2015.12.06

カトリック信者には普通の推理力さえないのか

私は思います、
あなたの中にはまだ「陰謀論」という言葉があるだろうかと。
つまり「笑うべき言葉」としてのそれがあるだろうかと。
そして、もしそうならば、こう言いたいのです──
私たちは今まで幾つものものを見て来たではありませんかと。

まず最初に私たち(私)の目に入って来たのは「イルミナティの極秘指令」、そして「AA1025」の物語あたりでした。
それらはあまりに現在の教会の状態と符合していて、人によっては「話があまりに “出来過ぎ” ていて、かえって信じられない」と思ったほどでした。そして確かに、それらは「不確実情報」でした。いわゆる「証拠」のないものでした。

しかし、私たちに与えられたのはそれだけではありませんでした。私たちには「ベラ・ドッド」や「ダグラス・ハイド」などの元共産主義者であった人たちの「証言」もありました。これは「証拠」に近いものです。世の裁判でも「証言」は真面目に聞かれます。

それからまた、最近、実在するフリーメイソンの発行物の中の言葉も見ました。これは或る種の「証拠」です。或る種の。
そしてそれと共に、不確実情報と言えばそうだが、それに類似した、やはり一定の洞察力を感じさせる彼らの「計画書」と言われるものを幾つか見ました。参照

それからまた、これも不確実情報と言えばそうには違いないが、ブニーニの書簡とされるものの内容と『トレス・アビンク・アンノス』や『インテル・エクメニチ』などの典礼に関する指針との間に不思議な符号があることも見ました。参照

それからまた、「メモリアーレ・ドミニ」周りの “非常に感心できない動き” とでも言ったようなものも見ました。
そからまた、およそ真面目とは思われない、言葉の上だけの言いくるめ・言い張り、インチキな文章運び、“文章詐欺” ──と言うべきものも幾つか見ました。参照

それから、フリーメイソンの生の声を伝えるものも見ました。

ユダヤ人の危険性とカトリック教会
(「ユダヤ人」というより「フリーメイソン」です)

フリーメイソンの檄文とチャペルの爆破

これら諸々の全てを見ながら、なお私たちの中にどのような “累積する印象” も残らないかのように、私たちの中でどんな自然な推理力も働かないかように振る舞うなら、私たちはほとんど、「ば」に始まって「か」で終わるような何かではありませんか ???

私は時々画像編集ソフトを使います。もちろん素人ですけれど。
で、下の一番左の四角は「黒、不透明度10%」の画像です。

で、それを二枚、三枚と重ねていくと、当然ながら、黒色は濃くなっていくわけです。(左から右へ)

これと同じで、もし「疑惑度10%」が一つだけなら、あまり深刻に受け止めなくてもいいかも知れません。しかし、それが二つ、三つ、四つ・・・と重なって来るなら、私たちは同じ態度でいてはいけません。違いますか?

私が思うに、こういう判断法は人間にとって「基本的」なものです。しかし、私たちは教会の事柄に於いてこれをやりません。幾つものものを見ても「それは “憶測” に過ぎません、“噂” に過ぎません」と頑張ります。
もちろん、ここには「教会の信頼性」という事がかかっているから、或る程度は分かります。しかし、それだって、度を越えれば、「ば」に始まるものになるのです。“盲目” になるのです。違いますか?

神父様方もたまにはムツカシイ書物を横に置いて、庶民向けの「ことわざ辞典」を開いて下さい。「火のないところに煙は立たない」

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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