「LGBT カトリック・ジャパン」 のウェブサイトにそこはかとなく漂う
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前回、「後で見よう」という言葉を三回出した。
まずは、順不同だが、最後のこの部分から。
つまり,聖書のなかに同性愛に関する否定的な言説を読み取る者は,聖書の権威で自身の憎悪に満ちた差別的イデオロギーを飾り立てるために,聖書を誤読し,曲解しているだけである.
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この最後の大した宣言についても後で見よう。 |
彼の言葉を少し言い直してみよう。彼はこう言っている。
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聖書の中に同性愛に関する否定的な言説を読み取る者は皆、同性愛者を “憎悪” しており、自身の感情として憎悪しており、且つその憎悪を聖書の権威によって正当化している。 |
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彼はそう言っている。私のこの言い直しはまだ弱いくらいである。彼の言い方に倣えば、最後に「ただそれだけの話である」と付け加えていいほどである。
しかし、私はこう言おうと思う。
「これが、“感情まみれ” になった盲目者の実例である」
何故ならば、「聖書の中に同性愛に関する否定的な言説を読み取る者」は、皆が皆、同性愛者を「憎悪」しているわけではないからである。
例えば、この私は「聖書は同性愛の行為を罪に定めている」と考えているが、さりとて、同性愛者を「憎悪」しているわけではない。
それからまた、私は自分以外の実例を、既にかなり数、示したのである。それは「脱同性愛者たちの証言」である。彼らもまた「聖書は同性愛の行為を罪に定めている」と考えているが、さりとて、同性愛者を「憎悪」しているわけではない。
それどころか、その反対ですらある。例えば、脱同性愛者の一人、シャーリン・コトランの言葉をもう一度見てみよう。
彼らには、彼らが助けを必要とする時に、本当に温かく腕を開いて迎えてくれる教会が必要です。彼らには、それが自分自身のことであるかのように彼らを抱きしめる、愛情深い、共感的な信者が必要です。彼らと連れ立って歩き、彼らが恵みと共に成長している時、彼らを裁かない信者が必要です。
なんでこれが「憎悪」であり得ようか。しかし、このように言う彼女は、同時に「聖書は同性愛の行為を罪に定めている」と考えているのである。
「脱同性愛者の言うことは例外」ということにはならない。何故なら、私は異性愛者だが、シャーリンの言うことに賛成するからである。
だから、「イデオロギー」という言葉を使う小笠原氏自身が、実は、生きた人間を丁寧に見ておらず、彼自身の対抗的なイデオロギーの中で夢中になっている。「偏見だ、差別だ」と騒ぎながら、彼自身もまた「偏見」と無縁でないのである。なんと軽薄なことか。なんと「どうかしたこと」であることか。
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VS |
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LGBT問題の中にはこの二極対立しかないわけではないと知ることが大事。
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もう一度。
つまり,聖書のなかに同性愛に関する否定的な言説を読み取る者は,聖書の権威で自身の憎悪に満ちた差別的イデオロギーを飾り立てるために,聖書を誤読し,曲解しているだけである.
彼の口から「聖書の誤読と曲解」という言葉が飛び出すとは思わなかった。私は呆れ果てている。
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」