今回のシリーズ記事の2で、私は、自分は昔、あかし書房からの『聖母マリアの詩』を持っていたし、『イエズスの受難』あたりも持っていたかも知れない、と書いた。しかし実は、今回の調べをするにあたり、若干、他の本も買ったのである。で、その中の一つが、次に紹介するものである。あまり見かけない本なので、資料保存の点からも買ったのである。しかし、この本が酷いのである。
まず、奥付と「あとがき」から引用する。
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あとがき
この文はイエス・キリストがマリア・ヴァルトルタ(1897年~1961年・イタリア人)に一九五六年七月一四日に述べられた言葉を、マリア・ヴァルトルタが日記の中に書き取ったものです。 訳 者 |
[管理人注1] これを読んで、私の体から空気が抜ける。こんなありきたりなこと、凡庸なことを、イエズス様が言うはずがない。
[管理人注2] 出た、ノートブック! ヴァルトルタの「手記」である。
さて、本文。
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Ⅰ 「父よ、できますことなら、私からこの杯を遠ざけてください」 この言葉は私が十字架の上で話した七つの言葉の一つではありません。苦しみがもうすでに始まっている言葉です。受難の第一場面の幕開けであり、終幕の幡祭に進行していく第一場なのです。生命の与え主に助けを求める祈りであり、甘受と謙遜をあらわしている祈りです。この祈りには、死の恐怖におののいている人の弱さと、人の心の奥からくる望みとが混じっています [管理人注1] 。この祈りにより肉の体は気高くなり、魂は完成されてゆくのです。[管理人注2]
「父よ······」 死が生活からかけ離れていて、はるかかなたの霧の奥に潜んでいたころ [管理人注4] 、夫や妻、子供、両親、友だちは宝物でした。今、死がベールから顔をのぞかせ、人にしのび寄ってくるとき、状況が一変するのです。両親、子供、友だち、兄弟、夫、妻のはっきりした輪郭は消えてゆき、持っている愛情の重要性も薄くなり、やがて、足音高くやってくる死を目前にしてぼやけていってしまうのです。遠くの声が小さく聞こえるように、地上にあるものすべてが力をなくし、きのうまであんなに遠くにあった来世が力を増してきます······人間をたたきのめす恐怖の衝撃がやってくるのです。[管理人注5] |
[管理人注1] これだけで、あなたはもう分かっただろう。あなたが信者として普通の目さえ持っていれば。
[管理人注2] 明らかに「言い過ぎ」である。死に面した信者がこの祈りを唱えれば、あるいは「聖時間」の中でこの祈りを唱えれば、「肉の体は気高くなり、魂は完成されてゆく」のか? 否、それはもっとずっと難しいことのはずだ。あなたはこの「イエズス」の言葉を擁護できるか? できると言うなら、やってみて欲しい。彼に代わって追加的に説明してみて欲しい。しかしその時、この「イエズス」は少なくとも「舌足らず」だったことになる。大事な主題について「舌足らず」なイエズスなんているのか。
[管理人注3] 「流星のように」だとw なかなか詩的、文学的じゃないか。ヴァルトルタの『神人の詩』を読んだかなりの人が、その文章の「美しさ」を讃えている(天使館「著作をめぐる証言」を参照のこと)。しかし、第一に、「美」は必ずしも「神」の仕事とは限らない。悪魔だってやるのである。人間の目を騙す程度のものは作る。第二に、これは私の感覚だが、この種の「詩的表現」が幾ら重なろうと、駄目である、感心しない。この程度の文章は三文文士でも書けると思う。
[管理人注4] 「はるかかなたの霧の奥に潜んでいたころ」。またまた「詩的」であるw しかし、本当のイエズス様はこんな言い方はなさらない。確かに、福音書の中のイエズス様の言葉も「詩的」と評されることがある。代表的なのは「空の鳥を見よ」(マタイ 6:26)の御言葉である。これは信仰のない人からも「ちょっと詩的」と評されることがある。しかし、それは単に「詩的」なのではない。それは「神の視点」を感じさせる、実質、「教え」である。霊的インスピレーションに溢れた教え。しかし、ヴァルトルタの「イエズス」の言葉は「単に詩的」なのだ。表面的に「文学的にちょっと恰好のいい」フレーズをペタッと貼るだけなのだ。人は、そんなものの連続をいくら見せられても、感心してはならない。
この「イエズス」は、「神に関して書かれた書物には "人間的な埃" は入ってはならない」ように言いながら、自分の口から出る言葉は思いっきり「地上的」「人間的」「陳腐」なのである。
[管理人注5] この程度の解説は要らないってば。ああ、いつまで続くんだろう、この種の陳腐な、解説に次ぐ解説、描写に次ぐ描写は。こんなものに感心する人はいるのか。
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昔、林家三平という落語家がいて、自分の落語を進めながら客の反応が鈍いと見るやハタと話すのをやめ、「これがどうして可笑しいのかというと...」と半笑いで頭をかきながら説明を始め、それでかえって笑いを取る、ということがあった(歳がばれる)。私も、上の「イエズス」の話しがどれだけ変で酷いものであるか、更に「説明」しなければならないだろうか?
この本は、幅13cm、高さ15cm、総ページ数41という小さく短い本だが、それでも、最初から最後まで上のような調子でやるのだから、ある意味、十分に長い。本文は30ページくらいか。でも、もし読めば、あなたの頭脳に「もやもや病」が忍び寄るだろう。
彼、ヴァルトルタの「イエズス」は、主の御受難における主の御言葉を引きながら、救い主の御受難について説明するのでなく「人間」について説明するのである。多少、主の御事と結び付けながら。
私の説明は、ほとんどこれで終わりである。
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あなたはこう思うかも知れない。
確かに、主のお言葉として、これは「通常ではない」かも知れない。しかし私は、ある目的のためには、こういう説き方も「可」ではないかと思う。ここに、死を怖れ、死に怯え、死に面して魂の平安を得ていない人間がいるとする。彼は死に対し、よく準備できていない。神はそれをご覧になる。神は愛であるから、何とかしてその者によい準備をさせたいとお思いになる。死を怖れなくてもいいんだよ、と教えたいと思召す。そこで、いろいろと理(ことわり)を説くと共に、御自身が御父に祈ったのと同じ言葉をもって祈ることを教える。これのどこが「おかしい」というのだろう?
そのように考える人も、意外と多いのかも知れない。
しかし、否である。「おかしい」のである。
が、説明は意外と難しい。うまく言える気がしない。
主の御受難は、主の御受難である。私たちは、もちろん、想像力を働かせて、主の御受難に同情申し上げなければならない。主は神であり、しかし同時に人間でもあられたから、確かに私たちは主の御苦しみの幾分かは想像できるのである。それで、自分の苦しみを主の御苦しみと重ねて、自分の心を慰めることもできる。そして、それは必ずしも悪いことではない。
しかしそれでも、主の御受難は、主の御受難である。それは「神」の御事である。「人間」の事ではない。やはり、私たちの苦しみとは、どこか決定的に違っている。主は御自分としては何の罪もなかったのに、ただ人類の贖罪のために御苦しみを引き受けられた。これが彼の御受難の意味である、御苦しみの意味である。中心的な意味である。
ところが、上の「イエズス」の言い方は、その中心的な意味を度外視して、主の「父よ、できますことなら、私からこの杯を」という祈りを、「死の恐怖におののいている人の弱さと、人の心の奥からくる望みとが混じって」いるものだ、などと解説し、それで終っている。
それに続く箇所も、ほとんど「死に面した時の人間の心の状態」の解説と描写である。もちろん、主がゲッセマネの園でその祈りを発せられた時、彼の人間としての部分がそのような状態だったことは確かかも知れない。だから、その解説それ自体を見れば、悪くないかも知れない。しかし、問題は「それ自体」ではない。「それ自体」は悪くないとしても、他に、それと合わせてなければならないものがないとしたら、「全体」は悪い。
言葉の質から見ても、内容を見ても、これは本当のイエズス様の御言葉ではあり得ない。こんなものが「主の声」である筈がない。
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福音書の中の主の語り口を思い出せ。主は、庶民にも分かるようにと「たとえ話」などもされたが、しかし本質的に、インスピレーションを喚起するような「霊的」な語り方をなさった(「たとえ話」でさえ、ある種「霊的」な語り方と言える)。彼は、説明困難なものを無理に説明しようとはなさらず、時に「聞く耳のある者は聞け」と割り切られた。
そこへ行くとヴァルトルタの「イエズス」の語り口は、くだくだしく説明的であり、いかに一見美しく修飾されていようと、本質的には凡愚なものである。三文文士のやることである。
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なんか、取っ散らかった文章になったが、これで何かが伝われば幸い。
「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標
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