ワイグル神父様の本の中に「ボナテ」という地名が1回出て来ました。
〔…〕聖母は、「明日、わたしはあなたに、人間がほとんど知らないわたしの汚れのない心を見せましょう」とおおせられました。ここで聖母は黙され、それからお続けになりました、「わたしはファティマで、わたしの汚れのない心への奉献を広めました」。そして、心にしみるみ言葉をもって、聖母はお続けになりました、「わたしは、ボナテでは、信者の家庭にこの信心業をもたらすように努めました」。(聖母が戦時中に出現されたボナテ町は、ベルガモ市の近くにあります。)
ここで聖母は、いくぶん長く沈黙され、それからお続けになりました、「ここ、モンティキアリでは、わたしは、“くすしきバラの聖母” への信心業を望みます。そして、それと共に、わたしの汚れのない心への尊敬が修道院や修道会において、強まることを望みます。そうすれば、これらの聖職者の魂は、わたしの母としての心から、多くの恵みを受けるでしょう」と。
これによって──ここは単純に進みます──「モンティキアーリとフォンタネッレ」を信じる私は「ボナテ」も信じます。
そして、私たちにとって馴染みのない「ボナテ」について、やはり少し知りたくなります。
注)「ボナテ」、しかしイタリア人の発音では「ボナーテ」となるようです。以下、「ボナーテ」と表記します。
しかし私は、「ボナーテ」そのものに行く前に、今少し「モンティキアーリ」にとどまって、或る事を確認しておきたいと思います。
それは、次の事です。
以下全て、私による試訳。
いずれの訳文においても〔 〕と強調は私による付加。
「モンティキアーリとフォンタネッレ」に関する例のチェコ語 PDF にも、やはり聖母のお言葉として、しかし一度ならず複数回、「ボナーテ」という言葉が出て来ます。
五回目の御出現 – 1947年11月16日 今回は聖母は、小教区教会であるモンティキアーリ大聖堂[管理人注1]の聖なる場所にお現われになった。 〔…〕 ピエリーナはこの時の素晴らしい体験を次のように証言している。
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七回目の御出現 – 1947年12月7日 〔…〕
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[管理人注1] 今シリーズの8で書いたように、モンティキアーリ教会が「司教座聖堂」ではなく「小教区教会」であっても、私は「大聖堂」という言葉を使いたい気がします。何と云うか、そうでないと、イタリア人が「Duomo di どこどこ」と呼び習わす時のニュアンスが出ないように思うから。(駄目かな?)
[管理人注2] カトリック教徒の中には「聖母に命令的な口調は似合わない」と、聖母が「優しい一方」のお方のように思っている人がかなり多いようです。しかし私は、それはちょっと違うだろうと思います。
そう思う理由をここで長々と話すつもりありませんが、一言で投げかけておくならば──カトリック信者は、聖母が「愛情深い、しかしピリリとした厳しさも持った修院長」のようである “可能性” ぐらい考えておくべきではありませんか?
[管理人注3] 言わずもがなですが、これは聖母が御自分の所謂「エゴ」から言っているものではないでしょう。全ては人間たちのためでしょう。
[管理人注4] しかし私は、こういうのは「警告」の、あるいは「叱責」の言葉であり得ると思います。つまり、「これは絶対的決定です。この先、何がどうなろうと、恵みは決して与えられません」ということではなく。
実際、聖母のそのお言葉にかかわらず、その後、ボナーテの聖母のメッセージを正しく受け取ったであろう人たちの間に奇跡的な癒しなどが起こったようです。
聖母がモンティキアーリでボナーテを非難なさったことについて、ボナーテの諸事実を調査しているイタリアの有名なサイトは次のように書いています。
「償いの巡礼」をお命じになったということです。
聖母はモンティキアーリでボナーテについて4回語った
アルベルト・ロンバルドーニ
2003年12月26日
1947年、モンティキアーリで、ピエリーナ・ジリに対する奇しき薔薇の聖母の御出現の間、聖母はボナーテでの御自身の出現について数回言及された。
最初の御出現のあった1947年11月16日[管理人注5]、聖母は、信仰の欠如と、ボナーテの出現地が顧みられず、〔それでいて〕不法行為を犯している人々によって頻繁に訪れられていることを嘆かれ、ポンテ・サン・ピエトロから出現地までの3日間の償いの巡礼をお命じになった。
2回目の御出現のあった1947年11月22日、聖母は、彼女が1944年にボナーテ(ベルガモ)で7歳の少女アデライデ・ロンカーリにお現われになったその場所が冒涜されたことについてお話しになり、悔い改めと償いの印としてポンテ・サン・ピエトロの教会から出現地までの巡礼が3日間連続して行なわれるべきことをお求めになり、また、このことがベルガモの司教に直接伝えられるべきこともお求めになった。
3回目の御出現のあった1947年12月7日、聖母は、予想された時刻より早い時刻に、再びモンティキアーリ大聖堂に、ファチマで聖母に会ったフランシスコとヤシンタを伴ってお現われになった。この御出現では、聖母は、ファチマ、ボナーテ、モンティキアーリの結びつきを確認なさった。聖母はファチマでは人類の奉献を、ボナーテでは家族の奉献を、そしてモンティキアーリでは自身の召命に奉献された人々の忠実さをお求めになった。
4回目の御出現のあった1947年12月8日、聖母はボナーテの信仰の欠如をお嘆きになった。
以下、当時のことについてのピエリーナ・ジリの言葉
〔…〕
モンティキアーリ大聖堂での2回目の御出現
1947年11月22日
〔…〕
「ボナーテに関して犯された罪を償うために何をすべきですか?」。聖母はお答えになりました:「悔い改めと償いの印として、ポンテ・サン・ピエトロの教会から〔ボナーテの〕出現地まで、3日間連続して巡礼が行われなければなりません。このことはベルガモの司教に直接伝えられなければなりません」。
[管理人注5] 筆者は「最初の御出現のあった1947年11月16日」と書いています。しかし、筆者に代わって補足すれば、この「最初の御出現」というのは「モンティキアーリでの最初の御出現」という意味ではなく「モンティキアーリ大聖堂での最初の御出現」という意味です。聖母はモンティキアーリ大聖堂に出現される前にもモンティキアーリの別の場所に(ピエリーナ・ジリの自室とピエリーナ・ジリが働いていた病院に)お現われになっています。参照: 1 2 3
筆者もこの後では「モンティキアーリ大聖堂での2回目の御出現」という書き方をしています。
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以上このように、聖母はモンティキアーリで「ボナーテ」を非難なさったのです。
では次に、「ボナーテ」そのものについて見てみます。 次へ
ボナーテ
イタリア語サイト
PDF「家族の元后 60年後に振り返るギアイエでの御出現の物語」by Severino Bortolan 神父
PDF「ギアイエのメッセージに見る家族と人間の生活」by Severino Bortolan 神父
PDF「アデライデ その希望と許し」by Giuseppe Arnaboldi Riva
モンティキアーリとフォンタネッレ
資料
「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌