ここでは、東京新聞のラ・テ欄で、2002年4月から不定期連載を始めたコラムを掲載しています。
テレビが流し続ける北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)関連報道に、スコンと抜け落ちた重要な問題の一つは、「国際的な視点」の欠如である。
北朝鮮問題に関する海外メディアの主な論点は、次の2つ。
第1に核・生物兵器など大量破壊兵器を金正日政権が持とうとしているのを、止めなければならない。
第2に、圧政と飢え(一説には年に百万のオーダーで餓死者が出る恐れがある)に苦しむ北朝鮮の人びとを、なんとかしなければならない。
欧米や中ロなど主要国の関心事は右の2つであって、日本人拉致の問題はあまり語られていない。このことは、もっと報じられてしかるべきである。
というのは、善し悪しは別にして、主要国は上の2つのような自らの関心だけに基づいて、今後の対北朝鮮政策を決めていく可能性が高いからだ。これに日本はどう対応すべきかを、今から議論しておく必要があるはずだ。(「東京新聞」2002年12月14日朝刊)
TBSが、曽我ひとみさんの夫を取材し放送した。「金正日政権の宣伝に利用される」「曽我さんに断りがない」「彼は本当のことをいえない」から「取材すべきではない」との声がある。私はこれに反論する。
第1に、宣伝に利用される恐れのある取材が一切ダメなら、政治家・官僚・経営者・会社員・芸能人・識者その他に対するほとんどの取材はできない。それはナンセンス。取材の経緯や制約などを必ず明示し、利用されないよう手立てを尽くして、取材し報道すべきである。
第2に、別れ別れの家族の一方を取材するとき他方に断らなければならないなら、曽我さんに対する取材は一切できない。北朝鮮に残る家族に断っていないからだ。それはナンセンス。
第3に、本当のことをいえない人への取材が一切ダメなら、政治家・官僚・経営者・会社員・芸能人・識者その他に対するほとんどの取材はできない。それはナンセンス。取材ダメの主張は暴論である。(「東京新聞」2002年12月??日朝刊)
2002年12月1日でBSデジタルが始まって丸2年。3年で受信機普及1000万台が当初の目標だった。現実はどうなのか。
受信機の出荷台数は約160万だが、在庫品、店頭展示品、局や役所への供出品、不良交換品などを減じた「真の普及台数」はその7〜8割以下の120万台前後。これはメーカーも認めている。ほかにデジタルCATVで見ている世帯が10万弱。
つまりBSデジタル放送は、現時点で130万前後の世帯にしか普及していない!!
このままでは3年で1000万どころか、200万に届けば御の字。総務省や局やメーカーは、現実の5倍もの普及を見込んだ見通しの悪さを反省すべきだ。
民放各系列ごとにつくられたBSデジタル各社は、経営が立ち行かないため、来年(2003年)中にキー局に吸収されることが、すでに総務省と放送局の間で合意されている。BSデジタル放送は、衛星波の「多様化」という観点からは、失敗が明白になったというべきだろう。(「東京新聞」2002年12月1日朝刊)
≪付記≫
この原稿執筆時点では、それより前に民放BSデジタル会社5社がそろって「系列キー局に経営統合をしてほしい」と意志表示済みであり、民放各社は2003年中の吸収合併やむなしと判断、総務省も認める見込みだった。
その後、総務省は「あまりにも格好がつかない」との理由で、「当面は合併までは認めない」と言い出したともいわれるが、いずれにせよ「経営不振の民放BSデジタル新局救済」というただそれだけの理由によって、「マスコミ集中排除原則」を緩和し、キー局からBS局への50%までの出資を認める。無定見なご都合主義というほかはない。
九月の日朝首脳会談、とくに拉致された五人の帰国以来、関連ニュースがあふれている。だが、日本と朝鮮半島の関係を落ち着いて振り返る番組がない。
ずっと不満に思っていたら、日本テレビがテリー伊藤の司会で若者たちの討論を流した(2002年11月10日「ジェネジャン!」)。時宜《じぎ》を得た番組で、2時間スペシャルでもいける好企画と見た。
あえてからめば、テリー伊藤は学生を挑発するためだろう、「隣の家が鉄砲持ってるんだ。どうする?」と問いかけた。これは比喩《ひゆ》として荒っぽすぎる。
たとえるなら、「うちと隣には、町内無敵の屈強なボディガードがいて、鉄砲もある。で、一軒おいて隣が、鉄砲を作ろうとしている」だ。もちろん鉄砲は核兵器。全然違う話だろう。
日本が朝鮮半島を植民地にしていたことすら知らないかもしれない、若者たちが見ているのだ。正確な話をしないと、なぜ金正日政権が核や生物兵器にまで手を出そうとするのかが、わからない。(「東京新聞」2002年11月29日朝刊)
今回は、からむ前に誉めたいと思う。フジテレビ朝の「とくダネ!」が、たいへんいい。
なかでも注目は「とくダネ・タイムス」と称するニュースコーナー。たとえば2002年11月7日は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)事情と中国で拘束されたNGO事務局長の会見、米中間選挙の共和党勝利、金利すら返せない本四架橋公団への税金投入問題などをあつかった。
ひと昔前のこの時間帯では考えられなかったネタだ。しかもわかりやすく、おもしろく作ってあるだけでなく、なんでもストレートに批判してやろうという姿勢が小気味いい。
で、何にからむかというと、各局の正統派ニュース報道番組にである。同じネタを見比べればわかるが、この情報番組の突っ込みにはるかに及ばない定時ニュースが多すぎる。
フジ「とくダネ!」や、NHK「子どもニュース」のほうが世の中が理解できる。このことを局の報道部門は、真剣に反省したほうがいい。(「東京新聞」2002年11月21日朝刊)
テレビを見ていると、人の名前につく「肩書き」が変なので驚かされることがよくある。
NHKの取材チームがパキスタンで交通事故に遭う残念な出来事があった。亡くなった3人の遺体が帰り葬儀が行われると報じたNHKニュースは、アナウンサーが「○○職員は……」(○○は名字)と伝えた。
これはヘン。「職員」は肩書きではないからだ。NHKニュースは社内報でもあるまいし、私は「NHKの○○さん」という言い方でよいと思う。身内の「さん付け」がはばかられたなら、「○○プロデューサー」や「△△カメラマン」と呼べば、何の問題もないはず。
マスコミでは、どうも「名前の呼び捨てはよくない」という観念が蔓延《まんえん》。その結果、「容疑者」「被告」など、肩書きともなんともつかない呼称を名前につけることが一般化している。「職員」もその伝《でん》で開発されたNHK独自の呼称なのかも。
でも海老沢職員は変でしょう、海老沢会長。(「東京新聞」2002年11月16日朝刊)
≪付記≫新聞掲載時は、末尾から4行目の「その伝で」に《つて》(伝言・手がかり・ついでなどの意)とルビが振ってありましたが、そりゃ《でん》(方法・やり方の意)の間違いでしょう。頼みますよ、東京新聞の校閲のみなさん!!
TBS「古代エジプト夢と冒険 ピラミッドとは何か!?」を興味深く見た。
局を辞めた元アナウンサーの進行役起用はないだろう。「やりたいことと両立できないから辞めた」という趣旨のコメントをしたが、今回のようなオイシイ仕事なら両立できるのか。アナウンサーという仕事をナメたこんなご都合主義が通るなら、TBSの現役アナはみんなさっさと辞めたほうがいい。
ピラミッド建設に従事した人びとの映像はなかなかの出来と思ったら、BBCが中心に制作したものだそうでガッカリ。
残念な点もあったが、全体としては古代エジプトへの思いをかきたてられ、テレビというのはたいしたものだと感じた。
それにしてもテレビは、なぜ同じことを日本でやらないか。NHKスペシャルでも「四大文明はわかったから、仁徳天皇陵でやってくれ」といつも思う。天皇の墓とされる遺跡を徹底調査すれば、日本の古代史は変わるはずなのだ。(「東京新聞」2002年11月15日朝刊)
ニュースを見ていると、会見や証言などの音声に字幕がつくことが多くなった。聴覚障害者への配慮か、字幕だらけのバラエティの影響なのか。
字幕がつくことには別に文句もないのだが、気になることがある。実際の言葉と字幕が微妙に異なるケースが多いことだ。
2002年10月28日夜のテレビ朝日「ニュースステーション」では曽我ひとみさんの言葉「生きていてくれればと」が、字幕「生きていてくれればいいと」。横田滋さんの言葉「証拠を出してほしいというのが第一の目的」が、字幕「証拠を出させるのが第一の目的」。明らかにニュアンスが異なるではないか。
要約でもなく、格別わかりやすくなったわけでもない。なんでわざわざ発言と字幕を微妙に変えるのか、意味不明である。
テレ朝を例に引いたが、他局のニュースでも同じような音声と字幕のニュアンスの違いをよく見かける。度を越せば捏造《ねつぞう》に近づくことを、この際テレビ局に警告しておく。(「東京新聞」2002年11月02日朝刊)
10月25日、フジテレビが朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に拉致《らち》された横田めぐみさんの娘キム・ヘギョンさんの会見をスクープとして放送した。
「いたいけな少女を政治に巻き込んだのは許せない。放送すべきでなかった」との声があるが、これには断固反対だ。北朝鮮側に政治宣伝の意図があったとしても、チャンスがあれば取材し、放送すべき。報道機関ならば当たり前の話である。
だが、ドタバタ放映のせいか冷静を欠く点が少なくなかったことは問題だ。少女の涙の訴えを過剰に反復強調し、結果的に北朝鮮側の意図を伝えた。会見を批判する出演者の発言に局側がまともに答えなかった。新聞2社との共同取材となった経緯や誰の質問なのかが不明瞭だった。こうした点への見解を、フジテレビは出すべきである。
司会の1人が、少女が政治に巻き込まれないことを願うという趣旨の発言をしたが、巻き込んだのは自分たち。その自覚がないのでは困る。(「東京新聞」2002年10月30日朝刊)
≪付記≫
その後、フジテレビが流した映像は「朝鮮中央テレビ」撮影だった可能性が高くなった。毎日新聞はそのように報じ、読売新聞はフジにたずねたが明確な回答がなかったと報じている。
この件では、「GALAC」2002年12月6日発売号掲載の座談会「これでいいのか!? 北朝鮮報道」(11月22日の記者会見・討論会と同じタイトルだが、この座談会のほうが先に命名)を参照願いたい。(2002年11月25日)
客「でんこちゃんが省エネを呼びかける東京電力のCM、最近さっぱり見かけないね」
主「原発の悪質なトラブル隠しが発覚して、自粛中なんだ」
客「ものすごい露出だったから局は減収でたいへんだろう」
主「そうでもない。全額ではないにせよ、相当のカネを支払っている。CM分まるまるパーになったわけではないんだよ」
客「流してないCMでも、なにがしかは局に渡る。そのカネはわれわれの払う電気代から出ている。どうも釈然としないな」
主「CM自粛で、東京電力の契約者が減るわけでもないぞ」
客「電力会社は取り替えられないからね。あれだけ流してたCMは顧客獲得のためではない。すると省エネ――電気を使うなといいたかっただけなのか」
主「いや、テレビCMこそが原発対策だった。露骨な原発批判はご遠慮をというわけさ。ある調査報道番組が電磁波問題を取り上げたら、後でその番組のスポンサーになったこともある」
客「あ、そうなの」(「東京新聞」2002年10月26日朝刊)
あまりに安易なお涙頂戴《ちょうだい》報道に呆れる。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に拉致された5人の一時帰国を報じた各局ニュースの話だ。2002年10月16日夕方の記者会見は、NHK教育とテレビ東京を除く全局が中継。翌日の朝も全局この話題。だが、彼らが二十数年ぶりに帰り、日本中が大騒ぎで迎えたという以外、新しい知見が何もない!!
政府チャーター機が羽田と北朝鮮を往復する予定を、天気予報のような日本列島・朝鮮半島と飛行機のCG画面で見せた愚劣な局まであった。こんなものをニュースだと思っている報道担当者に、猛省を求める。
戦前の日本政府による拉致と大同小異の朝鮮人強制連行。日韓で手打ちした金大中拉致事件。無為無策の外務省。超党派で訪朝し大歓迎されたお気楽国会議員。一部を除き拉致問題を報じなかったマスコミ。北朝鮮の悲惨な国内事情や難民流出。
なぜテレビはこうした問題を報道しないか。ハワイからの芸能人帰国レポートと同じノリで本当にいいのか?(「東京新聞」2002年10月17日朝刊)
≪付記≫新聞社が「北朝鮮」表記にカッコの注(朝鮮民主主義人民共和国)を入れた結果、文字数があふれて筆者が知らないうちにカットされた言葉があり、ここでは原文に戻してあります。
これは、多くの日本人が感じていることだと思うが、テレビCMの音が、うるさすぎる。
局の知人に文句をつけたら「CMはステレオ放送だから大きい音に感じる。静かなドラマの後にCMが入るときも、うるさく感じる。でも、最初から取り立てて大音量で作っているわけではないのでは」という。
そんなものかなと思って調べたら、とんでもない。全日本シーエム放送連盟(ACC)のCM音量問題研究会の調査によると、広告会社から局に搬入されるCM素材の大半が、音声レベルの基準(最大でVU計の0VU)をオーバーしている。
番組本編の中断で視聴者の集中が途切れるから大きな音を出して気を引きたい、というのがスポンサーの意向なのだろう。
だが、筆者などは「うるさい!!」といいながらリモコンで音を絞るから、音主体のCMは意味不明で、告知効果もゼロ。大声を出せば買ってくれる時代ではないと、広告主はいい加減に気づくべきだ。(「東京新聞」2002年10月11日朝刊)
台風21号が戦後最大級の勢力のまま関東地方に上陸するという2002年10月1日、NHK夜7時のニュースを緊迫感をもって見た。
看過できない重大な問題が一つあった。この時期の台風は時速65キロといったスピードなのに、台風の位置を示す情報(とくに図)が遅すぎたのだ。
7時15分頃に出た宇都宮や前橋と台風の位置関係を示す図は「1日17時」現在。台風の速度が65キロなら位置は150キロ近くズレている計算だ。これは宇都宮―三浦半島や前橋―熱海の距離に匹敵するズレで、いくらなんでも間抜けだろう。
台風関係のニュースを終わる7時41分頃には「東京都もまもなく暴風域に入る見込み」と伝えたが、同時刻には東京都の南部は暴風域に入っていた。
気象庁発表に厳格に基づくと、情報は1時間やそこら遅れてしまう。気象庁の最新情報はこうだが、それに基づく現在の推定情報はこうと、NHKは自分の責任で役に立つ台風情報を伝えるべきだ。(「東京新聞」2002年10月6日朝刊)
池田小児童殺傷事件の被告人質問が大阪地裁で始まった。テレビのニュースでは、法廷の様子を「スケッチ」で報じる。
この裁判に限らずオウム裁判でも毒入りカレー裁判でも報道のたび思うのだが、なぜこの高度情報社会にスケッチなのか。
裁判は公開が原則で、席さえあれば誰でも傍聴できる。報道も自由で、傍聴席の前のほうは記者専用である。報道機関が傍聴できない大多数のため、重要と思われる裁判を画像つきで報じるのは当たり前だ。
しかし、それがスケッチでなければならずビデオや写真は一切ダメというのは、合理的な理由が全然存在しない時代錯誤。実にナンセンスな話である。
カメラマンが動き回りフラッシュをたくのが法廷の秩序を乱すなら、自動撮影カメラを固定し、高感度フィルムで撮ればすむことだ。画家の手の動きがない分、法廷は落ち着くだろう。
テレビ・新聞など報道機関は、そう裁判所に申し入れしているのか?(「東京新聞」2002年7月17日朝刊)
大阪のテレビ局の大物プロデューサーが、番組制作プロダクションから3年間でリベート約2億4000万円を受け取り、所得隠しで約8000万円を脱税していたとして、告発された。
つねにヒットを飛ばし、制作会社の生殺与奪権を握る局プロデューサーの要求を、下請けは断ることができない。
この手の話は、テレビの一部局員と制作・芸能プロダクション関係においては古典的なもの。つまり「よく聞く話」だ。
民放テレビ局の給与は日本最高水準だから社員はもともと羽振りがよいが、それでもハデに飲み歩きすぎとか、高い車に乗りすぎと話題になる人がある。
そこで思うのは、テレビ局は社内のヒットメーカーたちに、もっと高い報酬を支払うべしということだ。高視聴率は広告収入に直結するから、その分ボーナスをガンガン出す。税金もキッチリ払わせる。その代わり下請けからの裏金受け取りは、絶対に許さない。そのほうが万事スッキリする。(「東京新聞」2002年7月07日朝刊)
日韓W杯の間、十数人の若者が街角で小型テレビに見入り、得点シーンに狂喜乱舞する姿を何度も見かけた。W杯を通じ、「テレビとは何か?」について再確認できたことを、ここでまとめておくのも有益だろう。
第一に、テレビは高画質か並の画質か、画面サイズが大きいか小さいか、横長か標準画面か、といったことなどすべて枝葉末節であって、何が映っているかだけが決定的に重要である。
第二に、テレビはみんなと一緒に同じコンテンツ(番組)を見ると、たいへんおもしろい。
第三に、テレビはやっぱり生がいい。筋書きのない映像こそが、その最大の魅力である。
第四に、テレビは同じ映像を同時に数千万人に見せ、共通の価値観や意識を植えつけることができる。実に便利だが、ある意味でとても恐ろしい装置だ。
さて、現在進められている放送のデジタル化は、右の第一の項目をまったく無視した無謀で杜撰《ずさん》な計画である。その失敗は目に見えている。(「東京新聞」2002年7月04日朝刊)
日韓W杯をエキサイトしつつ楽しく見た。しかし、もう後の祭りだが、中継映像の問題を指摘しておかなければならない。
全世界むけに中継された「国際映像」の出来が悪すぎた。
第1に、不要なアップが多すぎる。戦況を見つめる監督のドアップ顔が何度も、しかも長く映る。29インチ画面では耐えられないデカさで、である。
第2に、リプレイ映像を入れるタイミングが悪い。「先程のシュート」を忘れたころに突然入れたり、「直前の反則」「惜しいゴール前」をダラダラ流し肝心のリスタート(フリーキックやコーナーキックで再開)後のチャンスを映さなかったり。
第3に、ヘンな扮装の観客ばかり探して、喜んで撮りすぎ。
第4に、後で見ると重要なシーンは全部押さえているから、これはスイッチャーが悪い。
無責任FIFAは黙っているに違いないから、映像を流した局が、国際映像はどんなスタッフがどんな仕組みで作ったのかレポートすれば?(「東京新聞」用に2002年6月27日執筆・送稿。未掲載)
旧聞に属して恐縮だが、W杯日本戦の日、ラジオはこぞってサッカー中継をした。それも、いくつかの局が、ではない。
関東地区のラジオで、2002年6月9日の対ロシア戦を中継しなかったのは、NHK第2、NHKFM、放送大学、AFNの4局のみ。残りAM5局、FM9局、短波1局はすべてサッカー。
その後ラジオ業界は、聴取率が全局で27%だの、この時間ラジオを聴いた人の9割はサッカー中継を聴いただのと、自己満足に終始しているらしい。
冗談じゃない。私は、これらW杯日本戦中継の日は「ラジオが死んだ日」として、長く銘記されるべきだと思う。
音だけで伝えるラジオは、眼が不自由な人、テレビに興味がない人、仕事しながら情報を得たい人など固定客がいる。そのほとんどがW杯日本戦に必ず興味をもつと考えるのは、まったくの錯誤であり、誰が自分の客なのかも知らない恥さらしだ。
こんな愚行を、ラジオは二度と繰り返えすな。(「東京新聞」用に2002年6月27日執筆・送稿。未掲載)
TBS土曜夜8時の「USOジャパン」。嘘《うそ》や噂《うわさ》のたぐいのトンデモ・ネタを、ジャニーズ軍団が紹介するバラエティだ。
冒頭の今井翼くんのコーナーは、たまに日テレ「伊東家の食卓」に登場済みのネタが出るのが難だが、なかなか楽しい。蟹《かに》の縦歩きには感心した。
いただけないのは、霊写真コーナー。ただの光かぶりや二重露光、作り物らしき写真にギャーギャー騒ぎ、「昔ここで死んだ人の霊がどうのこうの」とデタラメな解説をつけるのは、子どものためにならない。まあ、タイトルで「嘘」と断っているわけだから、これは許そう。
許し難いのは、除霊を頼んできた家を霊能者らしき人物が訪れ、悪霊退散をやった回。その家の親子の顔に終始モザイクがかかるのだが、なぜか一シーンだけ、かけ忘れがあったことだ。
仕込みならバレるし、顔は隠してと希望があったのならヒドい。どうやったら、モザイクのかけ忘れが起こるのか、誰か教えてもらいたい。(「東京新聞」2002年6月19日朝刊)
TBSが「筋肉番付」収録中の負傷事故で、番組そのものを打ち切った。テレビの作り手として「最悪」の選択である。
問題が起こると、まず平謝りに謝って、ダメなら打ち切り。「番組をなくしたんだから、もう文句はいわれまい」というテレビの悪いクセが、またしても出てしまって、情けない。
ある高齢者は番組を「ヘタなタレントの演技が氾濫《はんらん》するなか、素人が肉体の限界に真剣にチャレンジするのは、本当にさわやかで、おもしろかった」と評する。同じ思いで見た日本人が何百万か、いたことだろう。
TBSが何より大切にすべきは彼ら視聴者である。スポンサーでもなければ、うるさく批判するマスコミ他社でもない。
1か月でも2か月でもかけて事故を徹底検証し、それを次回「筋肉番付」の冒頭十分で謝罪とともに放映し、対策を約束すれば、何の問題もなかった。
不祥事を起こしたとしても、放送局は安易に番組を終了させるべきではない。(「東京新聞」2002年6月17日朝刊)
なんともナメられたものだ。
福田康夫官房長官が、将来の日本の核武装の可能性に言及。報道が波紋を呼ぶと、「どうしてこういう報道になるのか」とマスコミに責任転嫁し始めた。
2002年6月3日にテレビが伝えた会見では「若い記者に、そういう将来のことも考えてほしいと話した」と、「真意」を語る。
冗談じゃない。官房長官は未来の予想屋ではない。「30年後でも日本は核武装すべきではない」という信念と戦略をもつべき政治家のはずである。
そもそも日本の核武装にもっとも強く反対するのはアメリカに決まっている。日本が核武装するのは日米軍事同盟を破棄するときだ。官房長官は若い連中に何を吹き込む了見なんだ?
若い記者諸君!! 無定見な発言を棚上げし、マスコミが悪いだの若い記者に教えてやっただけだのと開き直るこの男を許すのか。君らは若い。その一点だけで手を握れるはずだ。新聞、通信、テレビ全社が連携して、長官の首を取れ。(「東京新聞」2002年6月10日朝刊)
W杯が開幕した。小学3年でサッカーを始め、当時サッカーで見る番組といえば東京12チャンネル(現・テレビ東京)の日曜夕方「三菱ダイヤモンドサッカー」しかなかった筆者としては、まったく感慨無量である。
ところで、開会式や緒戦の中継を見ての感想なのだが、レポーターやアナウンサーが「すごい!」「すばらしい!!」という言葉を連発する(しかも、それ以外の単語を発しない)のは、やめてもらいたい。
「すごい」「すばらしい」のは、選手たちである。「すごい!」「すばらしい!!」と感動したいのは、私たち視聴者である。途中にやむをえず介在しているだけのレポーターやアナの、視聴者と同じ歓声など、まったくもって聞きたくない。
「ナルニア物語」を書いたC・S・ルイスは、「小説に形容詞を使うな。その形容詞を読者が発するように描写せよ」という意味のことを、若い書き手に繰り返し忠告した。表現者の基本である。(「東京新聞」2002年6月8日朝刊)
有事法制の論議が盛んだ。有事は「戦争」「事変」発生の意味だから、有事法制の整備は、自衛隊が戦争をするときのための法制度整備のことである。
自衛隊はいざとなったら自衛戦争をするため、しかもその戦争に勝つために存在すると私は思うから、「戦時法制」整備が必要なら、徹底的に議論を重ねればよいと考える。有事などとごまかす必要もない。
だが、「戦時法制」の整備以前に「平時の戦争回避戦略」が必要なことは論を待たない。これは官邸と外務省の仕事だが、外務省に当事者能力がないことは明白だから、戦時法制の整備より先か少なくとも同時に、外務省を解体・改組しなければ、話にならないと私は信じる。
だが、報道を見ていると誰もこういう見方を提示しない。なぜか。武力攻撃とは?などと有事法案の枠に縛られた議論に終始し、木を見て森を見ないからだ。これは野党議員も悪いが、報道にも責任ありというのが、私の見解である。(「東京新聞」2002年6月6日朝刊)
制作者が本当に伝えたい「内容」と、放送局がついでに流したい「宣伝」の境界が、あらゆる番組で曖昧《あいまい》にされていく。商業放送なら驚きもしないが、宣伝臭が鼻についてたまらないのが、みなさまのNHKである。
たとえば、朝の連続テレビ小説「さくら」。まず違和感を覚えるのが、主人公さくらの下宿する家に置かれた巨大なテレビだ。茶箱の上にプラズマテレビを置く家がどこにある? いくらハイビジョンの普及に汲々《きゅうきゅう》でも、やりすぎで変だ。
主人公が「ちょっと、本屋まで」といえば、すかさず「買ってきてもらえる?
『きょうの料理』」。雑誌名の読み上げは計3回。さらにしつこく次のシーンで『趣味の園芸』も2回。臭いというか、実に品がない。
番組内の宣伝本をつくるのはNHK関連団体の日本放送出版協会。協会を名乗るものの、年商250億円の歴《れっき》とした「株式会社」である。受信料を払ってる出版社の社員が、怒らないのが不思議だ。(「東京新聞」2002年5月16日朝刊)
フジテレビ朝の「めざましテレビ」。うちでは毎日、子どもが学校に行く前に見て いるから、私も付き合うハメになるのだが、どうにも気になることが一つある。
この番組、途中ではさまるCMが、同じ時間の日テレやTBSの朝情報番組や、同じ局の夕方ニュースより、ずいぶん少ない気がするのだ。その代わり、番組内で芸能情報として報じられるCMが、やたらと多い。
一応「話題のCM」という位置づけで、登場するタレントが異色の組み合わせとか、おもしろいCG(コンピュータ・グラフィックス)が使われているとか、日韓W杯に合わせたタイムリーな企画とか、CM制作裏話を伝えることは、伝える。
だが、どう見ても、番組を提供するスポンサーのCMより、番組内で紹介されるCMのほうが、露出度が高く、訴求力も強い。子どもにどう思うかと聞くと、「CMでしょ、当然」。わかって見ているなら、まあ、いいか。(「東京新聞」2002年5月8日朝刊)
ん? テレビって「生」が取り柄じゃないのか? 当たり前のことを、改めてそう問わなければならない事態が進行中だ。
昼前や夕方前の時間に、再放送番組が急増している。2002年4月24日午前10時〜午後6時の8時間を調べると、NHK3時間弱、日本テレビ2時間、TBS3時間弱、フジテレビ2時間、テレビ朝日4時間弱、テレビ東京2時間が再放送なのだ。
これらは、初回オンエア時にスポンサーがつくか受信料を取るかして、コストを回収済みの番組。制作費ゼロだから、この日の何時間分かのCM料金・受信料は放送局の丸儲けである。
ハッキリいって、これは「手抜き」だ。新聞や雑誌の最新号に、何か月あるいは何年か前に掲載済みの記事が、何の断りもなく1ページでも載るだろうか? いかに読みたい人が多くても、それはない。
こんなに再放送が必要なほどソフトが足りないなら、BSデジタルも地上デジタルもさっさとやめたら?(「東京新聞」2002年5月1日朝刊)
辻元清美・前議員参考人招致の日、テレビ朝日の昼の番組で妙なコーナーを見た。
辻元前議員の会見の音声を、声紋分析が専門らしい音響研究所の人間が「分析」。周波数の高低やリズムから「ここは隠そうとしているところ」「ここは泣く一歩手前」などと、もっともらしく解説するのである。
ちょっと待ってくれ。
ここまでの経緯を見れば、「隠そうとした」のは、子どもでも指摘できる話。参考人招致では思わず落涙したのだから、「泣く一歩手前」も、誰にでもできる指摘じゃないか。
「いや、確かに声で分析できる」というなら、辻元議員のように隠そうとしたのがバレちゃったケースでなく、鈴木宗男議員や山崎拓幹事長の声を分析してみせてくれ。彼らのコメントVTRは山とあるはずだ。
名誉毀損に訴えられる覚悟で「ここは隠そうとしている」と分析してくれたら、私はこれをインチキじゃないと認め、この欄で謝罪する。(「東京新聞」2002年4月28日朝刊)
テレビが、ようやく最近「個人情報保護法案」など「メディア規制三法」を、表現の自由を侵す大問題として報じ始めた。
TBS「NEWS23」(2002年4月19日)も枠を拡大し、法案推進側の政治家・学者・官僚と、絶対反対側の作家・ジャーナリスト・学者・局代表を並べて討論した。これを見た寿司《すし》屋の若女将《おかみ》の感想。
「何あれ? 向かい合って討論してる話の中身が全然わからない。あれ見せられたら、賛成側も反対側も、どっちもどっちとしか思えないわ」
筆者も見たが、確かに討論になってない。討論を録画のうえ各人の話を切り張りした結果、全員が勝手な主張をしているように見える。局代表の主張も弱すぎ。寿司屋の女将のように、深夜まで起きている人以外見られない時間帯の放映も疑問。
こんな討論より、全時間帯の全ニュースで報道のたびに「私どもの放送局は反対です」と一言添えたほうが、よほど効果的だと思うのだが。(東京新聞2002年4月27日朝刊)
「デジャ・ビュ」という言葉をご存知か。日本語では「既視感」《きしかん》。初めて見る情景を、以前どこかで見たことがあると感じる体験のことだ。正常人にも一過性で起こるが、多くは精神障害の際に現れる症状とか。
テレビを見ていると、一過性どころか、毎日これに似た感覚にとらわれる。「この映像、さっき見たぞ」と。デジャ・ビュと違うのは、本当に見たばかりの映像が流れること。なぜか民放テレビは、CMの後で、CM直前の映像を何十秒か繰り返して流す。ドキュメンタリー調のバラエティに、とくに多い。
CM前の内容を忘れた人のため? 視聴者はそんなに忘れっぽくないよ。CM明けから見始めた人のため? じゃ、CM5分前や10分後から見始めた人は、どうしてくれるんだ。
デジャ・ビュ映像がテレビに氾濫する最大の理由は、使える映像が少ないから。つまり薄っぺらな番組内容の水増し、時間かせぎである。これには、もうウンザリだ。(東京新聞2002年4月25日朝刊)
海老沢勝二NHK会長が登場する番組「NHK予算とビジョン」(2002年4月7日)を見たが、紹介された数値に疑問がある。「266万世帯の方がBSデジタル放送を楽しんでいる」というのは、事実と違う。
番組では受信機の出荷台数を115万とするが、実売数はその7割以下と見るのが常識。普及台数は約80万台以下だ。
一方、NHKによれば、BSデジタル放送はCATVで151万世帯に流されているが、そのほとんどはアナログ方式に変換しての送信。ただ映っているだけだから、高画質デジタル放送を「楽しむ」ことはできない。デジタル方式のCATVで見ている世帯は「わずか5万」(民放BS首脳)である。
80万以下と5万を足すのだから、BSデジタル放送の普及数は八十数万世帯以下。NHKが公表する世帯数の3分の1にも普及していないのだ。ここを正確にとらえなければ、先々の政策・施策を大きく間違えてしまう。(「東京新聞」2002年4月19日朝刊)
最近、テレビ番組に登場する字幕(テロップ)の量が飛躍的に増えた。よく見るのが、バラエティ番組で、出演者の言葉をなぞったり、「すると」などと場面転換を表す字幕だ。
これが情報番組にも伝染したというべきか。夕方や夜のニュースにも盛んに字幕が付く。
映像や音声を的確に補完する字幕なら、もちろん大歓迎だ。しかし、願い下げなのが視聴者を欺くインチキ字幕である。
たとえば夕方ニュースで、CMに移る直前、「NEXT×××」「このあとすぐ×××」と画面隅に予告を出す。
興味ある話題なので、CMの後さあどうなったと身を乗り出すが、ほとんどの場合、すぐそのニュースに行かない。途中にさんざん小ネタをはさみ、引っ張る引っ張る。
「次」といって「次の次のその次」くらいに出すことを、世間では「ウソ」という。テレビだけが白昼堂々ウソをついていいはずがない。ウソ字幕は、すぐおやめなさい。(「東京新聞」2002年4月5日朝刊)