
マリア・ヴァルトルタの「イエズス」は偽りの幻灯である。
しかし、それはかなりの大作である。
その規模、総ページ数において。
そして、その巧妙さにおいて。
私も、なかなか尻尾を掴むことができなかった。
巧妙ではない、すぐにバレる幻灯もあった。
例えば「すべての民の御母」である。
それは「他宗派を含めた大きな共同体を作れ」的なことを言うのだから(参照)、即刻バレるのである。
また例えば「マリア・ディバイン・マーシー(MDM)」である。
それは、カトリック教会の外に、カトリック信者ではない人たちのために「十字軍の祈り24番」という名の「全免償を与える秘跡」を設けた、と主張するのだから(参照)、即刻バレるのである。
しかし、ヴァルトルタの作品は、そうではなかった。
まあ、「よくできている」と言ってあげようか。
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しかし、それにしても、悪魔はどうしてこれほど手の込んだものを作ったのだろうか。
と云うのは、私には、もし人がヴァルトルタの『神人の詩(私に啓示された福音)』を信じ愛したとしても、それによって取り返しのつかない「大ケガ」を負うとは、ちょっと思えないからである。
悪魔自身、これによって人間を自分たちの領域(地獄)に引き入れることができるとは、おそらく、考えていないのではないか。
では、何のためなのか。
私は、やはりこれが彼らの最大の動機だったような気がする。
ほとんどこれだけのために、彼らはやったのだ、という気がする。
エクソシズムの記録に見る、「エンメリックの本」に対する彼らののあれほどの敵意と怖れを見る時(参照)、そうとしか思えない。
これはもちろんのことだろう。しかしこれは、上の「エンメリックの本を抑圧するため」というのと実質的に同じだ。エンメリックの本を抑圧すれば、人間の聖化・成聖のための大きなチャンスなりヒントなりを、その一つを、人間から奪うことがきる。イエズス、マリアのイメージを世俗化すれば、これまた、人間の聖化・成聖への進歩を邪魔することができる。
*
ヴァルトルタの「イエズス」は、イエズス、マリアの御姿を従前どおりに描くと、気に喰わない。それで、「これは、熱心さからだとしても、真実を歪めている。理想化している。私も、私の母も、本当はもっと人間的なものだったのだ。血の通った、温かい人間だったのだ」というふうに人々に説くだろう。そして、従前の描かれ方の「神」と「人間」の間に距離を感じている信者は、これについ頷いてしまうというわけである。「人間味のあるイエズス、マリア」を見せられると、嬉しくなるのである。「イエズス様、マリア様のことが、より身近に感じられるようになった」と。

蛇足だけれども、私は昔(確か、今から約20年前)、つい、右のような像を買ったのである。その頃、かなり出回っていたようだから、あなたもどこかで見かけたことがあるかも知れない。
見た瞬間から、違和感を感じた。それでも、買ったのである。なぜか。この母子像に「ほほ笑ましさ」を感じたから。
確か、光明社の売店あたりで買ったのであるから、これは「幼子イエズスと聖母マリア」に違いない。実際、そう思って買ったのである。しかし、それにしては、この像の「見かけ」そのものからは「幼子イエズスと聖母マリア」を表わすハッキリとした特徴は感じられず、これが一般的な「母子の姿」であったとしても何ら不思議ではない。そう思いつつ、やや首をかしげながら買ったのである。
マリアン・ホーヴァット博士は「ヴァルトルタの作品はキリストを人間化(humanize)して描いている」と指摘した(参照)。正しい。しかし、「人間化する」ということは「人間味を与える」ということでもあり、そして私たちは逃れようもなく「人間」なので、「人間味」を持ったものは嬉しいのである、基本的に。
(私だって、寅さんは嫌いではないw)
しかし、他の世界はともかく、こと「信仰」の世界に於いては、そういうのは警戒されねばならない。「人間味」のあるものを見て「嬉しがる」のが私たちであること、これを警戒しなければならない。何故なら、ここに、「人間味」のあるものを「見せて」「嬉しがらせ」、人間を自分たちの世界に引き込みたい者があるからである。言わずと知れた、「悪魔」である。
ヴァルトルタの作品を読んで「嬉しがり」、そのまま延々と読み続けても、それによって「霊的な大ケガ」を負うとは限らないのではないか、と私は思う。むしろ、ヴァルトルタの作品に惹きつけられているような人は、標準的な(何が「標準的」か分からないが)信者よりも、信仰に熱心なのではないか。主日の義務も守り、日々祈っているのではないか、と。
しかしですね・・・不愉快じゃありませんかw
私は、昔は確信を持てていなかったが、今は掛け値のない「確信」を得たから言うが、ヴァルトルタの作品は「悪魔の作」ですよ、間違いなく。真実を「歪めて」いるのは「エンメリックの本」ではなく、「ヴァルトルタの本」こそでしょう。
まったくもって、人を馬鹿にした話。
悪魔は人間を憎悪している。「俺たちも人間どもも同じく神の被造物なのに、俺たちは神に追放され、人間どもは神に優遇されている。これは不当である。」
悪魔は人間を馬鹿にしている。「もともとは天使であった俺たちと比べれば、人間は何でもない。彼らは馬鹿だ、馬鹿そのものだ。彼らは何も分かっていない。爪先に至るまで馬鹿だ」。そしてこう続けるだろう。「お前たちの学者や、いわゆる "専門家" というのも例外ではない。彼らは大して役にも立たないことに没頭したり、擁護すべきでないものを擁護するために血道をあげていたりする。まったく大したお利口さんたちだ」。(今のは私が想像で言ったことだが、間違っていない。悪魔は必ずそうである。)
それで、人間をかつぎ、主イエズスに関する偽の長大な物語を読ませ信じさせることは、それ自体、彼にとっては快感なことに違いない。人間を馬鹿にできる機会はすべて、彼にとっては快感である。人間をして、自分の作った偽の物語にかかずらわせる。多大の時間とエネルギーを費やさせる。これはこれだけで大なる快感である。
ついでに書くと(前にも書いたような気がするが)、ヴァルトルタの例の「手記」の中にこういう箇所があった。
私はその笑顔に驚いた。いつもとは違うイエズスの微笑みに驚いた。まるで私を優しくからかっているようだ。
ヴァルトルタがシスター・ホセファ(メネンデス)の本を選び、エンメリックの本を捨てる、その手前での「イエズス」の表情である。私はこれを読んだ時、これは「からかっているよう」ではなく、「まともに、からかっている、馬鹿にしている」のだと思った。「この女はもうスッカリ俺たちのものだ。この女は俺たちの期待通り、ホセファを選び、エンメリックを捨てるだろう。どうだ、それ以外の反応の仕方がお前にできるか? できるというならやってみろw」。「優しくからかっているよう」な表面の裏に、彼はそのような嘲笑を隠していたことだろう。
しかし、その種の悪の心、意地の悪い悪趣味な心に親しんでおらず(私はどういうわけか親しんでいる、知っている)、想像力というものが少しも働かない真面目で善良なカトリック信者は、「優しくからかっている」というヴァルトルタの受け取りをそのまま自分のものとし、疑うことがないのだろう。
今回の記事の本編はこれにて終わり。
ちなみに、この顔。

ヴァルトルタの「イエズス」の顔である。ヴァルトルタの証言をもとにイタリアの画家が描いたのだそうだ。
マリアン・ホーヴァット博士はこれに「ヴァルトルタのイエズスのイラスト。磁力を持った眼差しの、どこか occult な人物像」とキャプションを付けている。参照
が、私の目から見れば、これは「山賊の親分」の顔であり得る。
天使館によれば、ヴァルトルタは1947年、ある人に「(私は)自分の知性さえも神に捧げた」と打ち明けたという。カトリック信者は「そこまで自分を捧げるとは、立派だ」と思うのだろうか。私には意味が分からない。歴代の聖人たちの中に、そんなことをした人はいただろうか。自分の知性をさえ神に捧げること、これが何か「英雄的」なことででもあるのだろうか。
私なら、「私の知性は私のものだ」と主張する。大した知性でなくても。
自分の知性は自分で守る。あるいは、自分の知性を守ってくれるよう、神に祈る。
私は、それを手放さない。大したものではなくても。
否、私にとって「知性」とは、大したものかそうでないかの前に、何というか、「私が私であること」とほとんど同義だ。私が世間を渡ろうとする時、人生を生きて行こうとする時、やっぱり、それ(知性)を先頭にして、一番の頼りにして進むのだ。だから、それを誰かに「捧げる」など、私にとっては「自己を失う」ことと同義で、何のことやら分からない。
それとも、ヴァルトルタの場合、「私たちが与り知らぬ、深い、神秘な意味がある」とでもいうのか。しかし、それはつまり、あなたにもそれがどんな意味かよく分からない、ということだ。私が言いたいのは、だたこうである。自分でもよく分からないことを大したものであるかのように思うのはやめろ。
ヴァルトルタはそのせいか、死までの数年間、ボ~~ッとしていたようである。擁護者たちはそれを「観想状態」と呼んでくれる。彼女の「イエズス」が「あなたは今後、この世のことは忘れ、観想生活に入るだろう」とか言ったというので。
しかし、私はといえば、既に書いたように(参照)、ヴァルトルタに関して「憑霊のようなもの」さえ疑うのである。それはあくまで「のようなもの」であるが。
そのようになったヴァルトルタは、自分のベッドの頭の上に、その「山賊の親分」の顔を飾っていた。写真
気の毒な女性!
でも、ひょっとして、自業自得なところもあった?
あなたの近くにいた人は、あなたの「謙遜」を証言する。
でも、本当に、「隠れた虚栄心」はなかったのか?
「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌