンサーのニッカウヰスキーが困るというのが表向きの理由だが、選挙を前に税制を批判した内容に政治的な圧力がかかったとされる。
11/9 マスコミ関連産業労組共闘会議(マスコミ共闘)が結成される。
11/23 初の日米間テレビ衛星中継受信実験。午前5時27分からの第1回でNHKは特別番組「日米テレビ宇宙中継はじまる」を放送するも、ケネディ大統領のメッセージは中止。同8時58分からの第2回衛星中継で、毎日放送の前田治郎ニューヨーク特派員がケネディ大統領暗殺事件を詳報。大統領がダラスで狙撃されたのは日本時間23日午前3時半、死亡確認は午前4時。
11/28 NETの「判決〜赤い実」は、学校給食に出される脱脂粉乳を嫌った子が毒ウツギの赤い実を食べて死ぬというシナリオだったが、編成局長から改稿が命じられ、脱脂粉乳との関連が抹消される。
12/6 総理府「マスコミと青少年に関する懇談会」が、不良マスコミの排除は業界内部の自主規制に期待すべきだとの結論を総務長官に答申。
12/13 総理府は閣議に青少年問題とマスコミに対する国政モニター報告書を提出。暴力場面や高額懸賞クイズなどを批判した。
12/25 10月2日に始まったTBSの水曜劇場「こちら社会部」が23回シリーズのところ、相次ぐ放送中止やスポンサーの降板により、12回で打ち切りに。放送が見送られたのは、戦争の後遺症による息子の死を戦死と認めよと提訴した実話に基づく「十八年目の戦死」(死因が薬物と関係しておりスポンサーの藤沢薬品が困るとの理由)、保守派の選挙腐敗を追及する「罠」(放送翌日が総選挙投票日で投票意欲を削ぐのは困るとの理由)、韓国を扱う「近くて遠い国」(理由は不明で、打ち切りで放送できなかっただけかも)など。
12/31 NHK紅白歌合戦が視聴率81・4%の史上最高を記録。
1964 昭和39年―東京オリンピック 
1/8 NET「判決」は、この日放送予定の「わが道をゆく」から劇団民芸の宇野重吉が出演することに決まっていたが、「宇野を使うな」という社長命令で制作不能となり、放送中止。
1/ NET「判決」は、生活保護行政の不備を突いた「生きる」を制作したが、スポンサーの薬品会社が厚生省に気兼ねし放送中止。
2/13 東京地区マスコミ倫理懇談会(新聞協会、NHK、民放連、雑誌協会など)は「東京都青少年保護育成条例にマスコミ規制条項が盛り込まれると、言論表現の自由がおびやかされる恐れがある」として、都議会などに慎重な措置を要望。
3/14 埼玉県議会が議員報酬引き上げ案を可決するシーンを取材にきた東京の朝日テレビニュース社のカメラマンが、撮影を許可されず。そこで「本会議は公開が原則だから取材も自由なはず」と傍聴席にカメラを据えたところ、県議会議長から「議長権限で取材を認めない。10分以内に引き払わないと守衛に命じて撤去させる」と拒否される。
3/25 日米テレビ衛星中継の日本からの送信実験。前日のライシャワー大使刺傷事件を詫びる池田首相のメッセージなどが送られた。
3/ NHK放送用語委員会はビジネス・ガールの意味の和製英語「BG」を放送で使わないと決める。アメリカではバー・ガールの略語とされるため。以来「OL」が定着。
4/1 NETが「木島則夫モーニングショー」(司会はNHK出身の木島、井上加寿子、栗原玲児)を放送開始(〜68年3月)。初めてのワイドショー。米NBCのニュースショー「TODAY」が下敷き。朝8時半から1時間の生・帯番組。
4/14 東京12チャンネル開局。民放2番目の教育専門局で、日本科学技術振興財団が科学技術の普及や技術者の養成を推進。「財界テレビ」ともいわれ、財界の協力組織が作られたが、折からの四十年不況で資金は集まらず、1年目で14億円近い赤字を計上。
6/15 民放連が「ラジオ白書」を発表。「ラジオは(中略)日常生活の中に密着して、小まわり利く『生活の随伴者』となった」「テレビの驚くべき躍進の『犠牲者』という被害者意識からの脱却がここから始まる」とラジオ再生を提言。
6/24 岡田茉莉子主演・岡田太郎演出「扉の中の風景」の放送直後、よろめきドラマの草分けを自負していたはずのフジテレビが「このようなドラマの制作を禁ずる」と宣言。放送直前によろめき描写が露骨すぎるとスポンサー1社が降り、もう1社が一部カットの条件を付けたため。
6/ フジテレビ番組で大宅壮一が自民党副総裁・大野伴睦を「罵倒」したとして大野派が圧力。古池信三郵政相は「言論の自由にも限界がある。放送法改正で対処する」と発言。
7/5 フジテレビのドキュメンタリー「二人の死刑囚」の最後で、刑務所内で録音された死刑囚の声が放送されることになっていたが、「刑務所に迷惑をかける恐れがある」との理由で局がカット。
8/15 マスコミ共闘など35団体は、日本テレビで11月から26回にわたって放送予定の自衛隊PRドラマ「列外一名」(大映テレビ室が企画制作)の放送阻止会議を結成。大映は13話まで作ったところで制作を打ち切り、日本テレビは放送を断念。
9/6 NET「吉田回顧録」の8月28日放送分で「血のメーデー事件」の内容が歪曲されたとして、メーデー事件被告団が抗議。NETは謝罪し翌週の放送でテロップを出すことになった。テープネットを受けている名古屋放送はこれを放送中止に。
10/10 第18回オリンピック東京大会開幕。開会式はNHK教育をのぞく全チャンネルで放送されNHKと民放をあわせた視聴率は84・7%。NHKは毎日約10時間、在京民放テレビ5社は毎日6〜11時間オリンピック番組を放送。もっとも長時間放送したのは開局したばかりの東京12チャンネル。
10/ 自民党広報委員会が主催する「報道機関の報道編成責任会議」が在京放送局首脳を集めて「原潜に関する報道はおおむね公平になってきたが、時期が時期だけに慎重に」と要望。同時に公安調査庁作成の出演者ブラックリストを配布した。
11/7 防衛庁が企画し、制作費1200万円をフジテレビ社会報道部に渡して制作を依頼した自衛隊PR番組「自衛隊とびある記」(15分、13回シリーズの自衛隊紹介ルポ)が、関西テレビ、東海テレビ、テレビ西日本で放送中止に。労働組合や女性団体の抗議による。関西テレビは「儲からず、こんなものを放送して会社の内外で騒がれては困る」との理由。軍需部門を持ち防衛庁と近い日産自動車も「企業イメージ上まずい」とスポンサーを降りた。【それにしても、放送局の「報道」の名を冠したセクションが政府機関のPR番組を受注し制作するとはヒドい話。】
12/21 日本放送連合会理事会が、放送番組向上委員会の設立を決定。65年1月25日に第1回委員会を開催。
12/31 NHK紅白歌合戦カラー化。
この年 衛星中継の研究・実現に注力していたNHK技術研究所が、東京オリンピック終了で次の研究テーマを探し、新しいテレビシステムの検討を開始(のちのハイビジョン)。
1965 昭和40年―北爆――ベトナム戦争激化 
1/3 NHK大河ドラマのシリーズ3作目「太閤記」(演出・吉田直哉)が放送開始。第1回の冒頭シーンでは、開通直後の東海道新幹線、名古屋駅、豊臣秀吉を祀《まつ》る豊国神社を実写で放映。「時代劇のはずでは?」と視聴者を驚かせた。信長役の高橋幸治の人気沸騰で「死なせないで」の投書が殺到。本能寺の変のシーンは2か月後ろにずらされた。
2/7 フジテレビが小児麻痺患者救済の「あゆみの箱」募金第1回チャリティショーを放映。14日にはTBSをキー局とし全民放46社と結んで同様のチャリティーショー「いまぼくは空を見ることができる」を放映。以後70年代初めまでチャリティ番組が盛ん。
2/18 日本テレビが初の大臣レギュラー番組「大蔵大臣アワー・ふところ放談」を週1で放送開始。田中角栄の、田中角栄による、田中角栄のための番組で、提供は宇部興産、八幡製鉄、富士製鉄。半年分のスポンサーが決まっていたが、あまりにも露骨なPR番組だったため、13回で打ち切りに。なお、田中角栄の地元局である新潟放送は、同番組を週2回スポンサーなしで放映して、ヨイショに努めた。
2/18 3月に姫路市立厚生会館で開かれる予定の「橋幸夫ショー」に山口組組長・田岡一雄が社長の興行会社が関わっていると判明。19日には三島市公会堂に中尾ミエ・伊東ゆかり・園マリの三人娘ショーの申し込みがあり、極東組系高山組の興行会社が関わっていると判明。これをきっかけに俳優団体、映画・音楽関連団体などが立ち上がり、暴力団とのくされ縁断絶を目指した。
2/19 日本テレビ「大蔵大臣アワー」が国会・逓信委員会で放送法「放送の不偏不党」「政治的公平」に照らして問題ではないかと議論に。政府側は郵政省電波監理局長が「むしろ問題の一番大きな点は、全体の番組構成というものの中におきましての政治的な公平性というものが保たれていることが必要なのではなかろうか、こういうふうに考えています」と答弁。個別番組の政治的な公平性など問題でなく、全体を通しての公平が重要だという趣旨。
2/ 芸能界・スポーツ界の大規模なピストル汚染が2月から秋にかけて明らかに。石原裕次郎宅は家宅捜索(発見されず)。平尾昌章がピストル横流しの疑いで逮捕。さらに漫画「エイトマン」作者の桑田次郎、元大関若羽黒、元横綱千代の山、現役横綱の大鵬・柏戸、前頭三枚目北の富士、作家の大薮春彦らも不法所持が発覚。12月28日、東京地検は石原裕次郎ら4人を銃砲刀剣類所持取締法違反と火薬取締法違反で略式起訴。なお66年2月には、小林旭の映画に警視庁が本物のピストルを貸し出し、実弾まで撃たせていた珍事件が露呈。
2/ 日本テレビが、札幌テレビと組んで北炭夕張炭坑爆発事故を事故現場から中継する企画を立てたが、札幌テレビ側が拒否。北炭は大株主であり、北炭社長の萩原吉太郎は札幌テレビ会長でもあるため、都合が悪いという理由。
4/8 NHK「風雪―敵艦見ゆ〜日露戦争」が放送されたが、反戦的で、日本海海戦をパロディ風に描いたため批判を招き、13日に予定した再放送が中止に。また、同ドラマ「明治最終列車はおのぼりさん」の取り扱いにも問題があるとされ、台本が改定された。
4/9 日本テレビ「歌って踊って大合戦」が司会・林家三平で放送開始。5人1組がゴーゴーや民謡で踊りまくるのを三平が煽り、熱演に応じて賞金が出るという素人参加番組だが、低俗との批判が噴出。放送番組向上委員会が自粛要請を出し、番組は65年5月に終了。
4/ TBS「話題をつく」が婦人問題について安部公房、朝倉摂、櫛田ふきなどの出演で放送予定だったが、出演者が不適当との理由で放送中止に。
5/9 日本テレビ「ノンフィクション劇場―南ベトナム海兵大隊戦記」3部作の第1部放送。プロデューサー牛山純一(当時、報道局社会部長)ら取材班6名が北爆開始の2月下旬から50日間、南ベトナム政府軍に同行し、ある中隊長をクローズアップしたもの。政府軍に殺された解放戦線の少年の生首がカメラの前に放り出されるシーンなどが大きな衝撃を与え、視聴者からの電話や投書が殺到。ただし、多くは戦争の真実を伝えたと評価する内容だった。一方、官房長官・橋本登美三郎からは社長の清水与七郎に「ひどいじゃないか」と電話が入り、政治的な圧力と受け止められた。13日、日本テレビは再放送と第2・第3部の放送中止を決定。ただし報道局長は「あくまで局の自主判断」と政府筋の圧力を否定。政府中枢から直接の圧力がかかった、日本放送史上最大の放送中止事件の一つ。
5/ NETドラマ「判決」の教科書検定問題を扱った「佐紀子の庭」が、強烈すぎ、暗すぎるとの理由で放送中止に。脚本づくりに助言していた東京教育大の家永三郎教授は、放送予定日に合わせて教科書検定を違憲とする民事訴訟を起こす予定だったが、提訴を6月に延期。
6/11 フジテレビ、文化放送、ニッポン放送が「四党首立会演説会」を産経ホールから中継。排除されたかたちとなった日本共産党は、フジテレビらを公職選挙法違反として告訴。
6/17 TBSが報道特別番組の「南ベトナム戦記」を、解放戦線兵士が狙撃され腰骨を砕かれるといった残虐シーンをカットして放送。
6/21 放送番組向上委員会が、視聴者参加テレビ番組における年少者の出演、高額な賞金、司会者や審査員の言動について、各局に改善を要望。
7/4 吉展ちゃん誘拐事件の容疑者・小原保が犯行を自供。小原を追いつめるまでにはマスコミも積極的に協力した。脅迫電話の「犯人の声」はNHK技術研究所が警察の録音テープをもとに放送用テープを制作し、各局が放送。文化放送が事件の1か月半後に小原をインタビューしたテープ(同局は6月28日に特別報道番組の「小原保という男」で放送)も鑑定に回され、犯人年齢は30歳前後との推定が小原の実年齢と一致。65年6月には、NHK技術研究所が電話録音テープと小原の取り調べ録音テープの声紋を比較、NHK文化研究所も言語学の側面から比較検討(以上は断定には至らず)。決め手となったのは、小原が刑事との雑談で漏らした「日暮里の大火を電車から見た」という一言で、東京にいないといっていたアリバイが崩れた。なおマスコミが積極的に、取材テープを警察に渡したり、警察の鑑定依頼に応じたりしたことへの反省の声はほとんど聞かれず、文化放送とNHKの二研究所は警視総監からの感謝状を受領。
7/4 折からの40年不況のなか、東京12チャンネル(現テレビ東京)の経営不振が深刻化し、午前45分・午後40分の放送休止時間を設定。
7/22 東京12チャンネルが予定していた都議選キャンペーン番組「きけ!100万都民の声」を中止し、代わりに特別番組「五党の主張をきく」を放送。
7/25 フジテレビ「ちびっ子のどじまん」放送開始。高視聴率を上げるも、低俗番組として批判される。
8/14 東京12チャンネルが、8月15日記念集会実行委員会主催の徹夜討論会(ティーチ・イン)「戦争と平和を考える集会」を東京・赤坂プリンスホテルから中継。第2部「戦中戦後の体験発表」を放送中の15日午前4時すぎに、「内容が公正を欠く」として一方的に放送を打ち切る。司会・無着成恭の「かつて天皇の名の下に戦争をしたが、また天皇のお召しがあったらどうするか。戦犯が総理大臣になっているが」の発言が問題といわれた。
8/16 自民党政調会の通信部会が放送法改正検討のため「放送小委員会」を設置。
8/31 TBSラジオ「報道シリーズ」の「兵役拒否提案を考える」で、大学助教授の「自衛隊員が治安出動の際、デモの中に肉親を見つけて発砲命令を拒否したら、自衛隊法で処罰されるだろう」という発言を、制作担当者に断りなく局がカット。同シリーズは時事問題を扱う意欲的な番組として注目されていたが、10月に放送打ち切り。なお66年4月5日にはTBSラジオ報道部そのものが解体される。自民党や財界からの圧力に会社側が耐えきれなくなったため。
9/18 台風24号を取材するラジオ関東(現RFラジオ日本)の中継車が、東京港・晴海埠頭から海に転落してプロデューサーやアナウンサーら6名が死亡。東京・江東区のゼロメートル地帯の実況中継に行った帰途、行方不明となっていた。現場は岸壁の端がわかりくく、付近一帯が停電していた午前2時すぎに転落したものと見られる。
9/ NHKドラマ「風雪」の「大正十二年九月一日」に対し、日韓条約批准が微妙な段階に朝鮮人虐殺を扱うのは好ましくないとの圧力があり、内容を一部変更。9月30日には番組打ち切り。明治維新から太平洋戦争敗戦まで100回シリーズが予定されていたが、昭和期に入ることなく60回で終わってしまった。
10/6 日本テレビが午後2時のニュースで、米軍の爆撃によって破壊された北ベトナムの癩病院を撮影したフィルムを放送。北ベトナム・ルートで入手した映像であったことから、直後にアメリカ大使館から「そのような映像を使うなとはいえないが、慎重に考慮してほしい」と電話があり。再放送は中止された。前日の5日には米ライシャワー駐日大使が、日本の新聞のベトナム報道は偏向と、毎日・大森実、朝日・秦正流の2人の記者の実名を出して批判している。
10/6 フジテレビが、手塚治虫原作の「ジャングル大帝」を日本初のカラーアニメとして放送開始。翌日には日本PTA全国協議会が、少年・家庭むけ優良番組として推薦。
10/9 NET(現テレビ朝日)が、特別番組「公開討論会―”日韓新時代”を考える」を中止し、代わりに「座談会―若い目で見た韓国」を放送。
10/ 政治評論家らが世話人となって「放送人・政府懇談会」が開かれ、政府からは佐藤首相・橋本官房長官・郡郵政相が、民放からは社長や局長クラス50人が出席。政府側は「世界にいろいろな問題があるのに、ベトナムだけを強調するのは全体を見ていない。このへんのところはライシャワー大使に前からいわれている」などと発言。
11/8 日本テレビ・読売テレビが「11PM」放送開始。これまで夜11時台は深夜扱いとされ、営業サイドは「砂漠にビルを建てる無茶」と反対。試行錯誤のうえ、「大人のワイドショー」「夜のワイドショー」として成功。網タイツのカバーガールが登場しお色気ムードを煽って低俗批判を招いた。その一方で、日韓・沖縄・防衛問題をはじめ硬派のテーマを盛んに扱って注目を集めた。
11/19 放送番組向上委員会が日本テレビ、フジテレビ、NETに視聴者参加番組の改善を重ねて要望。3局とも改善策を提出。視聴者参加番組の隆盛には、「40年不況」による制作費切り詰めがあった。
11/30 総理府「マスコミと青少年に関する懇談会」が低俗マスコミ排除の最終意見書を提出。首相・佐藤栄作は、低俗マスコミ追放を関係閣僚に指示。
この年 「おめえヘソねえじゃねえか」のコルゲンコーワCMに低俗批判。「教育上の配慮」から5秒スポットが中止に。以後テレビCMは15秒スポット戦線へと移行。
1966 昭和41年―3Cブーム 
1/9 福岡市吉塚竹田町の3歳の女の子が、TBS系のテレビマンガ「オバケのQ太郎」(オバQ)をマネしてビニール袋をかぶり窒息死。
1/24 毎日放送が、「神戸市健全テレビ視聴運動対策懇談会」が提供する子どもむけスポット「悪い番組は見ないよう」を放送。
1/25 日本テレビが、大相撲中継の中止を決定。65年1月にはTBSが初場所限りで中継を打ち切っており、66年5月にはTBSラジオも中継打ち切り。以後大相撲中継はNHK独占に。
2/1 NHKドラマ「事件記者」(脚本・島田一男)の「荒さん」こと清村耕次が自殺(当初は心臓麻痺とされ14日に公表)。妻によれば昨年入院した際に前がん症状が出ており、所属プロダクションに入院を頼んだがダメだったという。赤字プロの有力財源のため休みも取れず、カミカゼ出演の犠牲者といわれた。3月29日、8年間続いた「事件記者」放送終了。新聞・通信社がつくる「七社会」をイメージした警視庁桜田クラブを舞台に、記者のたまり場である小料理屋なども描き、昭和30年代の花形稼業の一つだった新聞記者の世界を活写したドラマ。
2/4 羽田沖で全日空B727が墜落し133人が死亡。TBSがチャーターしたフェリーに中継車を載せ海上から中継したほか、NHKは翌日朝まで特設ニュースを放映。乗客家族への無神経なインタビュー、遺体収容シーン放映など事故報道の課題も残した。この年、3月4日羽田空港でカナダ太平洋航空DC8が着陸に失敗し64人死亡、3月5日富士山上空付近でBOACのB707が空中分解し124人死亡、11月13日松山沖で全日空YS11が墜落し50人死亡と、航空機事故が相次ぐ。
4/4 経営再建下の東京12チャンネルが、放送時間を1日5時間30分へと大幅に短縮。200人を首切り。
5/28 米CBSがベトナム取材でTBSに協力要請。6月7日、記者会見で「生命の危険があるので断る」とTBS社長の今道潤三。
5/31 民放連レコード専門部会第1回会合。3曲を要注意歌謡曲に指定。
6/28 TBSの朝番組「おはよう・にっぽん」で記憶喪失の男が、「昭和19年に出征したまま行方不明の息子に違いない」という母と、22年ぶりに対面。
6/29 ザ・ビートルズ来日。30日から3日間日本武道館で公演。7月1日の日本テレビ中継は56・4%の高視聴率。エレキブームからGS(グループサウンズ)ブーム到来へ。
8/3 阿木翁助、南原繁、千田是也らを世話人に、手塚治虫、白土三平、阿部知二、広津和郎、今井正、山本薩夫、棟方志功、小沢昭一、杉村春子、森光子ら200人余りが賛同者として名を連ねた「ドラマ『判決』の放送継続を望む会」が初会合。
8/8 放送番組向上委員会が、子どものよく見る時間帯の番組制作態度、暴力場面の行き過ぎ、不健康なエロティシズムなど6項目の改善を各局に申し入れ。局側は全面協力を約束。
8/10 NET「判決」(演出・八橋卓)は第200作「憲法第二十五条」を最後に放送終了。放送台本の1割近い19本にクレームがついて脚本書き直しやカットが繰り返され、5本が放送中止に追い込まれたとされる。なお、NETは打ち切りの理由を「マンネリ化と視聴率の低下が第一。政治的な圧力は一切ない。あくまで局の自主的な判断」と説明。
9/1 民放連番組委員会が「歌謡曲などの取り扱い内規」を決定。これが、その後のいわゆる「放送禁止歌」を増やしていくことに。
9/10 読売テレビが身体障害者を扱った芸術祭参加ドラマ「土砂降り」(作・高橋玄洋)を放送中止に。22日、高橋玄洋と日本放送作家組合が抗議。
9/21 フジテレビが、親のない五人兄弟姉妹の生き様を描く社会派ドラマ「若者たち」の在日朝鮮人をテーマとした一編「さよなら」の内容に問題があるとして、23日に予定していた放送を中止。
9/30 ドラマ「若者たち」そのものが34回で終了。これに対する抗議の投書は2万通を超えた。その後、同ドラマは根強いファンに支えられ、独立プロ・新星映画社の製作で自主上映が決定。観客動員数は150万人とされる。
10/5 TBSが11月3日に予定していた「おはよう・にっぽん」の自衛隊観艦式中継を中止。RKB毎日・TBS労組の強硬な反対による。
11/1 民放連がテレビ広告への誤解を一掃する運動の一環として「広告は物価を上げているか」なる資料を作成、配布。
11/8 公正取引委員会が日立、松下、三洋、早川(現シャープ)、東芝、三菱の家電メーカー6社などを独占禁止法違反の価格協定の疑いで臨検。12月14日にテレビ受像機の価格に関する秘密協定破棄を勧告。メーカー側は12月23日に拒否回答。以後、審判に移行し78年まで、もめ続けた。
11/22 東京・池袋の東武百貨店で16インチカラーテレビ(旧型で定価17万円弱)が9万8800円で売り出され、30台が瞬く間に売り切れた。おそらく10万円を切るカラーテレビの最初。(ちなみに67年5月に経済企画庁が発表した昭和41年国民所得統計[速報値]によると、GNPはようやく世界4位のフランス並みとなったが、1人あたりの国民所得はまだ28万4417円)
11/23 日本テレビ「11PM」に元暴力団安藤組組長・安藤昇が登場。サイコロ・花札賭博を実演して問題に。
11/ フジテレビのドキュメンタリー「大和の赤ひげ」は、農薬公害を訴える医者の話だが、スポンサーの昭和電工によって放送中止に。
11/ 日本テレビは「婦人ニュース」で原爆関係のニュースを流す予定だったが、スポンサーのタッパーウェアが「古傷に触れたくない」との理由で中止に。
12/1 日本テレビは「ノンフィクション劇場」で三池炭坑事故被害者を描いた「職場復帰命令」を11月24日に放送予定だった。しかし、一酸化炭素中毒の後遺症を扱っていたためスポンサーの東京ガスからクレームが入り放送中止に。これをスポンサーなしで自主放送。
1967 昭和42年―新潟水俣・四日市ぜんそく 
2/9 TBS「現代の主役―日の丸」(構成・寺山修司、制作・萩元晴彦)放送。建国記念日に合わせ、日の丸について多数の人に同じ質問をぶつけた内容。
2/21 郵政大臣・小林武治が閣議で、「現代の主役―日の丸」が偏向しているとして電波監理局に調査させたと報告。3月18日の参議院本会議で社会党が「番組介入は憲法・放送法違反」と追及すると、佐藤首相は「政府はマスコミに介入する意思はない」と答弁。
2/ 放送局で「むかし軍隊、いま視聴率」のつぶやきが流行。
3/ 戦後20年以上続く保守都政を革新候補・美濃部亮吉が打ち破るかと東京都知事選挙への関心強まる。2日フジテレビ「知事候補の対決」、5日NHK「都知事選に約束する」、20日・日本テレビ「都知事選3候補に聞く」、同TBS「告示を待つ都知事3候補」など、有力候補2〜3人だけを登場させる選挙特別番組が相次いで放送される。候補者を絞り込むニュース手法が鮮明になるのは、このころから。
4/3 NET「テレビ投書欄」(司会・入江徳郎)が放送開始。半年後の10月16日「?政治?を見つめ行動」を最後に放送終了。
4/8 九州朝日放送が、福岡県知事選立会演説会を県選管の不許可方針に反して中継録画し、翌日放送。
4/9 小林郵政相がNHK徳島U実験局を視察後、「VHF・UHF混在の放送体制に確信を得た」と発言。5月9日には「受信機はVにUを加えたオールチャンネル方式にしたい」、5月20日には「新局免許はUでやっていく方針」などと述べた。これが68年には「VHFを止めてUHFに全面移行」というUターン騒動へとエスカレートしていく。
10/30 TBSが報道番組「ハノイ―田英夫の証言」を放送。キャスター自身が自分の取材・体験をもとにフィルムを流しながらスタジオから語るニュース・ドキュメンタリーで、西側テレビ初の詳細な北ベトナム取材報告でもあった。田は「北爆下のハノイ市民の表情に容易ならざる微笑を見たが、それがこれからの戦争の方向に大きな影響を持つだろう」と、アメリカはベトナム戦争に勝てないとの見通しを伝え、大きな反響を呼ぶ。
10/31 20日に死去した吉田茂・元首相の国葬(葬儀委員長・佐藤栄作首相)が日本武道館でおこなわれた。国葬は戦後初。25日の閣議では、国葬当日、各省庁は弔旗を掲揚し葬儀中の一定時刻に黙祷、公の行事・儀式その他で歌舞音曲を伴う行事を自粛、各公署・学校・会社でも同様の方法により哀悼の意を表することなどを要望する方針を了承。これによって31日のテレビ・ラジオから歌謡・演芸・クイズ番組などが一斉に姿を消したため、28日にマスコミ関連産業労組共闘会議が「政府による言論統制」として抗議声明を発表。
11/7 東京・平河町で自民党から幹事長・田中角栄、橋本登美三郎、広報委員長・長谷川峻、元郵政相・新谷寅三郎ら、TBSから社長・今道潤三、編成担当常務・橋本博、報道局長・島津国臣が出て「懇談」が開かれた(もちろんテレビ側が呼びつけられた)。自民党側は「どうして田英夫を北ベトナムに行かせたのか」「田が行けばああいう内容になるのは初めからわかりきっているはずだ」などと難詰。田英夫が日本ジャーナリスト会議の会員であることについても個人攻撃に近い言及があったとされる。
11/9 米軍に押収されていた原爆記録映画が、22年ぶりに返還された。被爆直後の広島と長崎を仁科芳雄博士ら科学者の指導の下に日本映画社のカメラマンが撮影したもので、フィルムは米戦略爆撃調査団が押収。引き続き米軍が撮影をおこない、46年5月に原爆ドキュメンタリー映画として完成させたもの。日本政府はフィルムの返還を繰り返し要求したが、アメリカは応ぜず、「幻の原爆映画」と呼ばれた。NHK教育テレビなどで68年4月20日に公開されたが、文部省が人体被害部分をカットしていたことがわかり問題に。
12/4 佐藤栄作首相は物価安定推進会議で「国民の消費を健全なものにするため3C(カー・クーラー・カラーTV)への支出をH(家づくり)に結びつける税制を考えたい。3Cを争って買うのは早すぎるのではあるまいか」と発言した。
12/24 広島テレビが原爆3部作の最終編「ある夏の記録」を放送。希望する放送局への無償提供を決める。なお、同作品は68年9月24日、イタリア賞20周年記念特別賞を受賞。
12/31 NHKのテレビ受信契約数が2000万を突破。
1968 昭和43年―TBS成田事件 
1/8 郵政省が、3月末で期限切れとなるFM東海のFM実用化試験局の再免許を突然拒否。59年から東海大学が高校通信教育を放送中で、付属の望星高校には生徒が1400人いたが、郵政省側は「転校すればいい」と放言。のちに裁判沙汰となり東海大が勝訴。郵政大臣の小林武治が同大学創設者の松前重義と同じ逓信院出身で、長年の反目から嫌がらせをしたもの。
1/17 米原子力空母「エンタープライズ」の佐世保入港阻止で、三派全学連中核派の学生らが、佐世保・平瀬橋で機動隊と衝突。TBSは田英夫を送り込み実況中継。機動隊は見物の市民などに警棒で殴りかかり、報道陣にもケガ人。翌日、赤沢正道・国家公安委員長は「市民・報道陣を殴ったという事実があったとすれば警官の不法行為」と語る。同空母は19日に入港、佐世保ではデモや集会が相次ぐ。出港した23日、佐世保市消防署の救護本部は、エンタープライズ寄港阻止闘争による負傷者総数は519人と発表。内訳は警官242人、学生229人、労働組合員19人、一般市民16人、鉄道公安職員7人、報道関係者6人。
1/24 TBSが「婦人ニュース」のエンタープライズ特集をスポンサーに断りなく中止し、別スポンサーの「クラクラ日記とわたし」に差し替え。同社部長会で「エンタープライズ出港後は、この問題を扱ってはならない。社長が政府に呼びつけられている情勢だ」との指示があった。
2/20 借金返済を迫られた金嬉老が、暴力団員ら2人をライフルで射殺後、静岡県・寸又峡温泉の旅館「ふじみ屋」に人質16人を取り立てこもる。警察と報道陣が包囲するなか、金は旅館前でインタビューに応じ、テレビ・新聞などを通じて、この挙に及んだのは在日朝鮮人への差別やそれに手を貸した警察への抗議からなどと主張。ライフルの威嚇発射やダイナマイト爆破など派手なパフォーマンスも。NHK「スタジオ102」やNET「木島則夫モーニングショー」は金との電話を放送し、司会者が自首を勧めたりした。22日、朝の「スタジオ102」を見て「自分の気持が正しく伝えられた」として、人質のうち子どもら4人を解放。24日、記者に変装した10人の刑事が飛びかかって逮捕。テレビを利用した「劇場型犯罪」の先駆けだった。
3/5 UPI通信社のカメラマン峯弘道が、南ベトナム北部戦線を取材中、地雷に触れて死亡。ベトナム戦争取材で死んだジャーナリストでは11人目、日本人としては初。70年10月にはUPIのカメラマン沢田教一がカンボジアで銃撃され死亡。
3/5 TBSが3月10日付けでテレビ報道部の萩元晴彦(「現代の主役―日の丸」などを演出)、村木良彦(「ハノイ―田英夫の証言」などを演出)の配置転換を発令。
3/10 「成田空港反対3・10集会」に参加した全学連学生1000人が機動隊と衝突。200人近くが逮捕され、一般人や報道陣を含む500人が負傷。反対闘争を取材中だったTBS報道部のマイクロバスが反対派農婦7人とプラカードを運び、警察の検問を受け、プラカードが凶器の角材になりうると押収される。この日、自民党は国会議員を含む70名の監視団を出し、共同通信とTBSの動きをチェック。とくにTBSには、取材本部の様子を8ミリで撮影するなど露骨な圧力。
3/11 TBS成田事件で、小林武治郵政大臣が今道潤三TBS社長に電話し、のっけに「お前は社長を辞めろ!!」と発言。木村俊夫官房長官もTBS幹部に電話し「これでお宅から一本いただいた」と発言。
3/12 TBSは放送予定だったカメラ・ルポルタージュ「成田24時」を放送中止とし、「67春 東京大学」に差し替えた。視聴者からの問い合わせ電話には「制作者が急病のため中止」と言い訳。
3/13 参院自民党の議員総会で、玉置和郎が「TBSの報道車が全学連の角材18本と反対婦人数人を運んだ。暴力に味方する報道機関は断固取り締まるべきだ」と発言。
3/15 自民党機関紙「自由新報」が「TBSが角材を運搬―三派学生かくまう」の見出し記事でTBSを批判。角材を運搬に加えて「かくまう」とは、TBSが洋裁店を借りた前線取材本部に、機動隊から追われた学生らが逃げ込んだ一件のこと。TBSは「報道活動の邪魔なので店から出てもらった」と説明。
3/22 TBSが島津国臣報道局長ら8人の処分を発表。ただし、休職処分は実際には有給休暇扱いだったとされる。
3/26 TBS解説室長の田英夫が「ニュースコープ」のキャスターを降板させられる。局側は「この際休暇を取ってもらう」と説明したが、田は「政府自民党からの干渉がなかったわけではない」と語る。
3/28 TBSの報道職場は「真実の報道は死んだ」と腕に喪章。4月1日からは50時間ストに突入。抗議行動は8月まで続く。
3 日本テレビが「ノンフィクション劇場」「未来をつくる」の2番組を終了させ、社会派ドキュメンタリーの一歩後退といわれた。
4/4 TBS「婦人ニュース」で映画「ベトナムを遠く離れて」を紹介予定が中止に。
4/5 TBS今道潤三社長が記者会見で「座談会で左の人ばかり集めるなど報道番組に偏向があった」と語る。
4/13 TBS報道部がベトナムから帰国した作家・松本清張と田英夫の対談を予定していたが中止に。
4/20 22年ぶりにアメリカから戻った記録映画「広島・長崎における原爆の影響」がテレビで初めて一般公開(NHK教育、民放10社の自主放送)。文部省は「人体への影響」編の悲惨な治療シーンを「被爆者の名誉を傷つける」としてカット。7月には「物理的調査報告」編、原爆の灰で異常な放射能が検出された長崎市西山のシーンも「無用な不安を与える」としてカットされていたことが判明。カット問題では、製作者らが原爆の悲惨さを正しく伝えないと文部省に抗議し、被爆者らもノーカット公開を要望するなど論議を呼んでいた。
4/30 ラジオ関東が開局以来10年続いた「新聞にもの申す」を打ち切り。
5/18 日本テレビが「木島則夫ハプニングショー」を放送開始。新宿・歌舞伎町からの中継に見物人が殺到。警官隊も出動して混乱。10月12日で放送終了。
6/14 TBS社長の今道潤三・民放連会長が第16回民放大会で「言論・表現の自由こそ放送の生命線。この自由を破壊しようとするものは許すべきではない」と挨拶。
6/20 5月28日にNHK京都ローカル番組として放送予定だった「私の発言」(同志社大井ヶ田良治教授の靖国神社護持法案について)が放送中止になった件で、日本史研究会(林家辰三郎会長)がNHK京都放送局長に公開質問状を提出。
7/7 第8回参議院選挙。作家・石原慎太郎が300万票を獲得しトップ当選。テレビタレント青島幸男、横山ノック、作家・今東光、東京五輪女子バレー監督・大松博文らも高得票で当選。5人合わせた得票数は672万票。【この頃から政治には素人だがテレビその他で抜群の知名度がある国会議員――いわゆるタレント議員が、参議院を中心に定着。参議院は「政局」とあまり関係がなく、衆議院選挙でタレント議員が輩出するのは1990年代以降。衆議院選挙に比例代表の制度が導入されたことも、これに拍車をかけた。】
7/24 東京12チャンネルが「ローラーゲーム」の興行をめぐってNETともめる。
8/2 郵政省が東京12チャンネルに対して、教育専門局としての免許条件に違反する恐れがあると警告。
8/28 自民党機関紙「自由新報」が、「赤旗日曜版再現! TBSの”婦人ニュース”露骨すぎる問題意識」との見出しで、TBS番組を攻撃。
8/29 TBSが、9月1日からの機構改革を発表。テレビ報道部解体、243人の配置転換のほか、「婦人ニュース」も9月28日をもって打ち切りが決定。
9/6 郵政大臣・小林武治が突如「テレビ放送のVHF帯はUHF帯へ移行」の方針を発表(いわゆる「Uターン」騒動)。(1)公共的な重要無線通信のためにVHF帯の電波が必要、(2)VHF帯には新たな割当の余地がなくテレビ放送用をすべてUHF帯に移行が必要、(3)VとUに優劣はなくテレビはUHFで統一すべき、(4)今後10年をメドに全面的な移行を考える、との趣旨。家電各社の株価は急騰し、既存V局は反対、新設U局は賛成と混乱。郵政側の真意はハッキリせず、UHF新局への援護射撃説、総選挙の献金吸い上げ説、70年安保対策説(全学連がテレビ局を占拠した場合、到達距離の短いUのほうがVよりも影響が少ないとの珍説)などが語られた。この新方針は、無責任な思いつきのまま、結局立ち消えに。
9/20 NET「長谷川肇モーニングショー」で放送したテレビ討論「君が代は国歌?」に右翼団体が偏向番組だと抗議。
10/13 日本初の都市難視聴解消の有線テレビとして「日本ケーブルビジョン放送網」が東京・新宿区で業務開始。対象は商店街の41軒。
11/7 NHK長崎放送局では8月から組合員2人の配置換えをめぐり局と日放労長崎分会が対立。小林康広局長の要請で警官150人が出動し、局長室前に座り込んだ鈴木達夫委員長ら組合員12人を逮捕。
11/20 NHKカラー受信契約数100万突破。
12/2 民放連が「リムジン江」(ザ・フォークシュリーク唄)を要注意歌謡曲に指定しラジオ・テレビでの放送を禁止したことに、大阪労音が抗議。
12/10 東京・府中で白バイ警官姿の男が現金輸送車を停車させ3億円を強奪。捜査本部が「80%の自信」といった犯人のモンタージュ写真は、テレビで繰り返し放映された。
12 米宇宙船アポロ8号が史上初の月周回飛行をし、宇宙から見た地球や月面の映像がテレビ放映される。沖縄でのテレビ本放送も始まる。
1969 昭和44年―東大・安田講堂落城 
1/18〜19 東大紛争が安田講堂攻防戦でクライマックスに。警察は機動隊8500人にヘリ3機まで出動させ、ガス弾や放水で攻撃。立てこもる学生は火炎ビンや投石で抵抗。2日間で学生600人以上が逮捕され、安田講堂は落城。NHKと民放は攻防戦を競って中継し、2日間で関連特番やニュース122本、のべ34時間28分。
1/24 郵政省は、東京12チャンネルの免許をめぐって中央教育放送が起こした行政訴訟に敗訴(68年12月に最高裁が上告棄却)したことを受けて、電波監理審議会に再審議を請求。郵政大臣の河本敏夫は「判決は『これまでの電波行政は間違っていた』ことを指摘されたと解釈すべき。謙虚に反省する必要がある」と述べた。
4/25 NETで報道部記者が運動部へ配置転換に。記者が東大紛争取材で電話送稿したなかに「機動隊が学生に石を投げ返している」との一節があり、警視庁が抗議しNETが謝罪したためとされる。
4/27 日本テレビが「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」放送開始。55号と女性ゲストが野球拳をし、負けたら1枚ずつ脱いでいき、それをセリにかける。東京・府中市民会館で収録された7月6日放送分を見た中学校長は自校の生徒が小川ローザの下着を買ったのにたまげ、PTA連合会が市長に「善処」を申し入れ。9月には神奈川県・相模原市民会館が公開収録の会場申し込みを断るなど、低俗批判が盛り上がった。
5/18 NHKが英グラナダテレビ制作のドキュメンタリー「アドルフ・ヒトラー」を放送すると、自民党が西独首相の訪日中にけしからんと問題に。郵政大臣が「タイミングを考えるように」と申し入れ。
6/6 福岡地裁が博多駅事件(エンタープライズ入港反対で博多駅から佐世保に向かおうとした学生300人と機動隊が衝突、警備の行き過ぎが問われた事件)の審理資料としてNHK、RKB毎日、九州朝日放送、テレビ西日本にテレビニュースのフィルムの提出を要請。各社は拒否。8月28日、地裁は4社に提出命令。4社は憲法違反として最高裁に特別抗告。9月19日、最高裁は抗告棄却。11月26日、最高裁は再度の特別抗告を棄却。12月11日、福岡地裁は4社にフィルム提出を再度要請したが、各社は拒否。結局、70年3月4日に「捜索差押状」を手にした地裁書記官が各社を回ってフィルムを押収。
6/27 佐藤栄作首相は、日本新聞協会総会で、「新聞・放送は事実報道だけにとどまらず、国家利益追求に重点を置くべきである」と発言。
6/ 昼の帯ドラマで、山本陽子主演のTBS「新妻鏡」と長内美那子主演のフジ「あの波の果てまで」が激突。ライバル関係にある洗剤メーカー同士がスポンサーだったため「泡戦争」と話題に。
7/21 14日に打ち上げられた米宇宙船アポロ11号が人類初の月面着陸。NASAと宇宙船の交信を訳す同時通訳が脚光を浴びた。放送世論調査所によれば、月着陸を最初に知ったメディアは、テレビ76・6%、ラジオ6・7%、人の話6・3%、新聞6・0%の順。日本の放送局が中継のために動員した人員は3000人といわれた。アポロブームで都内には「アポロ」と名づけた喫茶店、美容室、歯科医院などが71軒も出現。家電メーカーは「二十世紀最大のショーをカラーテレビで」をキャッチフレーズにカラーテレビを280万台売った。
8/11 TBS社会派テレビ映画「孤独のメス」が視聴率が悪いとして放送打ち切り。
8/21 民放連が「機動隊ブルース」など5曲を要注意歌謡曲に指定し放送禁止に。
8/25 フジ「小川宏ショー」で「あなたの亭主調べます」コーナーが放送開始。行き過ぎたのぞき番組として批判の的に。8月30日、日本テレビも「奥さま寄席・こちら探偵局」を放送するも1回で中止となる。
8/31 日本テレビ「黒部の太陽」第5話「男の中には鳥がいる」がスポンサー日産自動車の「自動車の扱いが不適切」とのクレームで放送中止。第7話「へんな奴」も他社の車が走り回るとのクレームで放送中止。第9話と第12話は「自動車を凶器と考える思想がよくない」と撮り直し。
8/ NHKが7月発売のレコード「坊や大きくならないで」を要注意歌謡曲に指定。南ベトナムの子守歌で、「大きくなると兵隊に取られ、殺したり殺されたりしなければならない。大きくならないでおやすみ」という意味の歌詞だが、「紛争中の国の歌で、紛争国の政府を刺激する」との理由。
9/10 仙台地検が、東北大生による警官監禁事件で、東北放送の「TBSウィークリー ゆれる東北大学」を県警が録画したテープを証拠申請。東北放送はこれに抗議。
9/24 京都地検が、京大事件についてNHKや朝日放送などのニュース番組を録画し、証拠として京都地裁に提出。各社は地検や京都府警に抗議。
9/29 日本視聴者会議が不良番組対策協議会を開き、会員アンケートの結果をもとに、「コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ!!」「でっかくいこう」「テレビ・ナイトショー」「スターびっくり箱」「女子プロレス」をテレビ番組ワースト5として発表。
10/11 大蔵省が、日本テレビの総額11億円の粉飾決算を指摘。14日、郵政大臣河本敏夫は「公共性の強い電波事業を運営するものとして遺憾」と発言。
10/16 郵政省が、民放59社について放送以外の事業への投資状況調査を発表し、「副業より先に番組向上を」と警告。
10/22 21日「国際反戦デー」は全国で30万人近くが集会やデモに参加。新宿駅構内には1000人が突入し、周辺は1万人以上の群衆で騒乱状態に。22日、東京地検は警視庁が録画した新宿騒乱を伝えるNHKとTBSニュースを証拠申請。24日にNHKとTBSは東京地検と警視庁に抗議。
10/27 経営不振の東京12チャンネル(日本科学技術振興財団テレビ事業部)に対し、日本経済新聞社が経営参加を決定。これによって在京キー5局と全国紙5紙との系列化が完成。
10/29 ソニーと松下電器産業が、家庭用ビデオテープレコーダーの試作機を同時に発表。互換性のない独自の規格で、VHS方式とβ(ベータ)方式の並立が始まる。
12/26 NET「奈良和モーニングショー」が、ベトナム派遣の途中、沖縄で脱走した米兵との秘密会見を放送。

※1970年分はGALAC2004年12月号に掲載中。