2016.05.27

ウイリアム・グリム神父は、あんな行状を為していても、
厚顔なことに、なお「善」を偽造する

「あんな行状」↑ については前回前々回を参照のこと。

さて、こんな記事がある。

クリスチャントゥデイ

2015年9月21日

2017年の宗教改革500年を記念して企画されている、ヨハネス・ブラームスの代表作「ドイツ・レクイエム」を演奏するコンサートについての記者会見が17日、お茶の水クリスチャン・センター(東京都千代田区)でキリスト教関係の報道各社を招いて行われた。このコンサートを企画するR500実行委員会から、日本基督教団赤坂教会牧師・伝道団体連絡協議会会長の姫井雅夫氏、メリノール宣教会神父のウィリアム・グリム氏、そして指揮を務める東京シンフォニア音楽監督のロバート・ライカー氏が出席し、宗教改革500年を記念するコンサートの意義や思い、今後の活動予定について報告した。

姫井氏はまず、この企画が、カトリックの神父であるグリム氏から持ち掛けられたものであることを明かし(…)

グリム氏は、「宗教改革により、キリストの体である教会が分裂したのは、カトリックにとっても、プロテスタントとっても悲劇だった」と言い、「再び一致させることは困難だが、同じ主を拝し、同じ霊に恵まれているという確信をお互いが持てば、恵みの機会になるのではないかと思っている」と話した。

このように、グリム神父は「分裂」を悲しむそうである。しかし、前回前々回の記事をつぶさに読んだあなたはこう言わなければならない──「よく言うよ」。

ねじれた人間性

彼は一つの顔を持っているわけではない。大抵はフレンドリーな笑顔を浮かべているだろうが、奥に別の顔を持っている。

ところが、人間の「人格」というものを見るに於いて、以前も言ったように「この人の性格はこう(柔和なら柔和、正義漢なら正義漢)」と単一的に、そして固定的に見がちな人たちは、そして「人間」というものを是非とも(なるたけ)好意的に見たい人たちは(私よりも性格がいいかも知れないが)、この種の人間の「二面性」に気づかず、信じて「乗せられる」傾向にあるのである。──私は、その種の人たちは前回前々回の記事を読んでさえ、「ここには彼なりの善意の動機があるのではないか」などと考えるのではないかと心配である。

上の記事の中には、引用しなかったが、その企画の意義を説明する言葉もある。「宗教改革」をカトリック信者が「祝う」なら、おかしいであろう。しかし、その記事は巧みに(でもないが)説明している。

カトリック側としては「宗教改革」を「祝う」のではない。決してそうではない。カトリック側にとってはその企画は、この500年の間の宗教方面ばかりでなく世界の多方面にあった大きな変化や動乱を振り返りながら、それにも拘わらずカトリックとプロテスタント双方にとってこんなにも神様の祝福や導きがあった、ということを「記憶する」ためのものだ。

何かそんなふうに説明している。
私にとってはこんなものは、その “上滑り感” に思わず虫唾が走るほどの単なる「レトリック」に過ぎない。が、頭を完全に「第二バチカン公会議」に持って行かれているカトリック信者たち(もちろん司祭を含め)は、これに簡単に頷くだろう。

会場は「東京カテドラル聖マリア大聖堂」

東京大司教区は以前、米国聖公会の同性愛主教を東京カテドラル聖マリア大聖堂の中に入れたことがある参照。そして今度は、グリム神父が立ち上げたその企画に同カテドラルを貸すようである。

クリスチャントゥデイ(同上

演奏会は、500年目の宗教改革記念日となる2017年10月31日(火)には、一般の音楽ホールであるサントリーホール(同港区)で行い、10月29(日)には東京カテドラル聖マリア大聖堂(同文京区)で開催したい旨を発表した。

「開催したい旨」とある。しかしこれは、グリム神父らが勝手に「開催したがっている」ということではない。彼らは既に東京大司教区から基本的な同意を得たのである。このような記者会見を開くこと自体、大司教区の了承なしに行なわれることはない。

同じことを伝える別の記事から。

クリスチャン新聞オンライン

2015年11月5日

(…)宗教改革500年を記念し、プロテスタント、カトリックの協力で、17年にコンサートを開こうというプロジェクトが進められている。プロジェクトを進めるのは、東京シンフォニア音楽監督のロバート・ライカー、メリノール宣教会神父のウイリアム・グリム、日基教団・赤坂教会牧師の姫井雅夫の3氏。そのためのR500実行委員会も立ち上がった。17年10月29日に東京・文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂で宗教者向けに、31日に港区赤坂のサントリーホールで一般向けに開催する予定だ。曲目は(…)。指揮者はライカー氏だ。

「宗教者向けに」とある。まあ、中心はカトリックとプロテスタントだろうが、或いは、仏教徒や神道家にも招待状を出すかも知れない。一つの大きめの「エキュメニズム大会」を目指したいのかも。

前掲記事と同じく、ここでも挙がっているのは3名の名前である。中心人物たち、と言っていいだろう。意外と、この3名ぐらいしか居なかったりして。しかし、聖マリア大聖堂を借りるためには3名で十分なのだろう。なにせ、その中の一人はかつて「カトリック新聞の編集長」まで務めた人なのだから。そして、その目的と精神は「エキュメニズム」なのだから。東京大司教区は抵抗できない。或いは、悪くすれば、二つ返事で了解しただろう。

さて、そして、私は一つの爆弾発言をしよう。

その音楽家はフリーメイソンである

カトリック信者、聞いて欲しい。下品な言い方を許して欲しい、耳を真に「かっぽじって」聞いて欲しい。
その3人の中の一人は「ロバート・ライカー」という名の音楽家であるが、彼はフリーメイソンである。(次回から説明)

つまり、ここにあるのは──
十分に「フリーメイソン的」な一人のカトリック司祭(グリム神父)が、実際にフリーメイソンであるところの一人の音楽家を引っ張って来て、東京カテドラル聖マリア大聖堂の中に引き入れ、説明・能書きはどうあれ「宗教改革500周年」のための一つのエキュメニカルな集会を開く──という、そういう構図なのである。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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