モンティキアリとフォンタネレでの聖母の出現

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p. 5

はじめに 読者の皆さんへ

 聖母は、ますます信仰が失われ、罪が驚くべき速さで増しているこの時代に、1947年からモンティキアリとフォンタネレに出現されています。
 もしあなたたちがこのすばらしい巡礼地の1ケ所を訪れるなら、きっと天と地が触れ合っている場所を訪れたということを、はっきりと確信して戻って来ることでしょう。人々の祈りへの答えとして授かった多くの明らかな恵みは、その出現と啓示が事実であることを間接的に証明しています。この9日間の信心業は、盲目そして物質的な心になっている人類を目覚めさせるためにあるのです。
 くすしきバラの聖母は、モンティキアリで、「あなたたちの犠牲は本当に豊かな、そして勝利を得るための恵みへと変わり、主のみ心から多くのほうびをいただくことになるでしょう」とおおせられました。
 このみ言葉は、わたしたちの祈り、犠牲と苦行に力と信頼を与えてくれます。それゆえに、このノヴェナもそれらの目的を達成することになるでしょう。この9日間の祈りがあなたたちの意向と共にあなたたちの助けとなりますように。どうぞ、この9日間のノヴェナを広めるためにわたしたちの手伝いをしてください。

1983年12月8日、無原罪の聖母マリアの祝日に。

フランツ・スペクバケル
Franz Speckbacher

p. 6    

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pp. 7-26

1 モンティキアリでの聖母の出現

 山々に囲まれ、絵に描かれたように美しいガルダ湖からほど遠くないところにある小さな町モンティキアリには、14,000人の人々が住んでいます。この町は、その名前の由来である「輝く山々」の端に位置していて、北イタリア・ロンバルディア州のブレシア市の近くにあります。
 1947年の春、ピエリナ・ジリという看護婦は、モンティキアリの町病院の礼拝堂で祈っている時に、忘れることのできない経験をしました。神の母マリアがすばらしいみ姿で、荘厳な光に包まれてお現われになったのです。かの女はマントを身に付けられた貴婦人で、おん目に涙を浮かばせて、たいへん悲しそうでした。ピエリナは、聖母のおん胸に3本の剣が突き刺さっていることに気づきました。最初の剣は、汚聖を犯すミサの祭儀と聖体拝領を意味します。2本目の剣は司祭や修道者としての召し出しに不忠実になることや、それを捨ててしまうことを意味します。そして3本目の剣は、信仰に対するうらぎりを意味します。聖母は、「祈り、犠牲と苦行」を求めておられます。これらは彼女ご自身のみ言葉なのです。

二度目の出現(1947年6月13日)
 聖母はピエリナに、白い服をお召しになってお現われになりました。かの女は、3本の剣の代わりに白、赤、黄金のバラを付けておられました。白いバラは祈りの精神、赤いバラは犠牲の精神、そして黄金のバラは苦行と改心の精神を意味します。ピエリナは、その方が聖母かどうかまだわからなかったので、「あなたはどなたでしょうか。わたしに教えてください」と尋ねました。聖母はその質問の答えとして、ほほえまれながら、次のようにおおせられました。「わたしはイエズスの母、そしてあなたたち皆の母です。わたしたちの主は、世界中のすべての男女の修道院、修道会、そして司祭に、新しいマリアの信心業をもたらすためにわたしをお送りくださいました。わたしは、このような特別な方法でわたしを尊ぶ修道院、修道会、司祭に、召し出しの増加、召し出しを捨てる人の減少、そして聖職者を偉大な成聖に導くことを約束します。わたしは毎月13日を聖母の日として祝うことを望んでいます。そして、それまでの12日間は特別に準備の祈りを唱えなさい」と。
 聖母は大変お喜びのご表情でお続けになりました、「この日(13日)にこの方法でわたしをたたえる修道会や司祭に、あふれるほどのおん恵みと偉大な成聖を取り次ぎます。わたしは毎年7月13日を “くすしきバラの聖母”(ローザ・ミスティカ)をたたえる日として祝うことを望んでいます」。
 それからピエリナは、聖母の奇跡をおこなってくださるかどうかお尋ねしました。聖母は次のようにお答えになりました。「最も明らかな奇跡とは、次のようなものです。つまり、奉献された人(司祭や修道者)は、長い間、不熱心、不忠実になり、神にそむいたために、教会に損害と迫害をもたらしました。しかし、神にそむくことをやめて、創立者たちの本来の聖なる精神をとりもどすときに、再び開花するでしょう」と。
 ピエリナは、“くすしきバラ” という言葉を「マリアは、神秘的生命の最も内なる部分の指導者であり、キリストの神秘隊のおん母、言いかえれば、かの女は教会のおん母です」と説明しました。
 このピエリナの説明は、教皇パウロ6世が1964年11月21日に、公会議の第3集会中におこなった最終演説によって荘厳に確証されました。そこには、分離した教会からの傍聴人がいたにもかかわらず、最後にかれは、思い切って次のように述べられました、「わたしたちは将来、最も恵みに満ちた聖母がこの尊称のもとにたたえられ、キリスト信者からこの美しい尊称で呼ばれることを望んでいます」と。
 この短い、けれども霊的に意味深い教会の最高権威者の宣言は、わたしたちが誤っていないこと、そして、「くすしきバラ」(ローサ・ミスティカ)という尊称で聖母をお呼びして尊ぶとき、わたしたちが今一度、そのことを確信できることを保証してくれます。

三度目の出現(1947年10月22日)
 ピエリナは、病院の礼拝堂で、そこで働いている多くの人々、数人の医師や町から来た人々がいるときに、再び聖母を見ました。聖母は、ご自身がお勧めになった信心業を行うようにお求めになりました。そして、「わたしのおんひとり子はたえまなく続く攻撃にがまんできなくなり、その正義によって罰をお下しになろうとなさいました。それで、わたしは主と全人類(特に聖職者)の間の仲介人になりました」とおおせられました。
 ピエリナは、そこにいた人々全員にかわって、聖母に感謝をささげました。聖母は、「愛のうちに生きなさい」というおことばで、別れをお告げになりました。

四度目の出現(1947年11月16日)
 聖母はモンティキアリの大聖堂で数人の人がいるときにお現われになりました。その人々の中には数人の司祭もいました。ピエリナは、次のようなおことばを聞きました、「主は、もはや純潔に対する多くの重い罪を見るに耐えられなくなっています。おん子は多くの罰を送ろうとされています。わたしは、主がもう一度あわれんでくださるように仲介しました。それでわたしは、これらの罪のつぐないのために、あなたたちの祈りと苦行を願い求めるのです」。
 ピエリナは、聖母のご要求に対して、自ら進んで「わかりました」と答えました。聖母は次のように続けられました。「わたしは、司祭たちが愛をもって、人々にこれ以上罪を犯さないようにさとすことを切に願います。その罪をつぐなう人は誰でも、わたしからの祝福と恵みを受けるでしょう」と。
 主がわたしたちを許してくださるかどうかというピエリナの質問に対しての答えとして、聖母は、「はい。これ以上罪を犯さなければ許してくださるでしょう」と、おおせになりました。それから聖母は去ってゆかれました。

五度目の出現(1947年11月22日)
 聖母は再び、モンティキアリの大聖堂で、数人の人々がいるときにお現われになりました。そしてピエリナに、教会の真中の床に、自分の下で4つの十字架をしるすようにおおせられました。それから聖母は、その場所に降りて来られ、「わたしがこの場所に降りたのは、ここで大きな改心がおこるからです」とおおせられました。
 聖母は悲しげなみ声で続けられました、「わたしのおんひとり子イエズスを、聖なる純潔に対する罪によって最もぶじょくしているのは、あなたの国、イタリアの信者たちです。それで、主は次のことを要求しておられます。それは、祈り、多くの犠牲と苦行です」と。
 ピエリナはお尋ねしました、「あなたの祈り、苦行への願いを果たすために、わたしたちは何をすればよいのでしょうか」と。聖母は穏やかにお答えになりました、「祈り」。ここでしばらく沈黙され、それからご説明になりました、「苦行とは、日々の小さな十字架を受け入れ、苦行の精神で自分の仕事をすることを意味します」と。
 そして聖母は、すべての威厳をもって次のことを約束してくださいました、「12月8日の正午にわたしは、ここ大聖堂に再び現われます。それは、おん恵みの時になります」と。
 ピエリナは、「おん恵みの時とは、どういう意味ですか? どうぞ、わたしに説明してください」とお尋ねしました。
 聖母は、お答えになりました。「おん恵みのときとは、偉大な刷新が数多く起こるときです。すっかり頑なになり、大理石のように冷たくなった魂が、神のおん恵みに触れて、再び信仰をとりもどし、神を愛するようになるのです」と。
 聖母は次に出現されるときを前もってお知らせくださったのは、このときだけでした。それまでの出現は、すべて予期していないときに起こったのです。

六度目の出現(1947年12月7日)
 聖母はモンティキアリの大聖堂に再びお現われになりました。そこには、ピエリナの聴罪司祭を含む3人の人がいました。聖母は、“くすしきバラの聖母” として白いマントを身に付けておられました。このマントの右端をひとりの少年が、左端をひとりの少女が持っていました。聖母は、「明日、わたしはあなたに、人間がほとんど知らないわたしの汚れのない心を見せましょう。わたしはファティマでわたしの汚れのない心への奉献を広まました」とおおせられました。
 そしてさらにやさしいみ声で続けられました、「わたしは、ボナテ町では信者の家庭にこの信心業をもたらすように努めました」(ボナテ町はイタリアのペルガモ市の近くにあります)。ここで聖母は少しの間沈黙され、それからお続けになりました、「ここモンティキアリでは、わたしは “くすしきバラの聖母” への信心業を望みます。そして、それと共に、わたしの汚れのない心への尊敬が修道院や修道会において、強まることを望みます。そうすれば、これらの聖職者の魂は、わたしの母としての心から多くの恵みを受けるでしょう」と。
 それから聖母はピエリナに、ある秘密について話し、それを明らかにすべき時を、聖母ご自身がピエリナに教えてくださることを約束されました。ピエリナはまた、その子供たちが誰であるか教えてくださるように願いました。聖母は、「ヒアシンタとフランシスコです。ふたりはあなたのすべての労苦を分かちあうでしょう。かれらも苦しみました。わたしはあなたたちが、この子供のように純真で善良になってほしいのです」とお答えになりました。
 それから聖母は、わたしたちを守ってくださるしるしとして、ご自身のおん腕をお広げになり、天を見上げられ、「主がほめたたえられますように」とおおせられて、消えてゆかれました。

七度目の出現(1947年12月8日)
 このすばらしい祝日には、数えきれないほどの司祭たちが集まりました。ピエリナは、人々であふれるほどのその大聖堂に入ってゆくのに、大変苦労しました。かの女は、今までに聖母が出現された場所にひざまずきました。人々がロザリオを唱えているとき、かの女は叫びました、「おお、聖母よ!」。
 とつえん深い沈黙。聖母は、白、赤、黄金のバラで飾られた大きな白い階段の上にお現われになりました。聖母はほほえみになり、「わたしは無原罪のやどりです」とおおせられました。そして荘厳に降りて来られながら、「わたしは、わたしのおん子イエズス・キリストの恵みに満ちた母マリアです」とおおせられました。
 そしてもっと近くに降りて来られ、お続けになりました、「わたしがモンティキアリに出現するのは、“くすしきバラの聖母” として知られることを望んでいるからです。わたしは、人々が毎年12月8日の正午に、全世界のためのおん恵みの時を祝うことを望みます。この運動によって、人々は数多くの精神的、または肉体的な恵みを受けるでしょう。わたしたちの主であるわたしのおん子イエズスは、善良な人々が兄弟たちのために祈り続けるかぎり、豊富なおんあわれみをお注ぎくださるでしょう。
 できるだけ早く、教会の最高の頭であるピオ12世に、次のことを知らせなさい。つまり、わたしの望みは、おん恵みのときが全世界に公表され、世界中に広まることであるということを。このときに教会に行けない人は、正午に家で祈りなさい。そうすれば、その人は、わたしからの恵みを受けるでしょう。わたしが降りて来たこの場所で祈り、改心の涙を流す人は、天国への安全なはしごを見つけるでしょう。そして、わたしの母としての心に守られ、み恵みを受けるでしょう」と。
 それから聖母は、ピエリナにご自身のみ心をお見せになり、次のようにおおせられました、「人間を愛しているこの心を見なさい。わたしがこれほど人間を愛しているにもかかわらず、ほとんどの人間は裏切りによってわたしの心を悲しませているのです。よい人とわるい人が祈りのうちに一致するとき、かれらはこの心からあわれみと平和を受けるでしょう。主はわたしの仲介によってあわれんでくださいます。これによって神の大きな裁きが延ばされたのです」と。聖母は、ほほえまれながらお続けになりました、「間もなく人間は、このおん恵みのときが、どれほど大切かということを知るでしょう」と。
 ピエリナは、聖母が今にも去ってゆかれそうなことに気づいて、「いとしい聖母よ、わたしはあなたに感謝いたします。どうか、わたしの母国イタリアそして全世界、特に教皇、司祭、修道者と罪人を祝福してください」といいました。
 すると聖母は、「わたしは、わたしの声を聞き、心に留めるすべての子どもたちに豊かなおん恵みを用意しています」とお答えになりました。
 聖母はピエリナにおゆだねになった秘密を教会の権威者たちに公表するに適したときが来たら再び戻って来られることを約束されました。
 ピエリナは世間に公けに顔を出さずに、修道院の台所で働き、約束されたときが来るのを静かに待ち続けました。そして、ついにその時が来ました。それは、1966年4月17日復活祭の次の日曜日、フォンタネレにおいてでした。そこは、モンティキアリから2、3キロ離れた、ほんの数軒の家しかない村です。聖母は、約束を守ってくださったのです。

2 フォンタネレでの出現

最初の出現は、1966年4月17日、復活祭の次の日曜日でした。聖母は、「わたしのおん子は愛に満ちておられる方で、この井戸にいやしの力を与えるために、わたしをここに送りました。苦行と清めのしるしとして、この一番上の段にキスをしなさい」とおおせられました。この石の階段は、小道から井戸の方へ通じていました。「もっと下の方へ降りて、その石にもう一度キスをしなさい」。聖母はこうおおせられて、ピエリナについて来られました。
 「さあ、3度目に一番下の段にキスをしてから、そこに十字架を置きなさい」とおおせられて、聖母はご自身の左手でその場所を示しました。
 「病人やすべての子どもたちは、この十字架にキスをして、それからわたしのおん子に自分たちのことを許してくださるようにお頼みした後で、水を汲んだり飲んだりしなければなりません」とおおせられて、聖母はその井戸の近くまで行って、「あなたの手でどろをつかみなさい。このことは、どろのような罪でわたしの子どもたちの心の中はよごれていても、おん恵みの水によって再び霊魂が清められ、おん恵みを授かることができるようになることを示すためです」とおっしゃいました。このことは、神の秘跡のおん恵みの、なんとはっきりとしたしるしでしょう!
 聖母は腰をおかがめになり、ご自身のおん手で井戸の水の二か所にお触れになりました。それから聖母は次のようにおおせられました、「わたしのすべての子どもたちは、わたしのおん子イエズスが1947年にお伝えになったお望みを知るようにならなければなりません。それでわたしはあなたに、モンティキアリの大聖堂で、かれのメッセージを与えたのです。わたしは、病人と共に多くのわたしの子どもたちが奇跡が起こるこの井戸に来るのが、わたしの望みであることをくり返し言います」と。

二度目の出現(1966年5月13日)
 5月13日は、聖母がファティマで出現された記念日です。ピエリナは聖母が再びその泉にお現われになったとき、大きな喜びに包まれました。そこには約20人の人々がいました。それは午前11時40分のことでした。
 聖母は他のことに付け加えて、次のようにおおせられました、「わたしは、わたしがこの泉を訪れたことが人々の間に知れ渡ることを望んでいます。わたしのおん子は愛に満ちておられる方です。世界は滅亡に近づいています。わたしはもう一度あなたのために、おんあわれみをいただくことができました。それでわたしのおん子は、ご自身のおん恵みをあなたたちにもたらすために、再びわたしをモンティキアリにお送りになったのです。人類を救うためには祈り、犠牲、苦行が必要なのです」と。
 それから聖母は、1966年4月17日に、ご自身のおん手でお触れになった右側の井戸を指されました。そして、「わたしは、病人が水に浸りやすいようにここにため池が造られ、井戸の反対側は ── 左側を指されて ── 飲み水用に使われるようになることを望みます」とおおせられました。
 ピエリナは聖母に、その泉を何と呼べばよいのか尋ねました。すると聖母は、「おん恵みの泉」とお答えになりました。
 そしてピエリナの「あなたのお名前は?」という質問に対して、「ローザ・ミスティカ(くすしきバラの聖母)と、お答えになりました。
 そしておん腕と広いマントをお広げになり、ほほえまれながら次のようにおおせになりました、「わたしはわたしの子どもたちに愛と一致と平和をもたらすために来ました。わたしはあなたたちに、兄弟に向かってどろを投げかけずに、かれらを愛するように願います」。
 ピエリナは、広いマントの意味をお尋ねしました。聖母は、「これは、全人類を包んでいるわたしの愛を意味します」とお答えになりました。
 ピエリナは、「ここフォンタネレでは、あなたはわたしたちに何を望まれているのですか」とお尋ねしました。聖母は、「ここに来る病人のための慈善事業を行いなさい」とお答えになりました。

三度目の出現(1966年6月9日、キリストのご聖体の祝日)
 この守るべき祝日には、その井戸のところに、約100人の人々がいました。ピエリナは、午後3時頃そこに行って、人々にロザリオを唱えるように頼みました。唱えているちょうど中頃に突然ピエリナは「空を見上げて」と大きな声でいいました。
 聖母は今度は、その井戸から5、6メートル上のところにお現われになりました。その周りには、小麦畑が広がっていました。人々はピエリナが向かっている方向を見ました。小麦畑は、聖母が小麦の穂の上を歩いて近づいて来られているかのように揺れていました。
 聖母は、「一致と愛のご聖体の日である今日、わたしのおん子イエズスは、わたしを再びここにお送りになりました」とおおせられました。
 そしておん腕をお広げになり、次のように続けられました、「わたしはこの小麦が多くのつぐないの聖体拝領のご聖体用のパンになることを強く望んでいます」。そして、荘厳に天の方を見上げて、お続けになりました、「わたしの望みは、この小麦から作られたご聖体用のパンをローマに持って行って、10月13日のために、ファティマに届けることです」。
 ピエリナが、「この小麦はすべてそのためにお捧げしなければならないでしょうか」とお尋ねすると聖母は、「わたしは善良な心が、この願いをかなえてくれることを望みます。また、井戸の方に向かった一体のご像がすえられた礼拝堂をここに建てることを望んでいます」とおおせられました。
 ピエリナは、「いとしい聖母よ、わたしには、あなたのおっしゃる意味がよくわかりませんが」とお尋ねしました。
 聖母は、「10月13日にそのご像が行列をもって運び込まれることを望んでいます。しかしその前に、わたしは、モンティキアリの人々がわたしの汚れない心に自分を奉献することを望みます。モンティキアリは、わたしのおん子がわたしのためにお選びになった場所です。それは、おん子の愛の恵みをそこにもたらすためです」とおおせになりました。
 ピエリナは、聖母が去ってゆかれそうなことに気づいて、もう少しいてくださるようにお願いしました。聖母はおとどまりになり、ピエリナが人々の願いを聖母におゆだねしたり、司祭、聖職者や病人への聖母のお恵みを求める時間を与えてくださいました。

四度目の出現(1966年8月6日、キリストの変容の祝日)
 ピエリナは、午後2時30分頃その井戸に行きました。そこには、約200人の人々が集まっていました。かの女は3時に、すべての人々に、ロザリオを唱えるようにさそいました。第4の奥義のとき、ピエリナは唱えるのをやめて、「聖母がここにいらっしゃいます」と叫びました。
 突然静かになり、人々は深い感動のうちに、その天の対話を聞きました。神の母は次のようにおおせになりました、「わたしのおん子イエズスは、つぐないの聖体拝領の国際的信心をお求めになり、ふたたびわたしをここにお送りになりました。そしてこれは、10月13日に行なわれるべきです。
 この国際的信心の日は、世界中に知れ渡るべきです。これは1966年に初めて行われ、それから毎年くり返されるように。わたしは、この信心をおこなう司祭や信者たちに豊富な恵みを与えることを約束します」と。
 ピエリナは、小麦について、もう一度尋ねました。すると聖母は、次のようにお答えになりました、「その小麦は、わたしの愛する子である教皇パウロ6世に、わたしの出現によって祝福されているという説明をつけて送られるべきです。それは、かれの母国であるモンティキアリのブレシアの小麦です。かれに、わたしのおん子の望み……そしてまた、ファティマに関してのことも告げるように」。
 ピエリナは、残りの小麦をどうすればよいか尋ねました。聖母は次のようにお答えになりました、「残りの小麦で小さいパンを焼いて、定められた日に、ここフォンタネレの井戸でわたしの出現の記念として配りなさい。このことが、土を耕す人々からの感謝のしるしとして行われますように。わたしは、被昇天後ずっと、いつもわたしのおん子イエズスと全人類の間の仲介者として働いてきました。この何世紀もの間、わたしはどれほど多くの恵みを取り次いたことでしょう! どれほど多くの天罰をくい止めたことでしょう! どれほど多くの霊魂と話したことでしょう! どれほどしばしば、メッセージを伝えに、地球〔地上〕に来たことでしょう! しかし人々は、主に背き続けています。わたしがモンティキアリというこの場所を選んだのは、ここでは農夫たちの間に、今もなお、貧しいベトレヘムの農夫たちと同じ謙遜があるからです。そしてたいへん多くの祈りが絶え間なく唱えられているこの場所は、豊かな恵みの源になってゆくでしょう」と。
 聖母のこれらの啓示の後、ピエリナは再び大衆の前に出ることをやめて、平穏な生活に戻りました。それに加えて、そこの司教はかの女に、完全に沈黙を守るように命じました。ピエリナは、その司教の命令に従いました。
 その禁じられていることがらは、たいへん人々の興味をそそることです。そして、すぐに聖母のメッセージは、世界中に広められ、モンティキアリを訪れる巡礼者の波が押しよせてくるようになりました。

御出現についての説明はこれで終わり。
これ以降にノヴェナの説明が続く。PDF を参照のこと。

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