
私は、もうずいぶん昔、あかし書房からの『聖母マリアの詩』を持っていた。『イエズスの受難』あたりも持っていたかも知れない。しかし、ほとんど読まなかった。読めなかった。「この謂うところの "私的啓示" が本当に天国からのものであるのかそうでないのか、自分で確かめたい」と思い、何度か手に取ったが、どうにも読めない。読み進むことができない。
第一に気になったのは、その筆致である。
私は、自然、アンナ・カタリナ・エンメリックの本と比べていた。エンメリックの言い方は、「私は … 見た(I saw … )」という、目撃調、証言調のものだった(例、例)。彼女は、記憶が定かではない時には、「このように見たように思うが、今となっては確かではない」と、正直に言っていた。私はそこに「証言者」の存在を感じたし、彼女が「証言者としての責任」を自分に感じているらしいことも感じた。(否、「らしい」ではなく、彼女がその責任を感じていたのは当然なことだったろう。)
要するに、私にとってエンメリックの本は、「証言書」あるいは「目撃証言書」としての "リアルさ" を感じさせるものだった。
それに比してヴァルトルタの本は、まったく「物語調」だった。「物語」がだらだら続くばかりで、そこには書き手の存在も、書き手が自覚しているはずの「責任」も、感じられなかった(私は、ヴァルトルタはそのような責任を感じていなかった、とは言っていない。私が話しているのは、ヴァルトルタの書く文章のこと、その筆致のことである)。私がこの種のものを読む時、「イエズス様のことをもっと知りたい」という欲求は先立たず、先立つのは常に「真贋の見極め」だった。ところがヴァルトルタの本は、ただ「物語調」で続くばかりで、私は「はぁ、そうですか」と思うばかりだった。「小説」を読まされているようなもので、何をもってこの物語が「真実」であると判断すればいいか、分からなかった。いわゆる「掴みどころがない」という感じ。
内容は、特に悪いことが書かれているわけでもない。特に素晴らしいことが書かれているわけでもない。可もなく不可もなく、凡庸、という印象だった。
と、ここまで書いてきて、私は自分の書き方に問題があることに気づいた。光明社からの『キリストのご受難を幻に見て』や『聖家族を幻に見て』を見ると、「私は … 見た(I saw … )」という言い回しはさほど出てこない。私がそのような印象を持ったのは、あくまで、彼女の未来預言、彼女が「教会の未来」に関して幻視した(させられた)ものをネットの英文記事で幾らか読んだからなのだった。(再び挙げると、例、例。)
しかし、書き方に問題はあったが、私の脳内では上のようなことになっているのは確かなので、お許し頂きたい。
*
ヴァルトルタの "啓示" の「真偽性」をめぐって、私はいつの時点でか、否定的な記事を幾つか読んだ。まず、その頃の私にとっては謂わば「信心辞典」のようなものになっていた「信心の園」さんの記事を読んだ。それから、Google の検索窓に「Maria Valtorta false」という文字列を放り込んで、海外記事も幾らか読んだ。
ある記事は次のようなことを書いていた。「ある頃から、カトリック書店からエンメリックの本が消え、ヴァルトルタの本が置かれ始めた。そのような "置き換え" のようなことが起こった」。これは私の脳裡にずっと残った。
私はそれらの記事を読んで、「もしその通りなら、ヴァルトルタの本はまずまず退けられるべきものなのだろう」と思った。自分で、そんなには詳しく調べなかった。しかしそれでも、ヴァルトルタに対する否定的な立場が、一応、私のものになった。
そうこうするうち、聖ピオ十世会から除名された故リチャード・ウィリアムソン司教様がヴァルトルタの本を好きであるらしいことを知った。それは、彼のブログ(Eleison Comments)の文章を日本語に翻訳して紹介してくれていたブログがあって、そこで知ったのだった。そこにはウィリアムソン司教様の「私はマリア・ヴァルトルタの本を愛している」といった感じの率直な言明があった。(私は今、その記事を掘り起こした。これである。原文はここで読める。)
私は意外に思った。意外に思うと同時に、「ウィリアムソン司教様が好きというのだから、あれで、(ヴァルトルタの本にも)どこか良いところもあるのかなぁ」ぐらいには思った。
しかし、総じて私はヴァルトルタの本には無関心だった。その "啓示" の真偽を見極めようとして動き出す地点にさえ、私は至らなかった。本気、本腰、というところに至らなかった。
「自分はそれを未だ解析していない。それに対する自分の否定的な立場はただ "一応" のものであって、最終的・確定的なものには至っていない」という "もやもや" が、常に心の中にあった。しかしそれでも、やはり読む気がしなかった。
私はその地点に停まっていた。今までずっと。
ところが・・・(ページを改める。次へ)
「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌