メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
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椿証人喚問の茶番

≪リード≫
ここにリードが入る

※初出誌が見あたらず、見出しが抜けています。あしからず。

(「イメージフォーラム」1994年01月号)

 何から何まで茶番劇だった。

 1993年10月25日、衆議院政治改革調査特別委員会で行われたテレビ朝日・椿貞良前取締役報道局長の証人喚問が、である。

 テレビは、こぞってその模様を伝えた。はからずも”当事者”となったテレビ朝日は、喚問が始まった午後1時から2時間15分まで特別番組を組んで中継した。NHKは午後1時から2時間の完全中継。TBSは1時間の特別番組で中継。日本テレビは「おもいッきりテレビ」の枠で冒頭の20分を中継。フジテレビは「タイムアングル」で10分余りの中継を流した。

 各局の取り上げ方の差――特番か通常編成枠内での中継かの違い、あるいは中継時間の差は、そのまま椿問題に対する各局の距離の置き方を映していたといえる。

 政治とテレビの関係のあり方が問われる重要なテーマと判断して完全中継した皆様のNHKを別にすれば、もっとも丁寧な扱いは椿のいたテレビ朝日、つまり身内だった。ついで長かったのが、言論の自由に対する政治の介入を懸念しながら、比較的中立の立場を取っていたTBS。短いほうから2番目の日本テレビは、氏家社長がテレ朝「ニュースステーション」の久米宏を名指しで批判し「テレビに言論機能は与えられていない」と語った追及派。いちばん短いフジは、フジサンケイグループの中核で、椿発言を最初に報じた産経新聞の身内だ。

 ついだから書いておくが、新聞が椿発言をどのように報じたかをみると、NHKを除く各局の距離の置き方が、そのままひっくり返しで反映されていることがわかる。スクープをものにし、もっともハデに扱ったのが産経新聞。ついで追及したのが日テレと同系列の読売新聞。政治の介入を危惧する抑制的な扱いだったのがTBSに近い毎日新聞。擁護派とまではいかないが、いちばんテレ朝寄りの記事を書いたのが朝日新聞だった。

小見出し

  ところで、10月25日の証人喚問の中継は、すべて音声だけで映像抜きの放送となった。 これは議院証言法(「議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律」)第5条の3に、「委員会又は両議院の合同審査会における証人に対する尋問注の撮影については、これを許可しない」とあるからだ。

 事情は新聞雑誌も同じで、新聞には椿が証言している写真は載っていない。喚問が行われる部屋に向かう途中、委員会の証人席に着席の直後(発言の直前)、証言が終り退席するシーンといった写真があるだけだ。

 だから、テレビだけが特別というわけではないのだが、テロップあるいは別撮りの写真に音声をかぶせたいわゆる「静止画像」は、今回の茶番劇をテレビが伝えるのに、妙にふさわしい表現のように感じられた。

 テレビは、映像と音声という2つの機能のうち、映像というもっともテレビらしい機能をもぎ取られた状態で、この証人喚問を伝えなければならなかった。そのことは、この茶番劇が開かれることを阻止できなかったテレビの無力さ、さらにはマスコミ全体の脆弱さをよく象徴していたと思われるのだ。

 茶番劇というのは、読売新聞が10月26日付の朝刊で書いたように「不用意、不注意、暴言、荒唐むけい、錯覚、レールを逸脱、はずかしいなどを連発し、謝罪に終始した」(これはまったくその通りだが)椿証言の馬鹿馬鹿しさだけをいうのではない。

 何が茶番といって、民放連の第6回放送番組調査会で様子が、出席者いずれかによって録音され外に出たことが、茶番劇のそもそもの始まりだった。会合には、内部委員(民放各局の編成局長級)7人、外部委員(学識経験者)5人、それに民放連専務理事の13人が出席していたとして、13人の中で「ユダはだれだ」という憶測がさかんになされた。あるテレビ系列の内部委員だという人が多いが、ほんとうのところはわからない。

 ただし、ユダが椿発言をわからないようにテープに取り、本人か別の誰かが要旨をA4文書2枚にまとめ、それが早い段階で永田町(自民党筋)に”御注進”として渡ったことは確かである。新聞各社には自民党から逆流したようだが、別ルートでマスコミに流れたものもあるかもしれない。それを各社とも怪文書として無視していたところ、産経新聞だけが取材を進め、スクープした。確認は取れないが、自民党には文書のほかテープも流出していたという話もある。この質の悪いタレコミが、茶番の始まりだった。

 もし、椿発言が飲み屋でされたとしたら、誰も相手にしなかったはず。問題は、民放連会合での椿発言が飲み屋での大言壮語とどこまで違ったのかだ。議院証言法に基づいて国会が郵政省経由で民放連から取り寄せた「議事録」なるものが新聞に出た。議事録というよりこれは「速記録」だし、議院証言法によって第三者が証拠テープを出せと迫られるのも変だが、それはさておき読んでみると、中身は飲み屋の話と同じだ。レベルの低い非常識な放言で、外に出すとわかっていたらいくら椿でもいわなかったろうと思われる愚劣な自慢話である。内輪の席であれ、こんなことをいう人物を、テレビ朝日はよく取締役報道局長にしていたと呆れる。

 しかし、テレ朝の報道局長は飲み屋と民放連会合の区別もつかないヘンな奴で、不規則発言を咎められて茶番狂言は終わり、とはならなかった。椿発言はなぜ、国会を舞台にした茶番劇にまで発展したのか。

 これには、やはり自民党の意趣返し、八つ当たりが作用したとしか思えない。茶番が表に出て政治とテレビの関係が問われ、幅広く議論されたことはよかったが、証人喚問まではやりすぎだった。

小見出し

  喚問が決まったのは10月20日だったが、その直前、与野党は椿前報道局長を「参考人招致」することで水面下の合意に達していた。19日になって自民党が強硬意見を打ち出し、与党側は政治改革法案の審議を円滑に勧めるために、要求を飲んだのである。

 つまり、椿発言は与野党間の取り引きの材料となった。与党もスネに傷もつ身だから、何か別の条件がついていたのかもしれない。また与党側には、民間人、しかもマスコミ人を野党自民党が追及すれば弱い者イジメに映るだけという打算もあったろう。こうして茶番劇の本番が仕込まれていった。

 テレビ朝日の報道局長が馬鹿なことをいったのと、テレビ朝日の報道が偏向しているかどうかは、まったく次元の異なる話。偏向報道かどうかは、あくまで放映された番組で判断されるのであって、テレビのつくり手の発言とか、頭の中味で判断されるのではない。 自民党が、テレ朝の偏向報道を証明したいなら、まず自分でビデオを取って検証することである。そして、この部分はおかしいのではないかと、正々堂々と抗議すればよい。その調査資料を新聞に提供し、世論を喚起してもよいと思う。それをせずに、スポンサーに降りろと圧力をかけるとか、取材に来た社の人間にイヤ味をいうのは、筋が違う。局の人間を証人喚問して発言をうんぬんするのも、筋違いだ。

 それでも、証人喚問に立った自民党、共産党の質問者は、テレビのつくり手の発言にこだわり、その頭の中を覗こうとさえした。だからこそ茶番なのだ。

 証言を求めて偏向報道を究明しようとしても、報道局長が「私は馬鹿でした。でも報道は曲げていません」と繰り返すことは、はじめからわかっていた。10月25日のテレビは静止画像と音声で、おかしな質問とそれに対するおかしな答えを、だらだらと伝え続けたのである。

 たとえば、共産党の質問者は「共産党に偏見があるのではないか」と質した。余計なお世話である。いまの日本では、日共に偏見があっても、自民に偏見があっても、日本新党に偏見があってもいいのだ。創価学会員がテレビ局にいても、クリスチャンが首相でも構わない。戦前の日本では「天皇に偏見があるのでは」と特高が質し「その通りだ」と応えた党員が殺されていったではないか。なぜ、半世紀後に同じ質問を繰り返すのか。

 あの質問は、裁判所なら弁護士が「異議あり。ただいまの質問は被告の思想信条の自由を侵害しています」「異議を認めます」となるはずだろう。

 また、自民党の質問者は「自民党を敗北させなければならないと言ったのは放送法違反では」と聞いているが、椿は「その通りにやれば放送法違反だ」と応えている。当たり前ではないか。国会で問答するまでもない。そんな問答に終始して、静止画像に映し出された茶番劇は終わった。

 これをきっかけに主だった民放は、それぞれ社内にオンブズマン的な機関や研究会を設けた。テレビに言論機能はまったく許されないのか、政治的な公平と言論の自由はどこでバランスさせるべきなのか、誰もが言論機能があると認める新聞によるテレビ系列支配の問題はどう考えればいいのかなど、テレビのかかえる課題は、いまようやく検討が始まったばかりである。

 与党は議院証言法の改正を検討中という。とすれば、証人喚問の撮影の禁止は、今回が最後になるかもしれない、しかし、テレビから静止画像が消えても、椿発言で露呈したテレビの脆弱さ、無力さの印象はまだまだぬぐえない。一連の茶番劇の功績は、そのことをはっきり示してくれたことかもしれない。