2012.10.16

マリア・ディバイン・マーシーの預言は偽預言である 7

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要するに、Maria Divine Mercy の「イエズス」が狙っているのは
「秩序破壊」であります。
別言すれば、「信仰・信頼の破壊」であります。
彼は従来の信仰世界において信頼されて来たものを破壊します。
その典型的なものをもう一つご紹介します。
The Warning Second Coming のトップページを見る時、次のようなものが目に入ります。
全免償(Plenary Indulgence)
全赦免を求める祈り-すべての宗教(all religions)。告解の代わりを意味せず
「イエズス、全免償を発表し給う」のリンク先は、2012年1月31日の「イエズス」のメッセージです。
そこで彼は再び妙な言葉遣いをしています。
「わが最愛の娘よ、わが聖心と極めて緊密に結ばれたわが貴重なる支持者達(followers)が私に示してくれている愛を、私はどんなに喜んでいることだろう。私は苦しみの只中にありながらも、その愛によって私をこのように喜ばせてくれるわが忠実なる子供達のことを大いに嬉しく思っている。彼らは、私の軍隊を導くに必要な力を私に与えてくれる光である(They are the light that bring Me the strength needed to lead My army)」
イエズス様は「あなたたちは世の光である」(マタイ 5:14)とおっしゃいましたが、この「イエズス」はそれに追加して(?)「あなたたちは私にとっても光である」と言うのです。呆れます。
さて、しかし、メインテーマは「全免償」です。
この「イエズス」は、その同じ日のメッセージで、地上の教会の秩序をまったく通らずに「全免償のための祈り」を公布しています。
しかも、上で赤の下線で示したように、その「全免償」は「全宗教」に適用されるのです。彼は、「メッセージ」の「支持者(follower)」であれば誰にでも、宗教を問わず誰にでも、その「全免償」を適用します。
しかも、それでいて、上で青の下線で示したように、その「全免償(のための祈り)」は「告解の代わりを意味せず」なのです。
どういうことか分かりますか?
こんがらがるようですが。
解答にならぬ解答ですが、彼は、その「全免償」を与えるにおいて、「カトリック信者の場合」と「非カトリック信者の場合」とを分けているのです。
2012年5月24日のメッセージから
まるでそれが明日来るかのように、その日のために常に準備しておきなさい。今、贖いを求め、私にあなたの罪を告白しなさい。
カトリック信者は告解に行かなければならない。
カトリック信者でない人達は私が全免償のために世界のカトリック信者ではない人々に与えた「十字軍の祈り24番」を暗記し、唱えなければならない。
全免償のこの贈り物は、あらゆる宗教信条の(of every creed)、神の全ての子供達のためのものであり、偉大な浄化を提供するものである。この贈り物を拒絶しないように。受け入れなさい。
「彼がやっているのは秩序破壊だ」と言うのはこのためです。
「免償」は教会の秩序内にあるものです。
(続き)
私の贈り物を疑問視するカトリック信者、猜疑心で私の贈り物を批判するカトリック信者に対しては、こう言おう。
あなた方は、私がこの秘跡(Sacrament)を神の全ての子供達に与えないとでも思っているのか?
私がそうすることを、あなた方は寛い心で受け止め、嬉しく思わなければならない。あなた方は、彼らはそのような贈り物を与えられるべきではないと思うのか? もしそうなら、あなた方は私を真に愛する者ではない。
頭を垂れよ、そして彼らの霊魂を救おうとして人類にこのような素晴らしい贈り物をする神を讃美せよ。
しかし「免償」は、「全免償」であれ「部分免償」であれ、「秘跡」ではありません。どうも、この「イエズス」の言葉遣いは、しばしば変です。
しかし、確かにその「イエズス」には、それらの「全免償」を「秘跡」として打ち出しているフシがあるのです。
教会はやがて悲惨な状態になるだろう、と言った後に、彼はこう続けます。
2012年7月20日のメッセージから
そういうわけで、私は今、あなた方に、全免償のようなあなた方の罪の赦しのための贈り物をするのである。それは、カトリック信者にとっては、告解の代わりとなるということを意味しないが。
This is why I give you Gifts now, such as the Plenary Indulgence, for the absolution of your sins. It is not meant to replace the Act of Confession for Catholics.
「贈り物, 全免償のような, あなた方の罪の赦しのための」という語句の並びが、間にカンマが入っているとは云え、おかしいです。この「イエズス」は「この全免償のための祈りは告解の代わりとはならない」と言いながら、実のところ、赦された罪に伴う有限の罰を軽減したり全免除したりする「免償」と、罪を赦す「告解の秘跡」とを、殆ど同じものにしたいようです免償とは。というか、彼にとってはそんな “細かい事” は初めから「どうでもいい」のでしょう。
彼は、「カトリック信者は告解しなければならない」と言うぐらいだから、「カトリックでない者にも聖体を与えて良い」とは言わないでしょう。しかし、私の見るところ、彼には「表」と「裏」があります。彼は「本心」では、次のような話に「欣喜雀躍」「大喜び」することでしょう。
2002年9月の或る人の文章
宗教が人間の解放になるのではなく、人間の呪縛になったり、差別の拡大再生産を生み出すことがあることを、本田神父はリアルに見てとっているのです。本田神父の日曜日のミサは、朝九時から十時まで行われました。わたしは、一番前でそのミサに参列し、聖体拝領を受けました。本田神父は、信者にも未信者にもわけへだてなく聖体拝領を授けているのです。わたしはキリスト教信者ではありませんが、本田神父の姿勢やお考えに大変共感し、真っ先に聖体拝領を受けました。(…)信者であるか未信者であるかにかかわらず、神のはたらきの中にあるという信仰の大らかな寛容さの重要性を(…)学びました。いわゆる「正統派」の教会はそうした思想と実践に違和感を抱いたり、はっきりと反対の意志表示をしたりするでしょうが(…)
私はここに書かれていることが事実なのかどうかを確かめてはいないけれども、しかし、これを書いた鎌田東二という人は「教授」であり「文筆家」でもあるということなので、まんざら嘘ではないだろうと思います。
しかし、ここでは本田神父様のことを言いたいのではありません。
その「イエズス」は間違いなく上のような事を喜ぶでしょう。
終末」には全く関係なく
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