≪リード≫ (「GALAC」2001年09月号 特集「TVニュースの価値判断」総論) ≪GALAC#52 「特集 TVニュースの価値判断」の目次≫
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1948年時点で、電子化された音声と映像をテレビとして家庭まで届けることができたのは、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの4か国だけだった。当時のテレビ受像機の台数は全世界で300万台といわれる。20年後の1968年には、ほとんどの国でテレビが映り、台数は1億3000万台に増えた。
そこからさらに30年余。いま、日本国内には、30年前の全世界分を優に上回る台数のテレビがある。電器店で売られるテレビのもっとも安いものでも、30年前のテレビとは比較にならないほどよく映る。
チャンネル数も飛躍的に増えた。東京でいえば、地上放送のNHK2波と民放キー5系列は30年前と変わらないが、テレビ神奈川やMXTVをはじめとする関東U各局、アナログBS、デジタルCS、デジタルBS、CATVなどが新たに加わり、コストさえ負担すれば200以上のチャンネルが視聴できる。深夜放送や24時間放送も当たり前になり、ジャンルの多様化も急速に進んだ。
つまり、ハードウェアから見てもソフトウェアから見ても、量的にはテレビの進歩発展は疑いない。だが、質的にはどうだろうか。
いま問題にしたいのは、テレビのうち「報道」や「ニュース」と呼ばれるジャンルについてである。個人的な見解をいえば、私はテレビの報道部門は弱い、いや、弱すぎると思っている。
もちろん報道ニュース部門も、量的には飛躍的な拡大を遂げてきた。30年前に目立ったテレビニュースといえば、NHKの定時とTBSの夕方ニュースくらいのもの。これをNHK「新日本紀行」に代表されるドキュメンタリーが補完する構図だった。
NHKや民放の夜のキャスターニュース、民放の朝夕の情報系ニュースが登場したのは、比較的最近のこと。「報道(ニュース)はカネになる」といわれ始めた1980年代以降だ。いまでは、CSに民放系のニュース専門チャンネルがあるし、BSやCSで海外のニュース番組を見ることもできる。
質的にも、ENGや中継技術の進歩を武器に報道の機動性は飛躍的に高まった。資料映像やフリップ・模型・CGなどを駆使して、物事をわかりやすく見せる技術が進んだ。
じゃあ、何の文句があるのか、高まった進んだという話ばかりではないかといわれそうだ。
しかし、報道やニュースにおいて、30年前あるいは10年前と、あまり変わらないか、ひょっとして弱まっているのではないかと思われることが確かにある。
およそ報道やニュースは、何を取り上げようかという「企画」があり、それに基づいて実際に「取材」し、上がってきた素材を放送できる形に「編集」するという三つの段階をへて送り出される。
現実には、ある事件の取材帰りに別の事件に遭遇し取りあえず撮った素材が採用され前の事件はボツとか、1本の企画が編集中にやっぱり2本に分けようという話になるとか、三つの段階がそう厳密に区別できるわけではない。企画は局の上のほうから降りてきて番組では取材と編集をしただけ、あるいは取材と編集は外部に発注したなど、担当が異なることもある。
いずれにせよ、ある番組から出たすべてのニュースは、その番組の編集費任者が全責任を負うことになる。
ここでは便宜的に、報道やニュースを「企画」「取材」「編集」という三つの段階に分けて、その「弱さ」を見ていくことにする。
テレビ報道の「企画」面での弱点とは、どんなことだろうか。まずいえるのは、テレビは免許事業であり、NHKには国会で予算を通す都合上政治面で、民放にはスポンサーに出稿してもらう都合上営業面で、それぞれ企画段階から慎重な配慮をするのが普通だということだ。
言い換えれば、NHKは国会の多数派である自民党を必要以上に刺激するニュースは、自主規制して企画しない。民放も、有力スポンサーを正面から敵に回すようなニュースは、自主規制して企画しない。
どちらも、自民党政治家が汚職で摘発されたとか、スポンサー企業が組織的な犯罪行為をしたとかいう場合には、もちろん取り上げる。いまの世の中、そんな報道まで自主規制したら視聴者に相手にされないことくらいはわかっている。だが、そこまでいかない段階での「まあ、やめておこう」という自主規制は、テレビには日常茶飯事だ。
30年以上前のベトナム戦争のころ、テレビに各方面から圧力がかかり放送中止事件が頻発《ひんぱつ》したことがあるが、最近は露骨な放送中止や放送介入圧力の話を聞かない。これは、国内を二分するような大きな対立事案が姿を消した、テレビの地位が上がった、圧力をかける側が巧妙になったといった理由もあるが、一つにはテレビが圧力を嫌って企画段階で自主規制してしまうからだ。
また、NHKは特殊法人として、民放各局は民間企業として、自らの経営戦略を立案している。これに反することは、国民や視聴者に伝えるべきニュースであっても伝えないということもよくある。
BSデジタルの現状や地上波デジタル放送の将来に関するまともを報道が一切なされないのは、(民放にはスポンサーに対する配慮もあるだろうが)NHK・民放ともに放送局が当事者だからだ。NHK・民放ともに、まとも々官僚の天下り批判番組をつくったことがないのも、局自らが天下りを受け入れているからである。
こうした自主規制は、自らタプーを広げテレビ報道の可能性を狭める大きな弱点というべきである。
自主規制とは逆に、最近妙な自局PRをニュースに紛れ込ませるケースも増えた。とくに目立つのがNHKニュースだ。ここ1〜2年、放送記念イベント、BSデジタル関連、自局ドラマのスタートといった項目を、通常のニュース番組で伝えることが多い。これらは当然、別の「お知らせ」枠で伝えるべき内容であり、ニュース枠で流すのは報道の堕落《だらく》である。
民放でも、自社グループのイベントや、新しく制作されたCMの話題(タレントの誰それを起用とかCG処理がおもしろいとか一応ニュース性はあるが、なぜか何度も繰り返す) など、どこか怪しい、ニュースともニュース内CMとも判断しにくいケースが少なくない。
こういうニュースを現場が積極的に企画出しするとは考えにくいから、上からか横からか、番組に企画が降ってくるのだろう。
以上のような自主規制やその逆(「自主CM緩和」とでもいうか)を除けば、企画は編集権と同様に番組に属し、当然、期待できる視聴率とのテンビンにかけてのうえだが、自由に立案されている。
「取材」についてはどうか。長引く不況やデジタル化投資が民放経営を圧迫し、どのセクションでも人が足りないという話を開く。実際、民放キー局の報道局では、人手不足が常態化している。社会部の文部科学省詰め記者が宮内庁担当と兼任というようなことは、まったく珍しくない。いったん大きな事件が起これば、担当する仕事をおいて応援に駆り出されるのも当たり前だ。
個別番組の人手不足も同様で、今回の座談会では、「ニュース23」編集長の金平茂紀が「専属スタッフは30人前後」と語っている。実際の取材はものによって系列局や外部プロダクションが担当するとしても、この人数で平日毎日1時間番組を送り出すというのは、むしろ驚異的というべきかもしれない。
しかも、10年前ならディレクターや記者やカメラマンなど5人のスタッフで取材したというような出来事がいま起こつても、やっぱり5人くらいで取材するだろう。
すると、人数だけでなく取材力も問題になるが、スタッフ1人あたりの取材力は、たとえば10年前と比べてハッキリ落ちていると思う。
これは何もテレビだけにいえることではなく、新聞記者や雑誌記者の取材力も、10年前よりハッキリ落ちている。報道出身のキャスターや局長・部長クラスなら、切実にそう思っているはずだ。
以上のような人の問題に加えて、そもそもニュース事象が年々飛躍的に拡大している。犯罪一つとっても、社会が多様化し高度化すればするほど、多様化し高度化し複雑になつていく。
陣容が以前とあまり変わらないのであれば、グリコ森永、オウム、ストーカー、ネット犯罪と警察が後手後手に回ったように、マスコミ報道も後手後手に回らざるを得ない。
だから、テレビ報道は、全体として量的にも質的にも拡大しているように見えて、なお「弱い」のである。
「編集」については、座談会で三つの番組の担当者が、それぞれ実情や苦労を語ってくれた。
どの番組にも共通していえるのは、まず、編集作業が時間との戦いになること。そして、編集作業に入れば現場が主体となり、番組の自主性が尊重されることだ。
取材でもたらされた映像のどこをどう使うか、どんな見出しや解説をつけるか、何を最初に出し何をその他項目に回すかで、伝わるニュースは全然違ってくる。それぞれの番組のニュースの価値判断が、ここで明らかになるのだ。
そのことを、ある1日の各局の代表的なニュースを分析することによって示そうと試みたのが、21ページからの表である。
分析担当者の多くは小誌編集委員で、1週間、同じニュース番組を録画しチェックし続けた。あるニュースをこの日に大きく取り上げていなくても前日じっくりやったという場合もあろうから、本当は1週間分を分析すべきだが、誌面の都合で1日だけを提示した。
これだけ見比べても、トップ項目、特集、各項目の時間、見出しなどが番組ごとに異なり、番組が独自性を持っていることがよくわかる。見出しの中には、まったく逆の内容を指していると受け取れるものすらあった。
実際には、これにキャスター(メイン・サブ)やコメンテーターはじめ出演者の個性その他が加わって、それぞれのニュース番組の個性が形づくられることになる。
反面、スタート時間が1時間ほどしか変わらず、「帰宅後のサラリーマン」に1日の出来事をまとめて伝えるというコンセプトが共通している夜ニュースでは、似たような項目が並んでいると思えることも確か。客層が同じで、「サラリーマンはナイター結果が気になる」というような判断があってのことだから、これはある程度致し方ないところだろう。
テレビに対する「横並び」批判は、今回のような比較からは必ずしもピンとこない。
それでもテレビが「横並び」に見えるのは、特番や通常番組に中継が割り込むような大事件のときに同じような映像が並ぶ、ワイドショーの芸能人ネタやニュースの会見もので同じような映像が並ぶ、「今日が終業式」といった取材で役所が特定の小学枚を指定するなど記者クラブを通じた談合取材が多い、などの理由による。つまり「横並び」は番組が没個性的という以外の理由で起こるわけだ。
ところで、編集は時間との戦いの中、限られた人数で行われるから、チェックが行き届かないことはありうる。テレビ朝日「ニュースステーション」のダイオキシン報道がそれだった。先に編集では番組の自主性が尊重されると書いたが、編集を番組外からチェックする暇などないのがテレビ、ともいえる。
テレビ報道には、取材の方向性はよいが、どうにも脇が甘く危ういと思われるケースが少なくない。「活字ならそんなこと書かない」「書くにしても、もっと十分調べてから書く」というようなことを、テレビ、とくに民放テレビは、平然と流す場合がある。このチェック機能の甘さは、テレビ報道の弱点の一つだ。
しかしながら、テレビ報道が持てる最大の力を発揮するのは、普通の意味の「編集」余地がほとんどない生中継なのである。
瞬間瞬間に流れる映像に対して、実質的な編集・チェック機能を持つのは、何百万人が見ていてもほんの数人ということが、テレビではある。そのうち何人かはスイッチを切るかカメラを振るくらいの修正しかできず、画面で起こっていることを本当の意味でチェックできるのはマイクを握るただ1人ということもある。テレビはその覚悟のある人が仕切るべきなのだ。
だから、「筆者の手を離れてから、キャップが読み、デスクが修正し、整理や校閲がチェックし……という新聞のやり方と比べて「チェックが甘い」と指摘してみてもあまり意味はない。ムスタン事件やダイオキシン報道で新聞社説が書いたのは、そんな無意味な説教ばかりだが。ニュース「編集」で生じるかもしれないテレビの弱みは、裏返せばテレビの強みなのである。
テレビというメディアが、新聞や雑誌や本や映画やインターネットなどあらゆるメディアの中で、人びとにもっとも時間を割かせ、もっとも多くの情報をもたらし、もっとも大きな影響力を持つことは、現在では疑いない。
テレビの登場以前のメディアに長く親しんだ経験のある人びとよりも、生まれたときからテレビと接している人びとのほうが多くなればなるほど、その傾向は強まる。
そのテレビの報道やニュース部門に、さまざまな弱点がある。そして、テレビで得られない情報を得たりテレビで得た情報を修正するために新聞や雑誌や本を読む人びとが、どうも減っていると思われる。とすれば、テレビ報道の弱点が、人びとの考え方や価値判断や行動に直接的なマイナス影響を与える恐れが強い。
だから、テレビは自らの報道やニュース部門の弱点を、これまで以上に真剣に修正する必要があると、私は思う。
まず第1に、テレビは曖昧な自主規制を排して、もっと報道分野で積極果敢《せっきょくかかん》に闘うべきである。闘う相手は取材対象だけではない。自分の会社だったり上司だったりもするだろうが、したたかに、しなやかに闘うべきなのだ。
第2に、とくに若い人びとにいいたいが、もっと取材力を高めるべきである。記者会見をのぞいたり自分が取材されたりしていると、この答えに突っ込まないのかと思うことがよくある。「すべてを疑え」というほかはない。
第3に、放送局の上層部にいいたいが、確かに報道はカネがかかる割に実入りが少ない部門。だが、別のことで儲けて報道に回すといった柔軟性、許容力が、昔はもっとあったのではないか。ある民放の報道局員に人は増えないのかと聞いたら、「よほどの変人が社長にならないと無理」と答えた。だが、変人が首相になる世の中だ。娯楽やデジタルもいいが、報道に打ち込む変人社長にぜひ登場してもらいたい。
第4に、テレビの報道系番組やニュース番組は、きちんと名前を名乗ってつくられるべきである。ドラマでは出演者や監督だけでなく、照明だの持道具だのの担当者名がテロップで流れる。それなのに、ニュース番組では編集責任者の名前一つ出ないのは、考えてみれば不思議な話。そういえば、奥付に編集長の名前が出ない雑誌は見たことがないが、新聞にも発行人や編集主幹の名前は載らない。
テレビならキャスターやコメンテーター、新聞なら署名原稿の執筆者や投稿者は名前を出すのだから、責任者の名前を出してはならないという理由はとくになさそうだ。ニュースの作り手が特集やコーナーごとに名前や顔を出せば、企画や取材や編集上の問題の多くが、もっと改善されるのではないか。
最後に、「テレビは生《ナマ》が命」である。生放送中の失敗を恐れるべきではないし、失敗は直ちに失敗と認め修正を重ねるスタイルを、確立すべきだ。この点、視聴者も、些細《ささい》なミスには寛容なほうがテレビを生かす結果になることを、もっと学習すべきだろう。この手のメディア・リテラシーが、どうもこの国には欠けているように思われる。
タイム | 項目 | 見出し | |
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― | 0:20 | タイトル | ― |
1 | 2:42 | 航空機部品落下事故 | 今度はJALが… 空から部品 |
2 | 4:40 | 田中外相対鈴木宗男 | 真起子と宗男 第四話 再会 |
3 | 5:05 | 郵政民営化、郵貯・簡保問題 | 郵貯と簡保 税金食らいの構図 |
4 | 1:00 | KSD汚職初公判 | 「ワイロ受け取った」 |
5 | 14:59 | 宮崎勤あす二審判決 | あす判決の宮崎勤へ元同級生からの言葉 |
6 | 0:57 | 自衛隊機誤射 | 原因は電気系トラブル |
7 | 0:38 | 幼児殺人事件 | 1歳児の遺体 バッグに入れ 湖に |
8 | 1:00 | 小泉・石原会談 | 強力タッグは純と慎 |
9 | 1:05 | 京福電鉄正面衝突事故 | 「人為ミス」の疑いで強制捜査 |
10 | 9:21 | バーンスタイン最後の弟子 | 21世紀の指揮者 佐渡裕 |
11 | 1:40 | 天気 | ― |
12 | 2:40 | スポーツ1(イチロー、新庄) | ― |
13 | 1:13 | スポーツ2(サッカー、廣山望) | ― |
14 | 3:35 | スポーツ3(テニス、浅越しのぶ) | ― |
15 | 8:52 | スポーツ4(プロ野球の結果) | ― |
16 | 1:32 | その他のニュース | 情報提供に200万円、外資2社に一時業務停止、債権放棄ガイドライン、ベーカー駐日大使就任 |
― | 0:52 | エンディング(予告、市況) | ― |
※おことわり 各番組のタイムは主として家庭用VTRで計測していますので、若干の誤差があります。あくまで目安と考えてください。
■放送時間 毎週月〜金、午後9時54分〜11時09分
■キャスター 久米宏/渡辺真理/上山千穂(天気)/角澤照治(スポーツ)
■コメンテーター 清水建宇(朝日新聞編集委員)
■制作 オフィス・トゥー・ワン/ANN系列各社/テレビ朝日
この日のトップ項目は、日本航空ジェット機のエンジンから金属部品が落下したというニュース。得意の模型をはじめ、空からの映像に落下地域を赤く図示、ほぼ実物と同じというエンジンを示しながらのレポートなど、わかりやすい。
二つめの真紀子対宗男問題は、TBS「渡る世間は鬼ばかり」の音楽にかぶせてナレーションを入れたドラマ仕立て。まず、第三・五話として先週の状況を伝えた後、第四話を放映。鬼の鈴木宗男が真紀子をいじめる構図はその通りだが、なんとも感情的な”ニュース”ではある。
続いて、郵政民営化の超党派研究会発足をダシに、郵貯・簡保の問題点(財政投融資の特殊法人への貸し付けが焦げ付き、税金で穴埋めされる恐れ)を追及。説得力あるよい出来だ。
本日の目玉は翌日に二審判決を控えた宮崎勤事件。宮崎の高校時代の同級生が登場し、宮崎に手紙を書いたり拘置所に面会に行く。手紙には返事が来るが、差し入れしてほしい、カネの面倒を見てほしいといった馬鹿話で、面会は拒否。文面に反省の一言もないと、同級生は怒る。
はっきり疑問が残る特集である。同級生と手紙に寄りかかりすぎ、深く何かをえぐり出したという感じは皆無。しかも、宮崎勤が同級生にあてた私信をテレビで公開しているのに、「本人の了解を得た」というコメントがなかったのはどういうわけか。
そのコメントがない以上、断りなく勝手に出したのだろうと推測するしかないが、制作者はそれでよいのか。犯罪者の手紙なら勝手に公開してよいなどというルールはこの国にはないはずだ。 今回は、信書の秘密を侵してよいケースだと考えたのなら、そのことをきちんと主張すべきである。中身を見た限りでは、そんなことをするほどの意味はないと思われたが。
「ニュースステーション」は八〇年代の半ば、新しくショーアップされた報道番組の原型を作り、そのわかりやすさ、おもしろさは、テレビ報道の大きな武器となることを示した。
今回、一週間連続で視聴しても、その伝統や力は持続していると思える。だが、見せ方はおもしろいがそれ以上の突っ込みに欠けたり、宮崎勤の手紙の扱いのような脇の甘さを感じることも少なくない。
ある場面では、徹底的に茶化してももちろんいい。しかし、別の場面では真摯に、徹底的に批判する姿勢を打ち出さないと、それこそ一部の政治勢力が繰り返す「口先だけ」という批判を許すことにならないか。(龍 桃介)