メディアとつきあうツール  更新:2004-05-06
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

放送お騒が史1952〜1959
――局や局員の事件事故・規制・放送中止・不祥事・テレビ珍事件を読む放送年表

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≪リード≫
昨年のテレビ放送開始50周年を機に、各方面で放送史を振り返る試みがなされている。テレビやラジオの半世紀の歩みがスポットライトをあびて輝くのは結構なことだ。ただし、華やかな歴史の陰には必ず裏側の歴史があり、正史が輝けば輝くほど裏面史が忘れられがちになるのも事実。そこで、テレビが始まる前年の1952年から今日まで、放送局の正史にあまり登場しない出来事を中心に、放送の歴史をたどる。表《おもて》から見えないさまざまなことが見えてくれば幸いである。(「GALAC」2004年5月号)

取材・執筆/日比俊久+高坂龍次郎 校正協力/小林潤一郎

≪おことわり≫
この年表は、放送局(員)をめぐる事件や事故、テレビへの規制や圧力、放送中止事件、いわゆる「やらせ」をはじめとする不祥事、放送やテレビをめぐる珍事件などを集めています。日付が空欄のものは確定できないことを示します。参考文献は最終回にまとめて提示します。

≪サイトアップに際して≫
初出の原稿に大幅に手を加える場合があります。また、必要に応じて項目の末尾に【 】で括《くく》って、現時点からその出来事を振り返ることの意味、感想、注意などを付記します。

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1952 昭和27年―テレビ開局前夜 
1/17 電波監理委員会、「白黒式テレビ放送に関する送信の標準方式案」について聴聞会を開催。周波数帯域をめぐって6メガ対7メガ論争が勃発。
1/ NHKの組合・日放労は「テレビは公共放送で!」のスローガンを掲げ、「売国テレビは絶対お断り」ビラを全国各地で配るなど反・正力テレビキャンペーンを展開。
2/28 電波監理委員会、白黒テレビ放送に関する送信の標準方式を制定。走査線525本、毎秒画像数30、周波数帯域6メガと決める。
3/ ラジオの日本文化放送協会が開局。運営の実権は聖パウロ修道会日本支部長マルチェリーノ神父が握り、各部局に腹心のカトリック信者、管理部門に修道会のアスピラント(修道女補助)を配置して支配。56年2月22日、文化放送に社名変更。
7/31 事務局官僚が全員辞表を出して圧力を強めるなか、電波監理委員会が、テレビ免許の方針と措置を決定。日本テレビに予備免許を与え、NHK・ラジオ東京については決定を保留。この決定の20分後(8月1日0時)に、GHQの求めで設置された独立行政委員会の電波監理委員会は廃止され、以後、電波行政は郵政省電波監理局の所管に。
8/1 日本テレビへの予備免許に対し、NHKとラジオ東京(のちのTBS)が反対声明。
11/26 吉田茂首相、公益法人の新情報機関設置(いわゆる緒方構想)を衆議院本会議で表明。各国の通信や放送を入手し、政府、新聞社、放送局に提供するというものだが、新聞社・放送局が強硬に反対し、構想倒れに終わる。
12/26 郵政省、NHK東京テレビジョン局に予備免許を与える。
12/ 前年開局したラジオ東京がこの年初めて支給したボーナスは、男性がワイシャツ2枚、女性がそれに見合うキャラコ生地。
1953 昭和28年―テレビ放送スタート 
2/1 NHK東京テレビジョン局、本放送開始。出力5kw、1日4時間、受信料月額200円、受信契約数866(うち都内が664)。この日のプログラムは、NHK放送会館(千代田区内幸町)での「NHK東京テレビジョン開局の祝賀式」中継(古垣鐡郎会長の挨拶ほか)、菊五郎劇団の舞台劇「道行初音旅」、ニュース映画(1月20日のアイゼンハワー米大統領就任式)、「今週の明星」(日比谷公会堂からラジオと同時放送)、現代舞踊「日本の太鼓」中継など。
3/14 NHK、我が家の献立と料理コンクール「フライパン一つでできる1人前20円のお総菜」を東京・竹早高校で公開収録。
5/3 通商産業省、テレビ国産化確立対策を決める。メーカーに設備投資資金として開銀融資20億円を斡旋《あっせん》など。
6/ 松下電器産業、17型コンソール・テレビを29万円で発売。コンソールは「足つき」のこと。
7/2 政府、放送法改正案を国会へ提出。NHK経営委員任命の地域制廃止、郵政大臣の包括監督権・監督命令権・報告徴収権など監督権限の強化を規定。その後、国会閉会のため廃案に。
7/12 民放労連結成。
7/25 三越劇場の中継にNHK初のテレビカー登場。古いバスを改装したもの。
7/ 52年4月放送開始から「女湯がガラ空き」の人気となったNHKラジオドラマ「君の名は」(作・菊田一夫)の映画化が決定。ラジオの映画化はラジオ東京「二十四の瞳」、NHK諸国物語「白鳥の騎士」「笛吹童子」でも。
8/10 日本テレビの女子アナウンサー採用試験が、大学出500人から選ばれた33人を集めて行われる。容姿と愛嬌が第一条件。
8/18 日本テレビ、街頭テレビを都内29か所と周辺13か所に設置。最終的な設置場所は278か所。
8/28 日本テレビ放送網、民放初の本放送開始。出力10kw。日本初のテレビCM「精工舎・正午の時報」はフィルム裏返しで流れた。この時点でテレビ受像機の台数は約2600台。
9/10 映画5社協定調印。松竹・東宝・大映・新東宝・東映が監督や俳優の引き抜き防止のために結束した。
10/ 前年に日本人初のボクシング世界チャンピオンとなった白井義雄がテリ・アレンとタイトル防衛戦。日本テレビで中継され、街頭テレビに殺到する人で都電がストップ。
11/11 保全経済会倒産で、民放連理事会は類似広告の警戒と自粛を申し合わせ。保全経済会は48年設立の利殖金融組織。商法上の「匿名組合」の形をとって大衆から広く出資を募り、株式や不動産投資に回して利益を配当していた。15万人から45億円を集めたとされるが、53年3月の株価暴落で経営が悪化し、10月に休業。
12/ 日本テレビ社長の正力松太郎、自ら筆をとり「テレビ時代来る!!」との広告ビラを作り10万枚バラまく。惹句《じゃっく=キャッチフレーズ》は「意外に多い視聴者」「意外に多い受像機」「街頭受像機の大威力」「テレビに急騰する人気」など。
1954 昭和29年―街頭テレビの時代 
2/7 NHKラジオ第一、第1回国民討論会「紀元節は復活すべきか」(東京・中野文化会館)を放送。同討論会は55年9月11日の第4回をもって中止。
2/19 日本テレビとNHK、プロレス「力道山・木村政彦対シャープ兄弟」(蔵前国技館)を同時中継(〜2月21日)。新橋駅西口広場の街頭テレビには2万人の群衆が殺到し、付近は交通ストップの大混乱。日本テレビは街頭テレビの黒山の人だかり写真を中継内で紹介。
3/5 塚田十一郎郵政相、NHK「ユーモア劇場」の造船疑獄の風刺に対し「NHKは政府をからかっている」と発言。3月16日に衆議院電気通信委は14日放送分の内容変更(「冗談音楽」「風刺コント」をNHKが自主的に放送取りやめ)について質疑。20日、雲隠れしていた三木トリローがエノケン宅に現れ「NHKと勝手に内容を変更しない旨、話がついた」と語る。同番組は「暗いうえにマンネリ」との理由で6月13日に放送終了。なお、造船疑獄は、「金融王」といわれた森脇将光の金融事件を東京地検が捜査中に、山下汽船の浮き貸し、造船会社から海運会社へのリベートなどが発覚し、これが計画造船や利子補給をめぐる政官財界の大規模な贈収賄事件に発展したもの。逮捕者71人、起訴された者34人にのぼり、運輸省課長補佐や石川島重工業役員など自殺者も。最終段階で法務大臣による史上初の指揮権発動によって捜査は挫折。
4/1 NHKラジオ受信料月額50円から3か月200円に、テレビ受信料が200円から300円に値上げ。テレビ受信機に対する30%の物品税新設(14型以下は12%、55年7月1日から15%)。
4/13 NHK「美容体操」をラジオ第一、テレビ(14日〜)で放送開始。前年に流行した「八頭身」など女性に美しいスタイルへの憧れが強まったことを背景に、「家事労働による主婦の体のゆがみを直す」のが狙い。郵政省簡易保険局と共同制作。
4/ マスコミ連絡協議会発足。新聞・放送・出版・映画などマスコミ関係団体による自主規制機関(55年3月マスコミ倫理懇談会に改称)。
5/24 ボクシング白井義男・エスピノサ戦のテレビ中継を見ようと東京・中野駅前丸井2階家具売場に60人が詰めかけたが、第3ラウンド開始直後に床が抜け、1階洋品売場のガラスケースに頭を突っ込む者など重軽傷27人。
5/29 東京・新宿区の乾物商がネコイラズ入り納豆を売ってしまったと警察に届け出。NHKとラジオ東京では「買った人は至急届け出て」と放送した。飲食店経営者が「5人で食べた」と名乗り出たが異常なし。
5/ 総理大臣官邸で開かれた第2回青少年問題協議会代表者会議は「不良出版物や映画などを取り締まる法規制定を」と決議。
6/18 労働省、労働基準法付属法規を改正し、女子深夜業禁止の例外として女性プロデューサーと女子アナウンサーを認める。
7/15 ニッポン放送開局。NHKスタッフ、古今亭志ん生、電報クイズなど大量に引き抜く。日経連・経団連がバックの強み。
7/12 労働省安定局が日雇い労働者デモ録音取材を拒否したのに対し、ラジオ東京が抗議。安定局は陳謝。
8/10 北海道放送・東北放送・中部日本放送・ラジオ九州の4社が、黄変米問題に関する共同取材を農林省が再三拒否していた問題で、農林大臣に抗議文を提出。黄変米とは、カビのため黄色に変色し悪臭を放つコメのこと。1952年1月に農林省神戸検疫所で輸入ビルマ米から大量に発見され、毒性が問題化。54年7月に厚生・農林両省が滞貨中の6万トンを暫定的・条件付きで配給する方針を決定。学者や消費者団体・労働団体などから抗議が殺到し、12月、厚生省は黄変米は主食以外に転用すると方針を変更した。
9/10 帰還船「興安丸」への乗船取材で放送と新聞が対立。民放連は新聞協会に抗議。
11/18 民放連第2回経営者懇談会で、NHKの広告類似放送を問題視。
この年 ラジオ東京、「不良歌謡リスト」を作成。
1955 昭和30年―有害放送、低俗歌謡の規制 
1/ ニッポン放送の小型自動車を賞品とするクイズ番組が、射幸心をそそるとして問題化。
2/14 競馬・競輪に凝る父との争いが絶えない母をなぐさめようと、台東区のラジオ商から7万円相当の10型テレビを盗み、「明治キャラメルの懸賞で当たった」と言い訳していた親孝行の中2少年が補導される。
3/10 民放連考査小委員会、クイズ番組の実態を検討し自粛を申し合わせ。
3/ 横浜はじめ各地の小中学校で、プロレスごっこをしていた子どもがケガ、死亡する事故が相次ぎ、プロレス中継への批判が強まる。NHKは8月1日でプロレス中継を中止。
4/16 民放報道責任者会議、政府が企画した鳩山一郎首相・矢部貞治対談の放送申し入れに対し、官製放送はできないと拒否。
5/5 中央青少年問題協議会は「青少年に有害な出版物・映画等への対策」を決定。放送に対しては過度に射幸心をそそるクイズほか有害な放送を行わないよう要望。映倫は青少年映画審議会を設置し「成人向き」映画を選定へ。5月16日には出版団体連合会が「出版倫理化運動実行委員会」を設置し不良出版物の追放を声明。
6/19 NHKラジオ第一、「時の動き―売春等処罰法案のかげに」を放送。某大部屋映画女優について「体を売ってスターになった」とのコメントがあり、日本映画連合会・日本俳優協会などが「女優を売春婦扱いした」と抗議。7月NHKは遺憾の意を表明。
6/20 NHKラジオ第一、録音構成「世紀の5分間―セイロンの日食」を放送した。ただし、くもりのため日食は観測できず。なお日食観測報道では共同通信が誤報。
6/27 郵政省、NHK・民放連に対し青少年に有害な放送の排除対策への協力を要請。
7/11 民放連、NHKの広告類似放送について郵政省へ質問書を提出。
7/19 浜田電波監理局長、衆議院逓信委員会で「NHKの蛍光灯値下げに関するニュースは一応、広告放送と考える」と答弁。
8/10 10日現在のNHK受信契約数は8万2724台、電通調べによる普及台数は13万133台で、「モグリ視聴者」が5万近くもいると話題に。
8/11 民放連、低俗歌謡曲追放のための参考資料として、東京3社作成の「要注意歌謡曲リスト」を各社に配布。
9/6 民放連報道責任者会議、郵政相からの「森永粉乳中毒事件」関連取り扱い資料の提出要求を拒否。同事件は「森永ひ素ミルク中毒事件」ともいわれ、55年8月23日に岡山大学付属病院小児科で人工栄養の赤ちゃんが死亡し、飲んでいた森永乳業徳島工場製造の粉ミルクから、岡山大学医学部がひ素を検出して発覚。55年5〜8月に西日本一帯で130人が死亡。
10/1 ラジオ新潟、新潟大火で午前3時から臨時ニュース。本社が類焼する間際まで屋上から実況中継し、本社焼失直前には仮施設に移って放送を継続。なお、NHKラジオは沈黙したまま。漏電による出火(午前2時50分)が最大風速33・6メートルという強風のなか拡大、焼損むね数892、焼損面積21万4447平方メートル。
10/9 ニッポン放送、クイズ「16万円の質問」放送開始。7週目に賞金獲得者出現。賞品は16万円相当のスクーター。賞金は17万円から19万円へとエスカレートし、番組名も「19万円の質問」に。
1956 昭和31年―五社協定で米テレビ映画流入 
1/30 民放連・日本広告会などは、小学館「社会科年鑑」の広告に関する記事を「歪曲」と抗議、小学館が陳謝。
3/6 郵政相、「放送法改正の基本方針」発表。放送番組関係準則の整備・経営委員会の廃止・放送審議会の設置などが骨子。
4/4 民放連、大正製薬上原社長に対して公開録音開始前の選挙事前運動類似行為の中止を申し入れ。
7/20 ラジオ中国、夏期手当とベースアップ要求で93時間の全面停波スト。背景に中国新聞社長も兼ねる社長一族の支配への不満。
10/1 映画五社協定で、テレビへの劇映画提供打ち切り、専属俳優のテレビ出演も制限(58年9月には日活も参加)。以後、「ハイウェイ・パトロール」「スーパーマン」「名犬リンチンチン」「ヒッチコック劇場」「名犬ラッシー」などアメリカ製 テレビ映画が大量に流入しヒット。
10/ 郵政省簡易保険局とNHK、ラジオ体操優良団体・個人を表彰。
1957 昭和32年―「一億総白痴化」と角栄の放送支配 
1/15 民放とNHKが初の共同取材、皇太子の声をラジオで放送。民放とNHKが同一番組を全国放送したのは初めて。
1/ 大宅壮一、「週刊東京」2月2日号でテレビの低俗番組を問題視し「一億総白痴化」と批判。
2/26 民放連考査専門部会、低俗歌謡曲追放のためのレコード小委員会を設置。要注意歌謡曲リストの作成を決定。
4/20 ニッポン放送などラジオ20社、初の政府スポンサーの広報番組「政府の時間」(のち「政府の窓」)を放送。10月にはラジオ東京などで政府広報テレビ番組「テレビ週報」がスタート。
4/22 ラジオ九州、福岡高裁の菅生駐在所爆破事件(5人が起訴されたが、ダイナマイトを渡したのは偽名で日本共産党に潜入した現職警官で、おとり捜査として問題になった)公判をワイヤレスマイクで録音。30日に放送。福岡高裁は法廷指揮権を無視として調査。7月に最高裁が「法廷での録音は一切拒否」と民放連に通告。なお同事件は60年12月16日、最高裁の上告棄却で被告の無罪が確定。
6/ 「A東京57型」インフルエンザが猛威。6月末の学童患者数は50万人以上で、テレビやラジオでは児童劇や学校向け放送の出演予定者が寝込み、代役探しに必死。
8/26 民放連、テレビ免許に関連する番組規制問題で田中角栄郵政相・言論機関代表者らと「テレビ懇談会」を開催。田中郵政相は「番組審議会は民間にまかせる」と言明。
9/20 民放連、番組の自主規制のための「番組審議会」の設置を決定。
10/22 田中郵政相、民放テレビ34社36局に予備免許を一斉付与。田中角栄の放送支配の第一歩。電波監理局は大量免許に消極的だった(それに影響され歴代郵政相も放置していた)が、積極的な田中に意見を求められ、郵政省文書課長だった浅野賢澄(のちフジテレビ会長)は「大臣の決定は即ちこれ法律と同じです」、郵政事務次官だった小野吉郎(のちNHK会長)は「それは大臣のご決心次第です」と答えた。
12/13 民放連、田中郵政相に放送事業の企業合理化促進法に基づく重要産業への指定、テレビ・ラジオ物品税の低減、政府広報番組「政府の窓」拡充などを要望。
1958 昭和33年―NHK受信契約100万突破 
2/9 NHKが東京と宮崎で収録した二元街頭録音「紀元節へのあなたのご意見は」で反対派がマイクを独占。「街頭録音」中止へ。
2/ 新潟県の生活保護家庭が製薬会社の懸賞に当たり特等のテレビをもらったが、役所は「売ってカネに変えなさい。その分を保護費から差し引く。寄付もダメ」と冷たく、一家の主人は病気が悪化して入院。
2/ ラジオ東京でテレビ「月光仮面」放送開始。風呂敷をマントに屋根から飛び降りてケガする子どもが続出。
3/18 民放連、参議院で審議中の電波法一部改正案について言論の自由に影響するおそれがあると関係方面に意見書を提出。
3/19 日新製糖の社長が業務上横領で逮捕される。51年から5年間で約2億円の裏金をつくり、同社社長だった前NHK会長・永田清(すでに故人)の私邸を約4000万円かけて新築するなどしていた。
5/16 NHKテレビ受信契約数が100万を突破。
6/11 文部省視聴覚教育課内にテレビ影響調査委員会を設置(59年6月の調査報告ではテレビの子ども・青少年に及ぼす影響はプラス面が大きいと結論)。
7/24 皇太子の教育係・小泉信三の要請に応じ、新聞協会加盟の新聞・通信・放送各社が皇太子妃選考について正式発表までの報道自粛を申し合わせ。
8/ 2月、5月に続く第3回日劇ウエスタン・カーニバルをテレビ放映。ステージの熱狂に驚いた親たちからの抗議が殺到し、以後2年間テレビはW・Cを無視。
10/31 ラジオ東京がテレビドラマ「私は貝になりたい」を放送。スポンサーの三洋電機は「ゴタゴタとコマーシャルを入れるのはふさわしくない」との大英断を下し、提供社名のスーパーを6回入れたほかは、1時間40分一切中断せず。
11/13 「月光仮面」に登場する悪役「サタンのツメ」のマスクを着けて盗みを働いた24歳の男が東京・赤坂署に逮捕される。
11/30 NHKラジオ受信契約数が1481万3001件に。これをピークに減少へ。
12/23 日本電波塔会社による東京タワーが完工。アンテナを入れて高さ333メートルは当時世界一の自立鉄塔(本体の高さは257メートル)。
12/29 内閣記者会、岸信介首相が一方的に記者会見を取りやめたことに抗議。
12/ 年間の企業広告費が初めて1000億円を突破。
1959 昭和34年―主役はラジオからテレビへ 
2/15 日本テレビが放送する予定だった新国劇「松川事件」(作・北条秀司)が、事件が最高裁で審理中で、弁護人側の資料に偏った内容という理由で放送中止に。
3/11 文部省、テレビの普及による子どもへの影響調査を初めて実施。小学校高学年と中学生が1日5時間以上テレビを見る「テレビっ子」との結果。
4/3 NHKテレビ受信契約数が200万を突破。
4/10 皇太子明仁親王と正田美智子さんが結婚。この日に間に合わせようと4月1日に開局した局は8社。二重橋から渋谷・東宮仮御所までの結婚パレードに並んだテレビカメラは108台。テレビは少年が夫妻の6頭立てオープン馬車めがけて投石し逮捕された瞬間をとらえる。沿道の人手は50万人以上。
4/10 日本テレビ、カラーテレビの広告放送を開始。
4/12 日本テレビ、「自民党から皆様へ」なる政治宣伝番組を放送(6月まで9回)。
4/ 厚生省薬務局、白衣を着用した俳優の藤沢薬品CMに対して、医薬品適正広告基準に違反すると放送中止を警告。テレビCMへの初の行政指導。
7/ 民放連、要注意歌謡曲等取扱内規を制定。この要注意歌謡曲の指定制度は83年に廃止。指定から5年間効力が継続したがそれも88年に終了し、以後この種の一覧表は存在しない。
9/18 郵政省、いわゆるマスメディア集中排除原則を明文化。放送局の複数支配の禁止、ラジオ・テレビ・新聞3事業支配の禁止、地域社会への貢献などの民放免許方針。
11/ NHK「日本の素顔」をめぐるドキュメンタリー手法について、映画とテレビ制作者(羽仁進と吉田直哉)が「中央公論」誌上で論争(〜60年4月号まで)。
12/ 年間のテレビ広告費238億円に対してラジオ広告費162億円で、初めてテレビがラジオを上回る。