メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

ローカル放送風土記1
「静岡」
東海道と太平洋が
育んだ”情報感度”

≪リード≫
放送は人がつくり、人は風土がつくる。放送は風土によって育《はぐく》まれるタイムテーブルの大部分がネットワークの全国番組で埋まっているテレビ放送といえど、その放送には、どこかしらその地方独特の肌合いが感じられる。自然が、街の風景がそうであるように、土地ごとに異なる色合いがある。衛星放送やCS放送の登場、マルチメディアや情報ハイウェー構想など、県域・県境とは無縁なニューメディアの話題ばかりが耳目《じもく》を引く昨今、かえって地上のラジオ・テレビ放送が持つローカル色が、新鮮な輝きを帯びて見える。日本各地の、人と風土が織りなすローカル放送を訪ね歩く「ローカル放送風土記」。第1回は静岡県の巻。

(「放送批評」1995年02月号)

静岡民放の創始者
大石光之助

 だれそれは「静岡」出身だと聞いて、どんなことを思い浮かべるだろう。たとえば、こうではないか。

 静岡は暖かく豊かで、とても住みやすい。九州で雪が降っても、静岡では決して降らない。産物は、お茶、温室メロン、ミカン、久能山の石垣イチゴ、浜名湖の鰻と、これは余裕だ。嗜好品や贅沢品が多く、食うために米を作るという切迫した感じがない。

 だから万事のんびりしていて、おっとりした人間が育つ。みんなお人好しで、他人を押し退《の》けてどうこうしようという者は少ない。ハングリー精神がないから、大人物や立志伝中の人物というのは育たない。が、まあ明るくて、たぶん悪い人間ではあるまい。

「それはそのとおりだが、静岡人のそんな性格の根底には、なにか激しいものが流れているのではないかという気もする」
 と語るのは、静岡を代表する老舗民放、静岡放送(SBS)常務の深澤渉である。

「SBSの創立者、大石光之助がそういう人だった。おっとり型ではなく、厳しくて、激しい人でね。働け働けというワンマンだったが、義理人情に厚く、涙脆い一面もあった。古くは由比正雪や清水次郎長、近くは本田宗一郎と、静岡にも激しい人物が生まれているんですよ」

 大石光之助は、徳富蘇峰の門下生で、後に静岡民友新聞の社長となる。昭和16年、一県一紙の新聞統合によって静岡新聞が発足すると社長に就任。昭和27年にラジオからスタートした静岡放送は、この静岡新聞によって設立された。初代社長は光之助。現会長(静岡新聞社長)・大石益光はその子息で、昭和36年から63年まで社長だった。現社長の松井純は、益光の義弟に当たる。

 光之助という人は、アメリカに留学した合理主義者で、とりわけ節約精神が徹底していたそうだ。紙や鉛筆を倹約するのはもちろんだが、一人で三役や五役を兼ねるという人間の節約も推進。静岡放送が県下で初めて民間テレビ放送を流した昭和33年以降も、一人でプランナー・ディレクター・アナウンサーまでこなすことが日常茶飯事だった。28年入社の深澤渉にもそんな経験がある。

 ある幹部は懐かしそうに回顧する。
「いまでこそ、どの企業も地球環境のために使用済コピー紙をリサイクルなんていってますが、SBSでは、テレビ台本やニュース原稿をいらない紙の裏に書いてた。真っ白い紙に印刷されたTBS(SBSはJNN系列)の台本が羨ましかったですよ。あんまりだというので原稿用紙を作ってもらったのが昭和50年代だったかな。いまでも、ボールペンをもらいにいくと、インクがなくなったペンと交換に、替芯だけをくれる。この節約精神は、たしかに静岡放送の伝統、社風といっていいでしょう」

 口の悪い人は「裏紙でビルを立てた」「裏紙で放送が持てた」といったとか。だが、大石光之助の偉いところは、一方でケチケチ精神を発揮しながら、人や機材、新事業に対する投資に積極的だったことだろう。このやり方は大石益光にも受け継がれた。

 静岡放送には「ローカル民放で初めて」という枕詞のつく話が多いのが、その証拠だ。

 たとえば、親局である日本平送信所の完全無人化、世界初のVTRアンペックス1000の導入、コンピュータのプログラム内部記憶方式による自動番組送出システムの導入などがそうだ。中でも全国民放の手本となったのが、夕方のローカルワイドニュース番組である。

県民性が育てた
「SBSテレビ夕刊」

  昭和46年10月に始まり、現在でも静岡放送の目玉となっている番組に「SBSテレビ夕刊」がある。

 深澤渉は当時、報道制作局長で、この番組を育ての親のひとり。スタッフは、制作チーフだった福田達郎(現・報道制作局長)、石垣祐市(報道部長などをへて現在は嘱託)をはじめ、「古い連中はすべて」(深澤)番組づくりにかかわっていた。

 昭和40年代半ばといえば、高度成長もピークを迎え、公害など成長にともなう歪みが一気に社会問題化した時期。静岡では、田子の浦にヘドロが溜まり、抗議の海上デモが繰り広げられ、製紙会社の排煙による大気汚染も深刻だった。

 SBSの報道制作現場では、「5分間の定時ニュースでは処理できない。現象を追うだけでなく社会に問題提起していく番組が必要では」という声が高まる。これに営業サイドは猛反対。新番組に当てられる枠は夕方しかなかったが、夕方はアニメでそこそこ稼げる、制作費をかけてまで危ない橋を渡る必要がどこにあるというわけだ。この対立をじっと見ていた大石社長が決断を下し、番組はスタートした。

 蓋《ふた》を開ければこれが大当たり。レポーターの若林みどり(現在は退社して主婦)は静岡のアイドルとなり、県内どこへいっても人垣で取材にならないほどだった。当時の視聴率は平均20%。現在でも16〜17%の視聴率を稼いでいる。

 この番組は、さまざまな社会事象を取り上げ、原因を追及し、問題提起するという深みのある放送ジャーナリズムを目指した。報道制作部門は、この番組で足腰――企画力、取材力、制作力などが鍛えられたわけで、それが今日の静岡放送の大きな資産となり、強みとなっている。

「テレビ夕刊では、公害、福祉、教育、交通問題、防災など、さまざまなテーマでキャンペーンを打った。こうした番組が受け入れられ、定着していったのは、静岡県人のいいところ――いい意味でのお人好しというか“善良性”に、働きかけることができたという背景もあるのでは」
 と深澤渉はいう。

 たしかに静岡人には、そういうものをスッと受け入れ、問題は素直に問題だと思う、弱者には素直に同情するというところがある。制作する側も変にひねったりせず、正面から問題を取り上げる。見るほうも作るほうも、マジメで親切なのだ。冒頭に書いたような静岡の県民性が「SBSテレビ夕刊」を育てたともいえそうである。

「SBSテレビ夕刊で培った制作・報道重視の姿勢は、地域に密着したドキュメンタリーづくりに生かされている。夕刊と並んで看板番組となっている『ふるさとシリーズ』がそれです」
 というのは、報道制作局制作部長の土方康太郎。

 同シリーズは、昭和56年の「ふるさと三国史」に始まり、「富士山」「ふるさと山河誌」「湖畔誌」「伊豆半島誌」「家康人間学」「ふるさと人物誌」「港物語」「宿場物語」「城物語」と続く一連のドキュメンタリーだ。平成6年(1994年)に放映したのは「もっと知りたい! 東海道」で、12月からは「狩野川紀行」がスタートする。変化に富んだ自然に恵まれ、歴史的・文化的にも豊かな風土ならではの番組だ。

 また、毎月第四火曜のゴールデンに「静岡発! そこが知りたい」を放送中。こちらは社会問題から趣味、娯楽、グルメまで広いテーマを取り上げた情報娯楽番組である。

 こうした番組や、単発のスペシャル・ドキュメンタリー、ラジオのドキュメンタリーやキャンペーンには、民放連盟賞やギャラクシー賞を受けた番組も少なくない。

ローカルにも海外にも
興味津津

 ところで静岡のテレビには、地域密着と同時に、一見すると方向は正反対の、世界に打って出る姿勢があるようだ。

 静岡県は1982年に中国の浙江省と友好提携したが、その3年後、静岡放送界も浙江省広播電視庁と友好提携関係を結んだ。この年には、おそらく全国でも例がない試みと思われるが、NHKと静岡民放が組織した県放送代表団が訪中、「二〇〇一年への道〜いま中国浙江省は」という1時間番組を制作している。これを民放4社が共同セールスして、同時に放送したのである。

 静岡放送は、放送友好提携10周年の1995年に、「浙江賛歌」(仮タイトル)という13回シリーズのルポ番組放映を企画している。 こうしたローカルと海外との結びつきは、静岡という風土と関係しているのかどうか。

 東西に広がる静岡県は、かつての遠江、駿河、伊豆三国のほぼ全域に当たる。東海道五十三次のうち実に半分近い22の宿駅が県内にある。つまり、東と西を結ぶ回廊という性格の強い土地だ。東海道を昔から人が往来していたから、このあたりの人は開放的な性格になっていった。同時に人と情報に対する感受性も増した。とりあえず、そんな説明がつきそうだ。

 静岡放送の制作部副部長・小松正治は、こういう。
「行き来する人をいちいち詮索していられないから、静岡県人はオープンになっていったのでしょう。それに目の前は太平洋。内にこもらず外へ出ていこうという気持ちがある。大石オーナーも地域に根差す一方で、世界へ打って出るという考えです。だから、うちはローカル局でいながら海外取材が多い。制作で海外に行っていないというのは、入社1〜2年の連中を除けばいない。静岡のメロンが日本一という話題を追い、メロンのルーツを求めてイギリスに取材したり。浙江賛歌も同じですよ」

 そういえば、江戸時代の初めシャム(現在のタイ)に渡って日本人町の長となり、国王の信任を得て最高の官位まで授けられた山田長政は、もと沼津領主の駕籠《かご》かきをしていたという。静岡の人というのは海外へ出たがりで、現地でもすぐに解け込めてしまうのかもしれない。

 いずれにせよ、地元に密着しながらも、常に世界を見るという行き方は、ローカル局のひとつの理想型といえるだろう。

 両者は、右と左と正反対の方向をむいているように見えるが、実はその先でグルッと回って同じ地点に行き着くのではないか。地元のこと、あるいはナショナルなものは、本当は世界に行ってみなければわからない。逆に、何がインターナショナルであるかは、地域に根差しているからこそわかる。静岡放送を取材して、そんな気がした。

サッカー王国にした
後発局のがんばり

 静岡で2番目の民放テレビは、昭和43年(1968年)に放送を開始したFNN系のテレビ静岡である。ついで、53年にANN系の静岡県民放送(平成5年に静岡朝日テレビへ社名変更)、翌年にNNN系の静岡第一テレビがスタートしている。

 競争相手がNHKしかないころ、静岡放送には在京キー4局と大阪の人気番組が目白押しで、視聴率80%とか70%の番組が珍しくなかった。それが10年続いたところへ、U局で、コンバータを売ることから始めたテレビ静岡の苦労は並大抵のものではなかった。

 大阪朝日放送から開局時に静岡県民放送に移り制作畑を歩いた中島昭彦(現・朝日メディアブレーン社長)は、後発局の作戦をこう解説する。

「静岡放送には他系列の人気番組が残っている。しかも、テレビ、ラジオ、新聞――それも全国紙が束になってかなわない70万部、静岡市内の普及率90%という最強の郷土紙――のメディア・ミックス。つまり、陸海空三軍に陸軍だけで突っ込むわけだから、正面作戦では勝てない。しかし相手にも弱点がある。やわらかい単発番組はそう得意ではなさそうだ。ドキュメンタリーも手堅い正統派路線だから、切り口や見せ方を開拓する余地がある。こうして後発局は、静岡放送にない番組で挑戦していった」

 テレビ静岡は、角田裕勝取締役編成局長が制作部長当時、少年のど自慢の「一番星みつけた」、テレビ講演の「テレビ寺子屋」といった番組を開発している。寺小屋はいまも続く長寿番組である。現・富士ビデオワーク常務の田島良郎も優れたドキュメンタリーをつくった。

 二番手からさらに10年遅れて参入した静岡県民放送は、高校野球に目を着けた。静岡は気候がよく豊かなせいだろう、昔からスポーツが盛んで野球も強い。各局の関心も高く、一時は高校野球の県大会(甲子園の予選)をNHKを含めて4局が実況中継するという戦国時代もあったという。これは、いまでは静岡朝日テレビが独占している。

 野球と並ぶ看板番組は、土曜日のモーニングワイド「おはよう! しずおか」で、制作部副部長の渡辺一史が頑張る。また、報道では池田恵一・報道部統括副部長が、中国浙江省との友好10周年の衛星生中継によるテレビブリッジで気を吐く。

 4番目の静岡第一は、情報バラエティ路線で、ここは夕方のワイドニュースを除くとローカル番組は少ない。もっとも、系列の「ズームイン!!朝!」に毎週3回くらい生中継が入り、ローカル情報を発信している。また、高校サッカーや少年サッカーにも力を入れている。

 各局それぞれ手がけていて、いかにも静岡らしい番組というと、いまはサッカーということになる。盛んなのは高校サッカーだけではなく、中学一年生だけの大会とか、県東部だけの大会、さまざまなスポンサーの冠がついた大会(たとえばヤオハンカップ争奪)が乱立している。乱立し始めたのは昭和50年代の後半からと早い。

 組織らしい組織がなくスポンサーの制約もない、試合時間が一定、雨でも中止にならないといった理由で、少年野球より少年サッカーのほうが番組にしやすい。子供たちも、テレビに出れるのはこっちだと、野球からサッカーに移行してくる。サッカー少年が増えれば大会も増える。

 こうして静岡はサッカー王国になったそうだ。つまり静岡民放、とくに後発局は、静岡サッカーの育ての親ということになる。風土は人を育て、人は放送を育てるが、逆のケースもたまにはあるらしい。

 さて、今回の取材では、ローカル局の課題についてもいろいろと考えさせられた。

 たとえば、静岡放送以外の3局では、社長が東京キー局からやってくることがほぼ不文律となっているようだ。静岡県民放送が静岡朝日テレビと名称を変えたことも、系列化が進んだ表れだろう。”星の時代”への対応も必要だが、やりすぎればローカル局の士気にも響きかねない。自社の周年記念番組を外注に出す局があるとも聞いた。ソフト制作力の向上も大きな課題だ。

 しかし、ローカル放送と風土の強い結びつきを再確認することこそ、こうした課題の解決につながるはずだと思う。その結びつきの中に、東京の放送を見ているだけでは決してわからない放送の行き方、新しい可能性が見つかるのではないだろうか。(敬称略)