長野県飯田市上村  下 栗 の か け 踊 り か ら


    長野県飯田市上村  下 栗 の か け 踊 り か ら(平成8年) にもど る。



 旧長野県下伊那郡上村の「下栗は長県南の飯田市上村、南アルプス聖岳の麓、遠山谷本谷川を遡った最奥の集落である。標高 七〇〇〜一 〇七〇メートルの急傾斜地(最大傾斜三十度)に拓かれ、日本のチロルともよばれている。過疎化が進み平成二十一年八月現在、世帯数五 十二、人口一一九名。昭和三十年代の人口は三〇〇名を超えていたという。」(「『下伊那のかけ踊』調査報告書 平成二十一年度文化庁 『変容の危機にある無形の民俗文化財の記録作成の推進事業』」30頁、以下「下伊那」と略す。)ごく大雑把に言へば、天龍村から旧南 信濃村、上村に入り、その中心たる上町から車で15分ほどであらうか。上村小学校を越えて右に入り、そこを上つて行くと下栗である。
 このやうに説明される下栗は、「日本のチロル」と呼ばれる名の知れた土地であるから、私は地名事典からすぐにその概要は知れるだら う と思つてゐた。ところがさうではなかつた。角川と平凡社の地名事典に、この下栗といふ地名が出てこないのである。上村の字名かと思つ たのだが、どうやら上村では下栗を使はないらしい。「南信州上村 遠山谷の民俗」(以下「遠山谷」と略す。)には程野、中郷、上町、 下栗の4地区に分けて説明されてゐる(11〜12頁)が、現在の住所は住居表示の番地番号であつて、観光用に下栗等は残されてゐると いふのが実情であるらしい。そんな事情もあつて地名事典に出てこないのであらうか。このあたりの事情は、私にはよく分からない。
 この「遠山谷の民俗」刊行が昭和52年、この時の上村の人口は1336人(9頁)であつた。上村の南にある南信濃村との「人口は両 村 合せて五一一一人で、一〇年前の昭和四〇年の六八四七人にくらべ、約二五%も減少している。」(同前)これは遠山谷全体である。人口 は「今後ますます減少し過疎化の進行が予想される」(同前)ともある。現在は正にこの通りの状況である。下栗もその例外ではあり得な い。飯田市上村自治振興センターによれば、昨年、令和3年7月末現在、戸数40、人口84であるといふ。文化庁の調査報告書がまとめ られた時点では119名であつた人口も、現在では90人を切つてゐるのである。
 そのやうな下栗は霜月祭で有名である。場所は拾五社大明神、標高約1000メートル、12月中旬の雪も舞はうかといふ祭である。こ の 神社名は「遠山霜月祭〈上村〉改訂版」(9(295)頁、以下「霜月祭〈上村〉」と略す。)によつた。「遠山谷」には正八幡神社とあ り、「下伊那」には拾五社大明神社とある。また、インターネットの一部には拾五社大明神神社ともある。「霜月祭〈上村〉」には、 「『山の祭り』『遠山氏史跡』では、『正八幡社』(鎌倉八幡社)と記している。」(同前)とあるから、以前は正八幡社が一般的な呼称 だつたのであらう。しかし、現在、一般的には拾五社大明神と称してゐるはずである。特に霜月祭に関してはほとんど拾五社大明神となつ てゐるはずである。それらにならつてこの名称を使ふ次第。御海容を乞ふ。
 霜月祭は下栗だけでなく遠山谷全体で、現在は計10カ所で12月中に行はれてゐる。どの地区も、面形の舞の頃には大きくもない舞庭 は 人にあふれることになる。
 ところがかけ踊りは違ふ。場所は同じく拾五社大明神である。初めは拝殿内での神事である。「宮元禰宜の音頭取りで拾五社大明神社の 神々に向かって@祝詞、A一切成就の祓い、B三種の太祓い、C六根清浄の大祓い、D般若心経、E浄めの神楽(その一、その二、 七五三引きまで)を唱える。」(「下伊那」31頁)以上は、神寄せを除いて霜月祭とほぼ同じである。この後、以前は「道中が始まる。天王様、ボッタ沢、赤 なぎ、大野で踊り、屋敷子安様などで踊り、また水端で行ない、ひしゃくで水をかける行事があ」(「遠山谷」401頁)つた。しかし現 在は、「かけ踊りの演技は、@拾五社大明神社の舞処、A外へ出て神社の境内、B神社下の下栗交流会館前の駐車場(広場)の三ヶ所で行 なわれる。」(「下伊那」31頁)だけである。さうして直会となるのだが、「直会の準備中に宮元禰宜と副禰宜の二人が、かけ踊りに 使った金幣と神社名が書かれた奉納旗を、神社の下、井戸端(元旅館)の右手草むらにある、『子安様の前宮』の石碑の前に納めて、お参 りして帰ってくる。」(同32頁)といふことがある。これが以前の行事を引き継いでゐるととしても、踊る場所は3カ所になつたといふ ことである。
 下栗のかけ踊りは雨乞ひの踊りであつたといふ。「遠山谷」には次にやうにある。

これは雨乞いの願かけ踊りであるのでそれが略されて、かけ踊りといったものであるという説と、あれは方々へ押しかけて行って踊るから それ がかけ踊りになったものだという説がある。また人によっては笠にしで(幣)を下げて踊るから、しで踊りであると云う人もある。(401 頁)

雨乞ひは先の「水をかける行事」に関係してゐるのであらう。願かけ踊りは、天龍村坂部で「当地のかけ踊りの起源として長雨止めの願掛 けに始まると言い伝えられている」(「下伊那」81頁)のと似た伝承である。現在ではといふより、「昭和四十七年復活以降は『下栗の かけ踊り』と呼んでいるが、戦前、中断する以前は『シデ踊り』と呼ぶことが多かったようである。」(同30頁)つまり、ここもまた一 時中断して現在にやうになつてゐるのである。「下栗のかけ踊りは、支那事変が起きた昭和十二年ごろ中断し、戦後まで行なわれることが 無かった。昭和四十七年四月『下栗のかけ踊り』として復活したが、三十六年間という長いブランクがあり(中略)昔通りの復活は出来な かった。」(同30頁)といふ。これは踊る場所からも見当はつくが、かけ踊りの詞章を見ると更によく分かる。現行の詞章は以下の如く である。

○一、東西東西 御鎮まれ
鎮めて御唄を 御聞きやれ
遠山様の 一の御門をながむれば
つばめが二羽来て 巣を掛けた
○一、今日も出て来て 一巣掛け
三巣、四巣、七巣、八巣掛けた
一、遠山様の扇子かかりて
五葉の松 一の小枝に米がなる
○一、二のや小枝に 銭がなる
三つの小枝は 宝なる
一、米倉 銭倉 宝倉
四方四面に 蔵を建て
○一、橋の上で 魚を釣れば
十三子女郎が 水を汲む
○一、魚釣竿を さらりとなげて
十三子女郎が 腰を締める
一、此の天竺の 黒雲御覧
富士の御山を 巻きまわす
○一、此の天竺の 二つの池で
十三子女郎が 菅を刈る
一、水は出もせで 泉差す
黄金の茶碗が 千揃い
○一、踊りをやめて 稼ぎをなされ
また来る冬も 雪が降る
○一、式に申せば まだ長けれど
作り小唄は 此れまでに(くりかえし)(「下伊那」38頁)

これには「※平成二十一年八月現在では○印のみでかけ踊りを踊る。」(同38頁)と注記されてゐる。詞章としては12章あるが、その 中の「遠山様の扇子かかりて」「米倉 銭倉 宝倉」「此の天竺の 黒雲御覧」「水は出もせで 泉差す」の4章はかけ踊りに使はないと いふことである。
 それにしてもこの詞章はどこかをかしい。いくつかの詞章の一部が適当に並べてある、そんな印象である。実は、ここに「三十六年間と い う長いブランクがあ」る。

昭和四十七年、下栗のシデ踊り復活当時の唄は、岡井一郎氏の採集した唄と対比してみると、神様ごとの唄のごく一部分が、断片的につな ぎ合 わされており、随分省略されている。(「下伊那」34頁)

省略といふよりは、これだけしか分からなかつたと言ふべきなのかもしれない。実際のところ、かけ踊りに詳しいK.K.氏は、これはネ ギサマ、「下栗では祭に主となってたずさわる禰宜を『太夫(タユウ)』とかネギサマとよぶ。」(「霜月祭〈上村〉」16(302) 頁)といふ、そのネギサマの扇子に残つてゐた詞章であると言はれた。しかし、その後、上記引用にもあるやうに「岡井一郎氏の採集した 唄」の詞章がみつかり、それが「遠山谷」に掲載された(401〜404頁)。これが下栗のかけ踊りの全詞章であるかどうかは分からな いが、先のやうにばらばらに続く詞章の本来の形が分かつたのである。
 そこで、ここにその本来の詞章を記すべきなのだが、紙幅の関係もあつてここでは記さない。「遠山谷」か「下伊那」をご覧いただきた い。ここでは類歌の関係で必要とする詞章(の一部)のみを記す。御海容願ひたい。
 と書きはしたものの、類歌でまづ見たいのは「宮下の庭」である。ここには念仏踊りに必ずと言つて良いほど出てくる「東西鎮まれお鎮 ま れ」がある。現行の詞章は以下省略なのだが、実際にはかなり長い詞章である。「宮下の庭」から分かるやうに、これは所謂庭ほめであ る。以下にその詞章を記す。ただし、原文は各句一行書きであるが、それを改行はやめるやうにし、その代はりに改行を「/」で示してお いた。(以下の引用も同様の処理をする。)

東西鎮まれお鎮まれ/鎮めて小歌をおききやれ/その身で御座れやをなびやれ/作り小歌を見せませず/きりりと廻われや/きりりと廻わ りて 歌を出せ/さても見事や、見事な御庭や/このよな御庭で踊るなら/ちりちり小草が右からからまって/黄金小花が足につく/その身で御家を 眺むれば/柱なんぞは赤銅で/円 いタルキは皆黄金/その身でふきじを眺むれば/北と南は京紋づくり/西と東は瓦ぶき/その身で御座敷眺むれば/金物ほいちょやまな板なんぞは程もない/そ の身で御座敷を眺むれば/たちや刀はきりもない/その身で厩を眺むれば/七間厩に七匹つないで/中なる駒にはあぶみさす(「下伊那」 38 頁)

「その身で御座れ」「きりりと廻わりて歌を出せ」といふ詞章も出てくる。庭ほめも柱は赤銅でなどと出てくるが、全体的には奥三河のと は少々違ふ感じである。ただ一カ所、気になる表現がある。「ちりちり小草が右からからまって/黄金小花が足につく」である。これもよ く出てくる類のパターンと言へば言へる。しかし、「ちりちり小草が右からからまって」とはいかなる意味かと思ふ。「ちりちり」は副詞 であらう。「日本国語大辞典」巻9の意味からすると、「@千鳥や雲雀など、小鳥の鳴き声を表わす語。また、そういう小さいものが動く さまも表わす。」(159頁)あたりであらうか。これならば「小草」にもふさはしさうである。次の「右からからまって」はどうなので あらうか。ごく単純に、左からではダメかと思つたりする。
 そこでこの表現を他に捜してみる。すると、「ちりちり」「小草が右からからま」ない詞章はかなりあると知れる。例へば、福島県石城 郡 泉村獅子舞唄の「これのお庭を見申せば、黄金小草が足に搦まる」(「日本民謡大観」東北篇498頁)は、もしかしたらこれと同系の獅 子舞かもしれない北海道檜山郡厚沢部町美和権現獅子(「北海道の民謡」92頁)、同じく安野呂獅子舞(同97頁)等にも見られる。同 じく、伊豆新島若郷大踊歌役所第一番踊(役所入り踊)には「これの御庭を見もふせば 黄金こぐさが足にからまる」(「続日本歌謡集 成」4近世編下60頁)とあり、京都府相良郡雨乞踊歌じんやく踊にも「是のお庭で踊りて見れば、黄金小草が足にからまく。」(「日本 歌謡集成」12近世編346頁)とある。ほぼ同じ表現が三重県鈴鹿市庄野念仏踊にもあり、「アこの良きお庭で踊ろとすれば/ア黄金の 真砂が足につくア南無阿弥陀ヨ」となつてゐる。これ以上は引用しないが、この「ちりちり」「右からからま」ない詞章は関西から関東に かけて見られる。もちろん、東三河にもある。
 ところが三遠南信に限つてみると、例へば北設楽郡設楽町清崎の念仏踊りには、「み墓へ参りてながむれば/ちり〳〵小草がはへかか る」 (清崎のJ.N.氏ご教示の詞章による。)とあり、東栄町布川には「しらすのお庭に遊ぶ時/黄金まさごが足につく/チリリ 小草は身 にかかる」(「布川村の盆唄」、設楽民俗研究会編「設楽」21頁)とある。「東栄町誌」伝統芸能編(684頁)にも同じと思はれる詞 章が布川の盆踊りに出てゐる。
 これに対して、現在の浜町市天竜区水窪町にもこの詞章は多い。例へば水窪町上組(池島組)の「第一番踊りノ一庭ほめ」では、「これ の 御庭で御踊ろうとすれば/ちり〳〵小草が身にからまりて/こがねのまなごが足につく」(「水窪町の念仏踊」128頁、以下「水窪」と 略す。)とある。ほぼ同じ詞章は中組「庭褒め踊り」(132頁)、下組「庭褒踊り」(140頁)、草木遠木沢(甲本)「庭ほめ」 (148頁)、草木下草木(154頁)、大野「踊り念仏」(156頁)、大沢「庭ほめ踊り」(160頁)にもある。
 両者を見る限り、下栗は水窪とほぼ同じと言へる。しかも、「右からからまって」ではなく、「身にからまりて」ではないかと訂正して く れる。水窪では庭を「ごくらく上土のにわまさり」(上組〔池島組〕、128頁)とか「極楽浄土の庭なれば」(中組、132頁)と説明 してゐるが、下栗は「見事な御庭」だけである。後に続く庭ほめも下栗の方が内容豊富である。このやうな違ひはあつても、この「ちりち り小草が云々」はほぼ同じ表現である。下栗の「庭ほめ」は「東西鎮まれお鎮まれ……きりりと廻わりて歌を出せ」までは定型文の3種重 なりとも言へるが、これは歌ひ出しの基本をならべたものである。「さても見事や」から庭ほめ本体に入る。「その身で御家を眺むれば」 以下は その具体的な内容である。念仏踊りの庭ほめ等の<ほめる>詞章の構成は、歌ひ出しと庭ほめ本体からなる。当然、この二つ は他の同種の詞章に置き変へ可能である。具体的な庭ほめの内容は、足すも減らすも自由自在である。下栗でもこれが行はれたのではない か。つまり、先の三つの部分の詞章が適宜集められて一つの「庭ほめ」となつたのである。下栗ではその庭ほめの始まりに水窪の詞章を使 ひ、続く部分はまた別の地区のを使つた。かういふことではないかと思ふ。
 なほ、この「ちりちり小草が右からからまって/黄金小花が足につく」は次の「二、お宮踊り(一)」にも出てくる。こちらは「ちりち り 小草が右からからまり/小銭小菅が足につく」(「下伊那」38頁)とほんの少しだけ異なつてゐる。宮ほめなので賽銭を小銭といふので あらうか。しかし、その実態はほとんど変はらない。宮ほめも庭ほめもそれを行ふ場所が違ふだけで、行ふことは少しも違はないのであ る。
 今一つ補足する。「その身で厩を眺むれば/七間厩に七匹つないで」にはほぼ同様の表現がいくつかある。水窪上組(池島組)「やかた ほ め」には「うまやがあるかとながめて見れば 七間間口に七匹そろへ」(「水窪」128頁)とあり、中組「館褒め踊り」には「馬舎があ るかと眺めてみれば 七間間口に七匹揃い」(同133頁)とある。北設楽郡設楽町神田の「昭和三十九年八月 盆踊歌音頭集 中向 氏 原 智㊞」と表紙にある歌本の「寺ほめ」に、「でがけにお馬屋眺むれば、七間厩に七匹揃えて、黒駒勇むを」(頁記載無し。)とある。 北設楽郡東栄町足込には、「▲添うておんまや見てあれば 黒駒のよう肥え踊るを/七匹そろへてもたれた」(「東栄町の盆行事」82 頁)とある。更に豊橋市の嵩山大念仏の大踊の寺ほめでは、「奥へ通りし御馬屋見れば七軒長屋に七疋揃へて七個の釜所で豆をまく」 (「無形文化財 大念仏」刊年不明、頁記載無し。)とある。渥美半島田原市の豊島大念仏の返し踊り「お城」には、「たかべやうちすぎ おんまやみれば七けん/うまやに七ひきたてて 七しょのばんしょがかみをまく」(豊島大念仏保存会「大念仏」21頁)とある。古い例 では「日本古謡集」所収の文久三年(1863)の旧南設楽郡鳳来町塩瀬の歌本に、「そうれニつゝいて 御まやみれバ/七けんうまやに  七ひきそろへて/御まのけいろハ 大もしろいぞや」(327頁)とある。これらも部分的な類歌と言へようが、<ほめ る>流れの中で、数字も含めて、その一部だけを利用したものであらう。
 続く「遠山様の 一の御門をながむれば/つばめが二羽来て 巣を掛けた/今日も出て来て 一巣掛け/三巣、四巣、七巣、八巣掛け た」 は、現在の詞章では2つに分かれてゐる。しかし、本来は同じ詞章であつた。「あみだ様の踊り」(二)である。

遠山殿の一の御門を眺むれば/つばめが二羽来て巣をかける/いくら掛けると見て見ると/昨日のぼりて一巣かけ/今日も二巣も掛けよう もの /三巣四巣七巣八巣かけた(「下伊那」39頁)

現行の詞章では、昨日、今日のあたりで「二巣」が落ちたと思はれる。燕と鷹の違ひはあるが、これは既に天龍村向方で記した愛知県北 設楽郡豊根村山内の「勘兵衛様」(カンビョエサマ)とほぼ同じ詞章である。ここではLP「北設の盆唄」解説から引用する。

〽かんびょえさまのーの御門うちへ/(返し)かんびょえさまのーの御門うちへ/コリャめでたい鷹が巣をかけた巣をかけた/(以下返し 略)/〽一巣もかけた二巣もかけた/三巣四巣七巣八巣かけた八巣かけた(14頁)

いづれも、鳥が一の御門に巣をかけて、その巣は8つあるといふ内容である。
 この類歌としては、まづ北設楽郡東栄町上粟代の念仏踊りの取り歌「氏神様」がある。

殿のお鷹が、すをかけて、/一巣もかけたか、二巣もかけたか、/三巣、四巣、七巣、八巣かけた、/さあてもめずらし、たかのすを (「東栄 町の盆行事」35頁)

巣をかけた場所は不明だが、基本は同じである。水窪にもある。大野の「世の中踊り」である。「○春さに来れば○うぐいすが○これの御 門に○巣を掛けて/○一巣もかけよ○二巣もかけよ 三巣四巣五巣も七八巣も」(「水窪」128頁)ここでは鶯が御門に8つ巣をかけ る。以下は「○何とさえずる○出て聞けば」と続く。これは五巣が入った関係でか、七巣、八巣とはならずに、七八巣となつてゐる。ほぼ 同じ詞章は水窪大沢の「世の中踊り」(160頁)にもあり、少し崩れた形で水窪竜戸「学校場庭践」に、「世の中雀が巣を掛けた それ 〳〵/一巣、二巣、三ス、四ス掛けて 五ツ六ツ七ス八ス掛けたそれ〳〵」(147頁)とある。ここでは「五ツ六ツ」とあるため、きち んと1から8までそろつてゐる。
 更に崩れたと思はれるのは岐阜県揖斐郡池田町の田植唄である。「〽︎目出度や鶴が幾巣をかけた、三巣四巣七巣八巣かけた」(「日本 民 謡大観」中部篇中央高地東海地方392頁)であるが、ここでは巣を八つかけたのはあつても、一巣、二巣はなくなつてゐる。同じ詞章を 利用するに当たつて、たぶん韻律の関係から、一巣、二巣が省かれたのであらう。
 ちなみにかういふのもあつた。既に引用した伊豆新島の若郷大踊歌である。「一瀬の川か 二瀬の川か 三瀬四瀬七瀬 八瀬の川」 (「続 日本歌謡集成」4近世編下62頁、伊勢踊)これも七七七五の韻律なのだが、一で始まるために、五、六なしで八で終はる。川と鳥の巣の 違ひはあるが、発想は同じであらう。他にかういふ五、六のない詞章は寛永7年刊(1630)「松の落ち葉」巻4の「薙刀踊」(「日本 歌謡集成」7近世編177頁)がある程度のやうだが、これは七で終はつてゐる。七つ道具だからである。しかし、このあたりが発想の言 はば原点であらう。
 次の「遠山様の扇子かかりて/五葉の松一の小枝に米がなる/二のや小枝には銭がなる/三つの小枝は宝なる」(「下伊那」38頁) は、 実に多くある「一の小枝……二の小枝……三の小枝……」等の詞章パターンの一つである。ここでは一、二、三で米、銭、宝となつてゐる が、他にもいろいろとある。
 例へば北設楽郡設楽町平山の故伊藤助之丞氏のまとめられた、「昭和五十八年一月吉日 平山盆踊り集」と題された歌本に「玉椿」とい ふ 取り歌がある。「是れのお家の玉椿/一の御枝に葉が咲いて/二の御枝に花が咲き/三の御枝に実がなりて/其の実を取りて油とし/燈し あげます御玉様」(6オ)といふ詞章がある。ほぼ同じ詞章は北設楽郡設楽町の、現在は清崎に含まれる塩津にもあり、塩津盆青年会編 「盆おどり唄の栞」(刊年、頁記載無し。)に載る。一二三でなければ元中末で、北設楽郡豊根村の念仏踊りの小踊りがある。牧ノ嶋は、 「中には何がお立ちある/しだれ小柳三本立つ/元なる枝には何がなる/元なる枝には銭がなる/中なる枝には何がなる/中なる枝には金 がなる/末の梢に何がなる/末の梢に米がなる」(「念仏伝承集」30頁)であるが、ほぼ同じ詞章は粟世(「念仏伝承集」60頁)にも ある。更に、天龍村坂部の「七月六日 盆踊歌の事」(「下伊那」82頁)にもある。これは庭ほめで、「枝無小柳」に銭、金、米の順に なるので豊根との関係が考へられるが、違ふのは「本の小枝」「中の小枝」「うらの遠く」となつてゐる点である。こんなわけで、捜せば この詞章の直接的な類歌もみつかるかもしれないが、ここではそんな中の一つといふことで、三遠南信だけを記した。
 続いて十三小女郎である。現行の詞章は「橋の上で 魚を釣れば/十三子女郎が 水を汲む/魚釣竿を さらりとなげて/十三子女郎が   腰を締める」である。これも2つに分かれてゐるが、本来は1つであつた。「四、がらん踊り(一)」である。

金次が仕事にゃ何にょさせる/金次が仕事にゃ魚つらしょ/橋の上でと魚つれば/一三子女郎が水をくむ/二五の殿が腰しめた/魚つり竿 をさ らりと投げて/一三子女郎が腰しょしめる/許せよ放せよ上袂放なせ/後から御殿が続くに/続かばままよあのよなばんぶる男をば/かれらが ためにはばんぶり男/俺らがためには稚子じゃもの(「下伊那」39頁)

 この類歌でまづ指摘せねばならぬのは、静岡県静岡市葵区の有東木と平野の盆踊りである。ここも有名な盆踊りで、詞章も古風である。 そ の一つ、平野の男踊りの38(11)「かぶき」である。

しのびのとのわゆをつり/に十三のこめろハみづく/みにしのびのとのゆを/つりさをゝそろりと/をいて十三のこめろの/こしをしめる をけ やひ/しやくハながれていくに/はなしてをくれつりの/とのをけやひしやくハ/ながれいくとも/はなしやしませぬ十三め郎(「平野・有東 木の盆踊り」69頁)

男が若い女を釣りの途中で見つけた、見つけたからには放さぬぞといふ内容である。いかにも古風な語法と内容である。これは明治10年 の歌本により、安政三年本には載らぬ詞章であるといふ。内容的には下栗とほとんど違はない。下栗は前からの続きで金次が主語になり、 その関係からか、最後は「俺らがためには稚子じゃもの」で終はる。平野、有東木の詞章の翻刻と注は淺野建二が行つてゐる。かなり詳し い註がついてゐるのだが、この詞章に関する注はこめろ=小女郎だけである。類歌はない。やはり類歌がみつからなかつたのであらう。今 一つ、有東木の詞章は平野より短い。大正13年書写の52「膝拍子殿御の踊り」である。

○おもうとのごは魚つれござる/十三こしよろわ水くみに/○魚つりざをゝさらいとすてゝ/十三こしろのこしよしめる/○桶とひしやく をなかれてゆくに/おはなしやしやりよつりのとの(同185頁)

殿御の年齢は不詳である。しかし、基本は同じものである。どちらが先であるにせよ、元は同じ詞章であつたに違ひない。
 これ以外の類歌は奥三河にある。北設楽郡豊根村では粟世と牧ノ嶋にある。似てゐるが、粟世の方が少々簡略である。牧ノ嶋の小踊り は、「きだ橋かけて魚釣れば/十三小女郎が橋渡る/あまり言葉をかけてみたさに/肩より裾をいだきしめ/御無用お放しなされと/後よ り殿御が続いた/そちとのためには男が一人/われらのためには稚児たちが」(「念仏伝承集」29頁)であり、殿御の年齢不詳、小女郎 が水汲みかどうかも不明、そして最後に稚児が出てくるが、基本は平野と同じである。今一つは北設楽郡東栄町の三ツ瀬「奈良の観音」で ある。

きだはし掛けて魚釣れば/十三小女郎が出て招く 魚釣り竿を川へ投げては/十三小女郎の腰ょゆめる 魚釣り竿は流れ行くとも/しゅめ たる 腰ははなすまい 放せお放せおはなしやらんせ/あとにも殿がつづいた あれしきのぼんぼら男が(「北設楽郡誌」伝統芸能編403頁)

これも下栗に近い。しかも最後は稚児がなくなつて、「あれしきのぼんぼら男が」だけになつてゐる。
 以上を見る限り、この十三小女郎の詞章は静岡方面から三遠南信に伝へられたのではないかと思はれる。もしかしたら下栗に伝はつた道 筋と、豊根村に伝はつた道筋があつたのかもしれない。東栄町三ツ瀬で稚児が消えてゐるのはそんな事情を思はせる。後考を俟つ。
 続いて、今一つの十三小女郎、「此の天竺の 二つの池で/十三子女郎が 菅を刈る」である。先ほどの十三小女郎が「がらん踊り」 (一)であつたが、これは「がらん踊り」(三)である。関係部分は以下の如くであつた。

此の天竺の二の池で/一三子女郎が菅を刈る/二五の殿が菅さらす/なんにしよとて菅さらす/蓑にしよとて菅さらす/蓑になるまい笠に しよ /殿御のめす笠はそり笠(「下伊那」39頁)

実は、この詞章は天龍村大河内にあつた。そこでも触れたが、今少し書いておきたい。
 管見に入つた類歌は10章であつた。このうち、下栗、大河内を含めて、「日本古謡集」所載「放下歌」27番(149頁)、「鳳来町 の 放下」の「十三小女郎」(74頁)等、基本的にすべての十三小女郎は菅を刈つて笠にしてゐる。

せきの東の七つが池で/十三小女郎がすげを刈る/何にするとて刈るのすげ/みのにするとて刈るのすげ/みのではあるまい笠であろ/は そり 小笠に縫いたてゝ/吉田の名所へおし出して/笠はどこ笠問うたれば/三河若衆のかぶり笠(「日本古謡集」149頁)

その笠は「いとし殿御」や「若衆」にかぶらせるのだが、「踊る子供」(「下伊那」温田榑木踊り「南宮社」116頁、同梨久保榑木踊り 「笠破りの唄」124〜125頁)にかぶらせたり、祭りで売つたりもする(「愛知県の民謡」223頁、刈谷市雨乞いの歌「野の地の 歌」)。さうした後に、南設楽郡の放下では若衆が三河吉田に来るらしい。北設楽郡東栄町三ツ瀬、上粟代、そして「下伊那」の泰阜村温 田、同梨久保、「日本歌謡集成」12に載る三重県度会郡の鞨鼓踊歌「十七姫御」(271頁)、これらは笠をかぶらせた後は殿御や子供 に踊らせるらしい。水窪有本(乙本)は殿御に笠をかぶせた後、四国見物をする(「水窪」180頁)らしい。刈谷も小女郎は笠をかぶら ずに売つてしまふらしい。いづれにしても小女郎が笠をかぶることはない。ところが、下栗も大河内もさうはならない。下栗は中途半端に 「皆武士は網笠」と終はつて次の内容に続いていく。大河内は笠とは無関係に殿御を連れ出し、「八つ橋野田屋」「ぶせつにない」「田口 野田屋」、最後に「名古屋新町」で落ち着き、そこでの一踊りで終はる。「八つ橋」が南信州内であらうと思ふのだが不明、「ぶせつ」は 武節で旧愛知県東加茂郡稲武町武節、現在の豊田市武節町である。田口は北設楽郡設楽町田口である。これらを通つて名古屋へ行くのであ る。小女郎が笠をかぶることはない。最後に付け足しとしてあるやうな感じからすると、殿御に笠をかぶらせて踊らせるのは軽い扱ひであ ると思はれる。
 以上からすると、最初に、小女郎が菅を刈つて笠にして殿御にかぶらせるといふ内容の詞章があり、それに続く内容を適宜追加してでき た のがこの十三小女郎ではないかと思はれる。下栗、大河内が殿御に踊らせるのが軽いやうだといふのは、梨久保の榑木踊り「笠破りの唄」 が、「一息ついた後(かつて、祭りが旧七月に行われていた頃は、盆踊りを踊った)、踊り手以外の人々も参加して『笠破り』を踊り」 (「下伊那」121頁)といふ事情で、最後が「踊る子供にかぶらして 村なる小町へ押し出して 前なる小町で笠揃い」(同前)となつ てゐるのではないかと思はれる。これにもそのやうな事情があるのではないか。いづれにせよ南信州の詞章は他とは異つてゐるやうであ る。
 以上は、現行の詞章に一部でも残つてゐる詞章の類歌であつた。実は残つてゐなくても類歌のある詞章もあるにはあつた。「みだ様踊 り」 (二)である。

信濃の奥の上村で/ことも大そなことを見た/黄金の小臼を千揃い/黄金の小ぎねを千揃い/七四人で米をつく/米をつく中でその中で/ どれ が目につく旅の人(「下伊那」39頁)

この先はまだ続くが省略した。この類歌としては、まづ、以前にも出した「俚謡集」に載る綸子祭燈籠踊歌つしまおどり「鎌倉の」であ る。

○鎌倉のかまだ兵衛は、三国一のぜにもちよ。白がねで臼をほらして、七十四人が米をうつ。いかに旅人。どれが目につく、たび人。/○ どれ というたら、にしきのまへかき、おてからまきが目につく。(12頁)

これは「日本歌謡集成」12にも、京都府愛宕郡綸子祭灯篭踊歌「つしまおどり」(343頁)として出てゐる。これがすべてである。下 栗のやうには続かない。これに対して、この類歌は近くの天龍村坂部のかけ踊りにもある。「米搗」である。これも前に下栗同様に「鎌倉 の問屋に伯りし事も大曽な事を見た云々」とついてゐる。さうして「白金臼が八から立ち〳〵 黄金小杵が千揃〳〵七十五人で米を搗く〳 〵七十五人の其の中で〳〵どれが目につく旅の殿〳〵どれと言ひたらどれだらけ〳〵錦の片平綾たすき婚禮からこが目についた云々」 (「下伊那」82頁)と続く。少し離れるが北設楽郡東栄町三ツ瀬の「松本で」でも、「信濃の奥の松本で 子供大層なことを見た」 (「北設楽郡誌」民俗資料編402頁)と始まる。以下、「何と如何様なことを見た 七十五人で米を打つ/米うつ中の女郎たち どれが 目につく旅の殿/どれというたら申したら ずしのかたびら綾襷云々」と続く。坂部と三ツ瀬は似ているが、下栗の省略した部分は内容的 には別物であらう。しかも坂部、三ツ瀬は75人である。京都と下栗は74人であつた。
 この差はいかなるものか。坂部の「里奉公」には「七十五匹の馬の水」(83頁)とある。阿南町和合の念仏踊りでは「庄屋の前の庭ほ め」に、「七五はたちお乳児達がむしがいめさるのまず見事」や「黄金の柄杓でお茶をくみ七五はたちの乳児連がお茶をくむ手は良い手 元」とある。これは75人の若い稚児達の意味であらうと思はれる。愛知県では旧東加茂郡下山村、現在は豊田市に含まれる阿蔵の念仏踊 りの「七つ子(幼子)」に、「昼の役とて何をする/七十五人の膳立を」(「下山村史」599頁)といふのがある。「日本古謡集」に も、天保14年(1843)の歌本に「おもしろのこかねしよろたち/ひちじうごにんでおくたりや/あるひとわ ふねにめしそろ」 (136頁)とあり、同じく文久3年(1863)の塩瀬の歌本には、「小金をのべたる天もくや/のべのずんばり 七五の茶せんで/ひ とふりふりて/ふや合せてを茶のも たびゞとや」(323頁)とある。ほぼ同じ詞章は「鳳来町の放下」にも放下歌(投げ)の中に、 「茶屋の姫子」(70頁)として出てゐる。
 さうして更に水窪を見ると、75がいくつか見つかる。水窪上組(池島組)の「やかたほめ」には「はしらの数が七十五本」(「水窪」 128頁)とあり、これは中組でも「館褒め踊り」(同133頁)に出てくる。同じく上組(池島組)「やかたほめ」には「七十五人のお 若いいゆうが」とあり、これも中組の「寺褒め踊り」(同132頁)「館褒め踊り」に「七十五人のお若い衆が」として出てくる。向島 「山ニて申」には「七拾五人の狩とが」(166頁)といふのもある。下栗の内容とは無関係に、水窪では75といふ数が多く使はれてゐ るのである。74が75に変はつたのではないかと思ふのだが、これはあくまでも私の感じで言ふだけである。74と75は仏教的な数字 ではないかと思って検索してみても見つけゐることはできない。それにしてもこれはいかなる数字なのであらうか。
 実は今一つ、99人といふのがある。豊根村粟世、水窪有本(乙本)、そして豊橋市の嵩山大念仏である。この99は多いといふ意味で あ らうか。水窪有本は詞章の意味がよく分からないのだが、「きよ町まん中て〳〵○事のたいそな事を見た〳〵○石うすを千からそろへ九拾 九人て米をつく〳〵○九拾九人其中で〳〵とれがめニ付いたひの人〳〵○どれとゆいたらどれだらず〳〵左りからをニあやだすき〳〵○も みぢのかたびら目ニついた〳〵」(「水窪」180頁)といふことで、天龍村坂部に似てゐる。しかし、かなり変化してゐるのはまちがひ ない。粟世は「米つき節小踊り」で、「上越前の朝倉の/朝倉の甚内に/三善殿もありげしが/岡崎問屋に泊り込み/さてもおいそなこと をみた/かりかねうちはやからうすで/九十九人が米をつく/米つくなかのひめごたちの言ふことに/どれが目につくたび若衆/どれとい うたらどれだらや/錦のかたびらあやだすき/たすきのかけたが目につかば/受けて召されよ旅若衆」(「念仏伝承集」75頁)と続く。 嵩山も同じやうな内容である。人数が違つても、内容は似てゐると言へよう。後考を俟ちたい。
 今一つ、「みだ様踊り」(四)にも類歌と思はれる詞章がある。

ここは岡崎七瀬がしょうじゃ/ここはおせんが立つ島よ/おせん立つかと出て見れば/立たずおせんは立ちもせで/大きな白波たちでしょ ろ/ 白波小舟が立ちてしょろ(「下伊那」40頁)

まづは水窪である。有本乙本36の「おせん送り」である。「寔おかさき七所はんしよ寔おせんが立とこ〳〵おせん立かと出て見れば〳〵 立たすおせんハ立もせで〳〵○大きニ白浪立そろ〳〵○白なみにや亀がのりそろおせんにやとの子がのりそろ〳〵○今おせんひとりねをシ て枕の下が池トなりそろもといがとけてぢやと成る〳〵もといのはシにべにを打指てあんどん山の百合の花〳〵」(「水窪」180頁)と いふ詞章である。次の類歌は豊橋市南部、渥美半島の根元に位置する老津にある。夜念仏の端唄である。「ここは岡崎関所の森よここはお せんの立ちどこおせんがくるかと南を見れば南は白波立ちくる其白波にかごめがのりそうおせんにとのごがりそう」(「老津村史」543 頁)といふ詞章である。「おせんは立ちもせず」あたりまでは三カ所とも同じと言へよう。問題はその次である。水窪のは「白浪小舟が」 ではなく「白浪」だけになり、さうして波に亀が乗り、おせんに殿御がのると続く。老津はおせん立つらし、白波も立ち、おせんに殿御が のりそふである。この老津の夜念仏は既に廃絶して久しい。その端唄といふのは、ごく大雑把に言つて、念仏踊りの小唄とか取り歌に当た るものであらう。「老津村史」にはこの後にいくつかの詞章が続く。
 このおせんの詞章、類歌と言つてもこれだけである。下栗と水窪は近い。しかし、老津はいささか離れた場所である。現在はその間のど こにも類歌は見つからない。渥美半島の先の三重県側でも見つからない。かつてあつた類歌も今はなくなつてしまつたのであらうか。後考 を俟ちたい。
 類歌のみつかつた詞章は以上なのだが、類歌の見つからないのが終はりから二番目の「踊りをやめて稼ぎをなされ/また来る冬も雪が降 る」(「下伊那」38頁)である。かういふ内容の詞章は念仏踊り関連では見たことがない。「遠山谷」の岡井一郎 採集の古い詞章(401〜404頁)にもない。K.K.氏に尋ねたところ、正確なことは分からないが、復活に当たつて、この地にふさはしい詞章をといふこ とで、新たにこの詞章が作られたらしいといふことであつた。他の詞章とは全く違ふ、ある意味極めてリアルな印象はそれを納得させる。
 と書いて、思ひついて「水窪」を見直すと、あるではないか、西浦下組の返しの踊りである。「踊りをやめて稼をなされ/又来る冬も雪 が 降る〳〵」(142頁)、これは下栗と同じ詞章である。この踊り、下組の歌本の最後に出てゐる。これまた水窪にはリアルな内 容である。全四章、最初は返しの踊りを見せてやると型通り始め、2番でこの「踊りをやめて」が来る。3番で踊りは未婚の若い衆にまか せて、4番でこれまでだと型通りに終はる。この流れも納得できるものである。「水窪」所載の下組の歌本は昭和62年に作られた(同 前)。下栗の方が15年早い。しかし、内容とともに、歌本の作成年だけでは判断し難いものがある。そこで水窪文化会館にこの件を尋ね たのだが、結局は分からないといふことであつた。戦後の昭和といつたところで今は昔の話であらう。当然の結果かもしれない。この詞章 は下栗で作られたの か、水窪で作られたのか、あるいはどこか他にもあるのか。後考を俟ちたい。
 最後に、たぶん、本当に類歌のみつからないのが、かけ踊りの最後の締めの詞章である。これは気になる。現行の下栗最後の詞章はかう あ る。

式に申せばまだ長けれど/作り小唄は此れまでに(「下伊那」38頁)

「式に申せば」、これはありさうでない詞章である。念仏踊り関連で見たことはない。私は初めて見た。実は、これも復活に当たつて作ら れたらしい。先のK氏は、これは「式」ではなく「四季」ではないかと言はれた。確かに詞章は四季の出来事である。
 下栗だけでなく、念仏踊りの終はり方の基本は「末を申せばまだ長けれど/作り小歌はこれまでよ」の類であると思はれるが、下栗では こ れは2か所でしか使はれてゐない。ただ、「じきに申せばまだ長けれど/作り小歌はこれまでに」(「下伊那」38頁、「お宮踊り」 (一))といふのもあり、もしかしたらこれと関係があるかもしれない。つまり、「じき」の「じ」の濁点がとれて「しき」になり、とい ふより、その昔は濁点を表記しなかつたのではないか。だから、そこに「式」の字が当てられたのではないか。あるいは、「式」といふ漢 字表記があり、それが「しき」といふ仮名表記がとなつて濁音化したか。このやうな可能性もあらう。いづれにしても、「しき」は四季で はないと私は考へるのだが、いかがであらう。
 私の場合、「式」でまづ思ひ出すのは花祭である。手許にある詞章から引用する。豊根村下黒川と東栄町古戸である。
 
式なれば式ほど申す幾度も/式をわ神が一重給わる(「とうごばやし」、下黒川花祭保存会「花祭伝承集」7頁)
 
式なれば式よと申すいつとても式よは神のひとえたまわな(古戸「式ばやし」、「東栄町誌」伝統芸能編485頁)

天龍村の霜月神楽にもある。例へば坂部の「注連引き」、これは次の御供渡し等でも繰り返し出てくる。

一 やんや 式なれば式程申すよ幾度も 幾度も大召し聞召し給え御神 給え御神 是を清浄(「天龍村の霜月神楽」138頁)

遠山の霜月祭でも、旧南信濃村和田では「式の御神楽」に

一 エン 式なれば 式程申す アンヤーハー 式のじょう トンヤ/サア 式のじょや 黄金の御戸を アンヤーハー 押開き トンヤ (「遠山霜月祭」南信濃@88頁) 

とある。次に旧上村では云々と書かうとしたのだが、先のK.K.氏はさういふ詞章はないと言はれた。確かに下栗に「式なれば」の類の 詞章はない。ただ、旧上村の程野には、

この式ならしは 誰をや告げつら ヤンヤーハーハ 伊勢の国/アー伊勢国 山田原のな ヤンヤーハーハ 禰宜が告げる(「霜月祭〈上 村〉」46(248)頁)

といふ詞章がある。「式」関連の詞章、旧上村ではこれだけであらうか。
 ところが、霜月祭の本祭次第を見ると、「式の湯」「式礼」といふ湯立てがあり(「遠山霜月祭の世界―神・人・ムラのよみがえり―」 115〜117頁)、それは湯立ての「基本(「式礼の湯」)」(同42頁)であるといふ。「そのうち先湯の一立目と他の二立は『役 湯』と呼ばれ特に重要な湯立とされる。」(同前)ともある。下栗にも「式の湯」はある。これは最初の湯立てで、「拾五社の湯」とも言 はれる。詞章などなくとも「式」はある。「拾五社の湯」は下栗の産土神への湯立てであつて役湯である。それほど「式」は重要であると いふことであらう。
 この「式」は、たぶん「日本国語大辞典」第二版巻6に載る一か三の意味(533頁)ではないかと思ふ。一には次のやうにある。「あ る 物事をするについての定まった形式や方法、型、体裁。定まった法則。」三には「一定の作法をともなう行事。儀式。式典。」とある。花 祭等の詞章は、決まつた作法でのことだから(何度でも)言ひますよといふ意味であらう。
 かつて下栗では、「旧暦七月十五日には、昼間シキリ(式例)の祭り」(「下伊那」34頁)があり、この後にかけ踊りがあつた。かけ 踊 りもまた式に含まれてゐたのであらう。そんなかけ踊りの締めくくりの言ひ方が分からなくなつた時、「式」であることが思ひ出された。 さうして「式に申せば」となつた。「末を申せば」にならつて「式を申せば」ではない。「式に申せば」である。「四季」ならば「四季を 申せば」と目的格の格助詞「を」を使ふのではないか。しかし、ここでは「動きや状態が成り立つ場所を表わす。」(「日本国語大辞典」 第二版巻10「に」の項、365頁)意味の格助詞「に」が使はれてゐる。この「式」に申し上げるとまだ長く続くけれど、これで止めま すといふのであらう。ここにはそんな「式」に対する意識がありさうに思ふのだが、いかがであらう。
 以上、下栗の詞章を見てきた。一部だけしか類歌はみつからなかつた。それでもある程度の推測はできる。たぶん、下栗は奥三河と奥遠 州に近いのである。これは天龍村大河内でも書いた。大河内は豊根村隣接である。折口信夫はこのあたりを歩いた。奥三河といつても隣で ある。だから近い。距離的に近い。下栗は大河内ほどではないにせよ、奥三河、奥遠州は遠くない。特に水窪からとなると、青崩峠(、あ るいは兵越峠)を越えれば遠山に出る。秋葉街道である。これを北上すればすぐに旧南信濃村から上村である。こんな関係で水窪に関係す る詞章が多いのではないか。水窪と遠山は直接つながつてゐるのである。これは大河内や向方とは異なつた道筋の、山の中の幾筋もある道 の一つであつた。
 「遠山谷」の方言の項を見ると、上村方言は音韻的には、「下伊那南部から奥遠州、奥三河にかけてみられる特徴と重なるものが多 い。」 (355頁)とある。アクセントについては、「結論的に言えば上村方言は下伊那南部の天竜川の東側の地域、南信濃村や天竜村平岡の方 言と極めて等質的な方言圏を形成しており、一方、奥遠州の水窪町や佐久間町の方言ともかなり共通的要素を持つ方言であると言へよ う。」(360頁)とある。そして、最後にまとめとして、「上村は下伊那地方にありながら、その中心飯田市やその周辺方言の語法とは かなり異なった側面を持つ。その反面、奥遠州、奥三河の方言と著しい類似を見せる。」(373頁)とある。上村もまた、そして下栗も その当然として三遠南信地域の一角にあり、方言には三遠との類似が見られるのである。そんな地のかけ踊りであるからには、水窪(奥遠 州)との、そして奥三河との関係は当然のものであらう。

 実は私は下栗のかけ踊りを実際に見たことがない。昨年の8月15日に行けたらと思つてゐた。しかしコロナ禍である。昨年も実施しな か つたといふ。たとへ実施しても現地に行けない。そこで考へた。インターネットで見ることができるのではないか。確かに、インターネッ ト検索でいくつか動画が見つかる。音も結構聞こえる。ただし、著作権等の問題がある(と思ふ)。そこでビデオを貸してもらふことはで きないかと考へた。さうすれば、実演ではないにしても見ることはできるのである。
 そんなわけで、今回はビデオを浜松市の遠州常民文化談話会のK.I.氏より借りた。平成19年(2007)8月15日撮影のビデオ である。準備段階から始まつて、最後の「かけ踊りに使った金幣と神社名が書かれた奉納旗を、神社の下、井戸端(元旅館)の右手草むら にある、『子安様の前宮』の石碑の前に納めて、お参りして帰ってくる。」(「下伊那」32頁)ところまできちんと撮影されてゐる。音 もきれいに聞こえる。さすが、i氏の撮影である。採譜に使ふに十分の動画である。これに力を得て、行つたこともない下栗のかけ踊り の採譜を行ふことにしたのである。そのやうな採譜である。どこかにまちがひがあるかもしれない。まちがひがあつた時にはそれをご指摘 いただくと共に、そのやうなことがある点を予め御海容いただきたいと思ふ。
 下栗のかけ踊りは歌ひ手、「禰宜五人と下栗区長ほか長老、村人たち」(「下伊那」32頁)と「太鼓打ち(二人)、太鼓持ち(二 人)、 棒振り(二人)」(同31頁)、そして禰宜の務める「鉦叩き(一人)」(同前)、ここに「子女郎(小学生の女子四人)」が加はる。小 女郎の衣裳は「真っ赤な着物に、長いシデを垂らした菅笠、白足袋に白い紙緒のワラ草履。」(同前)である。詞章を意識した衣裳と言へ やうか。
 棒振り棒は奥三河の念仏踊りと南信州の(念仏踊り系)かけ踊りとの違ひの一つと言へるかもしれない。向方にはない。しかし、和合、 日 吉、大河内、坂部には似たやうなものがある。和合はヒッチキ棒といつて142cm(「下伊那」45頁)、日吉はヒッチキで 117cm(同55頁)、大河内は鳥指し棒、あるいはヤッコといつて6尺ほど(同68頁)、坂部は棒振り棒といつて150cm(同 78頁)、長さは日吉が少々短い。下栗の「棒振りの棒は六尺(180 p) の棒に、紅白のテープを巻き、棒の両端に白い房が付けられているもの」(「下伊那」31〜32頁)である。
 ちなみに、下栗の棒振りはかつては男児であつたといふ。小女郎が女児、棒振りが男児の役割であつた。だから棒振り棒は棒振り坊だと K.K.氏は言はれた。「下伊那」には、「子供の頃、子女郎としてシデ踊り(かけ踊り)に参加した熊谷節さん(大正十年生まれ)によ る と、昔のシデ踊りは、子女郎(十二人)以外は男の子(青年)が行なった。」(36頁)とある。小女郎の踊りは、岡井一郎氏によれば、 「筆者の幼い頃見た踊りでは菅笠に野良着姿の女の子が、太鼓と鉦に合わせて、チョイチョイチョイと三歩踏み出して三歩しりぞいて、田 で苗を植えるようなしぐさを」(「遠山谷」400頁)するものであつたらしい。「下伊那」の下栗の報告者橋都正氏は、「復活当時、筆 者が見た下栗のかけ踊りは、太鼓・棒振り・子女郎・鉦叩き、それぞれ別々の身振り・動作があったように思うが、現在踊られている踊り は、全部が全く同じ動作に統一され、変化してきている。」(「下伊那」36頁)といふ。ここにも「三十六年間という長いブランクが あ」(同30頁)る。
 これらの南信州の棒振り棒は水窪の踊り棒に近い。こちらは「長さ一五〇センチほどの細い竹の棒で両端に切り紙の房を取り付けてあ る。 各組とも数本ずつ用意して」(「水窪」44頁)あるといふ。形態的によく似てゐる。これも南信州から奥三河を素通りして天龍村から遠 山谷に入り、その途中で水窪にも伝はつたのかもしれない。逆に、水窪から遠山谷を通つて南信州に伝はつたのかもしれない。いづれにせ よ後考を俟ちたい。
 下栗のかけ踊りには笛が入る。しかし、歌だけの使用音をまづ見ておく。使用音はGHDEGの5音、開始音D、終止音H、これは通し て変はらない。では音階はといふと、これが簡単には決められない。開始音と終止音の含まれる音階が違ふのである。ならばといふこと で、全体の音の動きを見る。するとEが要所で使はれてゐるのに気がつく。Dも使はれてゐるのだが、HDEと続く中の一音ではないかと 思はれる。つまり、DはEの導音ではないか。HもDと密接に結びついてゐる。かう考へると、HDEのテトラコルドを考へて民謡音階と しても良いのではないか。終止音もHである。その上下にGが付加された形である。
 これは笛を見るとよく分かる。最初の笛の使用音はHDEGの4音、開始音D、終止音Eである。HDEのテトラコルドの音型が3回繰 り 返されてゐる。最後にEDEといふ音型があつて終はる。これは2回目以降に繰り返される笛でも出てくる。しかもそこではDEと最初に ある。このDがEの導音であることを示してゐるのではないか。最後の笛がDE2音でできてゐるのもそれを示してゐる。つまり、開始音 がDであつても、下栗のかけ踊りは終止音E、またはHの民謡音階であつた。
 この採譜にはこれまでと違ふところが1カ所ある。それは太鼓に付されたRLである。最初に出てくるところしか書いてないが、もちろ ん 右左のことで、その音を右手で打つか左手で打つかを示してゐる。念仏踊りの場合、大体は左手で太鼓を持って右手で打つ。だから、どち らで打つかは問題にならないのだが、下栗は太鼓持ちと太鼓打ちが別々にゐる。誤解を恐れずに言つてしまえば、その両者はそれぞれ舞や 踊りの振り付けに当たるものを持つと言へる。必ずさうあらねばならぬのである。例へば最初の縁打ち、RLとある。これは左右の手で撥 を持つて下から(上の)縁を同時に打つのである。以下、左右で交互に打つ。さうして歌になると、太鼓持ちと太鼓打ちはそれぞれ決まつ た所作をする。その動きを大雑把に言へば、

踊りは、長老や村人たちが肉声で歌う次項「下栗のかけ踊りの唄」(34頁)にあわせて、太鼓打ちは桴を、太鼓持ちは太鼓を左右に振り なが ら踊る。唄が一節終わると笛の囃子が入り、太鼓持ちがしっかり抱えている太鼓を、太鼓打ちが激しく踊りながら打つ。(原文改行)その後ろ に続く棒振りも、太鼓打ちの足つきに合わせて踊りながら、紅白に飾った房の付いた棒を左右に振り、太鼓が鳴ると棒を回転させる。(原 文改 行)鉦叩きも太鼓打ちに合わせて同じ足つきで、鉦を打ちながら踊る。(原文改行)太鼓の左手に縦に並ぶ子女郎四人は、菅笠の左右のあご紐 を両手で持ち、太鼓打ちの足つきに合わせて左右に踊り、太鼓が鳴ると頭(笠)と体を左右に振る。(「下伊那」32頁)

といふもので、以下、これをくり返す。太鼓だけでなく、鉦にも、棒振りにも、小女郎にも同様に決まつた動きがある。前述のやうに以前 と変はっているとはいへ、これを振り付けと言へば言へようか。従つて、ここにRLは必要だと判断した次第。
 ちなみに、最後に繰り返される2小節の旋律の最初の2音にもRLとついてゐる。これは最初のとは違つて、左右の撥を両手でまとめて 持 つて(同時に皮を)打つのである。同じやうにRLと記しても、必ずしも同じではないのである。

 最後になつた。本稿を記すにあたり直接的、間接的に実に多くの方々のお世話になつた。下栗のK.K.氏には直接的に様々なことをお 教へいただいた。遠州常民文化談話会のK.i.氏には、掛け踊りのビデオテープを貸していただいた。その他にも多くの方々のお世話 になつた。末文ながら、記して謝意を表したい。

        〔 凡    例 〕

1 以下の採譜は平成19年(2007)8月15日にK.I.氏が現地で撮影したビデオテープによる。場所は拾五社大明神とその周辺 であ る。
2 非西洋音楽である日本の<民謡>を五線譜に記すこと自体、者といふフィルターを通した、<民謡>の整理と合理化の作業に他ならな い。 従つて、以下の楽譜はその歌の大体を示すものでしかないと御理解願ひたい。旋律、音高、リズム、強弱等、これらのいづれもが確定的なもの ではない。歌ひ手により変化するし、同じ歌ひ手でもいつも同じやうに歌ふとは限らない。特に、リズムでは、八分音譜二つが三連符にな つた り、付点八分音譜と十六分音譜符になつたりするのは当然のこととされたい。
3 速度表示は、非常に大雑把なものであるが、採譜の対象とした録音のものである。これも前項の如く当然<揺れ>があるものと御理解 願ひ たい。
4 この楽譜は実音表記ではないし、必ずしも歌はれた原調で記してもゐない。tetuの考へで整理してまとめたものである。


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