2026.06.10

マリア・ヴァルトルタの啓示は悪魔由来のものである 10

注)引用文中の〔  〕や強調は私による付加です。
注)私自身の文章の中で時々「あなた」と呼びかけ調で書くことがありますが、これはただ想定上の読者のことです (^^;

目 次

他の人々

天使館の「著作をめぐる証言」には、他の有力者(?)たちの証言も並んでいる。その中から、いくつか取り上げさせてもらう。

私は、彼らには一つの共通点がある、と思う。すなわち──
この人たちは、皆等しく、ヴァルトルタの著作に驚いている。驚嘆している。「不可思議」だの「超自然的」だの言っている。そこまではいい。しかし彼らは、おそらく、超自然の源泉は一つしかないように考えている。「超自然の源泉は二つある。神と悪魔である」とは、たぶん、露ほども考えていない。

彼らは、いずれも有能者である。片や私は、道端に落ちているゴミである。しかし、そのゴミが、生意気にも、彼らに向かって言うのである。「無知ですか。」

アウグスティノ・ベア枢機卿
(1881-1968)

イエズス会士。教皇庁立聖書研究所長。ピウス十二世教皇の聴罪司祭、のちに枢機卿となる。「何年か前に、マリア・ヴァルトルタの作品をタイプ原稿で読んだ。特に、聖書解釈、歴史、考古学、地形学の分野に注意を払って読んだ。聖書解釈に関しては、検討した限り、特に際立つ間違いは見つけられなかった。間違いは見つけられなかったどころか、考古学上の、また地形学上の記述の著しい的確さには舌を巻いた。」(1952年1月23日、ローマ)

舌を巻いちゃうんですか。まあ、いいでしょう。でも、そのあとは? 「これは確かに、神によるものかも知れない。その可能性がある」ぐらいのことは考えますか?

ウーゴ・ラッタンツィ
(1899-1969)

ラテラネンセ大学神学部教授。教皇庁諮問委員
「数年前、わたしはヴァルトルタの作品全部を読んだ。中等以下の教育を受けた女性である著者が、不可思議な力の影響をこうむらずに、これほどとてつもない課題と内容をもつ書物を書くことなど絶対に不可能だと、わたしは考える。……この全集には、思索にしても、文体にしても、光彩を放つ見事な頁が散在している。その心理的状況の描写は、シェークスピアにも比肩し、ソクラテス流の会話の運びは、プラトンのそれをも彷彿とさせる。」(1952年1月21日、ローマ)

立派です。でも、その「不可思議な力」というのが「神」からしか来ないと考えているなら、立派じゃないです。
そして、ヴァルトルタの作品の文章のことですが、もしそれがあなたに「シェークスピア」「ソクラテス」「プラトン」などを連想させるなら、むしろ悪い徴候です。二つの意味で悪い徴候、否、徴候というより証拠です。第一には、ヴァルトルタの作品の文章が「人間寄り」のものであることの証拠です。そして第二には、「神学者」であるあなたが、もっぱら「神」に目を挙げている人というよりは、地上の、人間文化のあれこれに目を注いでいる「学者」さんであることの証拠です。「シェークスピア」「ソクラテス」「プラトン」……私は本当に笑ってしまいます。神はそのレベルのものですか。神は「文学」や「思索」を弄しますか。私は信じます、神の視点から見れば、そんなものは大して意味のないものであると。

ニコラ・ペンデ
(1880-1970)

ローマ大学医学部教授。臨床医、また依頼されて詳細にわたって診察もする
「この作品は、文体といい、言葉と表現形式の美しさといい、そこそこの文学的教養をそなえた女性からとはとても期待できない、正真正銘の名作だと私は思う。その本質的な特徴において四福音史家のそれに合致し、符号しているのみならず、より細部にわたって彫り刻まれ、四福音史家が書いていない、贖い主の人としての生涯の空白へ脱落部分を埋めている、と断定せざるを得ない。しかし、医者であるわたしが驚きと賛嘆を禁じ得ないのは、十字架上の臨終者キリストの場面の叙述である。それは、経験豊かな、ほんの一握りの老巧な医者のみが語ることができる現象学である……」(1952年1月23日、ローマ)

また出た、文化人! 学者!
彼の最初の文は二つのことを含む。一つは、ヴァルトルタの作品が「名作」だということ。もう一つは、ヴァルトルタが自分の力だけで書いたものとは思われない、ということ。前者については既に言った。神は「文学」を弄さない。後者については、その通りである。ヴァルトルタの作品は「神か悪魔の介入」がなければ書ける種類のものではないだろう。

> 脱落部分を埋めている、と断定せざるを得ない。

断定? そりゃ、ヴァルトルタの文章は「細部」まで "書いている" だろうし、「四福音史家が書いていない」ことを "書いている" のは確かでしょう(真偽は別にして)。しかし、彼女の文章が福音書における主の生涯の「脱落部分」を埋めていると、どうしてあなたが「断定」できるんですか? そのように「断定」できるためには、あなた自身が、超自然的な能力か恵みかで、その「脱落部分」を直接見て来ることができなければならないでしょう。そうできない限り、ここは「私としては、信ぜざるを得ない」ぐらいに収めておくべきではないんですか?

> ほんの一握りの老巧な医者のみが語ることができる

なるほど、あなた方の「医学」の世界で、その「ほんの一握りの医者」は高い所に置かれるのでしょう。尊敬されるのでしょう。でもです、私の考えでは、悪魔が笑っています。「なに? 人間がどうしたって? ほんの一握りの医者がどうしたって?」と。
人間社会での「有能」は霊界から見ればほとんど「無能」に等しいかも知れないと、考えたことはないんですか? やっぱり、その世界、「専門」の世界に入っちゃうと、そういう物の見方はでき難いのかなぁ。

ガブリエレ・マリア・ロスキーニ神父
(1900-1977)

修道司祭。マリアに関する神学、マリア論の権威。
ラテラネンセ大学神学部教授
(主著 「聖母マリア マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯」上下巻)

「マリア・ヴァルトルタの未発表、あるいは発表された書物から明らかになった彼女のマリア論は、わたしにとってまことに一つの啓示であった、と率直に告白しなければならないと感じている。マリアに関係する書物全体をもってさえも、『神の傑作』(マリア)についてのかくも明快な、かくも強烈な、かくも完成された、かくも生き生きと輝きを放つ、かくも心を魅了する、単純素朴だが同時に崇高な一つの思想を、わたしに与えることはできなかった。」(1973年 ローマ)

アルフォンソ・カリンチ大司教

典礼聖省秘書官
「福音書に反することはここには何もない。むしろ、この作品は、福音書を良く補間しており、その意味をさらに良く理解するために貢献するものだ。」(1946年)

フランソワ・ポール・ドレフュス神父

在エルサレムのフランスの聖書学/考古学研究所の研究者
「私はマリア・ヴァルトルタの作品中に、少なくとも六つか七つの新旧約聖書には出てこない都市の名前があることに気づき、大いに感動した。これらの名前は、聖書以外の史料によってごく少数の専門家に知られているだけである……著者が主張しているように、啓示を通して示されるのでなければ、どのようにして著者はこれらの名前を知り得たのか?」(1986年、エルサレム)

私は、この神父様に対しても、先ほどのニコラ・ペンデ医師に感じたのとまったく同じように感じる。医者は「ほんの一握りの医者」と言い、司祭は「ごく少数の専門家」と言う。それが何か大したことでもあるかのように。否、無論、人間の世界では大したことです。でも、「霊」の世界では? 「新旧約聖書には出てこない都市の名前」を、神はご存知ですか? ん?「もちろんご存知です」って? では、次、悪魔は? 悪魔は知ってますか?(世の勝れた「専門家」たち、この質問には沈黙。この質問について、彼らは考えたことがない。)

メジュゴリエの幻視者たち

ラッツィンガー枢機卿(教皇ベネディクト十六世)は、メジュゴリエに介入し、巡礼者が御出現の地として訪れることを阻もうとした地元司教を制止したことが知られている。幻視者の一人ヴィッカは、聖母マリアは「もしイエズスを知りたいならば、ヴァルトルタのこの作品を読みなさい」と薦められたと言う。また別の一人マリア・パヴロヴィックは、聖母マリアが「これを読むことはかまいません」と言ったことを報告した。イタリアから大勢の人々がメジュゴリエを訪れるので、イタリアの司教会議は1990年代前半、その審議の中でマリア・ヴァルトルタの作品について討議した。

一言だけ言うと──私は以前、どこかで(本ではなくネットだと思うが)、メジュゴリエの「聖母」のおそらくは最初期の出現の時、「聖母」は「下から」出てきた、と読んだことがある。地面の下から、である。それを見た人々は怖れたと。
どこで読んだかは思い出せないが、そのように読んだことは確かである。強く印象に残ったから。
私は、このことだけでもメジュゴリエは避けるべきと思うのである。なぜって、どうして聖母が「下から」出て来るんだ?

見つけた。それは閉鎖された SSPX JAPAN の記事にあったのだ。

1981年8月2日には、150人が新しい太陽のダンスを見ました。ある晩には、「地が裂けるかのような」ものすごい轟音が聞こえました。また別の機会には、地の下からゴスパが出て来るようなシルエットを人々は見ています。キャッシュ

ジーン・オラグニール

古代暦の専門家、ヴァルトルタの作品に関する本の著者
「マリア・ヴァルトルタの作品中で起きる出来事とその発生について、系統立てた年代記を作ったが、神が介入したとしなければ、説明がつかないものだった。」(1995)

違う。「神か悪魔が介入したとしなければ、説明がつかないものだった」と言うべきである。

結 論

一番最後に書いたように、彼らは「神か悪魔が介入したとしなければ、説明がつかない」と、まず決して思うことがないのである。

そのような人たちの言葉を幾ら並べても、ほとんど無益である。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

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