2016.01.14

レルカーロ枢機卿 2

英国のカトリック紙 The Tablet の1968年の記事を試訳します。

その新聞は Wikipedia に依ると「進歩的」だということです。
「進歩的」な新聞は進歩的なものを “ひいき目” に見ますか?
「保守的」な新聞は保守的なものを “ひいき目” に見ますか?
どちらもバイアスと無縁でありませんか?
おそらく然り。もちろん然り。しかしそれでも、どんな新聞からも一定の「事実」は抽出できるものでしょう。

私は、この記事中、「非公式の告発」の内容を重視します。そこには必ず一定の「事実」があるだろうからです。つまり──保守派は進歩派のことが憎らしい、進歩派は保守派のことが憎らしいとしてみましょう。しかしそれでも、相手方の評判を落とそうとして全く何もないところから悪評を立てることができますか? この記事を書いた記者は「これはレルカーロの評判を落とそうとする者たちの努力以外の何ものでもない」というふうに書いていますが、よく考えてご覧なさいです、事実性の全く存在しないところからこのようなことを書くことができますか?──フリーメイソンが悪評を “利用” して誰かを追い出そうとする場合に関してさえ、同様に言えます。悪評は必ずしも “事実無根” とは限らず、むしろ「火のない所に煙は立たない」ことの方が多いのだと、私などは思います。

画像と強調と〔 〕は管理人による付加。

The Tablet archive

The TABLET

The international Catholic news weekly

Page 7, 6th April 1968

一人の進歩主義者の失墜

The Fall of a Progressive

By Desmond O'Grady

先週のコラム「世界の中の教会」で我々は、レルカーロ枢機卿の「自発的な退任」について某方面で持たれている疑念についてレポートした。我々が以下に示す記事は、それらの疑念には余りある根拠があることを示唆するものである。

教区司教とローマ・クリアの両方に対して教皇が手にしている自由裁量権は、恣意的な決定に見えるものへの反発を招くだけである。ジャコモ・レルカーロ枢機卿(ボローニャの大司教)に対して出された解任辞令がその好例である。

オッセルヴァトーレ・ロマーノと幾つかの通信社はこの2月、レルカーロ枢機卿は加齢と健康不良のために退任したと報じたが、それは単に公式声明を繰り返しただけである。レルカーロのケースについて知られた数少ない事実の一つは、彼は解任辞令を受けたということである。

Mgr Civardi

数人の関係者の話によると、その辞令はモンセニョール・エルネスト・シバルディ(司教聖省秘書)を通して送られた。シバルディは〔1968年〕1月27日午前11時頃、枢機卿の Villa San Giacomo に到着した。彼はアポイントを取っていなかったが、即時の面会を求めた。レルカーロ枢機卿が、自分はシバルディのために何ができるかと尋ねると、シバルディは、あなたは大司教区を去らねばならない、と告げた。レルカーロは、命令は教皇から来ているのか、それともローマ・クリアから来ているのか、と尋ねた。それは良い質問だった。するとシバルディは、レルカーロが1952年にピオ12世に送った一通の書簡を取り出した。それはレルカーロに対するボローニャ大司教への指名に関するものだった。その書簡の中でレルカーロは、教皇様は「どんな時にも私の身に構うことなく私から司教区を取り去る」ことをためらいなくして下さらなければなりません訳注1と書いてあった。

レルカーロ枢機卿は、自分はいつ離れるべきかと尋ねた。すると、日付はあなた自身で決めることができるが、できるだけ早くしなければならない、と言われた。枢機卿は15日間の猶予を求めた。シバルディは同意したが、レルカーロに、2月12日までは彼の退任のことを誰にも言わないようにとアドバイスした。

「去りなさい」 それで、私は去ります. . .

Mgr Amleto
Cicognani

オッセルヴァトーレ・ロマーノは、84才のアムレト・ジョヴァンニ・チコニャーニ枢機卿の署名入りの一通の書簡を、その書簡の日付と同じ日の紙面で発表した。その書簡は、司教区を離れるというレルカーロの「自発的な決定」に対する教皇の慈悲に触れていた。しかしその日、レルカーロ枢機卿は大司教としての最後のスピーチをボローニャ・カテドラルで行ない、彼の聴衆に向かって彼がなぜ去ろうとしているかを説明した。「今から約16年前、キリストの羊の群れの最高牧者が私に言いました、『行きなさい』と。それで、私は来ました。信頼して、恐れることなく. . . そして今日、最高牧者は『去りなさい』と言います。それで、私は去ります。穏やかに、そして従うことに満足して. . . 」。

バチカンはレルカーロ枢機卿は解任されたという事実を隠すための共同コミュニケを出す必要を見落としていた。

今から数年前、レルカーロ枢機卿は、ボローニャ大司教と典礼改革のための委員会の委員長という二重の役割を負担に感じ、ボローニャを去ってローマ・クリアのフルタイムのメンバーとして彼のすべての時間を典礼の改革につぎこむことを望んでいる、と言われていた。しかし〔1968年〕1月10日、礼部聖省(Congregation of Rites)と典礼委員会(Liturgical Commission)は統合され、典礼改革の問題はレルカーロの手から逃げて行った。訳注2

彼はボローニャ大司教区のために新しいエネルギーを見つけたようだった。アルヴァ・アールト丹下健三ルイージ・ネルヴィといった建築家たちが、ボローニャに新しい教会を作る仕事を契約していた。そして新年を迎えるとレルカーロは、大司教区は公会議の適応を促がすために再編成されると発表した。彼はドイツとアメリカへの旅行を計画した。

彼の突然の退任の理由について公衆の間に激しい推測が起こった。大部分の解説者は、それを世界平和の日に於ける彼のスピーチに起因するものと見た。その中で彼は、教会は信仰家を作らなければならない、政治家ではなく、ベトナム戦争を云々することではなく、と言った。

しかしレルカーロは、そのイニシアチブと実験性に於いて広汎に及ぶ影響力を持った地方教会としてのボローニャの教会について彼が持つ全体的なコンセプトがローマの多くの怒りを買ったから解任されたのかも知れなかった。教会の行動は単に信心深くなければならないだけだと信じながら彼は、ボローニャの共産主義政権との極めて心のこもった関係(extremely cordial relations)を確立した訳注3。彼の地域の教会はその地域が教皇領の一部だった時代に特徴的だった信仰と政治の混成によって未だに苦しめられているとする彼の見解は、幾らかの司教たち(例えばラヴェンナのサルヴァトーレ・バルダサーリ大司教)と多くの若いカトリック信者たちによって共有されていた。イタリアに於ける最近の司教総会でバルダサーリ大司教は、教会は5月の総選挙でキリスト教民主党を支援してはならないと主張する人々の中の一人だった。しかし、イタリアの教会は純粋に信仰的関心を持っている姿を示すべきだとする見解で最も影響力を持っていた主唱者であったレルカーロ枢機卿は、それに同調するためにその場にはいなかった。と云うのは、彼の解任はその司教総会の少し前に言い渡されていたからである。

昨年〔1967年〕、唯一自由主義的だったカトリックの日刊紙 L'Avvenire d'Italia のコントロールが別の者の手に渡った時、ボローニャの教会の解体が始まった。フィガロ紙の記者であるアベ・ルネ・ローランタンのような人たちはその新聞の公会議に沿った方向性は世界で最高のものだと考えていたけれども、その主体的な独立性が全てに於けるカトリックの統一戦線にとって脅威と見なされた時、それは生き残ることができなかった。L'Avvenire、それはボローニャから発行されていたが、危険なレルカーロ派の送話口と見なされていた。

イタリアの左派新聞がレルカーロ枢機卿の退任の裏には政治的な動きがあったと主張した時、ネオ・ファシスト週刊誌 Il Borghese は1967年3月15日の誌面で、ボローニャ大司教区に派遣された一人の教皇視察訪問者に依るものとする「その大司教はその不適格のために解任された」とするレポートを伝えた。そのレポートは、近年彼らが進歩主義者の評判を落とすことができる時にはいつでもその種の機密文書を使って来た教理省の、その同じイタリア人の役人によってその極右新聞に持ち込まれたものと思われている。〔しかし〕1967年にはどのような公的な教皇視察訪問者もボローニャ大司教区には送られていない。〔従って〕そのレポートは、ローマ・クリアが大司教区に知らせることなく送り込んだ観察者か、或いは大司教区内に居る不満分子によるものだろう。

非公式の告発

その「教皇視察訪問者」のレポートは、レルカーロ枢機卿は理性よりもフィーリングに影響されている、そして彼のイニシアチブは非実際的で、時宜にも適っていない、と述べている。その一例として、彼のアフリカ支援のための委員会の設立を挙げている。ボローニャ大司教区の不足に取り組むべきであるのに、と言っている。

そのレポートはまた枢機卿のナルシシズムを責めている。その証拠として次のようなものを挙げている。子供たちのカーニバルへの参加。それは彼が毎年企画しているもので、「彼と彼の秘書(それらの祝日の一つで女性のような装いをした人)が坐っている所で、吹き流しや紙吹雪などを使い訳注4… そしてまた、重要人物たち(騎士の称号を得るために高い金を払うが、その騎士団がかつて持っていた意味は見失っている人たち)の自惚れをおだてるためにデザインされた聖墳墓騎士団の入団式」。

レポートはまたこう続けている。大司教区は放っておかれ、ほとんど「牧者なし(non habentes pastores)」の状態である。そしてこう非難している。レルカーロはアールトのような値の張る建築家たちと「人々がそれを教会としてよりもむしろ、その中であらゆるエキセントリックなことが行なわれ得る劇場か展示場として認識するであろう奇妙な実験場」を建てることを契約している。またそのレポートはレルカーロ枢機卿の政治的判断を批判し、また司教団の他のメンバーたちに対する彼の人を傷つけるような評言を遺憾に思う旨を表明している。それはレルカーロの言葉として次のようなものを挙げている。シリ枢機卿については「田舎の教区司祭のメンタリティを持った不適格な枢機卿」。バッチ枢機卿については「キケロの言葉が刻まれた役立たずのカリアティード」。スタッファ枢機卿については「カビの生えた伝統の濃縮物」。訳注5

管理人による挿入

レルカーロとアールト

レルカーロと
シリ枢機卿

現代的な建築家には喜色満面。しかし伝統主義的な同僚たちに対しては徐々に嫌悪感が増していったというわけでしょうか? そうだとしたら、悪魔のいざない。

そのレポートは次のようにこの枢機卿のことを要約する。「堕落した(in decline)、非常に物議を醸す人物。良い記憶はほとんど残していない。唯一挙げるとすれば、たぶん、そしてこれは小さな事ではないだろうが、彼の慈善 … 」

そのレポートはレルカーロ枢機卿についてよりもその筆者についてより多く語っている。そしてその記述はただイタリアの教会の中でレルカーロの評判を落とそうとする最も反動的な者たちの連続的な努力の最後の部分以外の何ものでもない。その最も騒々しい試みはアントニオ・バッチ枢機卿によって序文を書かれているティト・カジーニの1967年の本であり、それはレルカーロのことを「ボローニャのルター」と評している。訳注6

最初にボローニャに指名された時、レルカーロ枢機卿は最も反動的なイタリアの司教たちの内の一人だった。彼は、選挙演説が行われる期間中、共産主義者に対抗しながらオートバイに乗って司教区の中を旅する聖職者たちの遊撃隊を組織した。カトリックの或るカップルが民事婚を結ぶことによって公然たる罪人になったとしてプラート〔地名〕ピエトロ・フィオルデッリ司教が説教壇の上から非難した時、イタリアの法廷はそれに反した決定を下した。するとレルカーロは、ボローニャの諸教会を黒で飾り、朝は鐘を鳴らすようにと命じた。

レルカーロとドセッティ

のちに、なぜ自分の見解を変えたのかと問われた時、レルカーロ枢機卿は、自分は或る時点で、新しい時代の流れと他の人々の声に注意を払うことは必要だと決めたのだ、と答えた。その「他の人々」の中の一人は、疑いもなく、ジュゼッペ・ドセッティ神父である。レルカーロによって司祭叙階される前、左翼政党であるキリスト教民主党のリーダーだった人物。訳注7

しかしレルカーロは、ドセッティによって後を継がれることはなく、穏健派と見られているアントニオ・ポーマ司教によって引き継がれるだろう。レルカーロが発表していた “司教区の運営に民主的に選ばれた信徒を導入する” という構想を、そして「現代世界憲章」に従いながら司教区の若者たちを平和について教育するという計画を、ポーマ司教が引き継ぐだろうと考えるなら、時期尚早というものだろう。しかし、もしレルカーロの解任がレルカーロの構想していた公会議の適応に対する不承認を意味するならば──そしてそれ以外の解釈は難しいということならば──ボローニャに於いて変化がありそうである。

しかしながらレルカーロのケースは、ボローニャを越えて疑問を投げかける。第一には、もし全ての司教が75歳を過ぎてからも解任されることが可能であるというなら、そうならない司教たちは追い払われる司教たちよりも満足だろうということである。これは最も不愉快な比較へと導く。つまり、明らかに、バチカンにとってはレルカーロ枢機卿よりもマッキンタイア枢機卿の方が公会議の精神により近いということであるわけだろう。

或いはまた、レルカーロ枢機卿の誤りは公会議を実践に移そうとする試みにあったのか。事実は、彼は彼がピオ12世に宛てた書簡に基づいて彼の場所からそっけなく取り去られたということである。モンセニョール・シヴァルディは、彼の解任は彼の年齢に関係すると装おうともしなかった。彼は単にレルカーロに拒絶を与えるために行ったのである。

教皇と司教の間の協働性と交わりに関して公会議が確認した後、レルカーロのケースは明らかに教会論に新しい章を開いた。あなたはこれを1984年の出来事と思うかも知れない。或いはまたあなたは、このケースは王とそのサトラップ〔地方行政官〕たちの関係の方により近い初期の権威主義的なスタイルへの逆戻りを印すものである、と言うかも知れない。

訳注

[訳注1] 謙遜の言葉。戻る

[訳注2] この記者の言う「典礼委員会(Liturgical Commission)」とは「典礼憲章実施評議会(Consilium)」のことでしょう。で、この記者が言うように、礼部聖省とコンシリウムは1968年の1月に「統合」され(コンシリウムがなくなったのではなく、礼部聖省の中に置かれ)、それを機に議長が変わったようです。そして、上の記事が確かならば、それから20日も経たない内に、レルカーロ枢機卿は今度はボローニャ大司教としても退任することを求められます。

その辺の流れ

1588.01.22   

「礼部聖省」設立される。

1964.02.29   

「コンシリウム」設立される。
議長 ジャコモ・レルカーロ枢機卿
秘書 アンニバーレ・ブニーニ神父

1968.01.09   

コンシリウムの議長が替わる。
新議長 ベンノ・ガット枢機卿
秘書 アンニバーレ・ブニーニ神父

1968.02.12   

レルカーロ枢機卿、大司教職から退任。

1969.05.08   

礼部聖省、「典礼聖省」に改名。
これと同時に「コンシリウム」廃止
(典礼聖省の中に吸収される)

1976.10.18   

レルカーロ枢機卿、帰天。

参考 GCatholic.org GCatholic.org Catholic-Hierarchy

つまり、とにかく、細かい事は別にして、レルカーロ枢機卿は1968年の1月をもって「コンシリウム」の議長の座から降りたのです。戻る

[訳注3] 彼はよくある形態の聖職者であったのでしょう。理論的・厳密には、確かに「反共」と言えるのだろうが、人間的・心情的には、実際のところ、かなり「親共」でもある、みたいな。

Wikipedia: Giacomo Lercaro

反共
共産主義に対する率直な批判者としてのレルカーロの評判が、ピオ十二世の、彼をラヴェンナ〔地名〕初の大司教にし(1947年1月31日)、第20代目のボローニャの大司教にする(1952年4月19日)という決定に貢献した要因であると思われている。その二つの都市は、共産党に支配されたイタリアの最も大きな都市の中に数えられると考えられている。

(…)

貧者の教会
レルカーロ枢機卿は、1970年代にラテンアメリカで大いに発展した「貧者の教会 Chiesa dei poveri」の理論を世に広めた最初の人物でもあった。彼がボローニャの大司教であった期間中、ボローニャに於いて最も人気のある政党はイタリア共産党であったが、彼はその政党のメンバーたちとの対話を構築しようと努めた。

戻る

[訳注4] その「子供たちのカーニバル」の動画があります。時は1954年、所はボローニャ。レルカーロ枢機卿の姿もあります。そして、紙吹雪あり、「女性のような装いをした人」ありで(女性でしょ?)、その “レポート” の言う通りではないかと思います。

Cinestore

私は、こういうのは謂わば「子供たちのためのサンタクロース的な愛のサービス」だと思います。「愛」と云えば、そりゃ愛かも知れないが、特に「信仰的」であるわけではない。気のいい浅慮。

で、上で「1954年」と赤太字にしたのには理由があります。
1954年と云えば第二バチカン公会議より前です。私はこう言いたいのです、「へぇ、なるほど、レルカーロ枢機卿は、石井さんの言う通り、“先見の明” があったのですね。ずいぶん早くから、人間中心主義的な傾向をお出しになっていたのですね」と。戻る

[訳注5] 当サイト管理人も真っ青の言い方。戻る

[訳注6] ティト・カジーニの1967年の本と云えば、次の二冊のようです。

  • 引き裂かれたトゥニカ:「典礼改革」に関する一カトリック信者の手紙 LA TUNICA STRACCIATA. Lettera di un cattolico sulla "Riforma liturgica".  全文

  • Dicebamus Heri... La "Tunica stracciata" alla sbarra.  全文

Tito Casini(1897 - 1987)
Wikipedia

Joseph Büttgens という人が描いたティトの肖像。ティトの IL POEMA DEI PATRIARCHI という本の中にある絵らしいです。それは1932年の本だから、これはティトが35歳ぐらいの時の肖像でしょう。戻る

[訳注7]  「リーダー」とは云っても「党首」そのものではなかったようです。少数派閥のリーダー、そしてもう少し上に行ったようですが. . .  とにかく “リーダー格の一人” という感じ。
彼はレルカーロ枢機卿によってボローニャ大司教区の教区長代理(vicar-general)に任命されたようです。

Arkansas Catholic Newspaper Archive

THE GUARDIAN

JANUARY 20, 1967

ボローニャの次期教区長代理は
かつて政治のリーダー

Bologna's Pro-Vicar General
Is Former Political Leader

ボローニャ(イタリア)(NC) かつてイタリアのキリスト教民主党が優勢であった頃のその元指導者が(彼は1959年、46歳の時に司祭に叙階されたが)ボローニャ大司教区の次期の教区長代理に指名された。

ボローニャのジャコモ・レルカーロ枢機卿はジュゼッペ・ドセッティ神父をイタリアのレッド・ベルトと呼ばれている地域〔共産党が優勢な地域〕の中央に位置する工業が盛んな大司教区の次期教区長代理に指名した。次期教区長代理への指名は暫定的なものであり、司教区の再編が完了した後で変更されるだろう。〔中略〕

1950年代の中頃、彼は司祭職のための勉学に入るために公的生活から身を引いた。そして1959年に司祭叙階を受けた。彼は第二バチカン公会議中、レルカーロ枢機卿のアドバイザーであった。そして、司祭叙階を受けてから一貫してボローニャ大司教区の運営に於いて積極的な役割を演じた。

Oxford Journals

ジュゼッペ・ドセッティ。1950年代の後期と1960年代の前期に於いてレルカーロの秘書且つ教区長代理。ドセッティは注目すべき経歴を持つ。1955年までフィレンツェのキリスト教民主党のリーダー。共産党がボローニャ市議会選で勝った後、彼は司祭叙階を受けた。

私は、何となくですが、ドセッティという人は誠実な人なのではないかと思います。しかしながら、非常に誠実な政治的関心(=人類同朋への愛)を持っていたとしても、それだけでは「宗教」は分からない──というところが、宗教の難しさだろうと思います。
例えば、Wikipedia によれば、彼は政治家だった頃、「貧困層の救済のための社会変革」を謳ったそうです。私は、それは善い、必要なことだと思います。しかしながら、そのような方向性から司祭になった司祭は、宗教の純粋に宗教的な側面にどれほど “まともに” アクセスできたものでしょうか。例えば「全実体変化」。彼はそれをどれほど “まともに”(straightly)「信ずる」ことができたものでしょうか。「それは一つの強調的な言い方だろう」とも言わずに。
政治的関心から入った司祭全てに於いて、この種の危うさは常に付きまとうものだろうと思います。日本の神父様方などはここをおおらかに「神様から受けたタレント(賜物)は人それぞれですから」とか言いそうですが、司祭全てが多かれ少なかれ、ポール・ロッカじゃないけれど、「キリスト教社会主義」の一員となってしまったような現在、のんびりそのようには言ってられないに違いありません。

付け足し:「福音の本質的目的は社会変革にある」と思っているような司祭は、例えば御聖体拝領の際の拝領者の身体姿勢の問題、「立つか、跪くか」について、真剣に考えると思いますか。考えるわけがありません。そのような司祭にとっては、「そんなことは非本質的なことである」、これで終わりです。しかし、それでいいのでしょうか。いいわけがありません、「全実体変化」の問題と同様に。──私たちの宗教は真に “宗教的” な次元を失い、“地上的” になり、殆ど「社会理論」に、“社会理論に少し毛の生えたようなもの” になっています。

最近(2011年)イタリアで、レルカーロ枢機卿とドセッティについての本が出たようです。『ドセッティとレルカーロ: 第二バチカン公会議の見地から見た貧者の教会と貧しい人々』 amazon.it

やはり「貧者の教会」が一つのキーワードになるようです。
..「解放の神学」でしょう。戻る

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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