2016.05.27

フランシスカン・チャペル・センター(六本木教会)に於ける
二人の司祭の横暴と傲慢(と頭のおかしさ) Part 2

フランシスカン・チャペル・センターの聖体授与の臨時奉仕者の一人であるニール・デイ氏は、2016年2月17日、その一日の内に、かつて「カトリック新聞の編集長」であり、今は「跪く信徒を厳しく叱責する主任司祭の相棒である司祭(フランシスコ会員ではないのに、事実上、FCCのスタッフ同然の働きをしているメリノール会司祭)」となっているウイリアム・グリム神父との間で、次のような複数のEメールを交わした。

神父様方は同僚に、そして司教様方は司祭らに、とかく擁護的になるものである。時に盲目的なレベルに至るまで。しかし、これでグリム神父が「言った」「言わない」の問題はなくなる。「ウイリアム・グリム、かく語りき」なのである。

翻 訳

私の能力からして <誤訳皆無> の翻訳は期待できない。
が、大意に関しては問題ないだろうと思う。

が、念のため、原文を併記する(邪魔にならないように薄い色で)

ソースは全て ChurchMilitant.com の同じ一つの PDF
〔 〕と強調は管理人による付加。
グリム神父の文章もできるだけ上品に訳した。しかし、グリム神父の顔写真を添付させてもらった。

送信時: 

2016年2月17日 午後1時39分

送信者: 

ニール・デイ(Neil Day)

宛 先: 

Eucharistic Ministry

CC: 

ウイリアム・グリム(William Grimm)神父
ラッセル・ベッカー(Russell Becker)神父
カリスト・スイニー(Callistus Sweeney)神父
その他

件 名: 

Re: 聖体授与の臨時奉仕者会の2016年2月のスケジュール

親愛なるスパイク、お元気ですか?

Dear Spike, how are you?

聖体拝領についてですが、あなたがフランシスカン・チャペル・センターの聖体授与の臨時奉仕者たちに2月6日と12月21日の二回にわたって送ったメッセージによれば、日本カトリック司教協議会は “拝領者たちは、たとえ跪いたとしても、彼らが聖体拝領することは合法である” と示した、ということでしたね。

Regarding the issue of communicants receiving Holy Communion even if they are kneeling, based on your message to EMHCs at FCC, dated Feb 6th and Dec 21st, the CBCJ, has indicated that it is licit to do so.

日本カトリック司教協議会から出されたそれらの指針は、当初、いくらか誤解されていたに違いありません。今日でさえ私たちは、教皇様を誤解している他の国々の人々について読みます。

There must have been some initial misunderstanding about these guidelines from the CBCJ. Even today we read of folks in other countries who still misunderstand the Pope :-)

ところで、一つお知らせすれば、四谷の聖イグナチオ教会は今も、跪いた拝領者に御聖体を与え続けています。私は聖イグナチオ教会の一人の司祭と話したのですが、彼は実際、彼らは今でも跪いた人たちに御聖体を与え続けている、と言いました。フランシスカン・チャペル・センターでも、実際、二週間前の主日の御ミサでは、跪いた拝領者に御聖体が与えられました。

Anyway, as a heads-up, St. Ignatius Church in Yottsuya continue to give Holy Communion to communicants who kneel. I spoke to one of the priests at St. Ignatius and he said indeed they continue to give Holy Communion to those who kneel. In fact, two weeks ago at an FCC Sunday mass, Holy Communion was given to a communicant who was kneeling.

そのようなわけですから、私たちは、フランシスカン・チャペル・センターでも跪いた拝領者に御聖体を与えることは全く合法である、と言うことができます。

Thus, we can take it that it is indeed licit to give Holy Communion to kneeling communicants at FCC.

God Bless
ニール

God Bless
Neil

p.s. たぶん、混乱を避けるためには、跪くことを望む人たちに、聖体拝領の終わり頃に祭壇に近づいてもらうよう頼むこともできるでしょう。

p.s. Perhaps to avoid confusion, those who wish to kneel can be asked to come to the low altar area towards the end of the service.

送信時: 

2016年2月17日 午後2時38分

送信者: 

ウイリアム・グリム神父

それは違います、ニール。チャペル・センターで司祭が秘跡の執行を任されているならば、司祭に逆らおうとするあなたの決意は正当なものではありません。立つ姿勢がどうしても要求されねばならない理由は、まだ他にもあります。

No, Neil, it is not valid for you to decide to overrule the pastor when it comes to the administration of the sacraments at the Chapel Center. There are other reasons for insisting upon standing as the posture.

その一つは、跪くことに固執する人たちのせいで躓いた〔身体的に〕人たちがかつて居たということです。チャペルのレイアウトと行列が流れていることからすれば、跪くことは他の人々にとって危険なものとなります。

One is that we have had people tripped by those who insist upon kneeling. The layout of the chapel and the flow of traffic make kneeling dangerous to other people.

もう一つの理由は、跪くと言って聞かない人たちは、大抵の場合、そうすることで人々の注目を集めたいのだということです。彼らは、本当の意味では自分たちは会衆の他の人々とは交わりを持っていないのだ〔自分は彼らとは違うのだ〕、ということを強調したいのです。彼らに他の人々と分かれて祭壇に近づくよう頼むことは、問題を補強することになるだけです。
〔つまり、彼はデイ氏の p.s. に宛ててこう言っている〕

Another is that those who insist upon kneeling usually make a big show of doing so, emphasizing that in a real sense they are not in communion with the rest of the congregation. Asking them to come up separately only reinforces the problem.

だから、人々が聖体拝領する時、それをルールとすることが必要なのです。もしこれを受け入れることができないなら、あなたは聖体授与の臨時奉仕者の役目から降りなければならないでしょう。

So, the rule stands, as do the people receiving communion. If you cannot accept that, you will have to withdraw from the ministry.

送信時: 

2016年2月17日 午後3時27分

送信者: 

ニール・デイ

宛 先: 

ウイリアム・グリム神父

CC: 

Eucharistic Ministry、ラッセル・ベッカー神父、カリスト・スイニー神父、その他

件 名: 

Re: 聖体授与の臨時奉仕者会の2016年2月のスケジュール

親愛なるグリム神父。

Dear Father Grimm,

御反応とコメントに感謝します。

Thank you for your response and comments.

第一に申し上げなければならないことは、ラッセル神父に逆らおうとすることが私の意図ではないということです。私は説明を求めましたが、それに対して何の返答もなかったからなのです。

Firstly, it is not my intention to over-rule Fr. Russell.
I did ask for clarification but none came.

しかしながらこの問題は、聖体授与の臨時奉仕者のマネージャーであるスパイクからの一通のEメールの中で取り上げられました。すなわち、12月21日付のEメールの中で、私たちは跪いた拝領者たちにも御聖体を授けるべきだ、ということが明らかにされました。そのEメールを下に含めます〔添付するということ?〕。

However, this issue was referred to in an email from the EMHC manager, Spike, in a December 21st email where it was made clear that we are to give Holy Communion to communicants who kneel. The email in question is included below.

跪いた人々に御聖体を授けない理由としてあなたが追加的に挙げた理由については、私もあなたの心配を理解できます。〔しかし〕私たちの教会は全世界からの人々が集う国際的な教会なので、人々の中には、ここには跪き禁止のルールがあるということを知らず、また知らないために跪いてしまう人も出て来るように思われます。将来のどのような問題も醜聞も防ぐために、そのような状況を考慮に入れておくことが賢明なことなのではないでしょうか?

Regarding the additional reasons you listed for not giving Holy Communion to those who kneel, I can understand your concerns. Since we are an international church with people coming from all over the world, it seems likely that some people will be unaware of the rule that bans kneeling and so may kneel unknowingly. In the interest of preventing any future issue or even scandal, would it not be prudent to allow for such a situation?

私自身のことを言うならば、私は、この慈しみの特別聖年にあって、また教皇フランシスの模範に倣おうとしながら、もし彼らが跪いたとしても聖体授与を拒否しないのが慈しみ深いことだろう、と感じています。そしてこの事は、日本カトリック司教協議会とバチカンの指針とも一致したことです。

Regarding myself, I feel, in the Jubilee of Mercy and trying to follow the example of Pope Francis, that it is merciful not to deny a communicant Holy Communion if they kneel. And this conforms to CBCJ and Vatican guidelines.

もしこの事で私が聖体授与の臨時奉仕者の役目から降ろされなければならないなら、それは残念なことです。しかし、それなら、先の二つの日曜日にはフランシスカン・チャペル・センターの一人の司祭が跪いた拝領者にも御聖体を授けたこと*、その時、そこにラッセル神父も居たこと、それでもその事については何も言われなかったこと等については、どう考えればいいのでしょうか?

〔* 顔つきから見て、そう、よいお顔つきから見て、それはカリスト・スイニー神父様のことではないだろうか?〕

If it is that I am to be prevented from serving as EMHC, that would be unfortunate. But then how is it that a priest from FCC gave Holy Communion to a communicant who was kneeling two Sundays ago and with Fr. Rusell present at the time and for which nothing was said?

God Bless
ニール

God Bless
Neil

送信時: 

2016年2月17日 午後7時38分

送信者: 

ウイリアム・グリム神父

ニール。

Neil,

日本カトリック司教協議会は立ちながらの聖体拝領を求めています。そして、一つの例外として跪いての聖体拝領を許しています。〔しかし〕フランシスカン・チャペル・センターでは、私が言ったような理由から、その例外は認められていません

The CBCJ guideline calls for communion while standing, and allows for kneeling as an exception. That exception is not recognized at the FCC for the reasons I stated.

言わせて頂けば、あなたが大学院で神学の学位を幾つか取って、そして司祭叙階されて、大司教から教区司祭に任命されて、数十年の経験を積めば、このような物事がどういうものかを本当に理解できるのはそのような資格を持った人たちではないかと考える謙虚さを身につけることができる、というものではないでしょうか。管理人注1

Might I recommend that until you have a couple of graduate degrees in theology, are ordained, have been appointed pastor by the archbishop and have decades of experience that you have the humility to assume that men who have those qualifications might actually know what they are about.

世界の他の地域から出ている指針について言うならば、私は最近、誰であれ、聖体拝領のために跪いた者は破門される、誰であれ、跪いた人に聖体を与えた司祭は聖職停止にされる、と、そのように宣言した枢機卿を持つ司教区に居ました。私は、或る一人の司祭がそのことで司教を試したと聞きました。彼は聖職停止にされ、母国に返されました。その国の事情に於いては、そのようにすることが理に適ったことなのです。私の意見では、少し厳し過ぎるかも知れないとしても管理人注2。日本の司教たちが立つことを規準としたことも、上記の国が直面していたのと同様の問題に基づくものです。上記の国よりは厳しくないとしても。とにかく、この問題はこれまで、幾つかの破門と関係して来ました〔誤訳か〕。

As for guidelines from the rest of the world, I was recently in a diocese where the cardinal has declared that anyone who kneels for communion is excommunicated, and any priest who gives communion to someone kneeling will be suspended. I hear one priest tested the bishop on that one. He was suspended and sent back to his home country. In the context of that country, it makes sense, though it is, in my opinion, somewhat draconian. The Japanese bishops' making standing the norm is based upon the same problem that country's church faced, though it was less severe here. It did, by the way, involve some excommunications here.

ビル・グリム

Bill Grimm

送信時: 

2016年2月17日 午後11時15分

送信者: 

ニール・デイ

宛 先: 

ウイリアム・グリム神父、Eucharistic Ministry、その他

CC: 

ラッセル・ベッカー神父、カリスト・スイニー神父、その他

件 名: 

Re: 聖体授与の臨時奉仕者会の2016年2月のスケジュール

親愛なるグリム神父。

Dear Father Grimm,

コメントをありがとうございます。

Thank you for your comments.

日本カトリック司教協議会について言うなら、彼らはその公式サイトで公表している指針の中で次のように言っています。

Regarding the CBCJ, they state in their published guidelines on their official website, the following,

「ひざまずいて聖体を受けることを望む信者に対して、そのことだけを理由に聖体授与を拒むことはできない」

参照 日本語 英語

'it is not licit to deny Holy Communion to any of Christ’s faithful solely on the grounds that the person wishes to receive the Eucharist kneeling'
Reference:
www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/20141130en.pdf

私はその声明に関して次のように示唆させて頂きたいと思います。跪いた拝領者に御聖体を与えることに関するこの声明は、実際、それが跪く人の拝領をサポートしていることが大部分の人にとって明確な声明です。そして、それを理解するために神学の複数の学位が必要なわけでもありません。

Might I suggest that with this statement, giving Holy Communion to communicants who kneel is in fact a clear statement of support that most people would believe and the need for multiple theology degrees is not necessary to understand this.

あなたは、跪きは日本カトリック司教協議会が許している一つの例外であると、そして、フランシスカン・チャペル・センターではその例外を認めていないと、言いました。しかし、フランシスカン・チャペル・センターの聖体授与の臨時奉仕者たちは、御聖体拝領のために跪く人たちに御聖体の授与を拒否してはならないと明確に書かれた指針を与えられているのです。その指針は私だけに与えられたのではなく、フランシスカン・チャペル・センターの聖体授与の臨時奉仕者たち全員に与えられているのです。更に、フランシスカン・チャペル・センターに於いても、今も一人の司祭が跪いた拝領者たちに御聖体を授けています。そして彼は、それを禁ずる指針が存在するなどということをかつて一度も知らされたことがありません。従って、これは彼ではない誰か他の人たちに関する問題であり、そして出来るだけ友好的に対処されなければならない問題です。(これが私と私の神学的素養に関わる問題ではないことに注意して下さい)

You indicate kneeling is an exception made by the CBCJ and that FCC does not recognise this exception. Yet, EMHCs at FCC have been given clear expressly written instructions not to deny anyone who kneels for communion. This guideline has been given not just to me but to all EMHCs at FCC. Additionally, Holy Communion is still being given by a priest at FCC to communicants who kneel and no such guidelines forbidding this were ever made known to him. This therefore is an issue that involves other people and which should be addressed as amicably as possible. (Please note that this is not an issue about me and my theological background.)

フランシスカン・チャペル・センターはこれまで、跪く拝領者たちに御聖体を授けることを禁ずるどのような指針を文書として発行しましたか?

Has FCC any written guidelines that forbid giving Holy Communion to communicants to kneel?

あなたは、或る外国の或る枢機卿が「誰であれ、聖体拝領のために跪くならば破門される」と言ったと述べました。ここに私自身のコメントを書くよりも、このような問題に関してその枢機卿の言ったことと正反対のことを明確に表明しているローマのロベール・サラ枢機卿(典礼秘跡省長官)の言葉を参照するのがよいでしょう。更にまた、バチカンのウェブサイトの「典礼秘跡省」関係の場所を見るならば、『指針 あがないの秘跡』がその第91項で、次のように言っています。

You stated that a cardinal in a foreign location said that 'anyone who kneels for communion is 'excommunicated'. Rather than me make comment, it would be better to refer to Cardinal Robert Sarah (Prefect for Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacrament) in Rome on such matters who clearly mandates the opposite of what this cardinal said. Additionally, on the Vatican's website in relation to the 'Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacrament' and 'Redemptionis Sacramentum' article 91 says,

[91] 聖体の授与において、「聖務者は、適宜に秘跡を求める者に対し、その者がふさわしく準備しており、かつ法律上秘跡の授与を禁じられている者でないならば、それを拒んではならない」(177)ということを忘れてはならない。したがって、洗礼を受けたカトリック信者で、法律によって禁じられていない者はだれでも、聖体拝領を認められなければならない。それゆえ、たとえばひざまずいて、あるいは立って聖体を受けることを望む信者に対して、そのことだけを理由に聖体授与を拒むことは適法ではない。
〔177 教会法第八四三条第一項。同第九一五条参照。〕

[91.] In distributing Holy Communion it is to be remembered that “sacred ministers may not deny the sacraments to those who seek them in a reasonable manner, are rightly disposed, and are not prohibited by law from receiving them”.[177] Hence any baptized Catholic who is not prevented by law must be admitted to Holy Communion. Therefore, it is not licit to deny Holy Communion to any of Christ’s faithful solely on the grounds, for example, that the person wishes to receive the Eucharist kneeling or standing.

Reference:
http://www.vatican.va/roman_curia/congregations/ccdds/documents/rc_con_ccdds_doc_20040423_redemptionis-sacramentum_en.html

本日の最後として言えば、フランシスカン・チャペル・センターが全世界の人々のための国際的な教会であることに鑑み、この状況を見直すことが賢明と思われます。跪きたいと純粋に望む人たちを拒否することは厳し過ぎることのように思われます。実際上から言っても、そのようにすることは、会衆の面前で見苦しい事件が発生する可能性を過小視することであるでしょう。

At the end of the day, it would seem prudent to review this situation, with FCC being an international church for people all over the world. It would seem draconian to refuse genuine people who wish to kneel. Practically speaking, it would also lessen the chances of any unseemly incidents in front of the congregation.

私は今もキリストに於けるあなたの兄弟です。
God Bless

I remain your brother in Christ
God Bless

ニール

Neil

[管理人注1] はっきり言って、私はこういうところに彼の「下品さ」を感じる。彼はあらゆるものを持ち出してデイ氏を「謙虚」にしようとする。しかし、彼自身はと云えば、「謙虚さ」を大事にするような人間ではない。それは彼の言語行動から余りに明らかである。彼にかかれば、「謙虚さ」という善徳も、哀れ、一つの「道具」である。彼は、自分にとって都合の悪い人間を恐れさせ、できるならば退却させようとして、道徳を一つの「圧迫器」として使うのである。それがあまりに「見え見え」なので下品である。しかし、こういうのはこの種の人間によくあるパターンで、「虚偽性」の表われである。そして「冒涜性」の表われでもある。何故なら、神の喜び給う善徳をこのように道具化することは、結局のところ、神を冒涜することと等しいからである。戻る

[管理人注2] グリム神父は優しいというわけである。しかし、カトリック信者の中にはしばしば判断力の乏しい、「優しさ」と見るや訳もなく惹かれる人たちが居るので、言うが、グリム神父のこのような「優しさの醸し」は “まやかし” であるだけである。何故なら、「跪いた人に聖体を与える司祭をそれ故に聖職停止にし、母国に返す」などという処断は「厳し過ぎる」と云った問題ではなく、そもそも「不法」なものだからである。(この後でデイ氏が論証するように)戻る

補足)世のDV男は、初めに酷い事(不法、虐待)をしておきながら、後から一転、猫なで声で、「ごめん、ちょっと “やり過ぎた” かも知れない。でも、わかって欲しい、すべては君を愛しているからこそなんだ」などと言ったりする。そして、被害者は被害者で、恐れに捕らわれているために、それを信じたりする! カトリック教会の中にこれに似たプロセスがあってはならない。それは「やり過ぎ」だったのではなく、初めから「不法」だったのである。

グリム神父とベッカー神父こそが
「聖職停止」を検討されるべきである

グリム神父は「(カトリック教会の内部で、そのいずこかの地域で)跪いた拝領者に聖体を与えることが司祭に聖職停止や破門を呼ぶことがある」というようなトンデモナイことを言っているけれども、私は、フランシスカン・チャペル・センターであのような振る舞いをしているグリム神父とベッカー神父こそが「聖職停止」を検討されるべきであると思う。

もっとも、あの本田哲郎神父のことさえ放置して何もしない教会の中では、私の上の言葉は人の耳に「突飛」なもののように、或いは「過激」なもののように響くかも知れない。しかし、本当にそのようなものかどうかを考えてもらいたい。

日本の権威当局の言葉

日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針
(2014年)

3(…)しかしながら、ひざまずいて聖体を受けることを望む信者に対して、そのことだけを理由に聖体授与を拒むことはできない4) 。

4)教皇庁典礼秘跡省指針『あがないの秘跡(2004年3月25日)』91(Redemptionis Sacramentum)参照。

PDF

神父様方が(特に司教様方と典礼学者たちが)この文言をしぶしぶ入れたのだとすれば、グリム神父のあれらの言葉を読んだ時、グリム神父の聖職停止を検討するどころか、「これは、かなりの程度、私たちの気持ちを代弁するものだ」と感じて終わるかも知れない。

しかし、教会をそのような “気持ち” で運営されては困る。
あなた方の「理性」に物を言わせて下さらなければならない。

あなた方の隠された “気持ち” がどうあろうと、あなた方はあなた方の公式な「指針」の中に上のように書いたのである。そうであれば、あなた方のそばに「司教協議会はそれを一つの例外として許しているが、ここでは許されない」と信徒に向かって言う司祭が居るならば、「そんなことを言われては困ります」と言うぐらいのものがなければならない。それはそうだろう、当然なければならない。

そう言わずにそのような司祭を放置するならば、あなた方は信頼の置ける人たちではない。御自分たちの「指針」の言葉さえ御自分たち自身で軽んじているからである。その時、あなた方は「適当にやっている人たち」ということになる。

「なぁに、あの文言は聖座に対する謂わば “お愛想” として言ったまでで、私たち自身としてはあんなこと、そう大して重要だとは思っていない」と心の裡で秘かに思い、何もしない、そのような「司牧者」を私たちは持ちたくはない。

上掲のあなた方の「指針」は、もともとは「法」の視野の下に言われたものである。と云うのは、あなた方は『指針 あがないの秘跡』の第91項を引き合いに出して上のように書いたわけだが、典礼秘跡省からのその指針は「教会法」を引きなどし、明らかに「法」の視野の下に言っているからである。

『指針 あがないの秘跡』(2004年)
の日本の公式訳(2007年)

91 聖体の授与において、「聖務者は、適宜に秘跡を求める者に対し、その者がふさわしく準備しており、かつ法律上秘跡の授与を禁じられている者でないならば、それを拒んではならない」(177)ということを忘れてはならない。したがって、洗礼を受けたカトリック信者で、法律によって禁じられていない者はだれでも、聖体拝領を認められなければならない。それゆえ、たとえばひざまずいて、あるいは立って聖体を受けることを望む信者に対して、そのことだけを理由に聖体授与を拒むことは適法ではない

(177)教会法 第八四三条第一項。同第九一五条参照。

このような文章の構造であるから、あなた方の上掲の指針は語尾を「できない」としているけれども、本来はこのように「適法ではない」とするのが正しいだろう。

それは単語レベルのこととしても言えることである。『指針 あがないの秘跡』の英語公式訳(Vatican)はこの語尾を「not licit」としている。「licit」を辞書で引けば「合法の、正当な」などと出る。それはもともとそういうニュアンスの言葉である。「正当な」ぐらいのニュアンスで言われることもあるかも知れないとしても、とにかく単に「できない」というのとは違う。

あなた方も、あなた方自身のその指針の英語版では、『あがないの秘跡』に忠実に「not licit」としているではないか。語感を弱める意図があったのかどうかは知らないが、日本語版に於いてだけは「できない」としたわけである。

それで──今回の件の場合、何かが「適法でない」でないとすれば、それは何か。或いは、誰か。
グリム神父はニール・デイ氏の主張に対して「それは正当ではない(not valid)」と言ったけども、では、ニール・デイ氏の主張が「適法でない」のか。(とんでもない)

私たちがおよそ「まとも」な頭を持っているならば、「正気」な心を持っているならば、「標準的」であるだけの「考える力」を持っているならば、答えは逆であることが簡単に分かる筈である。

答え: 

グリム神父とベッカー神父の主張と振る舞いこそが

「適法でない」「not licit」。

これ以外の何があるか。あらゆる司教区がこの「常識」を弁えなければならない。(私も偉そうに言ってますが、しかし以上の事は、別に言ったからとて威張ることのできない、ごく「当り前」のことですよね。これらの司祭たちが「おかし過ぎる」のです)

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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