≪リード≫ ≪参考 特集「テレビの“突破者”《とっぱもん》たち!」の目次≫ (「GALAC」2003年04月号 特集「テレビの“突破者”《とっぱもん》たち!」) |
1980年代のテレビは、フジテレビ独走の時代だった。同局は82年から93年まで12年連続で「年間視聴率三冠王」(ゴールデン・プライム・全日でトップ)を獲得している。
その原動力となったのは、ステーション・キャンペーンでフジが81年9月に採用したキャッチコピー「楽しくなければテレビじゃない」が象徴するおもしろテレビ、お笑いバラエティ路線だ。
牽引した番組としては、「THE MANZAI」(80年4月〜)、「笑っている場合ですよ」(80年10月〜)、「オレたちひょうきん族」(81年5月〜)、「笑っていいとも!」(82年10月〜)などが挙げられる。
これらをすべて手がけたのがフジテレビの名物プロデューサー横澤彪《よこざわ・たけし》(現・吉本興業専務取締役/東京本部本部長)だ。
横澤は読売新聞で「それまでの演芸と新しい笑いは、たとえていうなら、NHKのニュースとテレビ朝日の『ニュースステーション』くらいの違いがあった」と語ったことがある(読売新聞芸能部編「テレビ番組の40年」)。
それまでの「演芸」と、80年代はじめフジが登場させた一連の番組がもたらした「新しい笑い」の違いとはなにか。
これは一言でいえば、既存の「演芸」――カッチリとした枠をもつ「芸」がもたらす笑いから、その「芸」を破壊し解体していく過程で生じる笑いへの転換である。
旧来の笑いは、落語、漫才、コントといった演芸がいずれもそうだが、作者の作った台本があり、それを演じる際のさまざまな約束事があり、芸人は決められた枠のなかで表現を繰り返し訓練し、それを舞台で再現することで、笑いを取った。
その全体が「芸」であり、優れた芸人のなかには、芸の再現に瑕疵《かし》があったとき「勉強し直します」と引っ込んでしまった人もある(桂文楽)。やはり優れた芸人のなかには、再現中に寝てしまったが、客がそっとそのままにしておいたという人もある(古今亭志ん生)。
新しい笑いは、私はテレビという特殊な装置がそれを招いたのだと思うが、こうした「芸」を解体させ、台本も約束事も練習もあるのかないのかわからない、さりげなく自然な方向へと向かうことによって、笑いを取った。そのさりげない自然な笑いこそ新しい「テレビ芸」と呼ぶべきではないか。
こうした新しい笑いに極めて自覚的と思える芸人の筆頭は、ビートたけし、タモリ、明石家さんまの三者である。
たけしとさんまが「オレたちひょうきん族」、タモリが「笑っていいとも!」で圧倒的な人気を博し、20年以上をへた今日なお笑いの第一線にいることは、決して偶然ではない。新しい笑いの方向性は、もちろん今日でも引き続いている。
それが証拠に20年前には残っていた落語番組は、いよいよ本格的に姿を消した。テレビで「職人」や「職人芸」を見ることは、まずない。たけし、タモリ、さんまらは、まがりなりにも表現の研鑽を積んだ時代があるが、もっと若い芸人やタレントのなかには専門的な訓練をへずにごく自然なかたちでさりげない笑いの芸を身につけている者が少なくない(ジャニーズには何人も)。
逆に、お笑いで地歩を築いたタレントが、ドラマやバラエティで中心的な役割を果たす例も多い。さりげなく自然な「テレビ芸」を持っているから、俳優でも司会でも何でもこなすことができるのだ。
新しい笑いを開拓した横澤彪の「突破者」たるゆえんは、まさにここにある。
感覚的な笑い、アドリブ、パロディー、軽薄短小といった言葉で断片的に指摘されるが、実はテレビにとって本質的な「新しい笑い」を、いちはやく番組として具現化し、今日も続くお笑いバラエティの原型を作った。これはテレビに対する最大級の貢献といっていい。
新しい笑いの典型というべきお笑いバラエティは「オレたちひょうきん族」だが、その準備につながった、一見すると既存の演芸大会番組の延長のようにも見えるのが「THE MANZAI」。
79年秋にスタートした「花王名人劇場」(関西テレビ/フジ)によって漫才ブームに火が着きかけた80年初頭、ある番組企画がコケ、その穴埋めとして4月に始まった特番である。
「漫才である程度いけるだろうという見込みはあったけど、普通にやるんじゃおもしろくない。新しい工夫は、そう、20くらいもありましたかねえ」と横澤は番組を振り返る。
まず、客を変えた。演芸番組の定番だったプロの「笑い屋」(中年のオバサン)を呼ばず、大学の落研や漫研などサークルに電話して学生たちを仕込んだ。出演者も大御所を並べるのではなくほとんど無名の若手や新人を起用。強いメッセージを持つコンビを、自分たちの目で選んだ。漫才師の通り相場は蝶ネクタイにタキシードというステージ衣装だが、彼らにはコスチューム自由と言い渡した。セットも「演芸」の臭いを消しディスコ調。登場前の紹介はわざわざCM的な映像を作って流し、呼び込みは小林克也のDJ風、司会は映画解説の高島忠夫。
「VTRを2台回し、MA(マルチトラックの音声機器を使う編集)を初めて使った。音や拍手の後かぶせがうまくいく。それでムチャクチャ編集しまくった。ギャグを入れ換えたり間をつめたり。客席にも指向性のいいマイクを何本も立てて音を拾った」(横澤彪)
テクニカルな面でも異例のぜいたくな作りをした番組は、若者たちに熱狂的に支持され、ツービート、B&B、紳助・竜助、ザ・ぼんちらの人気者を輩出した。こうした若いタレントたちを集めたお笑いバラエティが、1年後に始まった「オレたちひょうきん族」だった。
放送は土曜夜8時で、TBSにはザ・ドリフターズの「8時だョ!全員集合」という強力番組がある。日本テレビには後楽園のジャイアンツ戦中継がある。そこで、フジが神宮や横浜でジャイアンツ戦を中継しない土曜夜を埋める番組として出発したのである。
そのコンセプトを、横澤はこう説明する。
「芸人たちが売れすぎてスタジオに来ないんですよ。呼ぶにはスタジオを遊び場にしてしまおうと考えた。仕事じゃない、どうぞ遊びにきてねと。コンセプトがどうというより、それしか彼らを集める方法論がなかったわけ」
「THE MANZAI」は、別枠かと思えるほど約束事や見栄えを変えて若手芸人たちのメッセージを引き出そうとしたが、それでも漫才芸という枠は残っていた。
ところが「ひょうきん族」ではコンビをバラしたり、一人ひとりにキャラクターやギャグを当てはめたりと、いよいよ芸の枠が解体されていく。
「わかってたのは、たけしぐらいじゃないかな。漫才師は、舞台に立って20分やれば帰りにはギャラがいくらという世界。それがコンビでも単品で出る、セットがあってリハーサルもやる。収録も夜中や明け方までかかる。それに芸人たちを慣らすまでが大変だった。遊び場だからいい加減に作ってあるかといえば、そんなことはない。実はちゃんと作ってあり、美術や技術のスタッフも苦労した。発泡スチロールの小片を大きなプールにいっぱいにして飛び込むのがある。あれ小片1個が10円で30万個も使うんですよ。ぜいたくでしょう」(横澤彪)
横澤は、ビートたけしや島田紳助といった才能と出会ったとき、彼らが漫才師をずっと続ける天職とは考えていないことを知ってショックを受けたという。
だが、今日まで生き残っている当時の若手芸人の多くは、漫才芸に見切りをつけ、何らかのかたちでコンビを解消したタレントたちである。「ひょうきん族」は、そんな才能に応え、あるいはセレクトし、磨きをかける役割を果たしたともいえそうだ。 裏のドリフ「全員集合」の存在は、もちろん強く意識された。公開生中継に対してスタジオ録画、徹底的な作り込みの笑いに対してアドリブ重視の刹那的な笑いと、全員集合の逆へ逆へと指向している。それでも、ドリフの前半のドタバタが終わったころに、たけしのタケちゃんマンとさんまのブラックデビルを出すというように、棲《す》み分けが図られた。
「タケちゃんマンも見たい。でもやっぱり全員集合も見たい。そりゃ子どもたちは両方見たいでしょう。そんな子どもの幸せを奪っちゃあいかん。そりゃ大人げない話ですよ。視聴率は分けあって、ライバルにも頑張ってもらう。そうしてお互いが栄えるというのが、商売のコツであってね」
と、横澤は笑って煙に巻くが、実際には「ひょうきん」は「全員集合」をどんどん食っていった。
初回こそ視聴率が8%台で、社内の評判もいまひとつだったが、あるとき局首脳の子どもが家で「こんなおもしろい番組がある」と父親に話し、フジテレビで「うちで、おもしろい番組が始まった」と評判に。そのうち銀座あたりのクラブでホステスが「あれ、おもしろいじゃない」と局員にいったりする。社内での評価も一層高まり、レギュラー化が決定する。
スタートから4年目の1985年にはとうとう「全員集合」を終了まで追い込み、社会現象としても騒がれた。
その後、「ひょうきん族」的な笑いのテイストは、フジのみならず各局に伝播していく。
一つには、コーナーごとに担当していた放送作家たちが各局に散らばり、番組のDNAを引き継いだからだ。たけしやさんまに代わって、ウッチャンナンチャン、とんねるず、ダウンタウン、ナインティナインと中心となるキャラクターも次つぎに登場した。
もちろん、時代が求める感性というものがある。出発は漫才やコントでも、その芸を見られたのはほんの一時期だけで、友だちにだけ通じる話をぼそぼそ語るだけでバカ受けしていると見えるタレントもますます増えた。
しかし、日本テレビが開発したドキュメンタリー的な笑いの仕掛けを除けば、お笑いバラエティのつくりがそう大きく変わったわけではないだろう。そもそも日テレのドキュメンタリー路線も、キャラクターの笑いを打ち出すフジの番組に芸人が取られたため、人ではなく企画の笑いが考え出されたのであって、その意味では「ひょうきん族」の鬼っ子といえる。タモリの「笑っていいとも!」も相変わらず続き、ギネスに載るという。
笑いにおける「ひょうきん族」的なものの存在は、それほどまでに大きかったわけだ。
では、突破者・横澤彪は、現在のテレビのお笑い状況をどう見ているのか。実は予想通り、あまり楽観的ではない。作り手たちの心構えについて、横澤はこう注文をつける。
「ひょうきん的なお笑い番組が広がっていったが、途中で作り手側が、出演者や素人の参加者をイジメて楽しむような方向にすり替わっていったという側面がないか。そんな心配がある。僕らのときは、やっぱり作っていてどこか恥ずかしかったね。そういう気持ちがなくなっちゃうと、これは具合が悪いんじゃないか」
お笑い番組全体の印象についても、
「バラエティ番組の等質化が進み、個性が失われてきた。タレントも全体として小粒になってきた。もっと頑張ってもいいんじゃないか」
と、手厳しい。いまの作り手たちはどうやって突破すればよいかと聞くと、横澤は次のように応えた。
「困ったときは、後ろを振り返るしかない。テレビ50年の歴史を勉強しなさい、そこに必ずヒントが見つかるといいたい。どんなジャンルでも、突破してきた人びとには重みがあるものですからね」
横澤彪《プロフィール》 |