2017.04.19

「LGBT カトリック・ジャパン」 のウェブサイトにそこはかとなく漂う
狂気(善意の部分はいい。しかし、狂気を孕んでいちゃ駄目だろ)9

小笠原氏が聖書を「改めてよく読み直して」みると

前回と同趣旨の記事がもう一つある。今回は署名がある。

LGBTCJ blogspot

2016年8月18日木曜日
LGBT とカトリック教義 性的少数者をカトリック教会へよりよく包容するために

ルカ小笠原晋也(カトリック本郷教会所属)
… @gmail.com

精神分析家,東京ラカン塾主宰
http://lacantokyo.org

親 LGBT 活動家,LGBT カトリック・ジャパン共同代表
http://lgbtcj.org

(…)

§ 4.2.2. 新約聖書における同性間性行為の問題

新約聖書に収録されている書簡のなかで聖パウロが言及している同性間性行為についても,旧約聖書から出発して読解されるべきである

ローマ書簡 1,17 において ὁ δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται[信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる]と公式化した後,聖パウロは,すぐさま,同書 1,18-32 において,その逆の場合,つまり,神を信ぜず [ ἀσέβεια ], 偶像 [ ὁμοίωμα εἰκόνος ] を崇拝することにおいて,義ならざる者たち [ ἀδικία ] について論ずる.

そのような者たちは神の怒り [ ὀργὴ θεοῦ ] を受け,神は彼らを,彼らのこころの欲望において [ ἐν ταῖς ἐπιθυμίαις τῶν καρδιῶν αὐτῶν ], 不浄 [ ἀκαθαρσία ] と恥辱の熱情 [ πάθη ἀτιμίας ] へ引き渡す.それによって,彼ら,および,彼らの一族(または家族)の女たちは,自然に反して [ παρὰ φύσιν ] 同性相手と性関繋を持つことになる.

つまり聖パウロが非難しているのは,レビ記 18,2220,13 において禁止されているような衝動的性行為としての同性間性関繋である.

そも,「不正義」や「不浄」は,「聖性の律法」に対する違反がかかわっていることを示している.

(…)

そのほか,第一コリント書簡 6,9第一ティモテオ書簡 1,10 において聖パウロは「同性愛者」を断罪している,と言われている.

当該箇所のフランス語訳においては pédéraste, 日本語訳においては「男色をする者」(新共同訳)や「同性愛に耽る者」(フランシスコ会訳)という表現が見出される.

しかし,ギリシャ語原文で用いられている語は ἀρσενοκοίτης である.それは,文字どおりには「男と性交する男」である.

フランス語訳の pédérasteπαιδεραστής (< παῖς + ἔρως ) に由来し,後者は,古代ギリシアではむしろ公序良俗に属する「少年を愛する者」である.

しかし,聖パウロの言葉を文脈において読むなら読み取れるように,彼が断罪しているのは,ギリシア的な παιδεραστία としての同性愛でも現代社会における gay どうしの同性愛でもなく,而して,レビ記において禁止されているような衝動的同性間性行為か,または,申命記において禁止されているような神聖売買春における同性間性行為である.

以上のとおり改めてよく読み直すなら聖書のなかには,旧約においても新約においても,現代社会において同性愛と呼ばれているものに対する禁止も断罪も見出されはしない.

つまり,聖書のなかに同性愛に関する否定的な言説を読み取る者は,聖書の権威で自身の憎悪に満ちた差別的イデオロギーを飾り立てるために,聖書を誤読し,曲解しているだけである.

今度はフランス語まで入っている。しかし、前回と同じく、無学者には煩わしい外国語をなるたけ省いて、彼の主張の骨子を抜き出させてもらおう。まずは、私のコメントも強調もなしに表示する。

新約聖書に収録されている書簡のなかで聖パウロが言及している同性間性行為についても,旧約聖書から出発して読解されるべきである.

聖パウロは,ローマ書簡 1,17 において「信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる」と公式化した後,続く 1,18-32 において,その逆の場合,つまり,神を信ぜず[不信仰],偶像を崇拝することにおいて義ならざる者たち[不義]について論ずる.

そのような者たちは神の怒りを受け,神は彼らを,彼らのこころの欲望において不浄と恥辱の熱情へ引き渡す.それによって,彼ら,および,彼らの一族(または家族)の女たちは,自然に反して同性相手と性関繋を持つことになる.

つまり,聖パウロが非難しているのは,レビ記 18,2220,13 において禁止されているような衝動的性行為としての同性間性関繋である.

そもそも,「不正義」や「不浄」は,「聖性の律法」に対する違反がかかわっていることを示している.

(…)

そのほか,第一コリント書簡 6,9第一ティモテオ書簡 1,10 において聖パウロは「同性愛者」を断罪している,と言われている.

当該箇所のフランス語訳においては pédéraste, 日本語訳においては「男色をする者」(新共同訳)や「同性愛に耽る者」(フランシスコ会訳)という表現が見出される.

しかし,ギリシャ語原文で用いられている語は ἀρσενοκοίτης である.それは,文字どおりには「男と性交する男」である.

フランス語訳の pédéraste は〔ギリシャ語の〕παιδεραστής (< παῖς + ἔρως ) に由来し,後者は,古代ギリシアではむしろ公序良俗に属する「少年を愛する者」である.

しかし,聖パウロの言葉を文脈において読むなら読み取れるように,彼が断罪しているのは,ギリシア的な「少年愛」としての同性愛でも現代社会における「gay」どうしの同性愛でもなく,レビ記において禁止されているような衝動的同性間性行為か,または,申命記において禁止されているような神聖売買春における同性間性行為である.

以上のとおり,改めてよく読み直すなら,聖書のなかには,旧約においても新約においても,現代社会において同性愛と呼ばれているものに対する禁止も断罪も見出されはしない.

つまり,聖書のなかに同性愛に関する否定的な言説を読み取る者は,聖書の権威で自身の憎悪に満ちた差別的イデオロギーを飾り立てるために,聖書を誤読し,曲解しているだけである.

どうだろう、あなたは納得しただろうか。彼の言っていることが胸にストンと落ちただろうか。あなたの心の中でクリアーな像を結んだだろうか。その輪郭は定かだろうか。*

* このように問いかけながら、私は一面、危惧している。と云うのは、世のカトリック信者の中には、キリストの「復活」をワケのわからないものにしてしまった異端司祭の解説を、どう “理解” してか、紹介している人が居るからである参照。この人ばかりではない。カトリック信者の中には、分かってはならぬ事まで分かってしまう “優秀” な人がけっこう居る。

次に、私のコメントを差し挟みつつ再表示する。

新約聖書に収録されている書簡のなかで聖パウロが言及している同性間性行為についても,旧約聖書から出発して読解されるべきである.

聖パウロは,ローマ書簡 1,17 において「信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる」と公式化した後,続く 1,18-32 において,その逆の場合,つまり,神を信ぜず[不信仰],偶像を崇拝することにおいて義ならざる者たち[不義]について論ずる.

そのような者たちは神の怒りを受け,神は彼らを,彼らのこころの欲望において不浄と恥辱の熱情へ引き渡す.それによって,彼ら,および,彼らの一族(または家族)の女たちは,自然に反して同性相手と性関繋を持つことになる.

前回と同じく、読者の目に、上の段落は問題ないように映るだろう。しかし、彼は「自然に反して同性相手と性関繋を持つこと」という言葉の中に、現在の私たちが知る所謂「同性愛」を含ませていないのである。

つまり,聖パウロが非難しているのは,レビ記 18,2220,13 において禁止されているような衝動的性行為としての同性間性関繋である.

私たちは今、「小笠原氏は聖パウロの言葉を正しく受け取っているか」を見ているわけだが、そうしている最中[さなか]に、それと同時に、「小笠原氏はレビ記の言葉を正しく受け取っているか」も見なければならない羽目に陥るようである。と云うのは、彼は、レビ記のそれらの箇所は同性愛行為を禁じているが、それは「衝動的」な形態の同性愛行為だけを禁じているのである、と言っているからである。レビ記が本当にそう言っているかを後で見よう。

そもそも,「不正義」や「不浄」は,「聖性の律法」に対する違反がかかわっていることを示している.

「聖性の律法」という言葉は抽象的である。
これについても後で見よう。

(…)

そのほか,第一コリント書簡 6,9第一ティモテオ書簡 1,10 において聖パウロは「同性愛者」を断罪している,と言われている.

当該箇所のフランス語訳においては pédéraste, 日本語訳においては「男色をする者」(新共同訳)や「同性愛に耽る者」(フランシスコ会訳)という表現が見出される.

しかし,ギリシャ語原文で用いられている語は ἀρσενοκοίτης である.それは,文字どおりには「男と性交する男」である.

ギリシャ語を参照しよう。
第一コリント書簡 6,9第一ティモテオ書簡 1,10

フランス語訳の pédéraste は〔ギリシャ語の〕παιδεραστής (< παῖς + ἔρως ) に由来し,後者は,古代ギリシアではむしろ公序良俗に属する「少年を愛する者」である.

なんでギリシャ語原文に於いてそれは「男と性交する男」の意味であると確認しておきながら、フランス語の訳語を経由して別のギリシャ語を参照し、それによって古代ギリシャの「公序良俗」(!)を確認したりするのか。こんなことをするならば、私たちはキリスト教の真理を探究しているのかプラトンを探究しているのか分からなくなるだろう。

しかし,聖パウロの言葉を文脈において読むなら読み取れるように,彼が断罪しているのは,ギリシア的な「少年愛」としての同性愛でも現代社会における「gay」どうしの同性愛でもなく,レビ記において禁止されているような衝動的同性間性行為か,または,申命記において禁止されているような神聖売買春における同性間性行為である.

「文脈」だと。読者にはそろそろ、私が前々回に言ったことを思い出してもらいたい。

さて、小笠原氏、あなたは今、聖パウロがそれらの書簡で非難している「同性愛にふける者」「男色者」という言葉は、原語(ギリシャ語)では文字通りには「男と性交する男」である、と書いたばかりである。

ところで、あなたは、あなたが認める「ギリシア的な『少年愛』としての同性愛」や「現代社会における gay どうしの同性愛」の中に、「男と性交する男」が “居る” と考えるのか、“居ない” と考えるのか。はっきりせよ。

「私は異性愛者なので、その辺のことはよく分かりません」と言うのか。では、質問を変えよう。あなたは、「現代のゲイは、ゲイであるというだけでは問題ありません。しかし、もし彼らが『男と性交する男』であるならば、それは聖パウロの非難の対象ですから、いけません。彼らは、心で愛し合うのはもちろんいいし、抱き合ってもいいけれど、『肛門に入れる』のはよくありません」と、言うのか、言わないのか。はっきりせよ。

以上のとおり,改めてよく読み直すなら,聖書のなかには,旧約においても新約においても,現代社会において同性愛と呼ばれているものに対する禁止も断罪も見出されはしない.

つまり,聖書のなかに同性愛に関する否定的な言説を読み取る者は,聖書の権威で自身の憎悪に満ちた差別的イデオロギーを飾り立てるために,聖書を誤読し,曲解しているだけである.

この最後の大した宣言についても後で見よう。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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