メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

いま改めて確認すべき
テレビとの付き合い方

――本格「多チャンネル」時代を前に――

≪リード≫
空から電波が降ってくる
――いよいよ日本も本格的なテレビ「多チャンネル」時代を迎える。
1日を24時間より長くすることはできないし、
目を4つにすることもできない。
どうやって300チャンネルにお付き合いしたらいいのだろう。
いや、その前に現在の「少チャンネル」にだって、
われわれはまともに付き合えているのだろうか――。
(「時事解説」2000年05月23日号)

※長く校正前の(初出とはやや違う)原稿を掲載しており
たいへん失礼しました。

12月からはBSデジタルも

 ほんの10年前まで、東京で見ることのできるテレビのチャンネルは、NHK総合、NHK教育、BS2波、そして民放の日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京と、10に満たなかった。UHFアンテナを向ければ映る神奈川や埼玉のU局を数えても、10ちょっとしかない。

 その後、WOWOW、ハイビジョン試験放送、MXテレビが始まり、1996年にはCSデジタル放送もスタートした。

 CSは徐々に増え、現在では二百数十チャンネルが放送中だが、まだ国民の大多数が見ているわけではない。そうした中で、今年(2000年)の12月からはBSデジタル放送が始まる。

 VHF(普通のテレビ電波)、UHF、BS、CSとアンテナが異なり、有料・無料放送が入り乱れているものの、日本で見ることのできるテレビはざっと300チャンネル。本格的な多チャンネル時代が到来するわけだ。

 ところが、テレビを見る側にこの多チャンネル時代への備えがあるかといえば、どうも心許《こころもと》ない。

 NHKと民放の10チャンネル程度を見ているだけの段階でも、視聴者はテレビというメディアの仕組みや特質を十分に理解したうえで、テレビと付き合っているのかどうか。

日テレが放映した福永の「超能力」

 たとえば、先日逮捕された「法の華」の福永法源。福永は(違う名前でだが)10年ほど前マジシャンのミスター・マリックとともに日本テレビの木曜スペシャルに登場。居並ぶ観客の誕生日をズバズバ当て、番組では「超能力者」として紹介された。

 その後、福永らは、番組のビデオを作って信者勧誘に使ったり、番組の写真を著書に載せてPRに活用したりした。

 だが、この番組のスタジオにいた観客は福永の手の者、つまり「仕込み」だったことがわかっている。

 テレビとは、そんなとんでもない映像をダイレクトに茶の間に送り込む可能性をはらむ、ある意味で非常に危険なメディアなのだ。こんな「危ない電気箱」を子ども部屋に置くのは、今すぐにも止めたほうがいい。

 そんなテレビとの上手な付き合い方を考えてみよう。

独自性と優位性の裏側に

 人とうまく付き合うにはその人を知る必要があるように、テレビとうまく付き合うには、「テレビとは何か」を押さえておく必要がある。

 まず、ハード(機械)面から見たテレビの特質は、それが映像と音声からなる情報を電気信号に変換して放送局から送信し、家庭の受像機で復元するシステムということだ。

 このシステムを採用することで、テレビは(そしてテレビだけが)「生」または生に迫る「速報性」を獲得した。

 音声だけで情報を届けるのはラジオや電話だが、テレビに比べると情報量が絶対的に少ない。送信せずパッケージで情報を届けるのはビデオやDVDだが、これは速報性に欠ける。

 だから、似たようなメディアと比べたテレビの特質は「映像」を「生」(または生に近い速報体制)で送ってくることだ。すると、テレビがその独自性や優位性を発揮しようとすればするほど、テレビが流す情報にはバイアス(一定の圧力)がかかってくる。

絵にならないニュースは捨てる

 まず、テレビは「絵にならない」情報を送ることが極めて不得手である。端的にいえば、テレビは「絵にならない」ことは切り捨ててしまい、ニュースでもバラエティでも取り上げようとしない。

 「絵にならない」――映像化しづらい情報を思いつくままに挙げれば、数字(何百何十兆円のような国の借金)、法律(日米ガイドライン法、通信傍受法こと盗聴法、国旗・国歌法)、制度(官僚制や介護保険の仕組み)、心理(事件を起こした17歳少年の胸のうち)など、いくらもある。もちろん、単純に取材ができないから「絵にならない」場合もある。

 「絵にならない」ネタは、数字ならグラフ化するとか、心理なら精神分析医に解説させるくらいしか、映像化の努力が払われていない。本当は、もっと見せ方が工夫されて当然だと思うのだが。

 また、テレビは生(に近い速報)を目指して、かなり無理をする。速報性を重視するあまり、未確認情報として報じたり、詳細な情報や背景説明を省略したり、見づらい映像のまま流したりする。生が得意なぶん、調査や検証はとても苦手なのだ。

当然の取材活動が「追跡・調査」

 東京・中目黒の地下鉄事故でも発生直後は「爆発か?」という調子だった。福永逮捕でも、容疑事実などそっちのけで、その瞬間の生映像だけが独り歩きし始めた。

 こうしたことは、自前で映像を作り、速報性など関係ないドラマや情報バラエティでは問題にならないが、報道系番組では常について回る。

 テレビはふだんよりちょっと分厚い取材をすると、すぐ「追跡」「徹底検証」「徹底調査」といったサブタイトルを付ける。これらを「調査報道」と称したりもする。

 これがヘンだ。本当なら追跡や調査して初めて報道できるはず。ところが調査と報道を端《はな》から分けるのがテレビなのだ。

 だからテレビとのうまい付き合い方の第一は、≪絵にならない情報が捨てられ、速報性と引き換えに多くの情報が捨てられているという前提で、ニュースを見ること≫だ。

 新聞、雑誌、書籍、インターネットなどを利用して、漏れた情報を常に補っておく必要がある。

 若者を中心に情報はテレビだけから取る――新聞も雑誌も読まず、テレビ欄は情報誌で済ませるという人が増えているが、とても危険なことだと思う。

「何よりも視聴率」の放送原理

 もう一つ、ハードとしてのテレビの特質は、テレビがブラウン管(またはプラズマ・液晶表示装置)が光った瞬間瞬間に「消えていく」メディアであるということだ。

 もちろんビデオ録画すれば残るが、基本的にはテレビの番組はその場限りで消滅してしまい、フィルムやDVDやCDのようには残らない。この点は新聞、雑誌、書籍とも大きく異なる。

 ということは、テレビは流れた瞬間に見てもらわなければ意味がない。だから、テレビの作り手――とりわけ優れたテレビ制作者は視聴率にこだわる。

 「視聴率主義」は、高視聴率ならスポンサーからより高いカネが取れるという以前に、テレビというメディアの根本原理の一つなのだ。

 そこでテレビは、いかに視聴率を上げるかという工夫をこらして作られる。明らかに人目を引くネタは、ドラマでもバラエティでもニュースでも冒頭に置かれる。

 最初に見せ場を全部出してしまうと後を見てもらえない。だから、冒頭で気を引いた後は、ネタを小出しにして引き延ばしが図られる。

 さすがにNHKの報道はしっかりしており、トップニュースの選択には、NHKなりの価値判断に基づく重要性が反映されている。が、民放の夕方ニュースのトップ項目は、視聴率が上がりそうな(視聴率が来そうな)ニュースが多い。視聴率が来ないと思われるニュースは、重要であってもごく短く触れられて終わったりもする。

 テレビは子どもから高齢者まで家族で見ているから、「わかりやすさ」も視聴率に大きく響く。そこでテレビは、物事を何でも「単純化する」「白黒に分ける」「ポイントを三つに絞る」などして伝える。

 その過程でも、情報は殺《そ》ぎ落とされ、ニュアンスが変わってしまう。

 テレビとの付き合い方の第二は、≪テレビが流している情報の重要性や意味を、他のメディアを参考にしながら自分で判断していくこと≫だ。番組の中でテレビ制作者によってつけられた重みと現実の重みは別、と思っていたほうがいい。

「客観報道」などあり得ない

 次に、テレビのソフト(番組)面を見ていこう。忘れてならないのは、番組は人が作るということ。したがって、どんなに客観的な立場を装った番組であろうと、それには作り手の立場、視点、考えが必ず反映されているということだ。

 よく「客観報道」などという言葉を誇らしげに使うテレビ局の人間がいるが、そんなものはありえない。

 たとえば、学生デモを警官が取り囲んでいるところを、学生側から、警官側から、空撮ヘリから撮ると、それぞれ受ける印象がまったく違う。

 そのカメラの位置がどうして選ばれたかは、ほとんどの場合視聴者には不明だ。

 スタジオ内のカメラは監督やディレクターの計算通りの位置にある。しかし現場中継では、ディレクターの指示によるのか、遅刻して行って、たまたま空いていた場所から撮ったのか、わからない。

 しかもテレビに映るのは、現実をたった一つの小さな窓(カメラのファインダー)から覗き見た映像にすぎない。言い換えれば、テレビカメラが唯一の真実を伝えるなどということはありえない。カメラは無数にある視点のどれか一つを(意識的にか偶然でか)選んで、そこからの見方を伝えているだけなのだ。

 テレビとの付き合い方の第三は、≪番組は特定の見方を伝えているにすぎず、それだけを決定的な判断材料にするのは危険だと思いながら見ること≫である。

中小企業が振りまく「共同幻想」

 テレビ番組に毎日接する私たちは、テレビをとても身近な存在に思う。周囲の人びとともテレビを通じて共通の話題を持つ。世帯視聴率10%の番組は少なくとも500万人以上の人が見ている計算(総世帯数四千数百万)で、影響力はとても大きい。

 だからテレビは、日本全国にくまなく行き渡り、日々「共同幻想」を生み出し続けるとてつもなく巨大な存在であると思える。

 しかし、テレビ業界の人的な規模は、放送局、制作会社、広告会社などを入れて、3万という人もあれば数万という人もあるが、いずれにせよ大した数ではない。警察官や自衛官はいずれも20万人台だし、数万というのは大きな会社一つ分の人数だ。

 もっとも巨大なNHKで1万2000人余、フジ、TBS、日テレなど大きな民放でも1400〜1300人規模と、思いのほか小さい中小企業なのだ。

 総務、経理、人事といった管理部門を除けば、テレビの番組づくりに携わっている人の数はさらに少ない。民放在京キー局の報道部門の人数はせいぜい200〜300人の規模だ。現場記者はさらにその何割か。

 その人数で国会、すべての政党、すべての官庁、関連団体、企業などをカバーするのは、かなり無理がある。

 報道部門はどこも慢性の人不足で、小さな官庁や政党は、1人でいくつかを兼務という話になる。

 テレビ番組は、そうしたギリギリの態勢で作られているということは、もっとよく知られていい。

 この規模の小ささが、テレビが目指す速報性とあいまって、取材の薄さや表層的な物の見方を招くことも少なくない。会社が小さいと当然タブーにも弱い。

 とりわけニュース素材などは、放送開始直前に入ってきて、番組中も編集を続け、終わり頃に出すというようなケースが珍しくない。その映像をチェックする人間の数も限られるから、問題のある映像がそのままオンエアされることも多分にありうる。

 テレビとの付き合い方の第四は、≪テレビ番組は思いのほか少数の人間たちが、時間に追われながら作るもので、それだけにミスは生じやすいと思って見ること≫だ。

目的意識を持って「使う」こと

 ここまで見たように、テレビというメディアにはさまざまな特性や限界がある。要は、テレビを過大評価も過小評価もせずに、一定の距離をおいて見ることだと思う。

 そこで、テレビとの付き合い方の第五は、≪常に目的意識を持ってテレビを見る≫ということだ。

 10分間で今日の社会の動きを知る、1時間は趣味にあてる、2時間はヒマをつぶすため――何でもいいから自分の目的を意識することだ。すると、漫然とテレビを「見る」のではなく、テレビを「使う」ことができる。

 そして特定のテレビだけを見るのではなく、他のメディアにも目配りすることが大切だ。多チャンネルが本格化して自由に見ることができるようになった専門チャンネルや海外の番組も、テレビをうまく「使う」ためのよい材料になるだろう。