メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

テレ朝椿報道局長
発言事件から1年
テレ朝と郵政省の”キャッチボール”
郵政省に添削された
報告書こそ「やらせ」だ

≪リード≫
ここにリードが入る

(「放送批評」1994年12月号)

テレビ朝日が報告書を提出
「不公平、不公正な報道はなかった」

 1994年8月29日、テレビ朝日は郵政省(宛名は大出俊郵政大臣)に対して「報道局長発言問題特別調査委員会 報告書」を提出した。続いて9月4日午後2時から80分間、「特別番組 テレビ朝日元報道局長発言問題調査委員会報告」を全国ネット、コマーシャルなしで放送した。

 これが、椿貞良・元取締役報道局長の「荒唐無稽」《こうとうむけい》で「不必要、不用意、不適正」な「いわば常識を欠いた、脱線的な暴言」(いずれも本人証言)に対する、テレビ朝日の幕引だった。

 まず、報告書の内容をざっとみよう。報告書は、テレビ朝日社内の報道局長発言問題特別調査委員会がまとめた。同委員会は、産経新聞が椿発言を報じた翌93年10月14日に社長直属の機関として設置され、委員長は安野正紀・六本木センター管理室長で、委員は広報局長とマーケティング室長。

 社内調査のポイントは、(1)93年9月21日の民放連・放送番組調査会における椿局長の発言内容の確認、(2)放送法に触れるような特定の政治的意図に基づく椿局長の指示または示唆があったかどうか、(3)放送法または番組基準に触れるような政治的に不公平または不公正な報道が実際行われたかどうか、の3点である。

 報告書は(1)について、産経新聞が当初報道した「非自民政権が生まれるよう報道せよと指示した」とか「(特定候補を)選挙中積極的に報道し、バックアップした」との表現はなかったものの、政治的公平に反すると疑われてもやむをえない発言があったとする。

 (2)については、報道局の番組制作システムを検証し、報道局長1人の意見が報道番組制作に直接反映するシステムでないとする。さらに、椿局長はじめ選挙報道番組にかかわった主要スタッフから事情聴取し、椿局長の指示や示唆は一切なかったと結論している。

 (3)については、全番組が編成局の了解のもとに制作される、報道番組の制作は集団作業で行われる、報道局長はもっぱら管理者であって制作に直接関与して指示する立場にない、社員に対する教育研修にも努めている、といった社内体制が「公正」な番組制作がなされる基盤になっていると判定。そのうえで、実際に放送された番組のVTRを検証している。

 検証の対象は総選挙期間中(1993年7月4日〜17日)に放送された番組41本(朝昼の定時ニュースは除く)。これを社内3名のチームで検証し、さらに社外有識者3人と、報道系番組向上委員会(93年11月に設置)の社外委員がチェックした。また、テレビ朝日の放送番組審議会でも、2本のVTRを検証した。これらVTR検証の結果、特定の政党や候補者を支援する放送はなく、不公平、不公正な放送は行われなかったとしている。

 さらに、調査会社に依頼して500人規模の電話アンケートを実施し、テレビ朝日の選挙報道を不公平で偏っていたと思う人は10.5%、そう思わない人は49.2%という結果などを掲げている。

 報告書の結論をまとめるとこうなる。椿発言にはテレビ朝日の報道姿勢が政治的公平に反すると疑われてもやむをえない発言が含まれていたが、現実には局長の指示や示唆はなく、また実際に放映された番組を見ても不公平や不公正はなかった、というのである。

郵政省が手とり足とり添削
これは「やらせ報告書」だ

 テレビ朝日の報告書は「シロ」と出たわけだが、これをどう考えればいいか。

 まず、椿局長の発言をチェックし、実際に指示や示唆があったかどうか、そして放映された番組はどうだったかを調査するというアプローチは妥当なところだろう。VTRを検証したうえでの結論も当然だろう。

 それにしても、なんともゴツゴツした手触りの、大変わかりにくい報告書である。資料編もあって厚いことは厚いし、第三者である弁護士による事情聴取だの、社是が社員の毎日使う「放送手帳」の表紙の中側にも記載されているだの、不公平・不公平の反証になりそうなものならあれもこれもと詰め込んである。だが、整理の仕方が悪く、努力の割には説得力がない。

 わからないのは、たとえば「常務会メンバーと社員二名計三名が一チームとなり、合計三十人を動員し(中略)VTR四十一本をすべてクロスチェックすることにした」という箇所。41本のVTRは3人で視聴し、その3人には入れ替わりがあってのべ30人という意味だろうが、10チームがそれぞれVTR41本を視聴したと取れなくもない。

 別の箇所では「社員による第一次チェックを経て、社外の有識者の方に第二次クロスチェックをお願いする」という文章も出てきて、クロスが意味不明だ。チェックの結果を書き込む「VTR検証シート」を使ったそうだが、そういう場合はもっともらしくサンプルを掲げるといい。

 また、社外有識者3名は、まずテレビ朝日が提示したVTR2本を見て93年10月27日までに「『政治的公平』に反したとは思えない」との見解を寄せ、その後社員グループが多少なりとも気になると記録したVTRをすべて検証し、さらに「問題なしとするものについても重ねて検証していただいた」とある。ならば、社外有識者も41本の全VTRを検証したのかと思って1人に聞いてみたら、「そんなに暇なもんか」といっていた。

 というわけで、こんなもの書いたことないだろうから仕方はないが、あまりできのいい報告書ではない。だが、この報告書の本当の問題は、実は中身ではない。報告書には、内容以前に根本的な欠陥があるといわなければならない。

 最大の問題は、テレビ朝日の報告書が、提出先である郵政省(放送行政局第二業務課)と相談づくで作成されたということである。 郵政省は、報告書の内容を繰り返しチェックし、テレビ朝日側にあれこれと注文をつけた。この調査のここを補足せよ、この箇所はこう書けと、手とり足とり添削したのである。

 報告書を提出した日の記者会見で、テレビ朝日伊藤邦男社長は、
「(テレビ朝日と郵政省のキャッチボールはあったが)命令や圧力というのはなかった。あったのは『(議員の)先生方は、ここを気にしているから』といった類いで、助言と理解している」
 と、述べている。しかし、テレビ朝日から漏れてくる話では、郵政省の言い方はとても「助言」や「アドバイス」で済まされるものではなかった。

 報告書に次のような一節がある。
「なお、日本の会社業務の慣習上『明確な指示』がなくても、夜の会合や酒の席で話をすることを通して、部下が『指示』または『示唆』と受け取ることがあるという説もある」

 報告書は、そんな説があるので弁護士による事情聴取を行ったと続くのだが、これにならえば、
「日本の行政業務の慣習上『明確な指示』がなくても、役所(夜の会合はなかったとしよう)で話をすることを通して、事業者が『指示』または『示唆』と受け取ることがある」
 のだ。もちろん「命令」や「圧力」と受け取りながら、黙って従うことも多い。免許という急所を握られているからだ。だからテレビ朝日は、役所のいうままに報告書を書き直したのである。

 テレビ朝日は、テレビ・ジャーナリズムの一端を担う言論報道機関のはずである。それがある社会的な不始末のため、郵政省から報告書を求められた。その報告書を郵政省の添削通りに書く。

 しかも郵政省は、局に脅しはかけるが、免許を取り上げたり電波を止めるつもりなど最初からない。また、できもしない。不公正はなかったというのは、初めから決まっていた結論なのだ。なんという茶番だろうか。これでは報告書は「やらせ」ではないか。

相談づくの報告書を
特別番組でタレ流し

 報告書は決まり事、一種の儀式だ、ここは頭を下げて黙っていうことを聞くのが得策だと、テレビ朝日は判断した。そこで、郵政省の意向に沿って報告書をまとめたわけだろう。だが、事は報告書だけにとどまらない。これは、テレビ朝日の番組の自立にかかわる重大問題である。

 1994年9月4日、テレビ朝日は、椿発言問題を総括する特別番組を組んだ。番組は三部構成で、第一部はここまで述べてきた特別調査委員会の報告、第二部はニュース番組の制作現場、第三部は報道の公正さとは何かについて焦点を当てている。つまり、報告書は特別番組の第一部の骨子なのだ。

 ところが、報告書は郵政省と相談しながらつくったものである。郵政省の「助言」でも「示唆」でも「圧力」でも何でもいいが、とにかく郵政省の意向を受けてまとめ、オーケーをとった報告書――別な言葉でいえば、「郵政省の事前検閲を受けた報告書」である。それを、特別番組では「テレビ朝日は8月11日に最終報告書をまとめた」と紹介したのである。もちろん、「相談のうえ」などとは告げず、そのまま映像化してタレ流したのだ。

 なんという不始末だろう。報道の真実もへったくれもない。番組に出ていた学者も、キャスターも、アナウンサーも、報告書をもっともらしく見せるダシに使われただけではないか。

 テレビ朝日の関係者に聞きたいのだが、「郵政省の事前検閲を受けた報告書をそのままテレビ番組で紹介すること」と、「報告書を紹介するテレビ番組が郵政省の事前検閲を受けること」と、どこがどう異なるのか。

 番組の中身が、郵政省の圧力を受けているという点では、何の変わりもないではないか。そして、テレビ番組が検閲を受ければ、これは放送法違反どころではない、憲法違反だ。9月4日のテレビ朝日の特別番組では、それと同じことが、視聴者にわからないかたちで行われたというべきである。

 百歩譲って、伊藤社長が語ったように、郵政省の意向は「圧力」や「命令」などではなく、ありがたく親切な「助言」であったとしよう。では、テレビ朝日は、日曜の午後を1時間20分もつぶし、コマーシャル抜きの全国ネットで視聴者に訴えた特別番組の根幹をなす報告書が、郵政省に見せ助言をもらってまとめたものだということが、恥かしくないのだろうか。

 まったく、こういうのを「やらせ番組」というのである。

 9月4日のテレビ朝日の特別番組は、民間放送局が監督官庁の圧力に屈して書き直した報告書で飾られた、悲しくも情けない「テレビ・ジャーナリズムの死」への一里塚として、放送史上に長く想起される番組となるかもしれない。

視聴者の視点がない
郵政省しか見えない

 今回のテレビ朝日の幕引に欠けている、最大のものはなにか。それは、視聴者への配慮である。報告書を読み、特別番組を見ると、視聴者の視点や、視聴者への配慮というものの欠落に、改めて驚かされる。

 とりあえず郵政省だけを納得させればよいという報告書の書き方は間違っている。その報告書を骨子とした特別番組のつくりも間違っている。そもそも、報告書を郵政省に先に出し、視聴者へ見せる番組が後という順番が間違っている。

 テレビ朝日という放送局にとって一番大切なものは、一体なんなのか。放送免許か。郵政省か。スポンサーか。朝日という系列か。テレビ朝日という会社そのものか。それらが大切なことは知っているが、やはり視聴者だと見栄を切るべきではないのか。

 その意味では、報告書よりも特別番組に望みをつないでいたが、期待はずれだった。番組では、なによりも先に、椿発言から10か月も視聴者をたな上げにしていたことの謝罪と、説明をすべきだと思ったが、それらしい場面はなかった。

 また、報告書ではVTR検証の項目で、検証者が気になるとか問題ではと考えたシーンを抽出して、検証者のコメントを載せているが、同じことを実際にVTRを使って流すべきだったと思う。その映像について、テレビ朝日はこういう理由で不公正とは思わないと説明する。あるいは視聴者から電話やファックスで意見を募り、討論する。そんな見せ方はなかったものだろうか。

 ムスタン事件のとき、「やらせ」を討論する座談会出席者の半分近くが学者、評論家、ジャーナリストなど活字人間だったので、なぜテレビは映像でこの問題を検証しようとしないのかと疑問に思ったものだが、今回も同じ疑問を持った。テレビは(雑誌もだが)、問題が起こると専門家のコメントだけで切り抜けようとする悪い癖がある。特別番組の第三部はとくにそう思われた。

 ところが、テレビというのは情緒に訴える。男女2人のアナウンサーは終始真剣な面持ちで、反省を露《あらわ》に番組を進行する。一日のニュースづくりの緊迫した映像が出て、さまざまな人間がぎりぎりの共同作業をしているから、なるほど報道局長の指示がストレートに画面に出るはずはないと、自然に信じられてくる。政党の首脳も、報道と主張を明確に分けるなら、局の主張をある程度出してもよいなどという。その政党が陰でテレビにどんな圧力を加えてきたか、視聴者は知らない。コマーシャルがないのも新鮮で、好感を呼ぶ。「結構反省してるみたいじゃない、テレ朝も」と。

 だが、特別番組で視聴者にそう思わせたことが、視聴者にとって(テレビ朝日にとっても)本当によかったかどうか、疑問だ。

 郵政省となれ合いで報告書をまとめ、それを映してこんなにも反省していると視聴者に訴えたテレビ朝日は、汚職でも、行政手続き上の疑問でもなんでもいいが、仮に郵政省に問題が生じたとき、視聴者の立場にたって、それを真っ向から取り上げることができるのだろうか。

郵政官僚に
政治的公平の判断は無理

 最後に、例によって郵政省に注文をつけておく。

 第一に、郵政省はテレビ朝日とキャッチボールして報告書をここまで引き延ばした理由を、公にすべきである。

 といってもいわないから書いておくが、思い当たる理由は二、三ある。ひとつは、政治的な理由である。郵政省が一番気にしていたのは自民党の意向だったが、解散含みで推移した政治状況で、自民党が政権に復帰するかどうか見極められない時期が続いた。大臣が自民か新生かで、局長クラスの身の処し方は変わるから、ここでは出せないという時期があったはずだ。

 もうひとつは、郵政省の力の誇示――注文をつけ、民間を振り回すことに生きがいを見出だす官僚根性である。もっともこれには、いやがらせに等しいような場合も、政治家の意向を笠にきた威圧もあっただろう。

 ちょっと解せないのは、報告書の日付の8月11日から郵政省への提出までの3週間が、夏休みを挟んでも長すぎないかという点。ここで、事情通の囁くウルトラC――「新聞協会賞」とタイミングを合わせた一部新聞と郵政の二人三脚説が登場するのだが、真偽のほどは不明だ。

 第二に、「けじめが必要だから」(大出郵政大臣)などというわけのわからん理由ではなく、報告書が出て、不公正な放送はなかったとの結論が得られてなお、テレビ朝日を厳重注意処分にした根拠を示すべきである。合わせて、郵政省による独自調査結果とやらも公表してもらいたい。

 郵政省の言い分を短くすれば、「変な役員を置いていたことの経営責任」を問うための厳重注意となる。だが、この規制緩和の世の中に、荒唐無稽なことをいう役員ひとり置いていた放送事業者を厳重注意する権限が郵政省にあるかどうかは、大きな疑問だ。

 だいたい、民間のことをいえるのか。少し前の郵政省の放送行政局長は大変「荒唐無稽」な人物で、放送行政はこの人に右に左に振り回され、そのことによる国益の損失も、多かれ少なかれあったと認められる。だが、NHKも民放も「変な局長を置いていた郵政省の経営責任」は問えない。ニューメディアの惨状も多くは官僚の責任だと思うが、これも問えない。不公平な話ではないか。

 第三に、郵政省は今後「政治的公平とは何か」を研究するというから放っておけない。郵政省によると、政治的に公平かどうかは最終的に郵政省が決めるのだそうだ。江川晃正放送行政局長はそのように国会答弁している。だが、それを許すべきではない。

 というのは、日本では「官」が「政」と癒着しながら機能している。戦後、自民党独裁が長く続いたときは、官僚は自民党ベッタリだった。社会党の大臣に代わればそれに「お仕えする」のだ。そういうシステムなのだから、官僚が政治的な公平を確保したり保障することなど、ハナから期待できない。

 椿発言で、自民党によるテレビ朝日への圧力が明らかになった。にもかかわらず郵政省が、放送法違反の恐れもあるこの問題を無視するのは、自民党に「偏向」しているからである。そんな官僚に、どうして政治的に公平かどうかを判断できるというのか。

 30年ほど前、日本テレビに「大蔵大臣アワー」なる30分番組があって、レギュラーは田中角栄だった。実質的に、自民党と角栄のPR番組だったが、当時の郵政省は「法的には問題ない」「政治的公平は編集全体を貫いて考えられるべきだ」などと繰り返した。これも、官僚に政治的公平など期待できない例である。

 この際、郵政官僚は、国民に奉仕する公僕なのか、政権党の使いっ走りなのか、もう一度自らを振り返ったほうがよいのである。