読者の皆さん。最近の記事で、「肛門」「肛門」「肛門」と、立て続けに三回も言ってしまい、どーもすいませんでした <(_ _)>
しかしそれでも、「それが “現実” である」と言うことができるし、「ここに “責任” というものが発生している」と言うことができます。どういうことかと云うと──
カトリックの神父様方は、往々、物事を「抽象的」に考え、「現実」を捉え切らないところがあるので、私は「肛門」という「具体物」を持ち出すことも意義なしとしません。
抽象的。例えば、右のプラカードに書かれたような言葉を見ると、神父様方はそれなりに「考えて」しまうかも知れません。「All Love is Equal? う~む.. 或る意味、そうかな?」ぐらいのことを考えてしまうかも知れません。
しかし、そのように考え始める時、あなたは半ば必然的に、同性愛者の男たちの「肛門性交」をも認めかけているということに気づいて下さい。「全て」かどうかは私には分かりませんが、しかし同性愛者の男たちの「多く」はそれをするでしょうから。
注)ちなみに、LGBT CJ の小笠原氏が挙げた Warren Cup に関して Wikipedia の 英語版 は2回「anal sex」という言葉を出しています。
「愛、愛」と綺麗なことを言いますが、「現実」を見ればそのようなことであるのです。心優しい神父様方、あなたが「同性愛も、そこに “真摯な愛” があるならばOK」と言いたくなる時、実際的には、不可避的に、そのような「異形の性行為」にも「OK」を出そうとしていることになるのです。(ここがすなわち「責任」です)
注)私は、たとえ異性間の性交であっても、「肛門性交」は「異形」だと思います、NGだと思います。もちろんです。
人はそんなことはすべきではありません。
同性愛問題はなかなか難しく、そして当事者たちにとっては厳しいことでしょう。でも、私たちはまず、それを「何らかの変調」と思わなければならない。
たとえ現代の精神医学がそれを「もはや疾患とは見做されない」と宣言していたとしても、現代医学の「疾患」の概念そのもの、正常と異常を定める「判断基準」そのものに限界があり、不完全であると考えられます。何故なら、現代医学にとっても、人間に関してまだまだ「未知の領域」があるだろうからです。 次へ
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」