「LGBT カトリック・ジャパン」 のウェブサイトにそこはかとなく漂う
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では、彼らが「聖書の言葉」に対してそのような事をしていないかを調べてみよう。「そのような事」とはつまり、実際には「聖書の言葉に自分たちの願望を “上塗り” 」しているにもかかわらず、それを体よく「聖書をよく読む」とか「聖書を改めてよく読み直す」とか称していないかを。
しかしその前に──
私はこう考える。私たちにとって「読む」とは、それを書いた当人の心にあるものをそのまま受け取る、ということであると。もちろん、実際問題としては、「できるだけ」ということになるだろう。私たちにとって「読む」とは、できるだけ書き手の心にあったものを忠実に受け取るよう努めることである、と。
自分の願望を交えながら「読んだ」のでは、私たちは「聖書を読んだ」ことにはならず、「聖書と自分の願望の混交」を読んだことになり、従って「聖書の真理」を受け取ることに失敗するだろう。
*
ここに LGBT CJ の一つの記事がある。署名はないが、署名のある他の記事(次回見る)との類似から、筆者は間違いなく小笠原晋也氏である。強調とリンクは私による付加。一箇所だけの〔 〕も。
2015年8月18日火曜日
LGBT カトリック・ジャパン(仮称)の設立
(…)
ともあれ,「カテキズム」 2357項は,homosexuality を「重大な堕落」と呼び,「どのような場合も homosexual な行為は容認されない」と断罪しています.
しかし,「カテキズム」が根拠として挙げている聖書の箇所 (Rm 1,24-27 ; 1Co 6,9-10 ; 1 Tm 1,10) をよく読んでみると,聖パウロの議論はこうであることがわかります.まず前提は,ὁ δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται [信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる]〔ローマ人への手紙 1:17〕.それに対して,神を信ぜずに [ ἀσέβεια ] 偶像を崇拝することにおいて義ならざる者たち [ ἀδικία ] は神の怒りを受け,神は彼らを不浄 [ ἀκαθαρσία ] へ引き渡します.それによって彼らは,性倒錯を含むさまざまな悪へ陥ることになります.
したがって,聖パウロが断罪しているのは,我々が現在「同性
愛」と呼ぶふたりの同性どうしの人間の相互的な愛情関係では
ありません.聖パウロが断罪しているのは,あくまで,ἀσέβεια
と ἀδικία の帰結であるような或る種の性倒錯的行為です.
我々が現在「同性愛者」と呼ぶ人々は,聖パウロが ἀσέβεια や ἀδικία として断罪するものとは無関係です.
このように彼は、「聖パウロが」「聖パウロが」「聖パウロが」と言っている。彼の主張の言語形式は「聖パウロはこう言っている、ああ言っている」という類のものである。
「私はこう思う」というものではなく。「聖パウロの言っていることは別にして、私としてはこう思う」というものではなく。「当時の聖パウロの目に映じていたであろうことは別にして、現代に住む人間の一人として私はこう思う」というものではなく。
──そういう言い方なら良かったのに。
彼はあくまで「聖パウロが」と言っている。
そこが、私としては、ちょっと「許し難い」ところである。
しかし、ともかく、本当に彼の言っている通りかを、
これから調べてみよう。
*
言葉を少し。
ἀσέβεια |
= |
impiety |
= |
不信仰、不信心、不敬虔 |
---|---|---|---|---|
ἀδικία |
= |
injustice |
= |
不正、不法、不義 |
Ὁ δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται |
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---|---|
「正しい人は信仰によって生きる」 |
(フランシスコ会訳) |
「The just man liveth by faith」 |
(DRBO.ORG) |
やれやれ、ギリシャ語を交えなどして、私のような無学者にとっては、学者さんと付き合うのは大変である。しかし、原語にまで遡ることは、学者さんにとっては一つの作法のようでも、この場合は、小笠原氏の博学を醸す以外、大して役に立っていない。
小笠原氏の学者的誠実は分かったから、ここは私のような無学者のために、小笠原氏の文章からギリシャ語を省いて、日本だけで再構成させてもらおう。日本人にとって、彼の主張の筋を見るには、その方が把握しやすいからである。
そのように「日本だけで再構成」されることによって自分の論述に損失が出ると小笠原氏が考えるならば、御自分の論述に対する買いかぶりと云うものである。そして実際、「再構成」とは言っても、ほとんど元の文章のままである。
今回以降の記事のためにもルールを決めておく。
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背景色をこの色にしてある枠内は、小笠原氏のオリジナルの文章とする。ただし、彼の文字に対し、私が太字や色による強調を付加している場合がある。しかし、その場合も、彼の言葉そのものは変えていない。 |
![]() |
背景色をこの色にしてある枠内は、無学な私たちが小笠原氏の「雲の上」のように高等な主張を理解するために、外国語を省き、或いは日本語に置き換えなどしながら、私が書き直したものである。私はこの書き直しに於いてインチキはしない。また、読者はいつでも小笠原氏のオリジナルの文章を読むことができる。 |
まずは、私のコメントも強調もなしに表示する。
ともあれ,「カテキズム」 2357項は,homosexuality を「重大な堕落」と呼び,「どのような場合も homosexual な行為は容認されない」と断罪しています.
しかし,「カテキズム」が根拠として挙げている聖書の箇所 (Rm 1,24-27 ; 1Co 6,9-10 ; 1 Tm 1,10) をよく読んでみると,聖パウロの議論はこうであることがわかります.
① まず前提は,「信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる」(ローマ人への手紙 1:17).
② それに対して,神を信ぜずに,偶像を崇拝することにおいて義ならざる者たちは神の怒りを受け,神は彼らを不浄へ引き渡します.それによって彼らは,性倒錯を含むさまざまな悪へ陥ることになります.
③ したがって,聖パウロが断罪しているのは,我々が現在「同性愛」と呼ぶふたりの同性どうしの人間の相互的な愛情関係ではありません.聖パウロが断罪しているのは,あくまで,「不信仰」と「不義」の帰結であるような或る種の性倒錯的行為です.我々が現在「同性愛者」と呼ぶ人々は,聖パウロが「不信仰」や「不義」として断罪するものとは無関係です.
以上が彼の主張の骨子である。①、②、③、すこぶる簡単。
次に、私のコメントをほんの少し差し挟んで再表示する。
ともあれ,「カテキズム」 2357項は,homosexuality を「重大な堕落」と呼び,「どのような場合も homosexual な行為は容認されない」と断罪しています.
ただし、以前説明したように、カテキズムの英語
版は「homosexuality」を「重大な堕落」とは
呼んでいない。あくまで「同性愛の行為(homo-
sexual acts)」を「重大な堕落行為(acts of grave
depravity)」と呼んでいる。英語版が正確だろう。
しかし,「カテキズム」が根拠として挙げている聖書の箇所 (Rm 1,24-27 ; 1Co 6,9-10 ; 1 Tm 1,10) をよく読んでみると,聖パウロの議論はこうであることがわかります.
① まず前提は,「信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる」(ローマ人への手紙 1:17).
② それに対して,神を信ぜずに,偶像を崇拝することにおいて義ならざる者たちは神の怒りを受け,神は彼らを不浄へ引き渡します.それによって彼らは,性倒錯を含むさまざまな悪へ陥ることになります.
読者の目に、② には問題がないように見えるだろう。しかし、次の ③ によって、彼は「性倒錯」という言葉に現在の私たちが知る所謂「同性愛」を含ませていないことが分かる。
③ したがって,聖パウロが断罪しているのは,我々が現在「同性愛」と呼ぶふたりの同性どうしの人間の相互的な愛情関係ではありません.聖パウロが断罪しているのは,あくまで,「不信仰」と「不義」の帰結であるような或る種の性倒錯的行為です.我々が現在「同性愛者」と呼ぶ人々は,聖パウロが「不信仰」や「不義」として断罪するものとは無関係です.
キリスト教界は、これまでの長年月、「聖パウロはこの箇所で同性愛を否定している」と考えて来た。この点はカトリックもプロテスタントもない共通理解であった。しかし小笠原氏は、たったこれだけで、それをひっくり返すことに成功したようなのである。
あなたはどう思うか。
上と同趣旨の記事がもう一つあるから、見てみよう。 次へ
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」