メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

「番組終了」を決めるもの
――番組の
DNAだけは絶やすな…

≪リード≫
春と秋の番組改編期には、さまざまな番組が終わり、さまざまな番組が始まる。
放送局は、番組のどんな点に注目して、その終了や存続を決めるのだろうか。
番組終了を決定するものを探れば、番組にまつわるさまざまな問題が見えてくる。
(「GALAC」2002年12月号 特集「”番組終了”の研究」)

≪参考リンク≫
ザ・スクープ
「ザ・スクープ」存続を求める会
北の国から
知ってるつもり?!
THE夜もヒッパレ

「ザ・スクープ」終了発表で
存続を求める動きも

 この(2002年の)夏、いくつかの放送番組が終了する予定であると報じられた。

 2002年10月の番組改編で、テレビでは13年続いたテレビ朝日の調査・検証報道番組「ザ・スクープ」、9年間続いた日本テレビのカラオケふう歌番組「THE夜もヒッパレ」、ラジオでは45年続いたTBSの超長寿番組「秋山ちえ子の談話室」の終了が決定。フジテレビのドラマ「北の国から」も9月上旬2日間の放送が「最終回」とされ、これが見納め、見なくちゃ損とばかりに番組宣伝が始まった。

 とりわけ「ザ・スクープ」は、警察、検察、裁判所、政治家などタブー視される権力に斬り込む点で、ほかにほとんど例がない硬派番組。放送作家の石井彰が東京新聞への寄稿で打ち切り問題に火をつけ、メディア総研が継続を要望する声明を出したほか、番組と関わりのある弁護士、ジャーナリスト、出演者らを発起人とする「『ザ・スクープ』存続を求める会」が作られ、8月24日に緊急シンポジウムが開かれる盛り上がりを見せた。

 シンポジウムでは、「番組はひとり放送局のものではなく、市民のもの」「局はこのような良質な番組を終了させるべきではない」との意見が次つぎに出された。

 なによりもキャスターを務める鳥越俊太郎や番組スタッフが終了に異議を唱え、視聴者からも番組存続を求める声が殺到している。番組スタイルもあまり例がないが、その終了をめぐる議論も過去に例がない。

局にとって番組終了は
「触れられたくないこと」

 放送局は春と秋に番組改編をおこなう慣例で、年に2回、さまざまな番組が終了し、さまざまな番組がスタートする。2002年春の改編では、12年続いた日本テレビ「知ってるつもり?!」や20年続いたテレビ朝日「料理バンザイ!」などが終わっている。後者は、スポンサーだった雪印の不祥事が引き金となった。

 一方、改編期を待たずに、不祥事などで番組が突然終了するケースもよくある。最近の例ではTBS「筋肉番付」が収録時の事故を理由に終了。

 毎日放送の子どもむけ特撮「ウルトラマンコスモス」は、主演タレントが傷害と恐喝容疑で大阪府警に逮捕されいったん打ち切りを決定したが、障害は不起訴(誤認逮捕)、恐喝は起訴猶予(示談)となったため放映を再開。最終回「真の勇者」でシリーズを終了している。

 こうした番組終了にスポットを当てれば、その番組の意義や果たしてきた役割が明らかになるだけではなく、局編成の考え方、スポンサーの問題、視聴率の問題、制作手法やスタッフやコストといった番組づくりの問題などを浮き彫りにすることができるだろう。それが私たちの問題意識である。

 だが、番組終了について語る前に、放送局に苦言を呈しておきたい。

 テレビ局やラジオ局は、役所や企業や人を取材をする報道部門をもち、人にものをたずねることを商売の一部としているはずだが、その局が「番組終了の研究」という企画にはほとんど取材拒否だったのである。私は、これはいささか身勝手な態度だと思う。

 局名は伏せるが、「脚本家の××先生にとっては番組は終了していないから、取材は受けられない」「番組スタートの取材ならば歓迎だが、番組終了の取材は遠慮したい」「もう終わったことなので」などが取材拒否の理由である。

 堂々と取材に応じたのが、「番組を終了したのは何事だ」と批判されているテレビ朝日だけだったのは、なんとも皮肉な話だ。

 どうやら、放送局にとって番組の終了とは、番組がその役割を終えたり不祥事によって終わったという理由にかかわらず、とにかく「よくないこと」「触れられたくないこと」なのであるらしい。

 しかし、考えてもみてほしい。テレビ局はNHKも民放も、全局が「2011年に現在の地上テレビ放送の電波を止める」といっている。番組終了どころの騒ぎではない。あとたった9年で放送終了を目指しているのである(同時に新しい放送に移行するから、全国民は新しいテレビを買えといっている)。それでいて番組終了の取材は嫌がるというのは奇妙ではないか。

番組終了か存続か
決め手はやっぱり視聴率

 本題に戻ろう。ある番組を終了させるか存続させるかを局が決める最大の基準は何か。それは、不祥事を含む突発的な事情を除けば、いうまでもなく視聴率である。

 これは局の収入の大部分を広告費(CM)に依存し、その収入の多寡が主として視聴率によって決まってくる商業放送(民間放送)では、当たり前の話である。受信料で運営されるNHKはやや事情が異なり、視聴率とは無関係に公共放送として流すべき放送を流す場合があるが、それでも視聴率を大いに参考にしていることは変わりがない。

 よくテレビの「視聴率至上主義」や「その弊害」と誤解されるようだが、上のことは「視聴率至上主義」ではなく、商業放送と呼ばれる民放テレビの「原理」であって、是非をうんぬんする問題ではない。

 ところで、視聴率は高いに越したことはないが、必ずしもこの水準という明確な数字があるわけではない。それは、もちろん曜日や時間帯によっても違うし、局やスポンサーによっても大きく違ってくる。

 ただし、編成サイド、番組関係者、広告主などの間では、まずまずこの数字なら満足(逆に、この数字からかけ離れてきたら存続は危うい)という視聴率のおよその目安は、だいたい了解されていることが多い。筑紫哲也や田原総一朗がよく口にする「番組生存視聴率」がこれだ。

 この数字を低く設定しておけば――言い換えれば、低くてもこれでいいのだと各方面を説得できれば、視聴率の低迷を理由に番組が打ち切られる心配が少なくなる。

 「ザ・スクープ」の場合は、2年前に日曜7時台に進出したとき、この「番組生存視聴率」が高く設定されすぎてしまい、その時点ですでに存続の危機を迎えていたのだともいえそうである。

 もちろん「番組生存視聴率」はそもそもフィクションの数字であって、そのときどきの局首脳や編成の意向、局内の力関係などによっても大きく左右される。だから、「この時間帯にしては、視聴率が低いとはいえない」場合でも、番組終了はありうる。

 逆に、視聴率は低いが、局のイメージアップや、社会的使命のために番組を続けることもありうる。ただし、ある番組で採算を度外視すれば、その番組以外の番組の視聴率を当てにすることになるから、やはり視聴率は無視できないのだ。

 そして、最近の経済情勢やデジタル化投資の圧迫で、放送局に「視聴率率は低いが支える」という余裕がなくなってきたことは間違いない。局の上層部や編成サイドは、儲けが薄いと見られる番組の「生存視聴率」のかさ上げにかかっている。

番組終了で得意部門は
強くなる? 弱くなる?

 局編成というのは、各番組の編成全体を通して局全体のイメージづくりをするセクションで、ふつうの意味の現場ではない。現場がわかっている人間が責任ある立場に就くことが多いが、現場ではないからこそ、各現場の意向(当然、現在の番組を存続させたい)を抑えて、番組の入れ換えを図ることができる。

 春に「知ってるつもり?!」、この秋に「THE夜もヒッパレ」と、やや視聴率に陰りが出てきたとはいえ、続けるつもりならまだ余力は残していると思われる番組を終了させた日本テレビは、そのような編成の意向で新たなファミリーむけバラエティ番組への入れ換えを進めているように見える。視聴率トップ8年の余裕で、得意とする部門をより強くしようと先手先手を打っているわけだ。

 日テレと比べると、「ザ・スクープ」を終わらせたテレビ朝日の狙いは、いまひとつはっきりしない。朝日新聞から社長を迎え、「ニュースステーション」「サンプロ」の報道路線で一定の評価を得ているテレビ朝日にとって、「ザ・スクープ」は局全体のイメージをより高める貴重な財産の一つと思えるからだ。

 テレ朝の編成サイドは、報道に偏《かたよ》ったバランスを修正したい意向のようだが、それは得意とする部門や築き上げた局の個性を捨てることにつながる。バランスの修正が中途半端なものに終われば、捨てただけ損という結果になりかねない。私は、テレビ朝日は報道部門を立て直したほうが、局自身のためにも、テレビ全体のためにもよいと考えている。

 ただ、「ザ・スクープ」の存続を求める声には「テレ朝はけしからん」と一方的に断罪する言い方も目立ち、これはいかがなものかと思う。

 というのは、私はテレビ局はもっと個性的であるべきだと考えており、報道番組など一切流さないという局があってもよいと思うからだ。

 だが、テレビ朝日は、権力を恐れずに突っ込んでいく報道番組を実際に持っていた。権力とぶつかりそうな報道をハナから放棄しているたとえばNHKよりは、そのことは評価されてしかるべきだ。「テレ朝はけしからん」という人が、もっと軟弱な他局の報道姿勢を批判しないのであれば、それは片手落ちというべきだろう。

高視聴率番組でも
寿命が尽きれば終了

 ある番組を終了させるか存続させるかを局が決める第2の基準は何か。不祥事を含む突発的な事情を除けば、それは番組そのものの寿命、耐用年数である。

 フジテレビの「北の国から」は、 最終回「2002遺言・前編」が2002年9月6日に放映され視聴率(関東地区)は38.4%。同じく「2002遺言・後篇」が9月7日に放映されこちらは33.6%だった。同じ週のNHK「さくら」(7日)は25.6%、フジ「SMAP×SMAP」(2日)は23.1%、TBS「渡る世間は鬼ばかり」(5日)は22.7%だから、ダントツのトップ。

 これは年間でも、ワールド杯サッカーの主要戦とNHK「紅白歌合戦」の次に高い視聴率である。それでも、この「最終回」をもって終わるのだから、視聴率が番組終了の理由ではない。

 フジの杉田成道プロデューサーは、番組のホームページで、次のように語っている。

「スタッフチームの個人的な事情から、21年続いた『北の国から』は映像としては一旦中止します。メインのスタッフがほとんど定年を迎えてしまい、各セクションのスタッフはほとんど管理職になっているので、会社を休職して『北の国から』の撮影に入ってもらわなければならないからです。『北の国から』は、スタッフと出演者の家族的な雰囲気が織り成すものが重要で、スタッフが代ると番組の質が変わってきてしまうし、出演者からも抵抗が生まれると思います。何年か後、新しいスタッフでやるかもしれませんが、このスタッフでやるのは最後です」

 つまり、スタッフの高齢化や退職が番組終了の理由なのだ。

 TBSラジオ「秋山ちえ子の談話室」の秋山ちえ子も、終了を告げる記者会見でこう語っている。

「今年で放送45年目、しかも85歳。ちょうどいいじゃないの、と思い決心しました。(90歳まで続ける気はなかったか? の問いに)90で毎日調べたり書いたりってかわいそうじゃない?」

 ただし10月4日放送の最終回、なんと第1万2512回では、「親しい方に勧められて、88歳になるまでラジオに出演し続ける決心がつきました」といい、11月から3年間に限りTBSラジオで週1回出演するそうだから、相変わらず元気である。

 それでも、失礼ながらご本人の高齢が番組終了の理由であることは間違いないだろう。

 以上2つは、スタッフや出演者が高齢化するまで番組が続いた誠にめでたい例であるが、ふつうはそうなる前に視聴率が下がって番組は終了する。

 ドラマや情報バラエティはスタッフがどんどん入れ替わるが、視聴率は好調でもキャスターなど特定の人物に極端に依存している番組は、いずれ寿命を迎えてしまう。私は、報道番組にそんな番組が少なくないことに、大きな懸念を抱いている。

 不謹慎な話でたいへん恐縮だが、早い話、田原総一朗、筑紫哲也、久米宏が倒れたら、「朝まで生テレビ」「サンデープロジェクト」「ニュース23」「ニュースステーション」は番組を終了するほかないだろう。ところが、これらの番組が姿を消せば、テレビ全体の報道が明らかに一層弱まってしまう。

 田原総一朗は、私にこう語ったことがある。

「西行法師は、花の下にて春死なむとうたったが、僕はカメラの前で死にたいと思う。『朝まで生テレビ』の司会をしていて、ふと僕が静かになる。どうしたんだとみんなが見たら、田原は死んでいたというのが、僕の理想だ。もちろん討論は朝までやるんだよ」

 冗談ではなく、そのときの備えを、テレビ局は怠るべきではない。

不祥事の検証をせずに
番組を終了させるな

 ある番組を終了させるか存続させるかを局が決める第3の基準は、不祥事をはじめとする突発的な事故や事情の程度である。

 最近の典型例はTBSの「筋肉番付」だが、過去には、いわゆる「やらせ」などの不祥事によって終了した番組がいくつもある。

 だが、私は不祥事があれば、まず平身低頭謝罪を繰り返し、それでも世間が納得しないと見れば番組を終了させてしまうというやり方は、誠実なようで実は無責任な態度であると思う。

 「筋肉番付」は、競技内容やコースに危険な部分があった、ヘルメットやプロテクターを着用させなかった、医師や看護婦を待機させなかったなど確かに問題があった。しかし、そんなことは番組を存続させようが終了しようが、つねに起こりうるのだから、まずは番組の内部できちんと検証し、謝罪すべきである。

 たとえば検証のために2〜3か月休み、再開のときの冒頭15分で、映像を使って問題を検証し謝罪すれば、番組は続けてよいはずだ。プロデューサーが「やらせ」を指示していたなどは論外としても、不祥事があったら検証の前に番組そのもの終了させるのでは、不祥事をなかったことにするのと大差ないではないか。

 さて、最後に強調しておきたいのは次のようなことである。命に限りがあるように、いずれ番組は終了する。だが、番組を作るスタッフが、終了とともにいなくなるわけではない。鳥越俊太郎がいうように、つねに「番組のDNAは受け継がれる」のだ。肝心なのはそのDNAそのもので、つまりは人だ。

 テレビ局や制作会社を回ると、現場の「人」が疲弊しているのを感じる。番組終了に際しても、人というDNAを傷つけずに、新しい番組でいかに生かすかが極めて重要である。