朝日新聞社アエラムック「……がわかる。」シリーズの「マスコミ学」編から。大学を選ぶ高校生〜就職を考える大学生むけの入門書です。
(AERA Mook「新マスコミ学がわかる。」2001年11月)
●新マスコミ学がわかる。≪目次から≫ 新マスコミ学への誘い 服部孝章○ マスコミ就職 篠田博之 ジャーナリストの職能運動 桂 敬一 マスコミ報道の課題 新聞・報道 出版 放送 広告 ※筆者に放送批評懇談会会員(○印)が多いので、会のPRがてら目次を紹介しておきます。 |
「政治とテレビ」の関係を語るうえで欠かせない事件を、まず紹介しましょう。
それは1972年6月の佐藤栄作首相(当時)の退陣記者会見。佐藤は冒頭「テレビは真実を伝えてくれるので、私は直接テレビから国民の皆さんにご挨拶する。テレビはどこだ? 偏向的新聞は大嫌いだ」と発言し、怒った官邸クラブの新聞記者たちは一斉に退席。佐藤栄作は空っぼの会見場で、NHKのテレビカメラにむかってしやべり続けたのでした。
この象徴的なエピソードは、次の3つのことを示しています。
第1に、テレビは政治家の言葉を「ナマでダイレクトに」視聴者に伝えることができる。第2に、だからこそ政治家はテレビを「新聞よりも役に立つ」と考えている。第3に、にもかかわらずテレビは政治家の「言葉以外の全状況」を視聴者に伝えてしまう。
テレビ報道の特性は、新聞報道と比べるとハッキリします。政治面を見ればわかるように、新聞は政治家の発言をそのまま羅列はせず、記者が重要と考える部分だけを「 」でくくって引用し、前後に背景や解説、論評をつけます。
もちろん、テレビも映像を編集して発言の一部だけを紹介したり、前後に記者やコメンテーターの解説や論評をつけることはありますが、1分なら1分の発言部分は政治家の語りそのもの。新聞が趣旨だけを「 」に要約して伝える発言とは、質的にまったく異なります。
また、新聞の「 」は言葉だけですが、テレビは言葉と同時に、顔の表情、服装の様子、周囲の状況などを、すべて同時に伝えます。
佐藤栄作の例でいえば、憮然《ぶぜん》として記者たちの退席を見送り、ひとりぼっちで空《むな》しく語る状況が全体として映し出され、言葉では伝えにくい孤立無援の様子や傲慢《ごうまん》な態度が、すべて伝わってしまうのです。
ただし、NHKのカメラは引いて(ワイドで)撮るとまずいと思ったらしく、佐藤の顔のアップ映像に終始しました。それでも、NHKには「お前のところは佐藤の御用放送か」「すぐ切れ」という抗議電話が殺到しました。
以上については、30年後の今日でもまったく変わっていません。
それどころか、このようなテレビの特質は、テレビの普及拡大、ENG(エレクトリック・ニューズ・ギャザリング)をはじめとする中継技術の進歩、多メディア・ 多チャンネル化の進展などによって、ますます巨大なメリットになりました。
着実に進む活字離れや新聞離れとあいまって、報道におけるテレビの役割は、かつてないほど大きくなっています。30年前の佐藤栄作の記者会見あたりを境に、政治報道における新聞とテレビのウェイトに変化が起こりはじめ、現在ではテレビのほうが桁《ケタ》違いの影響力をもつに至っています。
佐藤栄作がそうだったように、政治家はテレビの特質を明確に理解し、つねにテレビを最大限に利用することを念頭に置いて行動します。月曜朝刊の新聞政治面が、ほとんど「××日のテレビ番組によれば……」というテレビの後追いばかりなのは、政治家が、重要な問題はテレビを使って国民・視聴者に直接話したいと考えているからです。
2001年の小泉純一郎首相の靖国参拝問題にせよ、アメリカの同時多発テロにせよ、政治的な問題をテレビが報道するとき、テレビの映像がつねに政治性を帯びることは、いうまでもありません。
一見政治とは関係なさそうな、たとえば「××博覧会開催」や「××トンネル開通式」報道でも、それを地元に誘致した政治家にとっては政治性を帯びます。番組の時間が長ければ長いほど、テープカットする自分の姿がアップで映れば映るほど、有効な政治宣伝になるわけです。
日曜昼のNHK「のど自慢」も、地元議員が誘致し「オレが呼んだ」と政治宣伝に利用するケースがよくあり、「知られざる政治番組」といえます。
ですから、テレビにとつてもっとも重要なことは、テレビを利用したがっている政治家を画面に出しながら、しかも彼らに一方的に利用されずに、報道機関として伝えるべきことをきちんと伝えること。また、政治家が画面に出ない場合でも、彼らに一方的に利用されないようにバランスをとり、報道機関として伝えるべきことを伝えることでしょう。
しかし、この点で日本のテレビは、きわめて深刻な問題を抱えています。最大の問題は法制度や社会的な構造上、テレビが政治に非常に弱いことです。
まず、娯楽以外の報道にもっともカを入れているテレビ局は、日本放送協会という特殊法人で、放送法によってこと細かな規制を受けています。NHKのトップ人事は政府や国会の意向に逆らえませんし、毎年の予算も国会で承認を受ける必要があり、時の政府与党を批判しにくい。というより、まったく腰くだけ状態です。
民放も免許事業として政府の影響力を強く受け、民放キー5局はすべて旧郵政省(現・総務省)官僚の天下りを役員クラスに受け入れています。旧郵政族の有力議員は官僚をコントロールし、「行政指導」の名目で官僚がテレビ局社長を呼びつけることが、つねに可能な構造なのです。
1960年〜70年代に頻発《ひんぱつ》した政治的な圧力による放送中止事件のような露骨な事例は減ったものの、「この問題は政治家を刺激しそうだから、やめておこう」というテレビ側の自主規制はかえって増加しています。
1999年のテレビ朝日のダイオキシン報道、青少年問題におけるテレビ元凶論など、政治家や官僚が一体となってテレビを批判し、圧力をかける事件も頻発しています。
テレビは、つねに政治家や官僚など「お上」の顔色をうかがいながら報道している、とても脆弱なメディアなのです。
たとえば政治家は「ナマでダイレクトに話したい。そんな番組なら出る」といいます。そのような政治家をスタジオに呼び、好き放題に語らせないためには、ナマでダイレクトに政治家とわたり合える司会者やインタビュアーが必要になります。
しかし、それができる人は全局を見わたしてもせいぜい十数人で、ほとんどがテレビ局の社員ではありません。そして、それができる番組の数も1ケタ、いや、3つ4つしかないのが、日本のテレビの現状です。
呼んだ政治家にただ相づちを打っているだけのテレビは、いかに「客観」報道などと弁解しようとも、ただ政治家に寄り添って利用されているだけの存在です。テレビ映像はほとんど政治性を帯びるのですから、一方的に利用されないためには、テレビ局側に確固とした「主観」が必要なのです。
政治家はテレビを利用したい。国民もテレビから情報を得たい。しかも、肝心のテレビは政治的な圧力に弱い。これは日本のメディアにとって、きわめて不幸な状況です。報道部門を立て直さなければテレビに未来はない、とさえいえると私は思います。
≪Column 社会を動かしたメディア≫ 映画など足元にも及ばない迫力だった。 2001年9月11日夜(日本時間)アメリカで起こった同時多発テロは、「テレビの力」をかつてない衝撃をもってまざまざと見せつけた。 世界貿易センタービルに航空機が突入し、巨大ツインビルが相次いで崩壊する瞬間は、日本でも生中継された。 テレビは数千人以上が死ぬ瞬間を、全世界にリアルタイムで伝えたのである。 何百万何千万の人びとを夜中や明け方まで釘付けにする力は、テレビ以外のメディアにはなく、テレビの中でも報道部門以外にはない。 だからこそ、テレビ報道の立て直しが急務なのだ。 |