メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
すべてを疑え!! MAMO's Site(テレビ放送や地上デジタル・BSデジタル・CSデジタルなど)/サイトのタイトル
<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

椿発言問題
新聞報道の検証
言論機関・新聞の“見識”

≪リード≫
ここにリードが入る

(「放送批評」1994年02月号)

 テレビ朝日・椿貞良前取締役報道局長によるいわゆる「椿発言」は、政治とテレビの関係はどうあるべきかという極めて重大なテーマを私たちの社会に突きつけた。

 田原総一朗の宮沢首相インタビューが前政権の命取りとなったのが象徴的だが、その後の衆院選をへて細川政権誕生に至るプロセスをみても、政治に対するテレビの影響力がかつてないほど大きかったことは明らかだろう。椿発言は、そのことの意味を問う、いいタイミングの問題提起だった。

 この問題提起は、同時に、新聞とテレビという二大メディアの役割、関係についても考えさせるところが大きかった。また、椿発言が政治問題化し、マスコミ関係者の衆院政治改革特別委への証人喚問が行われるに至って、政治とマスコミの関係はどうあるべきかも深刻に問われた。

 以下では、新聞が一連の事件をどのように報道し、論じたかを検証する。そのことによって、各紙の考え方、新聞とテレビの違い、あるいは役割分担、望ましい相互関係などがわずかでも浮き彫りになり、政治とテレビの関係を考えるうえで参考となればと思う。

行け行けドンドンの「産経」「読売」

 椿発言にまず火を着けたのは、1993年10月13日付の産経新聞朝刊一面である。同紙は<非自民政権誕生を意図し報道 総選挙 テレビ朝日局長発言 民放連会合>との見出しで、テレビ朝日の椿貞良取締役報道局長が、民放連の会合で先の総選挙について「『非自民政権が生まれるよう報道せよ、と指示した』『開票速報の間違いは予測ミスで、誤報ではない』などと発言、『”公正であること”をタブーとして、積極的に挑戦する』と強調していたことが、十二日までに明らかになった」と伝えた。

 記事は、民放連第6回放送番組調査会の外部委員の1人からの伝聞として、「椿局長は『小沢一郎の”けじめ”を棚上げにしても非自民政権が生まれるように指示した』と話し、『五五年体制を崩壊させる役割をわれわれは果たした』と言った、という」と書く。外部・内部委員とも複数に取材し、その証言によって椿発言を再現しており、最後に椿報道局長自身のコメントも掲載。椿は「五五年体制の崩壊を目指す方針の下で報道したことはない」としつつ、「民放はNHK的な公正さを取る必要はない」と持論を述べている。

 なお、この日の産経のトップ記事は、来日中のエリツィン大統領と細川首相の第1回日ロ首脳会談で、椿発言はそれに次ぐ大きな扱いだった。スクープの扱いとしては、まあこんなところだろう。同紙は夕刊の社会面でも<『国会審議で追及』 テレ朝の選挙報道 自民国対委員長が表明>と取り上げたが、こちらは20行余りのつなぎ記事である。

 産経の記事が出た13日には、問題は国会でも取り上げられ、自民党が追及の姿勢を打ち出したほか、郵政省放送行政局長の緊急会見、椿自身の記者会見なども行われた。これを受けて14日朝刊では各紙が一斉に椿発言を報じている。この朝の記事で、各社の考え方がだいたいわかる。

 まず、産経新聞は一面トップで〈郵政省、調査を始める〉と大見出しを打ち、細川首相の衆院本会議答弁、郵政省の対応、自民党の追及の構えなどを詳しく報じた。江川放送行政局長の

「もし、放送法に違反する事実があれば、電波法第七六条によって一定の措置がとれる。例えば一定期間電波を止めることができる。事実上の営業停止だ」
「産経新聞の内容を読んで、多くの人が(椿局長の発言を)おかしいと思えば、政治的中立性が損なわれていると考えるべきだ」

 とのコメントもストレートに伝えている。

 社会面でもトップで<椿氏 歯切れ悪く>と椿との一問一答を掲載したほか、文化人や政治家など九人の受け止め方を聞いている。さらに、メディア欄に〈政治とテレビ〉コーナーをつくり、各局の報道局長らに聞いた見解や感想をまとめている。

 産経についで大きな扱いだったのは読売新聞で、一面準トップに<総選挙 「55年体制崩す方向で報道」 民放連会合 テレビ朝日局長発言>の見出しをつけた。記事には産経新聞という言葉は登場せず、「この”問題発言”が『非自民政権誕生を意図した』と一部で報道されたことに対し、椿局長は……」と出てくるだけ。読売は独自に、民放連放送調査会の委員に取材をし直している。

 さらに<公正報道に重大な懸念>とする「解説」を一面に載せている。この解説は、読売新聞としての立場や考え方を鮮明にしたものと考えてよいだろう。ここでは、憲法21条のもとで、新聞やテレビは報道・放送の自由を保障されていると断わったうえで、

「新聞の場合は新聞倫理綱領で、言論機関としての立場から『評論は世におもねらず、所信は大胆に表明』することを確認する一方、『自由、責任、公正、気品』を保つための自己規律を確認している。報道の自由を乱用することは『社会の公器』としての自己否定につながるとの認識による。

 言論機関である新聞と異なり免許事業である放送の場合は、とくに放送法で『公共の福祉に適合』することなど、事業の目的を明記し、『不偏不党』(一条の二)、『政治的に公平であること』『報道は事実をまげないですること』(三条の二)などを義務づけている」

 とし、新聞と放送の違いを力説。椿発言は「放送法や公選法などが義務づけている公正な報道という点で重大な疑念を生じさせることは否定できない」と結んでいる。

 毎日新聞と日本経済新聞の見出しは、前者が<非自民側積極報道問題 テレ朝局長が指示否定>、後者が<「非自民」巡る選挙報道発言 テレ朝局長、全面否定>とだいたい同じ。記事の大きさも似たようなもの。どちらも13日付産経新聞の記事をめぐる経緯として報じており、椿発言そのものを伝える記事ではない。日経は放送調査会委員長の清水英夫・青学大名誉教授による「私は、今までの公正中立から一歩踏み出している発言だと認識しただけだ」とのコメントを載せているが、毎日ではその種の取材はない。

 産経と読売が椿発言を問題視する「追及派」、毎日と日経がとりあえず経過を伝える「中立派」または「静観派」とすれば、朝日新聞はテレ朝「擁護派」だった。

 朝日新聞の14日付朝刊は、この問題をメディア欄で扱ったが、記事の大きさからは、あまり読まれたくない記事という感じ。見出しは<非自民政権意図した報道指示― テレ朝局長が発言と報道 産経新聞 本人は否定、テレ朝抗議へ>。記事は「テレビ朝日側は『指示』や『意図的な報道』の事実を否定しており、産経新聞社に抗議する方針」とし、「『非自民政権が生まれるよう指示した』といった明確な表現はなかった」(メモをとっていた民放連事務局幹部)、「一般的な常識として、内部の検討会での発言をとやかく言われては会議にならない。実際、テレビ朝日が突出した報道をしたとも思えない」(調査会の清水委員長)、「『指示した』うんぬんの発言はなかったと思う。このことが、報道の自由に対する規制につながらないか、その方が懸念される」(調査会に出席していた渡辺眞次弁護士)との談話を掲載している。

 なお、産経を除く四大紙は14日付夕刊でテレ朝・椿報道局長の更迭を報じた(産経は前日の内定段階で報道)。産経を含めた5紙のなかで、更迭記事の扱いがいちばん大きかったのは朝日新聞だったことは興味深い。

「毎日」は新聞の政治報道を反省

 10月15日になると、ここまで黙っていた毎日新聞が発言しはじめた。まず、朝刊の<政治のテレビ化現象と新聞>と題する社説が、今夏の政変劇がテレビによって演出されたとの見方に疑問を投げかけながらも、

「しかし、少なくとも、各テレビ局の政治番組が活況を呈し、多くの視聴者を引き付けたことは事実であった」「今回の各テレビ局の政治番組は、ある程度、政治家の本音を引き出すことに成功した。画期的なことだったといってよい」

 と、政治のテレビ化現象を評価。

「(その背景には)マスコミの政治報道のパターン化、マンネリ化があったのではないか」「政治家が固い口を開いたということ、テレビの側もその口を開かせるためには建前の報道で満足をするという従来の手法を改めたところに意味があった。私たち新聞が学ぶところもそこにある」「(新聞が権力の)チェック役を果たしていないとの疑念をもたれているとすれば、それは私たちがまだ本音を引き出す報道に成功していないためのかもしれない」

 など、新聞の反省すべき点、テレビに学ぶべき点を率直に語っている。同時に、政治番組に新境地を開いたテレビが新たな課題を背負ったことを指摘している。

 毎日新聞は、同じ朝刊三面で<「非自民の風」強調 総選挙報道 「指示」の言葉はなし 民放連メモ>との見出しで、重定尚志・民放連番組部長の作成したメモをもとに椿発言を検証。一方、<自民党メモでは「非自民を指示」>との小見出しで、自民党が入手したメモの存在と内容を報じている。また、「人気キャスター、久米宏氏の『ニュースステーション』を持つテレビ朝日は、以前から自民党の『テレビ批判』の標的にされていた」とも書き、椿発言に対する自民の反発の根深さを示唆している。

 さらに、同じ朝刊社会面の<民放の政治報道に一石>という記事でテレビ各局の姿勢を報じている。この記事は「民放テレビが政治に対して旗色を鮮明にしたり、方向付けをするのはいけないことなのかどうか」という疑問の後に、各局の報道局長らによる「不偏不党・公正中立は当然」という見解を並べている。毎日新聞としてテレビはこうあるべきだと書くのでなく、テレビのことはテレビに決めさせようというスタンスである。

 なお、以上の毎日の記事には、自民党が公選法や放送法にかかわる問題だとしているという以外、郵政省の見解や放送法に触れた記事は見当たらない。意識的に書かないようにしたことは明らかで、産経新聞が前日の朝刊トップに<郵政省、調査始める>の大見出しを掲げたのと極めて対照的だ。

 一方、読売新聞は、15日付朝刊に解説部西沢正史の署名入りで<テレビ朝日の報道局長発言 事実報道の原則に背く>という記事を掲載した。記事は、読売新聞は先の総選挙でテレビが演じた新党過熱報道に対し「政治的公平に問題あり」として、さる7月に厳しく指摘したと書き、

「したがって『五五年体制を崩す』とか『非自民政権誕生を意図する』報道が実際に行われたとしても、そう大きな驚きは感じない。一部のテレビメディアが結果的に新党ブームの片棒をかついできたことはまぎれもない事実だからである」

「視聴率にこだわるあまり報道のショーアップ化と視聴者迎合が目立ち、キャスターと呼ばれる人たちの、もっともらしい安易なコメントがはんらんしている。しかも、それば、豊富な取材経験や豊かな知性に裏打ちされたものならまだしも、蛇足のようなコメントはニュースの信頼性を著しく損なう」
 と、ショー化の目立つニュース番組を糾弾。そして、アメリカのキャスターのやり方を紹介した後、

「これに対し、日本のテレビはアンカーマンと呼ぶにふさわしいキャスターはほんの一握りで、ほとんど取材経験のないアナウンサーやタレントで占められている。ジャーナリストとしての経験もないキャスターが『私見』をニュースに織り込む最近の風潮は厳にいましめたい」

 と主張。もちろんこれは、久米宏の「ニュースステーション」を念頭に置いている。同じ政治のテレビ化現象をあつかっているようでも、毎日の社説とはだいぶ違う。

 19日には、テレビ朝日の社内調査中間報告、社長のおわび談話発表、椿前報道局長の辞表受理など、テレ朝側の幕引きが行われた。20日朝刊では、読売が<歯切れ悪く「自覚欠いた」>との見出しで、テレ朝の記者会見を紹介。社内調査の具体的な説明がないことを批判的に書いている。毎日は学芸部石塚光行の署名入り記事で解説し、処分が一週間たらずで出た背景を「免許更新のために郵政省の心証を良くする意味と、自民党の追及の矛先をかわしたいというテレビ朝日側の思惑が働いたとみられる」と指摘。「自民党が強硬姿勢を崩していないため、今後の展開はなお予断を許さないが、問題は『報道の自由』と『不偏不党』『政治的公平』との兼ね合い」とした。

 おやおやと思ったのは、産経新聞の岩切保人の署名入り記事。

「言論機関である新聞とは異なり、免許事業である放送の場合は、放送法によって事業目的が明記され、政治的に公平であることや報道は事実をまげないこと、対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすることを義務づけられている」

 という書き出しなのだが、これは先に引用した14日付読売新聞朝刊の解説記事の一節となんともよく似ている。同じ人物が書いたとは思えないから、「言論機関である新聞と(は)異なり(、)免許事業である放送の場合は……」という新聞記者が引用するテキストがどこかに存在するのだろうか。いずれにせよ、「言論機関である新聞」と「免許事業である放送」という対句は、対句になっていないところが妙である。放送は言論機関なのか、そうでないのかという判断を逃げている。また、読売も産経も完全に間違っているのは、放送法には事業目的など明記していないことである。放送法の第一章第一条に書いてあるのは、誰が読んでも放送法の目的であって、放送事業の目的でも、放送事業者の目的でもない。

証人喚問に対する各紙の論調

 10月20日午後、衆院政治改革調査特別委員会は、椿前報道局長の証人喚問を全会一致で決めた。

 これ対して、21日付の朝日朝刊は<自民党内に異論も 報道の自由絡み懸念>として、自民党内の慎重な意見を取り上げた。同じ日の読売朝刊は<予想外に早い決定>、毎日朝刊は〈異例の早さで決定〉と伝えた。毎日はその後、24日付朝刊の<スピード決定なぜ>という見出し記事で、水面下で与野党が一致していた「参考人」招致が、自民党の要求した「証人」喚問に変わったプロセスを報じている。

 証人喚問については、各紙とも社説で立場を表明した。まず毎日新聞は、21日付朝刊の<公正報道へ向け自浄努力を>と題する社説で、「今回の椿発言をことさらにあげつらって政治的に利用するようなことがあってよいとは思わない」「問題があるとしても、まずジャーナリズム内の自浄努力によって解決すべきではないのか」とし、証人喚問へ懸念を表明。翌22日付朝刊の<「言論の自由」萎縮させないか>と題する社説では、「今回の喚問決定は、とくに『言論の自由』確保の観点から見た場合、多くの問題点を抱えており、意義ありと言わざるを得ない」と、はっきり反対した。

 朝日新聞も、22日付朝刊の<一テレビ局の問題ではない>と題する社説で「国会が強制力を伴った議員証言法に基づいて証人喚問に踏み切ることが妥当かどうか、疑問に思う」と表明。

 さらに日経新聞も、10月24日の<テレビの政治報道と喚問>と題する社説で「衆院が、請求に椿氏の喚問を決めたことは、疑問と懸念を覚える。なぜなら報道に自由に関する問題は、報道機関内部の議論と、それを含めた幅広い言論活動によって解決すべきものである、と考えるからだ」としている。

 これらに真っ向から対して<「報道の自由」の乱用を戒める>との社説を掲載したのは、10月24日付の読売新聞朝刊。5つの考え方が出てくるが、長いので一部省略した要旨を掲げておこう。

「第一に、(略)今回のテレビ朝日問題の根底には、この(憲法二一条の言論、表現の自由の保障の前提として、一二条で定める)自由、権利の乱用に対する認識の欠如が見受けられる」

「第二に、一般の論調の中には、放送と活字ジャーナリズムの言論、表現の相違に着いての認識を欠くものがある。(活字ジャーナリズムにはほとんど無制限に出版、発行および言論、表現の自由が保障され、国民の側にも選択の自由があるが)一方、放送は、極めて限られた公共財である電波を利用して、情報を直接、国民の茶の間に送りつけ、受け手側の聴視するか否かの選択の自由が限られている」

「第三に、テレビ朝日報道番組のメーン・キャスターである久米宏氏が、放映にあたって、テレビ会社の責任者から何の指示もなく、個人の考えでやっている、と述べている点だ。(略)このようにキャスターを思い上がらせたことは、事業者として重大な責任がある」

「第四に、国会が椿氏を喚問することについて、あたかも言論の自由を抑圧するものであるかのような論調がある。これはマスコミの自由と義務、責任の問題を無視し、放送ジャーナリズムに自由の乱用を認めるものである」

「第五に、今回のような問題を放置すれば、公権力に言論介入の口実を与えることになる」

 産経新聞も、読売ほど強い調子ではないが、国会喚問に賛意を表した。10月25日朝刊の<政治とテレビの核心を 国会証人喚問の意義を問う>と題した「主張」(他紙の社説に当たる)欄から。

「マスコミ人にとって不幸な事態だが、自浄努力が不十分である以上、やむを得ない。」「今回の喚問が『報道の自由』や『言論の自由』への圧迫になるのではないか、という危惧の声が聞かれる。しかし、民意の反映である国会の総意は、国民の総意と見ることもできる。喚問が権力の介入のごとく受け止めるのは、いささか過剰反応ではないか」「マスコミは『第四権力』などといわれる。他の三権は互いにチェックし合える仕組みになっているが、マスコミだけは別である。とすれば、(略)国会の場で積極的に答えるのも一つの方法ではないだろうか」

 ところで、証人喚問が決まった同じ20日、民放連に椿発言の録音テープがあることが発覚した。これを各紙は21日の朝刊で一斉に報じ、民放連は22日になって番組調査会の議事録とテープを郵政省経由で国会に提出した。

 その内容を取り上げたのは23日付の産経新聞朝刊(椿発言の全文。委員の主なやりとりは発言者をイニシャルにして掲載。ただし、司会役の清水委員長の発言は司会として記載)、朝日新聞朝刊(委員の意見交換は省略しているが、椿発言の全文。司会の清水発言を含む)、同じく読売新聞朝刊(椿発言の要旨)、毎日新聞朝刊(同)。扱いは、毎日がもっとも抑制した記事で、四十数行にすぎなかった。

 最後に、10月25日に行われた証人喚問の翌日朝刊の各紙の社説を拾っておこう。まず、読売の<深めたかった報道の自由と責任>と題した社説は、「問題の発言が、現場の報道に影響がなかったことをどう証明するのか。逃げの姿勢でなく、事実に基づいて明らかにするのが、報道人としての対応ではないか」と、椿証人の「不用意、不注意、暴言、荒唐無けい、錯覚、レールを逸脱、はずかしいなどを連発し、謝罪に終始した」発言を批判。テレビ朝日に対し、偏向報道の有無を、自ら徹底的に調査し、結果を公表するよう求めた。

 産経朝刊は、<公正さの内部検証を急げ>という主張で、証言が不明確と批判。実際の番組内容を検証する必要がますます高まったとし、やはりテレ朝の内部調査を求めている。

 <政治的思惑ちらつく「椿喚問」>との社説を掲げたのは、毎日新聞。毎日は「私たちのからだの一部が、なぶられているような、そんな気持ちだった」と、問題がマスコミ全体の問題であることを示唆。「(喚問に)この際報道に対して圧力を加えておこうとする政治的思惑が潜んでいるとするならば、それは『表現の自由』への重大な干渉といわざるをえない。実際、質問者の言葉の端々にその気配がちらついていた」と述べた。

 <禍根残した前報道局長の喚問>と題する朝日の社説は、「何ともいいようのない、後味の悪さが残る質疑だった」「むしろ、番組の当否などに対する政治権力の介入が本格化した場合、マスコミはこれに正当に対応し抵抗できるか、大きな不安を抱かせるものだった」と書いている。

放送法を知らない新聞記者たち

 さて、今回の新聞検証は証人喚問の終わったこのあたりでとどめるが、椿発言の発覚からわずか2週間で、さまざまな問題の所在が明らかになったと思う。気になったことを2つだけ書いておく。

 第1に、新聞によって問題のとらえ方が180度、違うということである。もちろん違うのは結構なことだし、テレビがどうすべきかはいろんな意見を参考に考えればいい。だが、この違いは新聞の多様性の反映というより、むしろ新聞―テレビの系列ごとの違いが大きく作用した結果だと思うのは、筆者だけではあるまい。また、新聞とテレビは違うというなら、新聞によるテレビ支配の問題――資本や人事を含めた系列の問題は、避けて通れない。この問題を取り上げた記事が見当たらないのは、どういうわけか。

 第2に、放送法が天与のものとしてあり、だから椿発言はおかしいと立論されているにもかかわらず、新聞記者が放送法をまともに解釈していないことである。読売と産経の誤りはすでに書いたが、これ以外にも多くの記者が「放送局が不偏不党であることは、放送法によって義務づけられている」と考えていたようだ。というのは自民党などの「不偏不党でないのは放送法違反の疑いあり」という主張を、そのまま記事にしているからだ。

 だが、そんなことは、法律には書いてないのである。郵政官僚は、新聞の法解釈を陰で笑っている。これでは、新聞に郵政批判などできるはずがない。

≪付記≫
その後、明らかになった事実を記しておく。放送番組調査会における椿発言は、出席者の1人だった××テレビ××編成△長が、社内回覧用としてメモをまとめた。このメモは××テレビ内の幹部に回覧された。これを読んだ××テレビ××△長が、新たなメモをおこし、自民党筋に流すとともに、マスコミに売り込んだ。主要マスコミはこのメモを無視したが、産経新聞だけが飛びついてスクープ記事にした。以上の局名と人名は特定されているが、ここでは伏せることにする。