初め、この記事の表題を「真の識者の見方」としていた。しかし「識者」と言えば、どうしても「知識」とか「学識」とかいったイメージが伴う。しかし、こういう問題、霊的な問題は、「知識」では、「知識」だけでは、まず全く対抗できない。「感覚」が必要である。「学識」が深くても、「感覚」が鈍い人が居る。居るどころではない。それで、表題を「敏感な人たちの見方」と改めた。
今シリーズの最初の方、3で、私はこう書いた。
ある記事は次のようなことを書いていた。「ある頃から、カトリック書店からエンメリックの本が消え、ヴァルトルタの本が置かれ始めた。そのような "置き換え" のようなことが起こった」と。これは私の脳裡にずっと残った。
自分がそれをどこで読んだのか、今回、なかなか思い出せなかった。しかし、いろいろ検索した末、発見した。それは成相神父様のサイトにあったのだ。アメリカのリック・サルバト氏(2016年2月24日に帰天)がメジュゴリエについて書いた文章である。ここに貼っておく。
メジュゴリエの出現
その霊を試す
リック・サルバト著
『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人 訳
〔…〕
キリストの人間性を十字架上で死なれた全知の神でなく、単に人間的なものにしてしまうニュー・エイジの、アリアン・ネストリウス的異端になるであろうと思われる人たちが支持するのは、もちろん、ウェルナーだけではありません。ヴァティカンが断罪したマリア・ワルトルタの "The Poem of Man-God"(人・神の詩)がその一例です。これについてもわたしたちは完全な報告を受けていますが、この本のタイトルさえもが異端的であると言うだけでも十分でしょう。キリストは神になった人ではなく、人になった神ではありませんか? 本の内容もタイトルと同様、キリストが神であれば当然知っていそうなこと(ヨハネ二・二十五)を知らない無知な人間として描写しています。また、罪を容認した人としても描かれていますが、キリストは片時と言えどもそういうことをなさらなかったはずです。しかし、一言で言えば「人・神の詩」は尊者アンナ・カタリナ・エンメリック著「イエス・キリストの生涯」の猿真似です。ただ内容はすべてが反対になっています。両者は相容れません。その結果は、尊者アンナ・カタリナ・エンメリック著の本が聖パウロ女子修道女会経営の書店の棚から消えて、その代わりに「人・神の詩」が売られることになりました。
原文はここにある。Unity Publishing
つまり、「ヴァルトルタの本は公会議前の教会から非難されたが、公会議派の者たちからは好かれた」と言っている海外記事があるけれども、あったのは別に「論争」ばかりでなく、実際問題としても、公会議派の人たちが出版社や書店に働きかけた、内から外から働きかけた、そういうこともあった、ということだろう。
サルバト氏は上とは別に『神人の詩』について書いている。
まったくだ。
が、それと同時に、こうも思う。ローマの「それは超自然的な起源を持つものではない」という言い方では、何度繰り返しても、彼らは納得しないだろう。「超自然的な介入がなければ、あの女性があのような内容を書けるはずがない」と彼らは考えており、それはその通りだろうからだ。「それは超自然的な起源を持つと考えられる。しかしこの場合、超自然的な起源といっても神ではなく悪魔と考えられる。その徴候がある。というのは…」云々と説かなければならない。だが、そのような説明は「教理省発表」の一枚のペーパーの中に書けるものではない。また、ヴァルトルタの文章を調べてそこまであぶり出す調査官を、バチカンは持っていないのかも知れない。あるいは、彼らにとってヴァルトルタの著作が私的啓示として真正でないことはあまりに明らかなので、そこまで労力をかける必要を認めないのかも知れない。しかし、いずれにせよ、このようなバチカンの態度にも不足がある、ということではないだろうか。
われらがマリアン・ホーヴァット博士の文章。
Tradition In Action
ヴァルトルタの『神人の詩』(マリアン・T・ホーヴァット博士)
英語原文 / 自動翻訳
〔…〕私の友人は続ける。「〔…〕その書名さえ、私のカトリック教徒としての感覚を動転させます。」 [管理人注1]
人間化されたキリスト
A humanized Christ
私は、彼女は自分の良識に従うべきだと思う。その書名『the Man-God』そのものが、作品の精神を表わしている。ヴァルトルタが描いているのは、人間としてのイエズスである。〔…〕
ヴァルトルタの自然なアプローチは、現代人をキリストの生涯に引き寄せるはずである。これは、超自然を否定し、聖母を純朴なユダヤ人女性として描き、主を「私たちと同じ」人間として描く進歩主義の教義と合致する。〔…〕
ヴァルトルタの Man-God の描写は、アンナ・カタリナ・エンメリックやアグレダのマリアが描いた God-Man とは正反対である。後者のキリストの生涯は、崇高な超自然的な観点から描かれている。
[管理人注1] ヴァルトルタの本の初期の題名『神人の詩 The Poem of the Man-God』は、このように、言葉に敏感な人たちから非難される。というのは、英語で「○-△」と書かれた場合、初めに置かれた「○」が主で、次に置かれた「△」が従であるらしいからである。つまり、「Man-God」と書かれた場合、「Man」の方が主であるから「神になった人」を意味する。「God-Man」と書かれた場合、「God」の方が主であるから「人になった神」を意味する。そういうことらしい。英語圏の全ての人がそう受け取るのかは知らないが、ほぼそういうことらしい。
日本語では、英語とは逆で、後に置かれたものが主となる。「神人」と言えば、「神になった人」を意味する。修行やら何やらして「神のようになった人」である。あくまで、その本質は「人」なのである。ちなみに、日本語でも、「人になった神」を意味する言葉がないではない。現人神w
『The Poem of the Man-God』は『神のようになった人の詩』なのである。少なくとも、英語圏の多くの人の目にそう映るらしいのである。それで、かどうか知らないが、その本は今や改名して『私に啓示された福音』として売られている。これだけでも人はこの本に「怪しさ」を感じなければならない。
私はヴァルトルタの本は少し読んだだけだが、しかしその短い読書によっても、ホーヴァット博士が言うように、「私たちと同じ人間として描いている」という感じを受けた。
原罪を負って生まれた幼子
ヴァルトルタは幼子キリストを感傷的な母親の貪欲な幼児として描いている。この想像上の、慎みのない授乳場面の描写の中に、私たちが主イエズス・キリストに捧げるべき敬意を見出すことは困難である。
イエズスは目を開け、母親を見て微笑み、その小さな手を彼女の胸に伸ばす。
[マリア] 「ええ、ママの愛しい子。ええ、あなたのミルクよ。いつもより早いわね。でも、あなたはいつでもママのおっぱいを吸う準備ができているわ、私の小さな聖なる子羊!」
イエズスは笑い、毛布から足を蹴り出し、腕を子供らしい可愛らしい仕草で楽しそうに動かして遊ぶ。足を母のお腹に押し付け、背中を反らせてその美しい頭を母の胸に押し付け、それから体を後ろに反らせて笑い、マリアのドレスを首に結んでいる紐を両手で掴んで開こうと努める。…
マリアはイエズスに乳を飲ませ、イエズスは母の良質な乳を熱心に吸う。右の乳房からは出が悪いと感じると、左の乳房を探し、笑いながら母を見上げる。そして、再び母の乳房の上で眠りに落ちる。バラ色の小さな頬を母の白くて丸い乳房に押し当てながら。
(第1巻、第35章、106ページ)
私は、正直、ヴァルトルタのこの描写が幼子の「原罪」を意味し得るのかどうか、定かでない。しかしそれでも、ホーヴァット博士の言うように、この "母マリア" に「感傷的な女性」を感じはするし、この "幼子イエズス" に「世俗性」を感じる。「どちらも俗っぽいなぁ」というところ。
そして確かに、幼子イエズスが母のドレスの紐を解き、その乳房を露出させる、なんていうのは、わざわざ描写する必要があるのか、と疑問である。というか、本当は「わざわざ」も何もありやしない、これはただ「真実ではない」というだけである。
と云うのは、私たちは今、ヴァルトルタの文章に当たりながらあれこれと「検討」しているわけだが、時々は立ち止まって思い出そう、ヴァルトルタの筆を導いたのは「悪魔」なのである。それは今シリーズ記事の4から6までの記事で「確定」である。
私は今の「確定」という文字の前に「少なくとも私にとっては」と入れなければならなかっただろうか? あなたにとってはまだ「確定」ではないのか?
ヴァルトルタの筆を導いた「悪魔」の文章を、私たちはどんな意味でも「信用」して差し上げる理由はないのである。
ホーヴァット博士が取り上げた上の箇所に関しては、悪魔は、「幼子イエズス」のイメージを、私たちが私たちの日常でよく知っている「幼児一般」に "寄せて" 描いたのである。
だから、それを読み、自分にとって「イエズス様」のイメージが "より親しみを持てる" ものになったと思い、喜ぶのは、大なる《不正解》である。
なお、悪魔は、上の箇所に一定の「性的なイメージ」をうっすらと(サブリミナル的に)刷り込んでいる。が、これはまた後で書く。
ウィリアムソン司教様のことは、上掲の記事でマリアン・ホーヴァット博士も嘆いていた。私は彼のことを嫌いではなかったが、言われてみればその通りである。ほかの事は知らないが、ヴァルトルタの件に関しては、彼の目は確かでなかった。
「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌