メディアとつきあうツール  更新:2003-06-28
すべてを疑え!! MAMO's Site(テレビ放送や地上デジタル・BSデジタル・CSデジタルなど)/サイトのタイトル
<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

テレビの原理と放送局
(テレビとは? 地上放送局とは?)

「放送のあり方を考える集会/
放送の未来を考えよう」基調講演から

≪はじめに≫
2004年5月、東京・テレビ朝日新本社1階umuで、民放労連・青年協セミナー「放送のあり方を考える集会/放送の未来を考えよう」が比較的若い放送局員を対象に開かれ、坂本は基調講演「そもそも地上放送局って?」の講師を務めました。ここでは、当日のレジュメに加筆し、講演の内容を伝えます。全体のタイトルも変えてあります。読めばおわかりのように、どうってことないごく当たり前の内容といえますが、その当たり前のことを忘れては、BSデジタルも地上デジタル放送もうまくいきません。これも当たり前。

≪このページの目次≫

≪セミナーの内容≫
民放労連・青年協セミナー「放送の未来を考えよう」(放送のあり方を考える集会)
【日時】5月22日(土)13時〜18時半(受付12時半)
【場所】六本木ヒルズ・テレビ朝日1階UMU
【講演その1】そもそも地上放送局って?/坂本衛
【講演その2】メディア環境の変化がもたらすもの/千田利史(ワンズ・コンサルティング代表/元電通企画開発部長)
【パネルディスカッション】地上放送の将来イメージありますか?
市村元(テレビユー福島常務/元TBS報道局長)、伊藤永嗣(長野朝日放送営業開発局)、松本恭幸(武蔵大講師/電子コミュニティ論・市民メディア論)、山本ひろし(インデックス・メディア開発室長)、岩崎貞明(メディア総研事務局長/コーディネーター)
【参加対象】放送職場に働く方だれでも(年齢不問) ※ただし会場都合で100名程度まで
【参加費】3,000円
【問い合わせ】民放労連03-3355-0461

(1)そもそもテレビって?

 これまで何度か民放労連の講演会や勉強会に呼ばれ、BSデジタル放送や地上デジタル放送についてお話しさせていただきましたが、テレビそのものについて語りたりない点があるとつねづね感じていました。ですから今日お招きいただき、テレビの「そもそも論」を語れといわれたことは、たいへんありがたい。私に与えられたテーマは「そもそも地上放送局って?」ですが、もう一歩引いて「そもそもテレビって?」から、話を始めたいと思います。50分ほどお付き合いください。

20世紀の造語"television"

 そもそもテレビとはtelevisionの略。そこで、まずその原義を紹介しましょう。20世紀の造語である"television"の「tele-」は「"distant"《遠い、離れた》特に"transmission over a distance"《距離を隔てた伝達》の意味を表すギリシア語から借用の専門語《もっぱら電気通信関係語》の造語要素」(ランダムハウス英和大辞典、《》は坂本)で、「vision」(見えること)はラテン語「videre」(見る)に由来します。つまり、もともとの意味は「遠くを見る」あるいは「遠くが見えること」。人間の長年の夢であった遠くを見ることのできる装置に、この名前がつけられました。

広辞苑によるテレビの定義

 では、一般的にはテレビをどう定義しているでしょうか。たとえば広辞苑(岩波書店、第四版)は、

テレビジョン【television】(1)画像を電気信号に変換し、電波・ケーブルなどで送り、画像に再生する放送・通信の方式。(2)テレビジョン(1)の画像を再生する装置。テレビジョン受像機。テレビジョン受信機。テレビ。

 と書きます。ここで検討したいのは言うまでもなく(1)の意味。「電気信号に変換」というキモを押さえた、まずまずの説明といえます。ただし、テレビはふつう画像と音声を同時に送るが、音声に触れていない。テレビを説明するのに、放送・通信という面倒くさい言葉(とりわけ「放送」は同義語反復に近いと思う)を使っているのも不満です。

坂本によるテレビの定義

 そこで、私なりにテレビとは何かを定義すると、「テレビとは、見えるものや聞こえるものを電気信号に変換し、離れた場所に送って、見たり聞いたりできるようにするシステム」となります。

 「画像と音声」といってもよいが、ここではわかりやすく「見えるものや聞こえるもの」と言い換えました。見るというのは光(光の信号。電磁波のうち可視である波長のもの)をとらえること、聞くというのは音(音の信号。音波=空気の振動のうち可聴である波長のもの)をとらえることですから、「光と音」(ただし、光や音がない場合=「真っ暗闇」や「静けさ」も含む)を電気信号に変えて送り復元する、といってもよい。以上を図示すると次のようになります。

テレビシステムの原理図

テレビの原理その1


 放送関係者には「馬の耳に念仏」ではなくて「釈迦に説法」ですが、ざっと解説を加えておきます。

(1)いちばん左側に、現実(出来事とか人物のやりとりとか風景とか、およそこの世界のあらゆるもの)がある。

(2)現実のうち光をカメラでとらえる。テレビカメラの基本構造は写真機と似ていますが、像を結ぶ場所に、フィルムの代わりに撮像管または撮像素子が置かれている。これは光電現象(光をあてると電気が流れる現象。たとえばセレンという元素がその働きをする)を利用して光を電気信号に変換するもの。変換は画像を画素(細かい点)に分割し左上から右下へ「走査」しながら行われます。音はマイクでとらえる。マイクロホンによる音の電気信号への変換はもっと簡単で、音による振動板の動きを磁場の中でコイルなど導体に伝えれば、電気信号が得られます。

(3)変換後の電気信号を電波塔から電波で(無線)、またはケーブルを使って(有線)送る。

(4)家やビルではアンテナやケーブルを介して電気信号を受信し、テレビ受像機に取り込む。

(5)受像機では(2)の逆を行い、電気信号を光と音の信号に変換する。光から変換した電気信号は、ブラウン管または液晶・プラズマ表示装置を使って光の信号に変えます(撮像管とブラウン管、撮像素子と液晶・プラズマ表示装置の構造は、それぞれよく似ており、原理は同じだが方向が逆。ここでも画素を「走査」する)。音から変換した電気信号はスピーカー(ラウドスピーカー)を使って音の信号に変えます(マイクとスピーカーの構造はよく似ており、原理は同じだが方向が逆)。

(6)こうしていちばん右側に、現実によく似た「疑似現実」が出現します。

 なお、この図から「光と」を取り除くと、そのままラジオシステムの原理図になります。当たり前ですね。もっともそのようなシンプルで汎用性を備えた原理図は、そう多くない。私がこれまでに見たテレビの原理図のほとんどはテレビ技術の原理図で、撮像管やブラウン管の解説図にすぎませんでした。人間とは何かを考えるのに、いきなり目や耳の構造図を出すのが馬鹿げているように、テレビとは何かを考えるのに、いきなり撮像管やブラウン管の構造図を出すのは馬鹿げていると思いますが、多くの大事典や百科事典はそうしています。

 このテレビの原理図から読みとるべきは、次のようなことでしょう。

●テレビは光と音以外は、送ることができません。(イラクのファルージャで米傭兵4人が焼かれ吊されたときはものずごい臭《にお》いがしたはずだが、臭いは送れない。アブグレイブ刑務所での拷問はものすごく痛かったはずだが、痛さは送れない。気温40度を超える中東の街はものすごく熱いはずだが、熱さは送れない。いずれも直接的に送るのはダメで、それを表す映像と音声しか送ることができない)

●カメラが撮さずマイクが拾わないものは、送ることができません。(したがってテレビは、原理的に客観報道などできない。カメラとマイクは人間が主観で操作するから当たり前。新聞・雑誌記事も人間が書くから客観報道などできなくて当たり前。「客観報道」という馬鹿げた言葉は「茜《あかね》色の青空」とか「真っ黒な白馬」のようにそもそも矛盾・自家撞着を起こしている。正しくは「客観的な報道」「公平な立場からの報道」「多様で多角的な報道」「バランスのとれた報道」「第三者的報道」「傍観者的報道」というような言葉を使って議論しなければならない。「テレビは客観報道が大事」などと見当違いなことをいっている者の報道は、政府・企業などの発表をそのまま右から左に流すだけの単なる「発表報道」であることがほとんどです)

●カメラは現実を部分的に切り取るため、ほとんどの場合、「現実の矮小化」か「現実の誇張」が起こります。(矮小化も誇張もせずに現実をほぼ現実のままに伝えることは、めったにない)

●電気信号に変換すれば、電波が使えます。ということは、テレビの中身は光と同じ速さで届く(速報性)。また、テレビのシステムは途中の経路の心配が不要となる(低コスト)。

●現場の「光と音」を最終的に「光と音」でもたらします。したがって迫真力がある(再現性)。ただし、最終的にもたらされるものは、現実によく似た「疑似現実」であって現実そのものとは異なる。新聞記者も現場で同じ「光と音」に接しているわけだが、新聞が最終的にもたらすものは新聞紙上の「写真と文字」(光の信号とはいえるけれども)に限定される。再現性については、活字メディアはテレビの足元にもおよばない。活字が1万行費やしても伝えられない事柄をテレビは一瞬で伝えることができる。もちろんカメラで撮れば、活字そのものも伝えることができる。

●光による情報(視覚に作用する情報)は伝達力が大きい。また、音(聴覚)を併用すると飛躍的に大きくなる。(五感のうちたった一つだけ残してあとは取り上げるといわれたら、何を残したいか。M.Metfessel「人間の知識の65%はその目を通じて集積されたもの」。H.L.Hollingworth”The Psychology of the Audience”「聴覚のみ、視覚のみ、聴覚と視覚の併用の3つの方法で静止画の記憶度を調べると、直後の記憶度は71%、72%、86%。ところが3日後の記憶度は10%、20%、65%」)

テレビにとって決定的に重要な問題(本当はこうなっている)

 先に掲げたテレビシステムの原理図は、テレビの原理をごくシンプルに書き表したものです。しかし、考えてみると、これはテレビという巨大なシステムから一部分だけを抜き出したものにすぎません。そこで、もっと本当のところに近い原理図を図示すると、次のようになります。

テレビの原理その2

 この図では、右側のハコ(光と音)は便宜上9つしか描いてありませんが、現実には日本でいえば4800万世帯に置かれた、おそらく受像機1億2000〜3000万台分の「光と音」がありうるわけです。左側のハコも1つしか描いてありませんが、本当は放送局の数だけあります。テレビの制作には専門性が、送信には大規模システムが必要なため、スタート時に国が関与する場合が多く、国営・公共放送局と民間・商業放送局が並立する場合も多い。このことは、図の左右のアンバランスを考えれば、納得できるでしょう。

 この図には、縦に赤線を引いておきました。いちばん左の無数にある現実の右側の波線からこの赤線までは、放送局やテレビ制作会社やCATV会社といった企業・団体(放送業界)が担当しています。しかし、この線から先は、視聴者または国民大衆が担当しています。これは、テレビとは何かを考えるうえで、忘れてはならない決定的に重要なことです。

 赤線から先の設備は、受信者がコストを負担し整備・設置します。受信者以外のすべての者(たとえば国、放送局、メーカーなど)は「整備・設置のお願い」しかできません。つまりテレビシステムは、放送局だけで完結するシステムではなく、最初から放送局と視聴者が共同して作るシステムです。それが「テレビの原理」なのです。「放送」とはよくいったもので、テレビ局やラジオ局はまさに「送りっ放し」なわけです。

 よく「国や放送局は、もっと視聴者のことを考えたほうがいい」というような言葉を聞きます。しかし、「考えたほうがいい」どころではありません。テレビはもともと「システムの半分を視聴者(受信者)に100%依存する(丸投げしている、すべてを委ねてしまっている)」システムです。システムの根本原理を担う者のことを「考えたほうがいい」というのは誤りで、「考えなければダメ」に決まっています。新聞が上質紙を使おうがサイズを変更しようがカラー・高画質化しようが、玄関のポストまで取りにいくという読者の手間は変わらない。ところがテレビの場合はアンテナもテレビも視聴者がすべて自己負担で取り替えなければならない。

 私は、現行の地上デジタル放送計画を考えた人びとは、このテレビの原理図がよくわかっていない――つまりテレビとは何かがよくわかっていないのだと思います。現行の地上デジタル放送計画が、もっぱら赤線の左側を担う人びとだけによって立案されたことは疑いなく、赤線の右側のシステムの置き換え(総とっかえ)が左側を担う人びとの予定通りに進まないことも100%疑いありません。

 なお、図からわかるように、テレビは「1対多」通信。受信者がテレビを通じて接する「光と音」は、同時に多数が共有するため、社会に対する影響力が極めて大きくなります。テレビは、現実を疑似現実として極端に「増幅」する装置・システムなのです。それも、見る人びとの感情に、感情だけに働きかけてそれを増幅させる傾向があります。これは北朝鮮拉致事件やイラク人質事件、サッカーW杯などをテレビで見れば実感できるでしょうが、詳しくは2004年7月6日発売のGALAC誌上で。

オマケ(現在のテレビ双方向化とは)

 テレビの原理図を出したついでに、オマケとしてテレビの双方向化についての図はどうなっているかを示しておきます。

テレビの原理おまけ

 図からわかるように、これまで一方向(往路)だったテレビに逆方向(復路)の情報の流れが追加され、新しいループができます。しかし、復路を追加して双方向を完成させるのは、情報を発信する(リモコンのボタンを押す)のも、それを電気信号に変える装置(視聴者が買った受信機)も、電気信号を放送局に送る電話回線(開設費用も毎回の使用料も)も、すべて視聴者の担当で、視聴者がほとんどのコストを負担します。

 総務省のPRサイトには「地上デジタルテレビ放送では高度な双方向サービスをご利用いただけるようになります」と書いてありますが、何のことはない、ほぼ100%視聴者が自前でやるのです。どう考えても「新しい楽しい地上デジタル放送で双方向を実現!!」などと威張る話ではなく、「みなさんのコスト負担によって双方向をやらせていただき、新しい楽しい地上デジタル放送にしたいのですが」とお願いする話でしょう。

 視聴者にコスト負担させて番組へのフィードバックを受けることは、放送局には損のない話。しかし、正しく告知すれば、本にはさまれた「50円切手を貼ってアンケートお答えを」というハガキの返ってくる見込みが薄いのと同様、双方向サービスはたいして魅力的なものにはならないだろうと私は思います。

(2)そもそも地上放送局って?

最初はみんな地上放送局

 「そもそもテレビって?」はこのくらいにして、次に「地上放送局って?」というテーマに移りましょう。CATV局、BS局、CSデジタル局、BSデジタル局などが出てくるまでは、日本の放送局はすべて地上放送局でした。つまり、そもそも「地上放送局って?」という問いは、「最初の放送局って?」という問いとほとんど同じです。そこで、日本最初の放送局の紹介から始めましょう。

日本初のラジオ局
1925年 社団法人東京放送局が初のラジオ放送。大阪放送局・名古屋放送局が続く
1926年 逓信省指導下に3放送局が統合され日本放送協会が誕生。放送を規律するのは「無線電信法」、逓信省令「放送用私設無線電話規則」「放送用私設無線電話監督事務処理細則」

日本初のテレビ局
1950年 電波三法(電波、放送、電波監理委員会設置)、特殊法人日本放送協会が発足
1951年 正力松太郎「日本テレビ放送網」構想
1952年 電波監理委が日本テレビに予備免許を下し、廃止
1953年 2月にNHK、8月に日本テレビが放送開始

地上放送局の「物理的な」特性……使う電波の特性

 これら最初のラジオ局、テレビ局(ラジオの登場からテレビの登場まで30年もないことは、ちょっと驚きですね)は、ラジオやテレビの原理そのままに、電気信号を電波に載せて送りました。それがもっとも低コストだからで、ケーブル化など誰も考えていません。ということは、使う電波の特性によって、地上放送局の性格がある程度決まってしまいます。たとえばテレビ電波が小電力で日本全国津々浦々まで届くような性質であれば、今日のかたちのネットワーク系列は存在しなかったでしょう。テレビシステムに使われる電波はこうなっています。

≪放送に使う電波≫
↑ 光の性質に近づく(直進、見通し範囲内、障害物不可)、情報量大、複雑、高コスト
EHF/ミリ波
SHF/マイクロ波衛星(BS、CS)見通し範囲のみ。波長が水滴直径に近い。(降雨減衰・霧減衰が不可避)
UHF/極超短波地上テレビ(U、地上デジタル)ちょっとした建物の裏側でも減衰。(要大出力)
VHF/超短波地上テレビ(V、FMラジオ)山・建物の裏への回り込み微弱。電離層で反射されず。到達範囲は主に同一の平野や盆地部など。
HF/短波短波ラジオ電離層と大地の間で反射を繰り返し遠方に届く。(電離層波)
MF/中波AMラジオ地表面に沿って伝わり、低い山も越える。
LF/長波
VLF/超長波
↓ 光の性質から遠ざかる(回折・回り込み、障害物可)、情報量小、単純、低コスト

 表の左タテ列は、電波の呼び名です。上に行くほど波長が短く(周波数=振動数が大きく)、下にいくほど波長が長く(周波数=振動数が小さく)なります。この表にはテレビとラジオに使うものしか書き出していませんが、詳しくは周波数帯ごとの電波の利用状況(電波資源の有効活用方策に関する懇談会報告から。同じ表は民放連「放送ハンドブック」にも載っています)を参照してください。

●電波は「痛し痒し」「あちら立てればこちらが立たず」「キャッチ22」です。使いやすい電波は多くの情報を伝えられない、情報量は多いが雨粒に弱いというように、美点と欠点を合わせ持つのが普通だから、テレビを送るのにこの周波数が最適などと簡単には決められません。遠くまで届くに越したことはないとも思えますが、届きすぎると混信を招きかえって困ります。

●放送の歴史はおおむね、音声を載せやすく使いやすい周波数を使うラジオから出発し、音だけから音と画像、標準画質の画像から高画質の画像と、情報量の拡大を求めて使う電波を光に近づけてきたといえます。それに従って、伝送(送信・受信)コストがかさんできたともいえます。

地上放送局(テレビ)の「制度的な」特性……そもそもの理想

 最初のテレビは、上の表に示した使う電波の特性によってまず「物理的な」制約を受け、さらにその制約やその他の諸条件を勘案して下された免許条件によって「制度的な」制約を受けながらスタートしました。最初の地上テレビ放送局に対する免許方針は次のようなものでした。

1952年(昭和27年)7月31日に電波監理委員会が出した「テレビ免許の方針と措置」

<方針>(全文)
(1)テレビ事業は独占事業であってはならない。
(2)テレビ放送局の置局については、さしむき、東京は二局ないし三局、その他の都市においては一局または二局を適当と認め、日本放送協会の放送局と民営の放送局との併存を原則とする。
(3)テレビ放送はさしむき東京において実施するものとし、その成果を中継回線の完成を待って逐次地方としに及ぼすことを適当と考える。

<措置>(ほとんど略)
○日本テレビ放送網=予備免許を与える。

 いまなら「さしあたって」というところ「さしむき」なんて書いて、時代を感じさせます。電波監理委員会はGHQの求めで設置された独立行政委員会で、1952年当時は事務局官僚が全員辞表を出して圧力を強めるなかで、テレビ免許の方針と措置を決定。日本テレビに予備免許を与え、NHK・ラジオ東京については決定を保留しました。この決定の20分後(52年8月1日0時)に電波監理委員会は廃止され、以後、電波行政は郵政省電波監理局の所管に移行します。

 したがって、特殊な状況のもとに下された免許方針ともいえますが、ここで示された「非独占」(複数置局)、「地方(の中心都市)単位」、「NHK・民放の併存」、「東京から地方へ」といった基本方針は、その後も大きく変わることはありませんでした。

 テレビのスタートから長く地上放送局のあり方を規定した制度その1は、すべての地上放送局はローカル放送局である(放送エリアは関東広域、中京広域、近畿広域および都道府県域で、そのように周波数利用計画が立てられ免許が下された)ということ。

 制度その2は、いわゆる「マスメディア集中排除原則」(=複数局支配の禁止。マスコミ集中排除原則とも)として確立された原則で、「一《いつ》の者が所有・経営支配できる放送局・委託放送業務は一に限定」との規定です。ここでいう「経営支配」とは次のいずれかを意味しました。もちろん以下のことさえ排除すれば何をやってもいいという規定、とも取れましたが。

(1)放送対象地域が重複しない……5分の1以上の議決権の保有
   放送対象地域が重複する……10分の1を超える議決権の保有
(2)5分の1を超える役員(監査役等のぞく)の兼務
(3)代表役員または常勤役員(監査役等のぞく)の兼務

 議決権の保有は株主総会での話ですから、(1)を平たくいえば、東京と北海道のように離れた地区のテレビ局同士は株式を20%以上持ち合ってはならず、関東のように同一地区のテレビ局は株式を10%以上持ち合ってはならないということ。(2)は、あるテレビ局の役員が10人いれば、他局の役員を同時に務めることができるのは2人まで。(3)は、あるテレビ局の代表取締役・常勤取締役は他局の代表取締役・常勤取締役に就任してはならないということです。

地上放送局(テレビ)の「制度的な」特性……その後の現実

 ところが民放においては、いわゆる「ネットワーク」(系列)が極めて日本的なかたちで独特の発展を遂げ、地上放送局の制度的な特性をもたらしていくことになります。

民放テレビの歴史はネットワークの歴史
1953年 日テレ開局
1954年 ラジオ東京(現TBS)開局
1956年 大阪テレビ(現朝日放送)・中部日本放送開局→上の2局から番組受け
1958年〜59年 田中角栄郵政相の一括大量免許(TBS系と日テレ系)
1968年 郵政省「1県1置局」転換、U開放・大量免許→4系列化の進行
1975年 「腸捻転解消」(仲介・仕込みは角栄の首相時代)
1986年 郵政省「4チャンネルプラン」(4局置局政策)
※例外は、基幹地区ネットのテレ東系列、独立U局、クロスネット局など。

 この民放の歴史から指摘しておくべきは、次のようなことでしょう。

●ネットワークの量(数の増加)・質的変化(ニュースから編成・営業ネットへ)。最初に東京にできた2つのテレビ局、日本テレビ放送網(構想段階から全国放送を目指していたので、社名に「網」がつく。ただし、目指していたのは今日のようなネットワークではなく、東京の放送を全国に独占的に流すことだった)とラジオ東京は、自前で番組をつくりました。しかし、これに続く放送局は(フジ、NET=現テレビ朝日、東京12チャンネル=現テレビ東京などの在京局を除き)、地元の経済力が小さい、規模が小さくノウハウがないといった理由で、東京の放送局から番組の提供を受けました。これが、今日に至るネットワーク系列の始まりです。

●電波料、その曖昧で不思議なもの。通常の商取引だと、東京で作ったものを地方で売るときは、地方が東京にカネを払うのがふつうです。たとえば東京で作った本を地方の本屋が売るときのカネの流れは「地方→東京」ですし、地方で作った米を東京の米屋が売るときのカネの流れは「東京→地方」です。ところが、テレビのネットワーク系列では、「電波料」(かつての民放の定義では「番組の搬送手段である電波の発射に関するもろもろの費用」)なるコストが算定され、キー局の番組を地方局が流すときのカネの流れが「東京→地方」となります。このカネが、東京キー局が系列支配する源泉の一つです。

●事実上テレビは4大ネットが完成。郵政省が全国どこでも「NHK+民放4チャンネル」を見ることができるようにする、いわゆる「4チャンネルプラン」を正式に打ち出したのは1986年。これ以降、日本の民放テレビは事実上4大ネット体制となります(基幹地区のネットであるテレビ東京系列を入れて「4.5系列」などということも)。これはテレビ50年の歴史では、比較的最近のことです。

●放送法第52条の3(放送番組の供給に関する協定の制限)「一般放送事業者は、特定の者からのみ放送番組の供給を受けることとなる条項を含む放送番組の供給に関する協定を締結してはならない。」は完全に形骸化しています。地方のテレビ局は、もっぱら同じ系列の東京キー局という特定の者からのみ放送番組の供給を受けていますから、放送法の「精神」には反しています。

●マスコミ集中排除原則も完全に形骸化しています。東京キー局がわざわざ地方のテレビ局の役員の5分の1を押さえなくても、東京キー局の出身者が地方のテレビ局の社長になればよいだけのこと。系列によっては、地方テレビ局の社名をわざわざ「マスコミ集中」を表現する名前に変えていますから、マスコミ集中排除原則の「精神」には反しています。

●日本特有の新聞―テレビ系列化。世界的に見て日本のテレビネットワークの際立った特徴といえるのが、「東京キー局が地方テレビ局を系列化すると同時に、新聞が東京キー局を系列化している」こと。系列によって濃淡はありますが、日本テレビ―読売新聞、フジテレビ―産経新聞、テレビ朝日―朝日新聞、テレビ東京―日本経済新聞は明らかに系列化しており、たとえばテレビ朝日の社長は朝日新聞の編集責任者OBが務めることが常態化しています。テレビ局同士のマスコミ集中よりも、新聞―テレビ間のマスコミ集中のほうが弊害が大きいとすらいえますが、この点に関する「マスコミ集中排除」の規定はどこにも存在しません。このことを疑問に思わない人はいないでしょう。

 この「新聞―テレビ系列化」に極めて熱心だったのが、郵政相や首相を歴任した田中角栄。首相時代に75年に実現する「腸捻転解消」(TBS―朝日放送、テレビ朝日―毎日放送という「ねじれ」を、TBS―毎日放送、テレビ朝日―朝日放送に修正)を仲介していますし、日経が持っていたNET株と朝日が持っていた東京12チャンネル株の交換(保有株式数が議決権を決めるので、交換によって日経新聞の東京12チャンネル支配・朝日新聞のNET支配が強化された)も仲介しています。田中角栄がつねづね「郵政大臣はテレビだけでなく新聞を支配できる」といい、そのポストを田中派で独占していたことを、私たちは忘れるべきではありません。

地上放送局(テレビ)の現状

 ここまでをまとめると、地上放送局は地域ごとの免許、非独占・マスコミ集中排除といった理想を掲げてスタートしたが、その後の歴史(必ずしも理想通りには行かない現実)の中で、放送局間の極端な格差が生まれたといえます。この格差は、単なる「規模の大小」の違いではなく「構造」の違いですから、キー局と地方局を地上放送局として「一括り」にはできません。地上放送局は、おおむね下表(数字はおおよそです)の3つに分かれると考えてよいでしょう。

≪地上放送局の大雑把な分類≫
項目/分類東京キー局大阪準キー局地方局
売上高3000〜2000億円以上800〜600億円100〜50億円以下
社員数1000人以上数百人以下100人〜数十人以下
自社制作率10割4割2割以下

 このような放送局の違いの出発点は先に見たようにネットワークですが、その後も格差が広がりキー局支配が強まったのは、次のような事情によります。

●背景に、東京中心の中央集権体制(人・モノ・カネ・情報が東京に集中)。

●視聴者は、エンターテインメント部門を中心に東京の番組を見たい(ニュース部門は世界も東京も地方も見たい)。

●キー局は、系列一丸となり総合力を高め、視聴率を上げたい(番組を地方で流したい。ニュースや話題では地方の手を借りたい)。人事政策上も支配局がほしい。

●地方局は、制作力がなく東京の番組を流したい。経済的な基盤が弱いから資金面でも支援がほしい(電波料)。直接の番組づくり以外でも手を借りたい(たとえば倫理的な指針の作成)。

 結果として地方局は、基本的に地元ニュース・話題・ドキュメンタリー以外の部門で独自性を発揮しにくい存在となりました。地方局の置かれた「構造」が、そのコンテンツを決めてしまっているわけです。その地方局の唯一の得意分野は、もともと見る人が少ないのです。この点、人口が100万人にも満たないような地域単位でもNHK以外の民放4局の視聴を実現するという「4局置局政策」そのものに無理があり、失敗であったともいえます。地域によってはその通りでしょう。しかし、地上放送局のうち民放地方局のある部門は明らかに必要とされており、小さくても強いニーズが確かにある。そのニーズになんとか応えようとしてきたところに、新しい巨大な問題が登場した。それが次に見る放送のデジタル化(デジタル放送)です。

(3)そこに、デジタル化!!

 時間もありませんので、デジタル放送の登場以降、現在の主要なテレビ放送を一覧で掲げます。地上アナログ放送、 CSデジタル放送、BSデジタル放送、地上デジタル放送については、それぞれ細かいオマケがついていますが(たとえば地上アナログでは文字放送をやっているとか、BS・地上デジタルは5.1サラウンドで音がよいとか)、押さえておくべき重要な事柄は次の表で足りると、私は思っています。

≪デジタル時代の主要テレビ放送(2004年春の時点)≫
項目/分類地上アナログ放送CSデジタル放送BSデジタル放送地上デジタル放送
受信機台数1億2000万
〜1億3000万普及
400万以上出荷300万以上出荷80万前後出荷
視聴世帯数4800万世帯300万世帯強
(目標400万世帯)
300万世帯弱
(目標1500万世帯)
60万世帯前後
(目標4800万世帯)
チャンネル数最大10程度30010程度プライム10程度
画質・画角並・4対3並・4対3上・16対9上・16対9
受像機価格安い安い高い高い
放送エリア県域〜広域全国全国県域〜広域
放送主体地上テレビ局さまざま地上テレビ系列
(実質東京キー局)
地上テレビ局
放送開始年1953年1996年2000年2003年
本格稼働期1970年代
(全国4波体制)
2006年頃
(400万加入)
不明
(メド立たず)
たぶん2020年以降

 みなさんには、この表を注意深く吟味してほしいと思います。全国に流すBSデジタル放送の放送主体が、県域〜広域を本来の放送エリアとする地上テレビ局系列(実質は東京キー局)なのはなぜか。CSデジタル放送以外をすべて地上テレビ局が押さえ、そのCSデジタルも実質的にフジテレビが押さえているのはなぜか。すべての学校で個性を大切にしようと教えているが、なぜ放送は同じ会社が主体のまま多様化しなくてよいのか。なぜCSデジタル放送だけが300チャンネルと突出し、残り3つは10チャンネルしかないのか。不思議だとは思いませんか?

 これは地上テレビ局が心底そうありたいと願って実現しつつある放送の理想型に近い姿でしょうか? あるいは、これは日本の国民や視聴者・大衆が心底そうしてくれと願って実現しつつある放送の姿でしょうか?

 そんなことはない、たとえばBSという世界に例を見ない衛星放送メディアが存在して、しかもそれが大苦戦を強いられている根本の原因は、郵政官僚が国民のニーズなどおかまいなしに「衛星の国産化」という利権にしがみついたからだと、私は確信しています。

 この表を前に考えるべきは次のようなことです。

●地上テレビ局に必要なデジタル化投資額が大きいため、ますます東京キー局主導、キー局支配が強まる(地方の制作環境はますます悪化する)。

●某系列のシミュレーションによれば、全エリアで地上デジタル化投資をすると「系列ローカル全局が倒産」(京阪名以外は絶望的)。

●放送エリアが全国のBSデジタルとCSデジタルは、地方局には不得手な放送で、地方局の参入メリットは小さい(BSの主体は事実上キー局)。

●地上デジタル放送は「高画質・横長で受像機が高いこと」以外は、地上アナログと大差ないため、テレビ局の投資額・制作費・送信費など支出増は確実だが、収入増の見込みはゼロ。

●現行の地上アナログ放送が、放送開始から本格稼働期(全国普及)までに、高度成長期にもかかわらず20年近くかかっていることに注目。多くの視聴者は高価な受像機を買ってまで高画質・横長テレビを必要としていない(テレビが大好きな最大の視聴者層である若者や子どもや高齢者に聞いてみれば、そう答える)から、受信機の普及も想定通りに進むはずがない。企業や消費者の成長力は、アナログ放送の普及期よりもなお小さいと考えるべき。

●公共放送NHKは有料放送なので、CSデジタルに参入できないが、受信料がもともと高めに設定してあるから(事業所から放送法の規定通りに集金し、未契約世帯も減らせば、現行の3分の2程度かそれ以下に値下げできる計算)、BSデジタルと地上デジタルの運営には何の問題もない。膨大なコンテンツ(アーカイブ)があるため多チャンネル化は大得意でもある。したがって、今後は「NHK一人勝ち時代」が長く続く見通しである。

(4)どうする、地上放送局?

 では地上放送局、とりわけ規模が小さくデジタル化投資が過酷な民放の地方放送局は、どうすればよいのでしょうか。最後に、私が提案したい対応策を簡単にまとめておきます。

 放送のデジタル化の潮流を止めることはできず、将来アナログ放送が姿を消すことは必然です(この意味で私は、最初からデジタル放送に反対などしていない。何もないところから始めるならデジタル放送でよいが、アナログ放送がここまで普及している日本では、相応のデジタル化の手順を踏まなければ必ず失敗すると、90年代から主張している)。しかし、デジタル化をしても放送局がバタバタ倒れたり、放送局が疲弊して劣化した(高画質・横長だが中身のない)テレビ番組を送り出すのでは本末転倒もよいところ。人びとが本当に求めているニーズを見極め、そのニーズに従って対応する以外、テレビ局が生き残る道はないと思います。

●テレビの原理の後ろ半分は視聴者→視聴者こそ味方につけよ。

●公的支援(国と自治体)に頼りすぎれば、「民放」ではなくなってしまう。

●地上デジタルの各項目を見直すべき。
 →チャンネル数は10でいいのか?
 →高画質・横長だけでいいのか?
 →受像機が高いだけでいいのか?
 →放送エリアは「県域」でいいのか? そもそもなぜ県域? なぜ放送エリアを130年以上前の明治政府による廃藩置県に合わせなければいけないのか?
 →主体はテレビ局だけでいいのか?

以 上

参考:「テレビの原理」関連情報があるサイト

 サイト掲載にあたって、「テレビの原理」に関連する情報があるサイト・ページをいくつか紹介しておきます。参考にしてください。どうでもいいですけど、素朴な疑問に答えるとき、なんでみんな「隊」を組むんでしょうねえ?