前回見たように、モンティキアーリの聖母は人々に「詩篇のミゼレーレ」を祈ることを指示なさった。
で、私はちょっと疑問に思ったりする。
モンティキアーリの御出現当時(1947年)のイタリアの信徒たちというのは、「詩篇のミゼレーレを祈りなさい」と言われた時に、それをラテン語で祈ることができたのか?
そんなことは、ないか。あるか。よく分からない。
それはともかく──現代の私たち日本の信者の圧倒的多数においては、やはりその「日本語訳」に目を向けることになるだろう。
*
で、私はいろいろな日本語訳を見てみたのだが、新共同訳のそれはちょっとおかしいと思う。「ミゼレーレ」の第8節が。
新共同訳
51
7 |
わたしは咎のうちに産み落とされ |
---|---|
8 |
あなたは秘儀ではなくまことを望み |
9 |
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください |
第8節に、「秘儀」「秘術」という名詞が、確固たる名詞が、名詞然たる名詞が、名詞以外の何物でもない名詞が、前から見ても後ろから見ても「名詞」である名詞が、存在する。
そうして、それだけではない。もう一つ、実にハッキリと打ち出されているものがある。それは、「秘儀」「秘術」というものに対する「否定」「排斥」である。「秘儀ではなく」「秘術を排して」。
実にハッキリした言い方だ。
しかし、そんな翻訳があるものではない。
他のどのような日本語訳聖書を見ても。
荻原晃神父(前々回紹介したもの)
第五十篇
七 |
然れど見よ、我は罪のうちに生れたり。科をもて、我が母すでに我をはらめり。 |
---|---|
八 |
然れど見よ、御身は直き心を望み給い、我が内に、智慧を与え給えり。 |
九 |
イソプにて、我を浄め給え、然らば我は清くならん。我を洗い給え。然らば我は雪にまさりて白くならん。 |
バルバロ神父(前々回紹介したもの)
51 (50)
7 |
私は、不義のなかにうまれ、 |
---|---|
8 |
あなたは、心の誠実を喜ばれる、 |
9 |
ヒソプをもって私を清めれば、私は清くなろう。 |
日本聖書協会 口語訳(改訳) ここでは第6節である。
第五十一篇
五 |
見よ、わたしは不義のなかに生れました。 |
---|---|
六 |
見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。 |
七 |
ヒソプをもって、わたしを清めてください、 |
松田伊作(九州大名誉教授 言語学) Amazon
51
7 |
じじつ、咎のうちに私は産み落とされ、 |
---|---|
8 |
じじつ、あなたは真実[まこと]を内奥で悦び、 |
9 |
あなたがわが罪を除いて下さい、ヒソプで、私が潔まるように。 |
このように、これらの訳文には「秘儀」だの「秘術」だのといった名詞は一つも出て来ない。従って、それらに対する「否定」や「排斥」の意思も、ありようがない。
だから、これだけで、私はこう結論する。
新共同訳のその訳文は「異質」である、「特異」である。
それとも、そう結論するためには私自身、古代ヘブライ語を勉強しなければならないだろうか?──私は全然そう思わない。
何故なら、詩篇の翻訳に使った底本に(底本にもいろいろあるようだが)「秘儀」「秘術」に当たる言葉が実際「ある」ならば、上のこれらの翻訳者たちも必ずや、それなりの翻訳をするものだろうからである。しかし、見ると、それらには「秘儀」だの「秘術」だのといった名詞は、その影さえない。だから私は、自分は古代ヘブライ語を少しも知らなくても、「ここ(新共同訳)には何らかの『特異性』がある」ぐらいのことは「分かる」のである。
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新共同訳
51
7 |
わたしは咎のうちに産み落とされ |
---|---|
8 |
あなたは秘儀ではなくまことを望み |
9 |
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください |
そう、私は素人である。しかし「感覚」に物を言わせると──
この物の言い方は「古代的」というよりは「近代的」である。
「肯定」と「否定」を使っている。「肯定」されるべきものの価値を浮き上がらせるために、その対立物と思われるものを持ち出し、「否定」している。それゆえ、「議論的」である。
しかし、ダビデの詩はもっと素朴なものである筈だ。新共同訳の第8節から「秘儀ではなく」「秘術を排して」という小賢しく議論的な言葉を取り外しなさい。すると、だいたいのところ、他の日本語訳聖書と一致した、素朴な言葉が残る。私はそれでいいのだと思う。それがダビデ本来の言葉だろうと思う。素朴なもの。「議論的」でなく、ひたすら神に対する「心情」に溢れたもの。
新共同訳の第8節は、私の見るところ、近代的な、小賢しい、議論好きな者による、念の入った、無駄に凝った翻訳である。
(そしてたぶん、自己満的、得意的)
本田哲郎的。
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私は新共同訳聖書を所持していない。しかし今回、近くの図書館から借りてみた。第8節の訳が他の日本語訳聖書とこれほど違うのに、そこにはどんな注釈もなかった。(と云うか、新共同訳聖書にはそもそも、その種の細かな注釈はない)
(2019.09.16)
カトリック訳をもう一つ参照しておく。
ドゥアイ・リームズ聖書(Wikipedia)
50
7 |
For behold I was conceived in iniquities; and in sins did my mother conceive me. |
---|---|
8 |
For behold thou hast loved truth: the uncertain and hidden things of thy wisdom thou hast made manifest to me. |
9 |
Thou shalt sprinkle me with hyssop, and I shall be cleansed: thou shalt wash me, and I shall be made whiter than snow. |
この第8節を訳せば、「しかし見よ、御身(神)は真実を愛し給い、御身の知恵の隠れたる測り難き所を我れに明かし給いぬ」という感じになるだろうか。だとすれば、この文は、「神の知恵の隠れたる測り難き所」を自分の心に明かして下さった神に「感謝」しているのである。ここには何かを「否定」したり「斥け」たりしている様子はない。
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プロテスタント訳も追加しておく。手っ取り早くは、「機械翻訳」をクリックしてもらいたい。
Bible Hub - Psalm 51:6
ここにも、ことさら何かを否定している様子はない。
「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌