メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
すべてを疑え!! MAMO's Site(テレビ放送や地上デジタル・BSデジタル・CSデジタルなど)/サイトのタイトル
<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

TBS坂本弁護士テープ問題
バッシングに興じたマスコミの罪
――問題は少しも解決しない

≪あとからのリード≫
1989年秋、TBS「3時にあいましょう」はオウム真理教・麻原彰晃の水中クンバカを取り上げ、オウム批判の急先鋒だった坂本弁護士にも取材。10月26日、オウム教団幹部がTBSを訪れて抗議。未放映のビデオを見せるように迫り、放映中止に。その後、幹部らは坂本弁護士と面会、11月4日に一家3名を殺害した。
以上の経緯は6年間表面化しなかったが、1995年10月、TBSが地検に坂本取材ビデオを提出し、19日に日本テレビが報道。TBSはこれを即日否定、96年3月11日発表の社内調査でも「ビデオを見せた事実はない」と否定。しかし、オウム幹部の供述が出たことから、3月25日に社長会見で認め、4月30日には「お詫び番組」「検証番組」を放映した。これが「報道のTBSは死んだ」といわれた、TBSビデオ事件(TBS坂本弁護士ビデオ事件)である。

≪特集目次≫
バッシングに興じたマスコミの罪/坂本 衛
電波発射業の事故崩壊/田原茂行(元TBS企画調査局長)
処分理由に異議あり/諏訪澄(元テレビ局員)
TBS再生への提案/TBS社員2人、OB13人、制作会社幹部15人へのアンケート
(「放送批評」1996年07月号 特集「TBS坂本弁護士テープ問題」)

≪参考リンク≫
生きてかえれ! 坂本弁護士一家殺害事件 5年10ヶ月の軌跡
主要オウム真理教(アレフ)関係へのリンク
オウム=サリン事件未解決問題再検証

お詫び番組や検証番組は
何の解決にもならない

 「あんなお詫び番組や検証番組をつくって何になるのか。僕らテレビ屋は、僕らのテレビ表現を、日々送り出す番組を通じて視聴者に見てもらうことしかできない。それ以外に問題の解決法はないし、それ以外の解決法を求めてはいけないんだ。問題が起こったから、これこれの事情でした、ごめんなさいという特別番組をつくつて、ハイおしまいなんてことはありえない。そんなこと、どうでもいいんだよ」

 TBS社会情報局のあるプロデューサーの声である。名前はまだ出せない。

 TBSビデオ問題は、1996年4月30日、TBS社長(当時)の磯崎洋三が登場して視聴者に語りかける社告番組(「視聴者のみなさまへ」)と、なぜ問題が起こり、なぜ事態の解明がまったく進まなかったのかをTBS自身が検証する特別番組が放送された。社長は交替し、TBSでは一応の「けじめ」をつけたかたちだ。

 そんな自局のお詫び・検証番組を横目でみながら、TBSのある社員は、吐き捨てるように冒頭の台詞をいった。そして、
 「社内はメチャタチヤよ。上層部なるものなんて信じられない。組合もお飾り。みんな、誰が悪いんだお詫びだ検証だと、まあ頑張ってきたわけよ。だけど、僕がいいたいのは、お前のテレビ表現ってなんだ、お前のニュースってなんだ、いまブラウン管に何をどう流すんだってことですよ」
 と続けた。

 これは、TBSの中ではごく少数意見に属する見解に違いない。だが本当は、TBSの「テレビ屋」や「報道屋」が、「番組」を通じて真っ先に語り、そして語り続けるべき事柄だろう。

 筆者もまた、TBSのお詫び放送を見ながら、本質的な話は何もなされていない、まだこれからだという思いを強くした。そして、TBSの「けじめ」のつけ方から、NHKムスタン(いわゆる「やらせ」)事件やテレビ朝日椿発言事件を連想した。

 前者は、テレビの「演出」とは何か、「ドキュメンタリー」とは何か、番組に特定のスポンサーのロゴマークが意識的に挿入されるとすれば「公共放送NHK」とは何なのかという、重大な問題を提起していた。

 後者は、テレビにおける「政治報道」とは何か、「不偏不党」や「公正」あるいは「中立」とは何を意味するのか、それを判断するのはテレビ局か、監督官庁「郵政省」か、視聴者なのかといった、これまた重大な問題を提起していた。

 どちらも、テレビの誕生から40年、棚上げにされてきた重要な問題を、みんなで考え、みんなで話し合う、大きなチャンスだったのだ。

 ところが、ムスタン事件では、「サンゴの意趣返し」に燃える朝日新聞を中心にヒステリックなNHKバッシングが起こった。椿発言事件では、読売新聞を中心に、同じようなテレ朝バッシングが起こった。

 系列か非系列、テレビか新聞か雑誌によって強弱濃淡はあるものの、ほばメディア総ぐるみの非生産的な一局集中攻撃のなかで、テレビがかかえる問題がまともに論じられたことは、ほとんどなかったといえる。

 どちらにも共通していたのは、問題を引き起こしたテレビ局の情けない平謝りと首切り、その他のテレビ局による無責任な攻撃(自局が直面している問題だと理解することができない器量のなさ)、主として新聞・雑誌メディアのテレビに対する無理解、問題の所在をまったく理解していない監督官庁・郵政省によるテレビへの無用の介入などである。

 そして、残念ながら、二度あることは三度あるといわなければならない。

 TBSをメディアが取り巻く今の状況は、「それみたことか」式の一方的で非生産的な断罪としか思われない。悪い奴はあいつだ、あいつだけだ、あいつを叩けばよいのだという、これはヒステリックな魔女狩りである。

 そして、TBSは、バッシング状況からなんとか抜け出そうと焦るあまり、もっぱら責任追及と謝罪に走ってしまい、テレビにおける取材報道のあり方をめぐる本質的な議論を、どこかに置き忘れてしまったようにみえる。

 こんなことでよいのだろうか。

 ここでは、新聞や雑誌やテレビ局によるTBSバッシングの問題点を検証しながら、テレビというメディアのかかえる問題を明らかにしていきたい。

マスコミに
通報・公表義務はあるのか

 さまぎまなメディアが、TBSビデオ問題で、何が問題だったのかを論じている。そのなかで、筆者がもっとも疑問に思うのは、
 「TBSは抗議にきたオウム側に坂本弁護士のインタビューテープを見せた。そのことが坂本さん一家殺害につながった可能性が大きい。TBSは何という失態を仕出かしたのか。それだけではない。オウムが抗議にきたことを、TBSが警察なり関係者なりに通報すれば、その後の松本サリン事件や地下鉄サリン事件は防げたはず。それをしなかったTBSの責任はきわめて重大だ」
 というような議論である。

 たとえば、産経新聞1996年4月10日付の朝刊「主張」(他紙の社説にあたる)は、
≪今回の問題では、(1)ビデオテープを見せた事実(2)オウム幹部来訪を公表または通報しなかったこと(3)放送中止がオウム側の圧力または双方の取引によるのではないかという疑い――が核心だ。(1)は坂本さん一家殺害につながった可能性が高いだけに重大である。(中略)(2)については、公表や通報があれば、一連の重大事件が防げたか、捜査の進展につながった可能性がある。(中略)(3)は事実だとすれば、報道機関の根幹を揺るがす不祥事といえる≫
 と書く。

 こういう発想を、被害者の遺族がするならばわかる。

 坂本弁護士の義父は、事件にかかわる損害賠償訴訟の第1回口頭弁論の後、記者会見の席上で「ビデオを見せたことを警察に知らせていれば、事件は6年もかけずにすんだし、地下鉄サリン事件もなかった」という趣旨の発言をしている。遺族のやりきれない気持ちがTBSにむけられたのは当然だろう。

 しかし、報道倫理や、報道における原理原則を論じようとするならば、この理屈はおかしい。

 坂本弁護士のビデオをオウム側に見せることによって、坂本弁護士一家が殺されたかもしれないから、見せたTBSは悪い(あるいはものすごく悪い)のではない。

 TBSは、ある人物を取材したVTRを、放送前に、その人物に無断で、放送関係者以外の人物(この場合は、被取材者と対立関係にある組織の関係者)に見せたから、悪いのだ。

 そこから先、TBSのスタッフのせいで坂本弁護士は殺されたかもしれないとか、TBSスタッフがこうしていればサリン事件は防げたかもしれないと、想像を膨《ふく》らませることは自由だが、そんなことには何の意味もない。

 「殺された原因かもしれない」という理由づけは、TBSに対してはそれこそ「殺し文句」になるが、問題の本質を見落とすことにつながりかねない危険な発想だ。

 因果関係をつきつめれば、坂本弁護士が殺されたのは、あるジャーナリストのせいといえるかもしれない。あるいは、テレビより前に坂本弁護士を登場させたラジオ局のせいかもしれない。だが、そんな因果論は無意味である。

 オウムがTBSに押しかけてきた1989年秋、彼らは表面的にはおかしな新興宗教の一派にすぎなかった。なぜ通報または公表しなかったか、という批判も結果論にすぎない。

 新聞であれ雑誌であれテレビであれ、報道機関が取材を通じて抗議を受けた場合、警察あるいは誰か他の関係者に、そのことを通報しなければならない義務など、ありえない。

 新聞で記事にしたり、テレビで放映するのが、報道機関の本来の仕事だ。取材の途中で誰かを怪しいと思おうが、執拗《しつよう》な抗議を受けようが、警察の手伝いをするのが報道機関の仕事なのではない。

 ただし今回、TBSはビデオを放映しておらず、本来の仕事をまっとうしていなかった。ならばせめて通報くらいという気持ちはわかる。しかしそれでも、通報しなかったからとスタッフを責めるわけにはいかないだろう。できるのは、記事にしなかったのは記者として不見識だとか、放送しなかったのは報道マンとして怠慢だったと責めることだけだ。

 怪しいと思いながら、政治家のスキャンダルを通報または公表せずに黙っていた番記者が、政治家が逮捕されたときに責任を取った例などないのだ。

 もし、通報しなかったではないかとTBSを責めることが許されるなら、マスコミは何をさておいても、坂本弁護士事件の捜査に失敗した神奈川県警を責めなければならない。こちらは、通報した、しないどころの話ではない。拉致殺人事件の現場に、オウムのプルシャ(バッジ)が落ちていたのを見逃したのだから。

 さらにマスコミは、松本サリン事件の見込み捜査失敗によって、地下鉄サリン事件を未然に防げなかった警察の大失態について、TBSの責任を追及するくらいの激しい調子で(その半分くらいでも十分だが)、責任を追及すべきだ。

 つまり、TBSを叩くことは、自らの報道を叩くことと同じなのだ。それに気がつかないTBS批判など、何の迫力もない。

 なんでもかんでもTBSが悪いと決めつけるのは、みんなが叩いているからこの際叩いておこうという、弱い者いじめにしか映らない。それは、わがマスコミの悪い癖である。

TBS問題を我が身に
引き寄せて語れ

 さて問題は、ある人物を取材したVTRを、放送前に、その人物に無断で、放送関係者以外の人物に見せるようなケースが、テレビの現場では起こりうるということである。

 NHKあたりでは相対的に起こりにくいと思うが、起こらないとは限らない。外部制作が多い民放では、十分起こりうる。どのテレビ局で起こっても不思議ではない。

 新聞各紙も指摘するように、
≪放送倫理の欠如≫≪放送人という前に、人間としてのモラルが問われている≫(日本経済新聞1996年4月4日付朝刊社説)
≪テレビ全社現場担当者及び会社首脳の驚くべき倫理違反と管理能力欠如≫(読売新聞1996年4月10日付朝刊社説)
≪テレビが経験も乏しく、教育や訓練も十分でない者によって運営されているお寒い現状≫(日本経済新聞1996年5月2日付朝刊社説)
 といった、テレビをつくる人、そしてテレビ制作者を取り巻く環境や、組織の問題が大きい。

 しかし、そんなテレビを毎日何千万人かが見て、その影響を受け続けていることも事実なのだ。

 どの新聞も、「未熟者たちのつくつているテレビにはまったく呆れる」という物言いばかりだが、そんなテレビのつくられ方、現場をリポートし、問題を提起し、テレビを励ますような記事が、もっとあってもよいはずではないか。

 テレビ局の社会情報や第二制作などと呼ばれるセクションにいくと、確かにテレビの現場はいい加減だと思うことが少なくない。

 朝や昼のワイドショーに集まる素材VTRは、1番組で何十本かになる。それを次から次へと編集し、送り出す準備をしなければならない。番組が始まれば、スタジオや生中継で何が起こるかわからない。

 そんなドタバタ作業で番組をつくるから、総合プロデューサーや番組プロデューサーが、責任者としてすべての映像をチェックすることはできない。

 「3時にあいましょう」の番組プロデューサーのように自分で取材に行くのは、取材が好きなタイプで、むしろ例外だ。

 もちろん、問題が起これば彼らが責任を負う。だが、この映像を出すか出さないかという判断を、誰にも相談せずぎりぎりのところで下すのが、30代前半の若手プロデューサー1人でも、不思議はないのだ。

 出してしまえば新聞沙汰の放送事故になるところ、寸前で止めたのが30歳そこそこの社員なんてことは、校正係やデスクや編集長が原稿に目を通す新聞や雑誌では、考えられない。

 その考えられないことを毎日やっているのが民放テレビだ。「テレビは未熟」の一言で片付けられるほど、問題は単純ではない。

 こうしたテレビ制作の問題は、「生」を送り出すとか、必ず「映像と音声」で送り出すという、テレビメディアの本質とかかわってくるからだ。

 TBS問題を報じる主要新聞に目を通したが、こうした問題をきちんと分析しょうとする記事があまりに少ない。「放送倫理」とか「管理能力」といった抽象的な言葉だけで問題を整理しようとする議論が多いのは残念だ。そういう抽象的な批判は、反論しようがなくその意味では正しいが、問題の解決につながらない。

 新聞の論調はカッコよすぎる、建前論ばかりだ、ということも気になった。

 ≪ビデオや取材メモを放映前に見せないことは、報道の鉄則だ。外部の無用の介入や圧力から、報道の自由を守るためだ≫(読売新聞1996年3月26日朝刊社説)
 というのはその通りなのだが、外部の無用の介入や圧力から報道の自由を守っていると本当に胸を張れる言論報道機関が、どの程度あるだろうか。

 テレビには、抗議による放送中止事件が過去に数え切れないほどある。中止を求めて圧力をかけてくるのは、与党野党を問わず政治家、官僚、役所、右翼、左翼、宗教団体、労働組合、市民団体、スポンサー企業とさまぎまだ。抗議が殺到することはわかっているから、そもそも誰一人として番組をつくろうとしないテーマなど、腐るほどある。

 「オウムの圧力を恐れて番組を中止したのはけしからん」と他局を攻撃できるほど、テレビ局は圧力に強くはない。

 また、新聞や雑誌でも、取材メモは見せないまでも、今度の記事はこんな具合になると発行前に取材相手に伝えるとか、相手の事情を慮《おもんぱか》りこれは書かないでおく、あるいは抑制して書く代わりに次回のインタビューに応じてもらうというのは、よくあることではないのか。

 どこの社とはいわないが、郵政省に対してテレビ免許がほしいと陳情を繰り返してきた新聞社が、郵政大臣のスキャンダルに触れた社説を書き、強い抗議、というより恫喝《どうかつ》を受けて、社説を差し替えた事件があった。ほかの新聞社だって、思い当たる節があるのではないか。

 雑誌では筆者は経験があるが、本になる前に校正刷り(ゲラ)を見せてくれと取材相手から要求されることは、別に珍しいことではない。

 ふつうは見せないが、見せることがインタビューに応じる条件ならば、その人物のコメント箇所だけを見せる。そして決して相手のいう通り直さないか、どうでもいいような箇所を気持ちだけ直す。その時、ゲラをファクシミリで相手に送るわけだが、編集者が気をきかせたつもりで、文章を全部送ってしまったことが何度かあった。すると、対立する人物がどんなことを話しているかが、一方の当事者だけに、雑誌の発行前に伝わってしまう。坂本弁護士のビデオをオウム幹部が放送前に見たようなケースが起こるのだ。

 だから、筆者には、TBSビデオ問題はとても他人事とは思えない。まともな取材をして、取材相手ともめた経験がある者なら、誰でもそう思うはずだ。もめた経験がないのなら、そもそもロクな取材をしたことがないか、肩書きを使ってしか取材をしたことがないかの、どちらかだろう。

 それなのになぜ、新聞や雑誌やTBS以外のテレビは、ああも他人事のようにTBSだけを批判できるのか、なんとも不思議でならない。

 マスコミは今回の出来事を、もっと我が身に引き寄せて考えてみたほうがよいのではないか。

テレビに
試行錯誤の時間を

 さて、TBS以外のテレビ各局は、それぞれTBSビデオ問題を「他山の石」とする動きを見せている。

 日本テレビは、「放送倫理委員会」萎員長・漆戸靖治専務)を開いて、ワイドショーのあり方などを検討する「情報番組倫理プロジェクト」の設置を決めた。同プロジェクトはすでに活動を始め、既存の報道ガイドラインのような「情報系番組ガイドライン」をまとめる。

 フジテレビは、TBSが坂本弁護士インタビューをオウム側に見せたことを認めた直後に、報道局員と報道系の外部スタッフ400人を集めてジャーナリズムにたずさわる者としての自覚を喚起する全体会議を開催した。続いて社会情報部でも140人を集めて同様の全体会議を開いた。「テレビジャーナリズムの在り方に関する研究会」萎員長・藤村邦苗副社長)でもこの問題を議論している。

 テレビ朝日は、取材VTRを外部の第三者に見せないなど報道の原則を確認する通達を社内や外部プロダクションに出した。また、TBSビデオ問題が起こった当時の自局番組の検証に着手した。

 このうち、テレビ朝日の1989年当時の番組検証は、他の局もぜひ行うべきだと思う。

 というのは、当時ワイドショーなどで、オウム真理教を取り上げた局が少なくないからである。そして、「サンデー毎日」連載記事の受け売りであったにせよ、当時、番組のバランスを取るためにオウム教に対する批判者まで取材したテレビ局は、いまのところTBSしか知られていないからだ。

 TBSは、オウムにビデオを見せ、放映はしなかったが、麻原だけを無批判に露出させた局と比べて、少なくとも取材だけは、頑張っていた可能性がある。そして他局は、オウムの思い通りの映像を流した恐れがある。だとすれば、オウムのマスコミ・コントロールは6年前から始まっていたことになる。そのことは、テレビ局が自己検証すべき問題だろう。

 各局が議論している大きなテーマに、ニュースとワイドショー、あるいは報道系と情報系番組の2つをどう整理するかという問題がある。報道局と社会情報局の確執がいわれてきたTBSでは、今後の方針として「報道の一元化」が掲げられた。だが、これも一朝一夕に整理がつく話ではない。

 最近のテレビでは、ニュースで「ワイドショー化」が起こり、ワイドショーで「ニュース化」が起こり、両者の相互乗り入れも起こっている。これは、視聴率至上主義や、ニュースをただおもしろくするためだけに、そうなっているのではない。

 社会情報セクションが独自取材によって、報道よりも、場合によっては警察よりも事実に肉薄することがある。つくば母子殺人事件や、オウム事件ではそんな場面が何度もあった。彼らは記者クラブ経由で情報を取らないから、そうなる。

 ワイドショーやレポーターだけが問題なのではなく、記者クラブに所属し夜討ち朝駆けする従来の報道手法もまた、問題なのだ。ここでも、テレビ報道を問うことは新聞報道を問うことになる。テレビがかかえる問題は、「ワイドショーなど止めてしまえ」の一言ではとても片付かない。長い試行錯誤が必要になるだろう。

 蛇足ながら、最後に付け加えるとすれば、いくら立派な「報道の原則」や「ガイドライン」をつくつても、結局は役に立たないだろう。現場のトラブルは、マニュアルを参照して解決できるほど単純ではない。それぞれの現場で、それぞれの人間が、TBSビデオ問題を自分の問題として受け止め、試行錯誤の中から、自分なりの解答(らしきもの)を導き出していくほかないように思われる。

 魔女狩りはもういい加減にして、そのための時間を、テレビにかかわる人びとに与えるべきではないだろうか。