メディアとつきあうツール  更新:2009-02-09
すべてを疑え!! MAMO's Site(テレビ放送や地上デジタル・BSデジタル・CSデジタルなど)/サイトのタイトル
<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

坂本衛のプロフィール(経歴)

坂本衛の他画像
↑「待ち合わせするとき本人確認に使えますよ。このまんまの人相だもの」(作者・イラストレーター丘彩桔より)

坂本 衛(さかもと・まもる/Mamoru SAKAMOTO)
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ジャーナリスト
1958年5月、東京生まれ。牡牛座。O型。早稲田大学政治経済学部政治学科を中退。在学中から週刊誌、月刊誌などで取材執筆活動を開始。放送批評懇談会理事。同ギャラクシー賞報道活動部門委員長。元「GALAC」「放送批評」編集長。現「オフレコ!」副編集長。日本大学芸術学部放送学科非常勤講師。「琵琶湖塾」副塾長。東京・神楽坂に在住。妻1子2。

※坂本衛の経歴が必要な方はメールしてください。文字数別に用意してあります。ページ最下部の英表記名をクリックすれば、坂本宛メールが開きます。

※坂本衛は「放送に詳しいジャーナリスト」かもしれませんが、「放送ジャーナリスト」ではありません。それが「放送を活動の場とする」または「放送でメシを食う」または「放送を専門とする」ジャーナリストという意味ならば。もちろん「放送評論家」と名乗ったことも一度もありません。

 仕事ご依頼の方へ 
1.基本的にはメールで、お急ぎの方は仕事場への電話で、超お急ぎの方は携帯電話で連絡をお願いします。
2.第一報の段階で、おおよその締め切りをお伝えください。
3.口座番号などの個人情報は、メールでは送信できません。必要な方は、FAX番号を明記したメールを寄こしてください。
4.テレビ・ラジオ出演の場合は、同録DVD-R・CD-Rを送ってください。スタジオ生出演のときは、帰りに持たせてくれても結構です(たいていそのように頼むが、「後日送る」と言って音沙汰のない放送局が多い。PやDがADに指示するところを何度も見かけたが、ADがメモを取らないから、そのまま忘れるのでしょう。面倒だから問い合わせもしないけれども)。

高校生・大学生など、お若い方むけの読み物

 ライター、雑文書き、ジャーナリストといった仕事、また当サイトのタイトル「すべてを疑え!!」に興味がある方、とくに高校生や大学生などお若い方は、以下をお読みいただければ幸いです。

「主催者側発表」による自己紹介、のようなもの

 まずは、「こんなもん、読んでるヒマなどないわ!」というお急ぎの貴方へ。


 ここから先は、「主催者側発表」による自己紹介、のようなもの。お忙しい方はこのサイトから出て(いずれ暇なときよろしく)Yahoo!Googleへ。読み物部分を除く経歴が必要な方は、日外アソシエーツBIGLOBEの人物データ(後者は日外の提供ですから内容は同じ)や朝日新聞などのデータベースへどうぞ。有料ですけど。日外アソシエーツの「現代日本人名録」にも載っていますが、税込み8万なんぼかするので大きな図書館で。

1958年(昭和33年)5月16日、東京渋谷の日赤産院生まれ。双子座によった牡牛座O型。「衛」の名は、当時打ち上がった旧ソ連の人工衛星からの連想とか。幼少時は目黒区上目黒、豊島区千早町、同・東長崎に住み、聖パトリック幼稚園に通う。3歳で初めて外国人つまり園長(神父さん。クロー神父は一緒に写っている写真もあり覚えているので、その前の人かも)に会い、火がついたように泣いたそうだが、本人には記憶がない。それにしても、東長崎(長崎4丁目)小野質店南隣の家から豊島教会まで、Google Earthのルートパスで調べると1110メートルある。兄が立教小に入るまで、朝は家を一緒に出たが、終わる時間が違うから帰りは一人。3歳でよく往復2キロ以上も歩いて通ったものだと、我ながら感心する。

●幼稚園では敬虔なカトリックの尼僧たちを通じて「外国」「西洋」「キリスト」に触れる。日々の祈りはいまでも唱えることができる。クリスマスには合唱を指揮した。年中組のとき、夕方6時ころまで友だちの家で遊んで帰宅せず(その家の親も外出中だった)、翌日ブリジットー尼かスール・ジョセファー尼だったかに平手打ちを食わされた。マリア尼もいた。洋画に「ペンギン」スタイルの尼僧たちが出てくると、今日でも特別な感慨を覚える。たとえば『サウンド・オブ・ミュージック』『野のユリ』『史上最大の作戦』『ブルース・ブラザーズ』。

●63〜67年、父の転勤で兵庫県西宮市へ。香炉園の浜や夙川《しゅくがわ》河口は原風景の一つ。西宮砲台は砂浜(波がかかる場所)にあった。アニメ映画「火垂るの墓」に出てくる回生病院は、看護婦の息子Kと友だちで、廃屋と化した棟に入り込んでよく遊んだ。甲陽学院も遊び場。香枦園幼稚園の年長組のときクリスマスで独唱した「マリアさま」は、いまも歌える(「マリアさま マリアさま 世界が仲よくなるように お守りください マリアさま」という歌詞)。65年に入った香炉園小学校(私が入る数年前には村上春樹がいたらしい)は「二国」(国道2号線)そば。ある雨の日、トラックが主婦をはねた事故現場に遭遇。運転手は毛布にくるんだ遺体を抱いてひざまずき、買い物カゴは散乱し、黒く濡れたアスファルト上の菜っ葉の緑と肉片の赤が鮮烈だった。以後、横断歩道では必ず左右を2度3度と見てから渡り続けて、今日に至る。

●小学校の隣りに大谷さんという大金持ちが住んでいて、学校に図書館を寄付した。備えつけられたテーブル付きの椅子(アメリカの学校を描く映画によく出てくるヤツ)は初めて見るものだった。そのときかまた別のときか、大谷さんに花束を贈呈することになり、Y子と2人で渡した覚えがある(同じ集合住宅で仲良しだったので、彼女が授業を抜けて家に帰り白いドレスを着て登校するのに同行した)。噴水のある広大な屋敷で、いまは西宮市大谷記念美術館。65年10月26日の二国のタンクローリー爆発事故も、大音響で目覚めて屋上から目撃。学校と国道の間の一ブロックが全焼し、死亡7負傷25。学校の宿直は延焼を防ぐためカーテンを引きちぎった。ところで、私はネギ系がキライでマズい給食も好きではなく、しょうもないおかずのときはナプキンにくるんで家に持ち帰っていた。ただし母親にも教師にも、この件で何かいわれたことは一度もない。おもしろいのは、自分では(家では当然バレているが)学校には内緒でそうしているつもりだったのに、あるときいつものようにナプキンに隠すタイミングを測っていると、隣りの席の女の子が「さっさとしまっちゃいなさいよ」といったので、たいへん驚いた。

●小2で東京に戻り、世田谷区立奥沢小学校へ。ロフティングケストナーリンドグレーンC・S・ルイスアーサー・ランサムなどを読みふける。小3か小4のころ、やたら図体のデカい乱暴者Fとケンカ。放課後、Fの投げたが目に当たった。保健室でFの担任にオロナイン軟膏をぬってもらい(教師も教師だ!)、帰宅して遊びに行ったが、太陽が直視できる異変に気づき家へ。刻々と視力が失われていき、子ども心に「こりゃ片目になる。でも一つ見えるからいいか」と覚悟。そのまま砧の大蔵病院に緊急入院、両目をふさいで絶対安静に。見えるほうの目のカバーだけは直径2ミリほどの穴が開けられ(「大人は開けない。子どもだから特別だ」とT医師)、1週間天井だけを見ていた。見舞いにきたFが廊下で泣きじゃくり、その母が「私の目をあげます」と泣き叫ぶ声を聞き、以後ケンカはしてもこちらからは絶対に手出しはしないと決め、今日に至る。

●小学校時代(4〜5年生)の遊び場は、自転車の場合、駒沢オリンピック公園・自由が丘(駅のトイレ脇にあったアメリカン・ホッドドッグは常連)・九品仏《くほんぶつ》・田園調布・多摩川土手・洗足池・雪が谷大塚など。奥沢からの直線距離は、駒沢3キロ、雪が谷の新幹線高架2・5キロ、多摩川2キロ、洗足池1・5キロといったところ。ということは、遠出の日は10キロやそこら平然と自転車をこいでいたわけだろう。いま住んでいる場所でいえば新宿・池袋・上野・大手町あたりまで遊び場圏だったことになり、結構驚く(自分の子どもが小学生のとき新宿や池袋まで自転車で行くといったら止めたはず)。電車の場合は、電車賃が30円なんて時代だったと思うが、渋谷の宮益坂上にある東京都児童館によく遊びに行った。ついでに宮下公園や渋谷駅の東横デパート(上のほうに電車模型の売り場があった)でも遊んだ。奥沢銀座その他にあった駄菓子屋にも入り浸っており、大のお得意様。久品仏で写生会があったとき、小学生がゾロゾロ歩く列を見ていた駄菓子屋のおばさんが手を振ってくれたのを、いまだに覚えている。

●小6の夏に特発性(つまり原因不明の)腎出血というので1か月入院。直前、学校で掃除中に転倒し(Pタイル床をモップで水拭きしながら、すべって遊んでた)鎖骨にヒビが入ったが、そのとき腎臓も打ったらしい。足は速く、身長もいまとそう変わらなかったので、秋の世田谷区総合体育大会小学校の部に出て100mで新記録を出す予定(あくまで本人の予定)だったが、雨で中止になったのには驚いた。当時、両親が熱心な読者だったせいだろう、三島由紀夫「剣」「潮騒」「憂国」などを読んでいて(「仮面の告白」も読もうとしたが、よくわからず投げ出した)、70年11月の三島割腹自決に甚大な衝撃を受ける。事件を伝える雑誌や新聞が家に大量にあったため、事件のスクラップを2冊作り(相当おかしな6年生だが)、三島の死について考えた。中3ころまでに、三島の死に対する文学者らの意見表明で納得できたのは、小林秀雄吉本隆明倉橋由美子の3人だけ。3人とも互いにまったく相入れない感想だが、3人だけが真実を語っていると感じた。今日に至っても、まだそう思っている。

●71年、麻布学園に入学。美術部(フェリス女学院との合同展は、よかった)とサッカー同好会(背番号はペレと同じ10番。当時ミッドフィルダーという言葉はなくハーフと呼んでいた)に属した。大学紛争や70年安保の最後の残り火が高校に引火。中1の秋の文化祭に竹槍ヘルメット集団が乱入し「麻布紛争」勃発。1か月余の学校ロックアウト(上野の科学博物館理科の授業)。休み中、家には何年何組保護者有志などと名乗る郵便物がひっきりなしに届き、「教師誰某はアカだ」「誰某は権力の手先」と誹謗中傷の大合戦(中1で全部読むんだから勉強になる。引き出し一杯取ってあったが、捨てるんじゃなかった)。縦割り集会(高3〜中1が組ごとに討論会)。機動隊導入で生徒ゴボウ抜き(座り込みを1人ずつ強制排除)。麻布署の私服が先輩Tを逮捕。担任の近藤祐康は何者かに尻を蹴られ救急車で入院。雨の中の全学集会で山内一郎・校長代行(校長はいなかった)退陣へ。

●中3まで毎年1度は試験が粉砕され(あるとき1学期末試験が中止になって油断してたら、9月頭に突然やりやがったのには驚いた)、教師らはセクトに割れて罵り合う(革マル、ブント、日共、社会党左派、日和見、保守、心情右翼、体育会=ガードマン系など、なんでもござれ)。さらに元旅館経営者で議員秘書あがりのY校長代行が新校舎建設資金横領で逮捕、投獄されるという、疾風怒濤の中高時代を過ごす。紛争を伝える新聞は誤報だらけ、入学時の実質校長が実は学園100年史上最低最悪の詐欺師とわかり、身をもって学んだ「すべてを疑え」を座右の銘として、今日に至る。

●いやー、こんなおもしろい学校ってちょっとない。生徒が教師を選ぶ(つまらない教師は野次り倒して辞めさせちゃう)。数十人で教師を担ぎプールに投げ込む(これは愛情表現)。教師をハメる(上級生の話だが、物理のターゲット「死魔漢」が通りがかった踊り場でケンカ芝居を打ち、止めに入ったところを階段から突き落として病院送りに)。イタズラも入学式当日、背広を着た高3が早めに中1のクラスに行き出席を取って訓示するくらいならオシャレ。教師の車をみなでワッショイわっしょい持ち上げて校舎の壁に立てかけたという昔話も聞いたが、これも冗談で済む(たぶん)。だが、度を越すと、屋上から体育教師Sの車にイスを投げ落とす、理科室でガス管と水道をつなぎ、どっちが圧力が強いか実験する(水が勝った。冗談じゃなく千万円単位の損害が出たようだから、絶対にやってはいけない。犯罪である)、女の教習生のトイレをこじあける(これも犯罪)。学年旅行で列車の電気を消す、車両ドア付近の時刻表なんかの掲示ケースをドライバーで開けエロ写真を入れて元に戻す、4人掛け座席の窓の下の吸い殻入れを外して持ち帰る(教室の壁に付いていた)などもマズい(同)……。女っ気ゼロという点を除けば、ほとんど『アニマル・ハウス』の世界。

●それでも、紛争中「俺が学校に行くと生徒を殺してしまう」と休み続けた空手使いの数学の西口ケロヨン、「馬鹿野郎!!!!、私は学校を辞めてもいいから、君を殴るよ」と怒鳴った書道の近藤祐康、「黙れ。君らがそういう態度なら私は文部省の教科書通りの授業をする。それでいいのか」と一喝した(それでピタリと静まった生徒もエラいが)日本史の若尾徳平(若尾文子のおじさんで映画『宮本武蔵』脚本家)などは、「代行派」であれ政治的信条が何であれ、生徒たちの尊敬を集めた。高2の担任だった若尾徳平は、担任のまま(私たちが高2のときに)病死した。習ったことの大半は忘れたが、彼らの声と顔と生きざまは、忘れがたい(注:現麻布校長の氷上信廣は、この「生きざま」という言葉が気にくわんという。たしかに生き様というほどのこともないかと削除)。

●なぜだか、私は麻布新館2階にあった美術教員室とそのむかいの美術教室の鍵を持っていた。美術部室がないので、勝手に(生徒の自主性を重んじる学校なので、「こうしましたから」といえば問題ない)美術教室の後方出入り口の一角3畳くらいを物置棚で囲み、廊下からしか入れない仮部室とした。そこで林武と談笑していたら、下級生の授業中だった吉本義人が「うるさい! 出ていけ!!!」と怒鳴った。またある放課後、美術教員室に鍵をかけ、やはり林と一服していたら、ノックの音がした。「どなた?」「菅野です。組合ニュース持ってきました」「あ、菅野先生。すぐ開けます。ちょっと待ってください」と、まず部屋の窓を開け(換気し)てからドアを開けると、菅野正則「なんだ、お前たちか」「ちょっと手が離せなかったもので。組合ニュースですね。先生方それぞれ机の上に置いておきます。はい、ご苦労様でした」ってね。ドアのところで受け取った(追い返した)ので、これまた問題ない。

●どういうわけだか、中学時代に岩波文庫の赤帯★1つ(50円から途中70円になったと記憶する)を全部買って読もうと決意した。モリエール、メリメ、モーパッサン、コクトー、ワイルド、ポー、ピアス、ガルシン、ゴーゴリ、魯迅――どれもよかった。日本のものも手当たり次第に読んだが、今日に至って読み返すのは漱石と賢治。その後、小林秀雄を読み、やがて吉本隆明にハマッた、ある意味で「遅れてきた青年」だった。

●大学は早稲田大学政経学部政治学科へ。ある日、革マル系らしき学生らが校内で学生名簿を調べている戸塚署の私服刑事を見つけ、吊し上げ集会を始めた。そこに通りかかり、もちろんセクトなどには属していなかったが、「学校当局に話した?」など心配するうち、警視庁機動隊が放水車とともに集結。いきなり警棒を振るって突入し「人質」を奪還。いったん逃げた学生どもは、野次馬も含め数を増やして押し戻し、正門をはさんで機動隊と対峙した。投石も傍観もダメだと思った私は、1人道路を渡って警察側に歩いていき(バチバチ写真を撮られた)、いちばん偉そうなヤツに「これは何なんだ。機動隊をすぐ引きなさい」といった。すると「こいつらみんな革マルだ」というから、「違う。ほとんど一般学生だ。これに放水するつもりか」と、しばらく口論した。

●大学で燃えたのはこの一件くらい。授業は熱が入らず、本を読み映画を見る以外やることがあまりなかった。家庭教師のバイト代が月5万。実家暮らしで貯金がたまったから、パソコンを買った。なんやかんやで数十万円かかった。ついに16ビットの98が出たってころで、BASICで何百行かのプログラムを組む。住所録、電話帳、時計、電卓、カレンダー、統計計算などのサブプログラムを書き、メニュー画面からキー1つでそれぞれに飛ぶ。つまり、自分用のデスクトップを作ったわけだ。結論は「パソコンはまだ実用段階にない」。何しろFD起動装置だけで今のパソコン(スリムケースではない本体)の大きさ、価格は20万円という時代。それは買わず、磁気バブルメモリなるハードに入ったワープロソフトを買った。たしか9万円で、今ならパソコンが2台買えてしまう。

●大学在学中にジャーナリスト高橋良典(オカルト・超古代研究家と同姓同名だが別人)、田原総一朗と出会い、週刊誌、月刊誌などで取材・執筆活動を開始した。もちろん最初はテープ起こしから。たとえば、『週刊文春』連載だったと思うが、バイオ・ウォーズの取材テープを聞くと、東大教授かなんかと田原・高橋があるウイルスをめぐって妙なやりとりをしている。調べると教授は「センダイ(仙台)ウイルス」の説明をしているのに、取材側は「潜在ウイルス」と思い込んでいて、わけがわからん。そこで、起こしの余白に詳細な脚注をつけてやる。すると、「おっ、坂本くん、よく調べているね」という話になる(むろん、やり方を誰かに聞いたわけではなし、しかもノー・ギャラ!)。筆者は、現在は専門業者のテープ起こし原稿を受け取る立場だが、内容の間違いを指摘してくれる起こし原稿など見たことがない。カネを取る起こし原稿のレベルが、20年以上前にタダで頼んだ学生のレベル以下なのだから、まあ、話にならない。たしか83年、4年半で大学を中退。学生課に手続きしにいき、「キミ、考え直したら」くらいいうかと思ったら、一言もいわずとても事務的だったのに妙に感心。以後、2年間某編集プロダクションに所属した以外ずっとフリー。政治、経済、社会などさまざまな分野で取材・執筆を続けて、今日に至る。

●田原総一朗著『テレビ仕掛け人たちの興亡』(講談社、1990年)という本がある。最初『月刊現代』に連載したもので、取材はほとんど私が一人で担当した。この仕掛け人をリストアップする準備段階で放送評論家何人かと会ったが、その一人の青木貞伸(北海園で食事した)が「『放送批評』という雑誌がある。編集委員として手伝ってくれないか」という。「いいですよ」と軽い気持ちで応えたら、放送批評懇談会の入会案内が振込用紙とともに送られてきて、「なに!? カネ払って手伝うんかい!」と思った。入会すると若い会員がほとんどおらず、取材をともなう記事を誰も書かない。ちょうどBSだの民間初の有料放送だのと騒がれていた時期で、取材・執筆が私に回ってくることが多かった。そんなことから、放送関係の取材が増えていった。なお、何か頼まれて軽く引き受けたら、後で会費を取られたというのは、その後マスコミ学会でも経験した。民放連・村澤繁夫が当時語った説明によると、会費を取られたうえに、非会員より報酬を安く抑えられたらしい。

「主催者側発表」による、最近の仕事

●現在の肩書きは、ジャーナリストまたはライター(文筆業、雑文書き)。90年から放送批評懇談会が発行する月刊誌『放送批評』編集委員。96年から『放送批評』最後の編集長。97年から2004年6月まで「GALAC」(ぎゃらく。優れたテレビ・ラジオ番組に贈るギャラクシー賞にちなんで『放送批評』誌をリニューアル)初代の編集長。2005年7月から田原総一朗責任編集長の不定期刊雑誌『オフレコ!』副編集長。放送批評懇談会会員(2000年7月〜2004年6月常務理事、2006年7月〜理事・ギャラクシー賞報道活動部門委員長)。1999年4月から日本大学芸術学部放送学科非常勤講師。2005年7月から「琵琶湖塾」副塾長。1986年から東京・神楽坂に住み、矢来町のペントハウスに移って十余年。妻1子2。地元の小学校でPTA会長を3年やったりもした。まあ放送批評も日大も琵琶湖塾も「生活の糧」的には、ボランティアのようなものですが。

●これまで関わった雑誌は、『週刊ポスト』『週刊現代』『週刊文春』『週刊SPA!』『文芸春秋』『BIGMAN』『Will』『世界』『潮』『現代』『SPUR』『花も嵐も』『DIME』『TVぴあ』『PENTHOUSE』『サイゾー』『時事解説』『論座』『噂の真相』『創』『放送レポート』『放送文化』『放送批評』『GALAC』『オフレコ!』ほか。

●共著に、三一新書『就職情報の真実』、世界文化社『新・日本改造論』、山海堂『新・防衛白書』、アイペック出版『官僚たちの熱き日々』、アスコム『日本の戦争力』『日本の戦争力vs.中国、北朝鮮』ほか多数。

最近の単行本・ムックの仕事

オフレコ!vol.1〜vol.5(田原総一朗責任編集 アスコム 2005年7月〜)
(仮題)環境問題のカラクリ(月尾嘉男・田原総一朗著 アスコム 刊行時期未定)
(仮題)首相不在──自民・民主大抗争史(田原総一朗著 朝日新聞出版 2009年夏予定)
(仮題)日本の戦争と平和(石破茂・小川和久著 ビジネス社 2009年4月下旬予定)
日本の戦争力(改訂・文庫版)(小川和久・坂本衛著 新潮文庫 2009年3月26日予定)
ニッポンの危機を読む──混迷自民の裏のウラ *(田原総一朗著 朝日新聞出版 2009年3月19日予定)
再生力(野村克也・田原総一朗著 イースト・プレス 2009年3月18日予定)
第三次世界大戦(右巻・左巻)(佐藤優・田原総一朗著 アスコム 2008年12月)
ズバリ!先読み 日本経済(竹中平蔵・田原総一朗著 アスコム 2008年10月)
反省(鈴木宗男・佐藤優著 アスコム 2007年6月)
日本の戦争力vs.中国、北朝鮮(小川和久・坂本衛著 アスコム 2007年3月)
オフレコ!別冊 最高権力の研究 小泉官邸の真実 飯島勲前秘書官が語る!(田原総一朗責任編集 アスコム 2007年1月)
オフレコ!別冊 昭和史のカラクリ(田原総一朗責任編集 アスコム 2006年12月)
憂国論 *(田原総一朗著 朝日新聞社 2006年9月)
日本の戦争 封印された言葉(田原総一朗著 アスコム 2006年8月)
子どもにバカウケの親子ゲーム88(坂本衛・浜野明美著 ぶんか社文庫 2005年)
徹底検証! NHKの真相(坂本衛他多数著 イースト・プレス 2005年)
田原総一朗自選集(全5巻)(田原総一朗著 アスコム 2005年)
(仮題)子どもはキタナく育てなさい(藤田紘一郎・毛利子来著 朝日新聞社 2005年4月刊行予定)
日本の戦争力(小川和久・坂本衛著 アスコム 2005年)
「小泉の日本」を読む *(田原総一朗著 朝日新聞社 2005年)
生きのびよ、日本!!(岡本行夫・田原総一朗著 朝日新聞社 2003年、増補文庫版 2005年)
日本のカラクリ21 *(田原総一朗著 朝日新聞社 2002年)
脱『ダメ日本』宣言(田中康夫・田原総一朗著 アスキー 2001年)
変革するは我にあり(月尾嘉男著 日本実業出版社 2001年)
なぜ負ける戦争をしたか(田原総一朗監修 アスキー 2001年)
日本のカラクリ *(田原総一朗著 朝日新聞社 2001年)
IT革命のカラクリ月尾嘉男・田原総一朗著 アスキー 2000年)
親子ゲーム88(川島明美・おやじの会著 ぶんか社 1999年)
結局、どうやったら売れるんですか。(田原総一朗著 ぶんか社 1999年)
戦争論争戦(小林よしのり・田原総一朗著 ぶんか社 1999年)
※以上のうち対談本の本文は、いずれも坂本が構成・執筆しています。それ以外でも1冊まるごと書いたものが数冊、企画・プロデュースから手がけたものが10冊近く含まれています。*印は『週刊朝日』連載「田原総一朗のギロン堂」のまとめ本で、連載時には坂本は一切関与していませんから念のため。

最近の講演・シンポジウム・セミナーの仕事

琵琶湖塾(副塾長)(滋賀県/滋賀県立大学 2005年7月〜)
連続討論〈拉致問題を考える〉第4回?「(仮題)拉致問題とテレビ報道」(日朝国交促進国民協会 2009年3月13日予定)
公開シンポジウム「ギャラクシー受賞報道活動を見て、制作者と語る会」(東京工科大学メディア学部/放送批評懇談会ギャラクシー賞報道活動委員会 2008年11月)
地デジ「完全移行」への道(民放労連/メディア総合研究所 2008年10月)
日放労フォーラム「これからどうする、私たちと『NHK』」(日放労 2008年3月)
NHKはどこへ行く?〜放送メディア・公共放送の危機〜(日放労中国支部/広島3分会 2008年2月)
地上デジタル放送の見通しと、いま必要なこと(全情報通信労働組合=総務省の通信系労組 2008年1月)
8時間耐久シンポジウム(8耐シンポ)「テレビを問う!」(現代メディア・フォーラム/日大藝術学部放送学科 2007年4月)
報道記者研修会パネルディスカッション(民放連 2006年11月)
パネルディスカッション「テレビを変えなくちゃ!」(放送作家協会 2004年7月)
フォーラム〜NHKの今後を考える(日放労 2004年12月)
放送のあり方を考える集会/放送の未来を考えよう(民放労連・青年協セミナー 2004年5月)
デジタル社会と市民運動(ガウスネット=電磁波問題に取り組む市民団体 2003年12月)
日韓緊急言論シンポ
  〜朝鮮半島を第二のイラクにしないために
(日本マスコミ文化情報労組会議/韓国言論労働組合 2003年5月)
地上波テレビのデジタル化を考える(民放労連/メディア総研 2003年3月)
始動!デジタル時代(放懇/著作権バトルトーク司会 2003年3月)
このままでは地上波デジタル化は失敗する(民放労連東海地連 2003年2月)
視聴者不在の地上波デジタル化(民放労連九州地連 2003年1月)
広報マンの心得〜テレビとの付き合い方〜(栃木県広報センター 2003年1月)
放送デジタル計画をめぐる諸問題
  〜デジタル放送の未来を問う〜
(民放労連学習会 2002年11月)
BS放送の現状と展望(あどりぶ会=広告主宣伝部課長さんの会 2002年10月)
テレビジャーナリズムのいま
  〜北朝鮮・アフガン・パレスチナの現場から〜
(アジアプレス 2002年7月)
市民とメディア全国交流集会 テレビが“ただの箱”になる?
  〜地上波放送デジタル化を考える〜
(メディア総研 2002年6月)
メディア規制3法案反対! TVキャスター共同記者会見(世話人/事務局 2002年4月)
“発想の素”テロップ大研究(NHK広報局 2002年1月)
2011年までの地上波テレビのイメージ(フォーラムD 2001年11月)
デジタル化で局に必要な“心構え”とはなにか?(JNNメディア戦略会議/報道情報分科会 2001年9月)
マルチメディア時代の放送ビジネス(電通エレクトロニック・ライブラリー事業局 1995年2月)