≪リード≫ ≪参考 特集「テレビの“突破者”《とっぱもん》たち!」の目次≫ (「GALAC」2003年04月号 特集「テレビの“突破者”《とっぱもん》たち!」) ≪参考リンク≫ |
テレビは1953年に始まったが、初期の番組は力道山・木村政彦がシャープ兄弟と闘ったプロレスの映像(新橋駅前の街頭テレビに2万人)が象徴するように、テレビが独自にオリジナル娯楽を開発する段階にはなかった。
「テレビ娯楽」と呼べる番組開発が本格化するのは、ようやく60年代に入ってから。61年にはNHK「夢であいましょう」日本テレビ「シャボン玉ホリデー」など、テレビならではのバラエティショーが始まっている。
テレビオリジナルの番組開発で昭和30年代に大人気を集めたジャンルに、大阪発の公開コメディがある。毎日放送「番頭はんと丁稚どん」、読売テレビ「とんま天狗」「天外の親バカ子バカ」、朝日放送「やりくりアパート」といった一連の番組がそれだ。
上方喜劇や漫才の「舞台」を土台に、時事ネタを積極的にはさみ込み、一般の観客の生の声や反応を交えることで、庶民に身近なわかりやすい笑いの世界を構築する。大阪だけではなく東西の喜劇人や売り出し中の歌手をゲストに呼ぶなどしてバラエティ性を深め、巧みなカット割りやアップの多用で、単なる舞台中継にとどまらない「テレビ的」な表現を追求する。
そんな公開コメディの完成型とも決定版ともいうべき番組が、1962年(昭和37年)に朝日放送で始まった「てなもんや三度笠」(TBS系列で日曜夕6時から全国放送)である。演出は、今では関西お笑いのドンの一人、澤田隆治。濃密なギャグにミュージカルのモダン性あふれる脚本を書いたのは、漫才の台本作家だった香川登枝緒である。
番組は、あんかけの時次郎こと藤田まことと小坊主の珍念こと白木みのるコンビの珍道中を描く。モデルは米映画「アラスカ珍道中」。
番組の冒頭で小コントのあとに藤田が決めるCMのセリフ「オレがこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!」は流行語にもなった。「……チョーダイッ」「ヒジョーニ、キビシーッ」と奇声を発する浪人の財津一郎、名古屋弁のねずみ小僧の南利明らも人気を博した。
番組は1968年3月まで6年弱、計309回続き、平均視聴率は関西地区で実に37・5%、関東地区でも26・6%を記録。最高視聴率は関西で64・8%(66年2月20日)、関東でも42・9%に達している。
この驚異的な視聴率は「てなもんや三度笠」が大阪発公開コメディの頂点を極めたというだけでなく、番組が長い伝統をもつ上方喜劇という枠を「突破して」広く全国的に受け入れられたことを示す。この意味で演出の澤田隆治も、テレビ史に残る「突破者」の一人に数えることができる。
筆者はこの番組を子どもの頃に見た記憶がうっすらとあったが、今回何本かビデオで見直して驚いた。撮り直しのきかない公開録画番組とは思えないほど完成度が高く、セリフのとちりとか段取りのもたつきが、ほとんどない。
もっとも驚嘆するのは、CMを入れても30分の舞台と短く、ストーリーもそう複雑なわけではないが、カット割りが非常に多いこと。主役やそれにからむ役のセリフを丹念にアップで押さえるのに、ほとんど破綻を来《きた》さないことだ。芸人の演技はもちろん、演出もカメラも徹底的に作り込んだ「職人芸」を見せるのである。セットも一見して非常に豪華なつくりだ。
一切手抜きしない綿密な演出で「鬼の澤隆」と呼ばれた澤田隆治は、こう解説する。
「ビデオで見ると、NHK『お笑い三人組』が30分で60カットくらい。ところが『てなもんや』は倍の120カットある。それだけ細かく刻んでセリフセリフをアップでとらえると、非常にテンポがいい。役者も喜ぶしね。『てなもんや』はドラマじゃなくギャグなんだから、カット割りとアップを重ねて、テレビの絵づくりをする。しかし、それにはキッチリとリハーサルし、すべての段取りを決めておかないと。アドリブも練習中に出してこうやるよと決めておくならいいが、本番中は一切ダメ」
こうしたテンポある演出がスピード感を重視した香川登枝緒の脚本とあいまって、「てなもんや」独特のキレのよい映像を生みだした。
番組の収録は大阪・中之島のABCホール。サラリーマンたちの昼休みを狙い、金曜日の昼12時15分〜45分が本番だ。前日夕方に立ち回りの稽古をし、通しで1回やって解散。夜になるとホールのセット作りが始まるので澤田はこれに付き合い、翌朝は8時に全員集合。衣装やカツラをつけ立ち稽古をし、カメラリハーサルをすると、11時45分には客が入ってくる。
前日の夜が遅いと、澤田はほとんど着替えに帰るだけでホールに取って返すことも、珍しくなかったという。
澤田隆治は1955年に朝日放送に入社。まずラジオ制作部の演芸担当プロデューサーに配置された。寄席に通い詰め、初企画として通ったのは漫才の素人勝ち抜き番組。その後、お笑い街頭録音番組、漫才教室、浪曲番組などを手がける。草創期だけに、若くしてさまざまな仕事をまかされ、2年めには澤田がプロデュースした公録(公開録音)番組がベストテンに3本入るというような状況だったそうだ。
その頃、新しくできた大阪テレビに朝日放送から人を出すことになり、澤田にも行けという話があってテレビの見学にいった。ラジオの演出でバンドにキューを出し、アナに出しタレントに出しというのが、テレビではセットが組まれカット割りがあるから格段に複雑で難しくなる。テレビの現場を見て、こんなことは、とてもじゃないができないと思った。
たとえばスタジオを2台のカメラが動き回っていると、ケーブルががんじがらめになって、片隅に用意されているCMにいけない、というようなことが起こる。それは、消しゴムにヒモをつけて「こちらがこう動けば、こうなる」と段取りをシミュレーションする。
58年に大阪テレビに移った澤田は、そんな自分独自の方法論を見つけ、テレビのお笑いのスペシャリストとなっていく。(大阪テレビは59年に朝日放送と合併)
澤田は、中田ダイマル・ラケットや森光子が出演したお笑い時代劇「びっくり捕物帳」のディレクターを担当したとき、与力《よりき》役で起用された藤田まことと出会う。当時、出演者の名前は一枚目にダイマル・ラケット、二枚目に藤田と森となっていたが、森サイドから二枚目の一枚看板に変えてくれと注文があった。澤田は、「今回は三枚目に回ってくれ。お互い頑張ろうな」と藤田を説得したのである。
「てなもんや三度笠」を藤田まことで行くと決めたとき、澤田は藤田に「今度は一枚看板の主役なんだから、それがよその番組で三枚目や四枚目に出てくるのでは格好がつかない。ほかのレギュラーは全部降りてくれ」と注文した。
ところが藤田まことは上り調子の若手だったものの、トップクラスの喜劇役者というわけではない。すると今度は関西の大物たちが「藤田が主役ではオレは出ない」といい出す。そこで、「てなもんや」には、財津一郎、南利明、由利徹、三波伸介(てんぷくトリオ)といった関東のコメディアン(付記 財津一郎は吉本興業所属)が登場することになったのだ。
実はこれが「てなもんや三度笠」には大きなプラスとなった。関東勢が加わることで、どちらかといえば主人公がアホでのらりくらりのテンポが普通だった上方喜劇とは違うキレのよさが生じ、ひいてはそれが「てなもんや」を全国区へと突破させる一因になったからだ。
さて、澤田隆治はもちろん今も東阪企画社長(付記 どうでもいいことですが、同社は偶然にも筆者宅から徒歩1分の場所にあったりする)として現役でテレビや芝居と関わり続けている。インタビューの間にもタレントから電話が入る。プロデューサーを務める「横浜にぎわい座」(2002年5月オープン)に出る大阪の芸人かららしい。
「あんた、何で来るの? じゃあ、面倒くさいから新横浜駅から、タクシーに乗んなさい。野毛のにぎわい座っていえば大丈夫だから。料金は……」と、ホール全体を見る興行プロデューサーが芸人の細かい世話を焼くのである。これには驚いた。
あるいは「澤田隆治公式お笑いページ」というホームページも持っていて、「試しにメールマガジンをやっている。購読料は月600円。それからネット上で古くて珍しい喜劇ポスター(コピー)を売ってみたんだが、売れないですねえ。1枚だけ売れたけど」などともいう。
興味があることには、何でも手を出し、とにかくいじってみる。次から次にアイデアを出しては試してみるというタチらしい。NHK「宮本武蔵」と黒沢映画の類似から最近のキムタクドラマの評判まで、次から次へと話題が飛ぶ。
そんな澤田隆治は、最近のテレビをどう見ているのか。
「ハッキリいってテレビというのは昔はキツかった。今は便利になったし予算もある。だが、作り手のエネルギーは初期のほうが大きく、情熱や志があったと思う。『風雲たけし城』という番組があったね。ゲームをテレビ番組にしたあれなんか、すごいと思う。でも最近は同じバラエティでも勉強不足でアイデア不足。もっと考えたら、と思いますね」
こういって澤田はテレビ制作者たちに喝を入れる。テレビで横行する横並びのパクリ進行についても、つくり手のエネルギー不足を嘆く。
「テレビは、柳の下に4匹までドジョウがいるという。よくできたスペシャルが高い視聴率を取っても20%。おもしろかったよというのはたかだか20%で、残りの80%、つまり大多数は見ていない。すると、たとえばまず日テレがやる。次にTBSとフジがやる。テレ朝が遅れてやって、だいぶ落ちる。テレ東がやる頃には、最初の局でパート2を出す。ところが、そんなパターンに甘んじていられるほど、世の中甘くない。テレビは所詮は『絵』で、画面にエネルギーが満ちあふれているか、オーラが出ているかどうか。もちろん役者も、セットだってエネルギーを出す。ヒットさせるには、そのエネルギーを大きくするしかない」
エネルギーを最大化するには、チャレンジをし続けることだと、澤田隆治は締めくくった。「クリエーターが立ち止まったら、ヒットなんか出ませんよ。チャレンジを続けるしかない。そのためには勉強しなきゃダメ。最近は頭のいいヤツがテレビ局に入るようだが、実践しない官僚タイプがプロデューサーとしてさまざまな人や会社をコントロールするだけという例が、増えているのではないか。理屈や調査ではエネルギーに満ちた番組はできない。」
澤田隆治《プロフィール》 |
お詫びと訂正 |