二十世紀は戦争の世紀であるとともに、メディアの世紀でもあった。そして今世紀もそれは変わらない。放送、とくにテレビが伝える「戦争」とは、真の意味で報道といえるのか。テレビの特性ゆえに陥る”落とし穴”を検証し、戦争報道の問題点をえぐる。
(「GALAC」2002年9月号 総力特集「戦争と放送」)
●総力特集 戦争と放送 ≪目次≫ 特別座談会「21世紀の戦争と放送を考える」 一触即発!! 世界の紛争ミニMAP 小林潤一郎 テレビ10の陥穽 ラジオは太平洋戦争をどう伝えたか 竹山昭子 |
戦争報道がはまりやすい陥穽《かんせい》のひとつは、それがステレオタイプ――つまり紋切り型、決まりきって変わりばえのしない表現や様式による報道になりがちということだ。
2001年の「9・11アタック」でいえば、まず外国放送局から中継が入り、これを繰り返し流す。そのうち現地スタッフや専門家の解説を流す。どの局も大同小異といえばいえる。
アフガン空爆のときには、アメリカはじめ各国の動向を伝える。空爆は必至だが、いつどのようにという点がわからないから、座談会形式やゲストに呼ぶ形式で、専門家に聞く。中東やアフガンに詳しい専門家や軍事評論家の数はたいへん少ないから、どの局も同じような顔ぶれとなる。予想される攻撃や使われる兵器の解説は、資料映像として配布されたものだから、これも同じ。戦争が始まれば、最初のうちは米軍の検閲済み映像か外国通信社の流す映像ばかりだから、これも同じだ。
放送局が「大本営発表」の垂れ流しでなく独自の報道をする意義は、アメリカ発であれ日本発であれ国家権力の発現である大本営発表そのものを監視しチェックするとともに、視聴者の参考になる多様なものの見方を提示することにある。だから、できる限りステレオタイプに陥らない報道を心がけることは当然だ。
そのためには、どうすればよいのか。
第1に、米軍であれ多国籍軍であれ自衛隊であれ軍隊の公式発表、およびそれを受けておこなわれる政府発表は、もともと当事者たちに都合のよいことしか含まれていない操作された情報であるという前提で、報道すべきである。トマホークを何発打ち込んで何発当たったなどは確認のしようがないのだから、「確かな事実」として報じてはならない。あくまで「軍や政府の発表」として報じるほかはない。
第2に、そのような軍や政府の発表を垂れ流しにせず、必ず補完し、場合によっては疑問や反論を含む「異なる見方」を付け加えなければならない。問題はそれが、いつも政府発表を機械的に記事にしているような記者や、大局観ゼロのオタク的軍事評論家などには、ハナから期待できないことである。軍や政府の立場を越えて独自の広い視野を持つジャーナリストやアナリストを、日頃から養成するなり、協力を得るなりすべきだろう。
第3に、独自取材をすべきである。軍や政府から情報をもらってももちろんかまわないが、それとは別に独自の取材ルートを使い、独自の映像やレポートをもっていなくては話にならない。通信社やフリージャーナリストの力を借りることも必要だろう。資料映像の類も、ヒマなとき独自の切り口で取材しておく必要がある。
ようするに、ステレオタイプ報道に陥らないためには、報道する者の「頭と身体」が鋳型《いがた》で造られていてはダメなのだ。言い換えれば、大本営とも同業他社とも異なる独自の立場に立たなければならない。公式発表さえ流せば「客観報道」だから、それでいいのだなどと考える記者は、存在理由がない。
ステレオタイプから脱するには、「主観報道」を貫く以外に道はない。
戦争報道は、官製報道――使い古された言葉でいえば「大本営発表報道」になりがちだ。その官製報道は、イコール管制報道(コントロールされた報道)だ。これは当たり前といえばまったく当たり前のことである。
というのは、戦争はふつう国家の正規軍、日本でいえば自衛隊が当事者であって、その戦争行動は「戦いに勝つこと」が目的である以上、当然ある程度秘密にされる。軍なり政府なりが「これは出してもよい」と判断した操作された情報しか発表されない。主催者側発表には、つねに主催者の意図が入り込むのだ。
そして、現代の戦争は絶対報復されない遠方からまずミサイルを撃ち込み、対空・防空システムを破壊する。その後に、航空機で地上陣地その他への爆撃を繰り返す。こうしておいて初めて陸上部隊を投入するというスタイルをとる。湾岸戦争もアフガン空爆もそうだった。
ここまでの過程は、報道する者が戦場によほど近づいたとしても、ミサイルが発射されるや航空機が空母から飛び立つシーン、あるいは絶対爆撃されないとわかっている場所からの空爆シーンなどでしか、とらえられない。
あとは、現に空爆している航空機が搭載するカメラから撮った映像や、空爆後に偵察機その他が戦果を確認するために撮った映像(むろんハズレは除外される)を、軍からもらうくらいしかできない。つまり、第二次大戦やベトナム戦争の地上戦のように、従軍記者が戦車のすぐあとについて報道するといったことが、そもそも不可能なのである。
こうして戦争報道には、コンピュータ・ゲームの命中シーン再現まがいの、ミサイル攻撃成功や空爆成功映像があふれることになる。
例外は、バクダッド空襲のときのCNNのように空爆をされる「敵地」から報道する場合だが、これとても当該国の情報操作を免れることはできず、むこう側の「大本営報道」になってしまう可能性がある。
アフガン報道でいえば、アメリカ側提供の映像にはウソが混じっているが、アルジャジーラの映像にもアフガン「大本営発表」が混じっていることは常識だろう。湾岸戦争のとき、イラク側の映像はウソばっかりだった。
だから放送局の流す報道が、官製報道にならないためには、部分的な素材として官製映像や官製発表を使わざるをえないとしても、それだけで報道を終わらせずに、民製報道をつけくわえてバランスをとるしかない。
それには、独自取材による独自報道を流す、軍や政府の動きを監視しチェックできる人物による解説報道をつける、といった当たり前の地道な手段を講じるしかない。戦争報道においても、いや、戦争報道においてこそ、メディアは権力の番犬《ウォッチ・ドッグ》とならねばならない。
また、報道はニュース(news)や新聞というくらいで現に起こっている、あるいは起こった直後のことを主に伝えるが、私はその時点から離れ、改めてする調査報道がたいへん重要であると思う。使える素材も限られる事件の最中では決してできない「官製報道の検証報道」が、もっと必要ではないか。
テレビは――とりわけ「商業放送」である民間放送の場合は、一定程度以上の視聴率を獲得することが極めて重要だ。商業放送は、何もボランティアではなく利潤を追求する商売だから、これはまったく当たり前の話である。
視聴率は、民放の収益源である広告費の金額を決める事実上、唯一最大の指標だ。それを高くしようとするのは、トヨタやソニーが自社製品をより多く売ろうとする、あるいは近所の八百屋や魚屋が野菜や魚をより多く売ろうとするのと同じで、当たり前田のクラツカーなのだ。
この意味で「視聴率至上主義 」という言葉を使うのならば、それは民放テレビの根本原則であり、何ら非難されるべき筋合いなどない。
視聴率を取ることができないつくり手は、テレビでは基本的にダメなつくり手だし、まったく視聴率を取ることができないダメ番組が打ち切られるのも当然だ。これが商業放送の大原則である。
ところが、以上が「テレビの大原則である」ということと、「すべての番組は、視聴率を高くすることだけを至上の目的にしなければならない」ということは、実は全然別の話である。
ここが肝心なのであって、「視聴率至上主義」という言葉を後者の意味で使うのならば、それは明白な誤りだ。筆者の見るところ、この2つをゴッチャにして、「テレビは視聴率を取らなければダメ」とだけ思うテレビ人間と、「テレビは視聴率を取ることしか考えないからダメ」と思う非テレビ人間が多すぎる!! だから話が混乱し、ワケがわからなくなってしまう。
利潤を追求する商業放送にも、「社会的責任」というものがある。トヨタにもそれはあるが、人びとの共有財産である電波を借りて独占的な商売をし、しかもその生産物がダイレクトに人びとに届くテレビやラジオの社会的な責任は、ある意味でトヨタやソニーのそれとは比べものにならないほど大きい。
その責任は、ジャーナリズムや言論報道と呼ばれる部門で果たされることが多い。そして、その責任は、視聴率至上主義という大原則を曲げても、果たされなければならない場合があるのだ。それが放送という商売である。
戦争報道は、国、民族、宗派などがその全存在をかけて戦う重大事件の報道だから、些細な街の話題を報じる場合とは比べものにならないほど、社会的責任が問われる。
視聴率が取れなくても、丹念で地道な報道を続ける。視聴率の割にはカネがかかっても、大規模な取材体制を組む。期待される視聴率より伝わる内容を重視して、出演者を人選する。視聴率が取れそうな刺激的・感情的な演出は抑えて、事実を淡々と報じる。客引きのためだけのセンセーショナルな見出しは、事実をゆがめる場合があるから避ける。――戦争報道では、以上のようなことが、つねに配慮されるべきだ。
視聴率を無視しろとはいわない。視聴率を高くする仕掛けは当然だが、それを至上の命題とするな、その仕掛けで報道を弱めるなといいたい。わかりやすく的確な戦争報道ならば、素材のインパクトはものすごいから、視聴率は必ずついてくる。