≪リード≫ ≪このページの目次≫
|
クイズ(quiz)とは、何だろう。クイズには「教授の試問」という意味もあるが、世の中一般に受け入れられている意味は、「遊びやゲームとしての質問」または「質問遊び」「質問ゲーム」ということだろう。
クイズは質問(問い)の一種だから、「××ですか?」(「これは何ですか?」「二つの絵の違いはどこですか?」「××するものなーに?」などなど)という問いかけの形をしている。問いかけの形だけでは、学校のテスト(「正しい答えは何ですか?」)や、入学・就職時の面接における質問(「志望の動機は何ですか?」)も含まれてしまうが、これらをクイズとは呼ばない。遊びやゲーム(煩雑になるので、以下ゲームを含めて「遊び」とだけ書く)の要素が含まれていないからだ。
では、質問全般のうちクイズに含まれる遊びの要素とは、何か。これは、遊びとは何かに関わってくる話だ。試みに手近にある広辞苑(第四版)で「あそび【遊び】」を引くと「(1)あそぶこと。なぐさみ。遊戯。(以下略)」とある。「あそぶ【遊ぶ】」を引くと「《自五》日常的な生活から心身を解放し、別天地に身をゆだねる意。神事に端を発し、それに伴う音楽・舞踊や遊楽などを含む。(中略)(2)楽しいと思うことをして心を慰める。宴会・舟遊び・遊戯などをする。」とある。
とりあえず私なりに、「遊び」の要素をいくつか挙げておこう。まず、遊びは「おもしろい」(楽しい、愉快である)。そして、「おもしろい」こと以外に目的がない(それが主目的である)。したがって、遊びはイヤイヤやる強制や義務ではない(自由なものである)し、仕事や実利から離れたもので(なぐさみやヒマつぶしである)、普通であることはおもしろくないから非日常的だ。また、おもしろいことは、ある程度持続して徹底しないとおもしろくないから、時間的・空間的に区切って行われることが多い。個人個人が自分のおもしろいと思うことを勝手にやると、デタラメすぎてみんながおもしろくないから、遊びには一定のルールが生まれる(ホイジンガなどという学者の見解も、おおむね以上のようなことである)。
そこで、以上のような遊びの要素を質問に入れていくと、どんなクイズができるか。
たとえば「新幹線と同じスピードで飛ぶ鳥は?」「窓ガラス」のように、洒落、ダジャレ、地口《じぐち》、語呂合わせ、掛詞《かけことば》の類を含むものが、その一つである。「速く飛ぶ鳥は?」と聞いて「ハヤブサ」(急降下するときは時速180キロやそこら出すらしい)と答えるのが当たり前のところ、とんでもないダジャレが正答だから、非常識でおもしろい。
「朝4本足、昼2本足、晩3本足の動物は?」のように、言葉の表面的な意味の裏に隠され、およそかけ離れた思いがけない答えを求めるなぞ、なぞなぞ、なぞかけもその一つだ。正解は「人間」(朝昼晩は幼壮老で晩の3本のうち1本は杖《つえ》)だが、答えられなかった場合すらも、「あ、そんな答えがあったか」「やられたっ!」という感覚が、おもしろい。
このような言葉遊びの起源は、きわめて古く、世界中どの地域にも見られる。とくに、やまと言葉と漢字の二重性を持つ日本語では、洒落やなぞかけが活発だった。それは古代からの和歌にちりばめられているし、宇治拾遺物語には「子子子子子子子子子子子子」をどう読むかというなぞが出てくる(正解は「ねこの子子猫、ししの子獅子」)。いまは落語家しかやらないが、江戸時代には「『破れ障子』と掛けて『冬のうぐいす』と解く」「その心は?」「はるを待つ」なんて言って(これを三段なぞという)、みんなで遊んでいた。
文字や絵を読ませる判じ物も、思いがけないように読ませる遊び。マッチ棒や図形を使うパズルも、実際の生活上あまり役には立たないから、暇つぶしの遊びであり、クイズの一種である。
小学校の漢字テストや地理テストと実質的には同じ問題でも、お遊びでおもしろおかしく出題する、適切なヒントを出して正解に至る過程そのものを楽しめるようにするなど、遊びやゲームの要素を入れ込めば、クイズとして成立するわけだ。
さて、日本の放送に初めてクイズ番組が登場したのは、敗戦後の1946年末のことである。
当時の放送といえはもちろんラジオ、それもNHKの放送だが、これはGHQ(連合国軍総司令部)のCIE(民間情報教育局)ラジオ課が企画を出し、手取り足取り指導したものがほとんどだった。
同課が出していた週間報告書を読むと、たとえば1946年6月11日の項には「NHKとの会議でCIEラジオ課Mrs.Makiyamaが作成したモニター報告書を逐一検討。収録技術の質、埋め草的音楽番組、タイミング、スタジオノイズ、スタジオ内の楽器の散乱等の問題点を指摘。Mr.Makiに対し、部下の監督、録音スタジオからの不必要な要員の排除を指示」という趣旨の記載がある。GHQはNHKの音楽番組の制作に立ち会い、放送をモニターしたうえで、NHKに対して「ジャマで不要な楽器(注:ノイズの原因となりうる)はちゃんと片付けろ。不要な連中はスタジオから追い出せ」とまで指示していたわけだ。
同週報の1946年11月14日〜20日分には、「米NBCのクイズ番組『Information Please』をモデルとした『話の泉』を企画。司会者には徳川無声を起用するが、クイズ回答者は未定」とある。これが、日本初のクイズ番組である。
アメリカがくれた『話の泉』は、NHKラジオ第1放送で1946年12月3日にスタートし、1964年3月31日まで873回続いた。毎週水曜夜8時30分〜9時の番組で、聴取者から寄せられた問題に解答者が10秒以内に答えるもの。最初の司会者は徳川夢声だったが、3回目以降は和田信賢アナウンサーに代わり、無声は解答者に回った。徳川無声のほかレギュラー解答者は、堀内敬三(音楽評論家)、渡辺紳一郎(朝日新聞記者)、山本嘉次郎(映画監督)、サトウ・ハチロー(詩人)ら。彼らの博識ぶりとユーモア溢れる解答、それに「ご名答!」と応じる和田の司会も小気味よく、番組は爆発的な人気を呼んだ。聴取者からの出題は1日1000通を超え、採用されたのは1300通にわずか1通。聴取者が頭をひねりにひねって出題した難問奇問も人気の的だった。(以上、データはNHK「20世紀放送史年表」による)
ただし、このクイズ番組の人気は、NHK側にとってはまったく予想外のものだった。CIEラジオ課週報の1946年12月10日の項には、「『話の泉』第2回放送。投書殺到。CIEラジオ課は、NHK番組関係者の予測とは逆に、聴取者はこの種の新しいタイプの番組を受け入れていると判断」という意味の記載がある。
続いて登場したクイズ番組『二十の扉』も、やはりアメリカの人気番組『Twenty Question』の翻案ものだった。NHKラジオ第1放送で1947年11月1日にスタートし、1960年4月2日まで538回続いた。
こちらは毎週土曜夜7時30分〜8時まで。やはり聴取者の出題(答えというか、お題)を、解答者が司会者にさまざまな質問をして、答えをしぼり込んでいき、20問以内に当てるというもの。司会は藤倉修一アナウンサー、レギュラー解答者は大下宇陀児《うだる》(探偵小説家)、宮田重雄(医者・画家)、関谷五十二(童話作家。後に藤浦洸[作詩家]と交代)、塙長一郎(新聞記者)、竹久千恵子(女優。後に柴田早苗と交代)だった。のちにゲスト解答者が招かれるようになり、現職大臣や評論家らが出演。文壇、歌舞伎界、プロレス界などの「ゲスト大会」も開かれた。
最初から公開の生放送で、会場内では解答者から見えない位置の掲示、聴取者には「陰の声」によって正解が明かされていた。解答者が正解に近づく質問をすると観客から拍手が起こり、あさっての方向へいくとため息や失笑が漏れた。そんな会場の拍手やざわつきが、正解に至るヒントにもなった。出題の投書は1日2万通にも達したとされる。NHK「20世紀放送史年表」によると、「番組の悩みは、正解が多いので八百長ではないかと疑われたこと」だった。ある高校の校長と教員が新聞に投書して調査を求めたこともあったという。
なお、この番組は、なぜか博物学者リンネの考えに基づき、さまざまな事象を動物、植物、鉱物の三つに分けることになっていた。そこで、解答者はまず「それは動物ですか、植物ですか、鉱物ですか」と質問した。
余計なことを書いておくと、正解が「動物のうちの何か一つ」とわかっているときは、的確な質問で質問ごとにそのものの数を半分にしぼっていけば、20問以内で正解にたどり着く理屈だ。100万あるものを半分に、そのまた半分にと繰り返していくと、ちょうど20回で1以下になるからである(100万→[1]50万→[2]25万→[3]12万5000→[4]6万2500→[5]3万1250→……→[18]3.814→[19]1.907→[20]0.953)。『Twenty Question』の企画スタッフの一人は、もちろん以上の計算をしたはずである。
誰も動物の名前を100万も知らないから、1万から始めれば13〜14問目で正解に至る計算だ。たとえば「それは象より大きいか?」「ネズミより小さいか?」「木に登れるか?」「人間に飼われているか?」「仲間が南極に連れて行かれたことがあるか?」などと聞いていき、最後に「犬」「正解!」となるわけだ。新聞に投書した高校の校長は、以上のような理屈には思い及ばなかったのだろう。
もう一つ、有名なクイズ番組として、NHKラジオ第1放送で1949年1月2日に始まった『私は誰でしょう』を紹介しておく。これは1969年3月23日まで926回続いた。これまたアメリカのショー番組で放送されていた『What's my name?』を下敷きにした聴取者参加クイズ番組。司会の高橋圭三アナウンサーが聴取者から選ばれた解答者にヒントを出していき、覆面で登場した人物が誰かを当てさせる。正解者には、第1ヒント段階ならば1000円、第2ヒント段階ならば500円と、第5ヒントまで賞金が出た。
以上、日本の占領期にまず登場したのはGHQの企画・翻案によるクイズ番組で、いずれも大当たりを取った。聴取者が出題者や解答者となる「聴取者参加型」であったこと、当意即妙の解答ぶりや、正答に至る推理の過程を楽しむという「知的な遊び」の側面が大きかったことに注目すべきである。いずれもアメリカ産だから、日本語の二重性を生かした昔ながらの言葉遊びクイズは採用されていなかった。
最初の国産クイズ番組は、『私は誰でしょう』とほぼ同時に始まった『とんち教室』である。NHKラジオ第1放送で毎週土曜午後9時〜9時半、1949年1月3日〜1968年3月28日まで958回続いた。
これは、日本で昔から盛んだった言葉遊びをメインとするクイズ番組である。言葉遊びの伝統が、ないとはいわないが、世界最古の小説(源氏物語)を持っている日本とは比べものにならないほど薄いアメリカ出身の将校たちには、企画できるはずもないオリジナル番組といえる。たとえば、尻とり川柳、やりとり都々逸《どどいつ》、お名前拝借、お好み電話問答といった言葉遊びである。現在も『笑点』でやっている大喜利(もとは歌舞伎狂言[寄席]で、その日の最終演目[出しもの]という意味)のはしり番組と考えてよい。
番組全体が学校の授業スタイルという作りも斬新だった。司会のアナウンサー・青木一雄が「先生」で、解答者である「生徒」には、石黒敬七(柔道家・随筆家)、長崎抜天《ばってん》(漫画家)、春風亭柳橋(落語家)、橘の圓《まどか》(後の桂三木助)、三味線豊吉(新橋・烏森芸者出の三味線奏者)、西崎緑(日本舞踊家、西崎流家元)らがいた。番組は、青木先生が「石黒敬七さん、長崎抜天さん、春風亭柳橋さん……」と出欠を取るところから始まる。先生が生徒に問題を出し、うまい答えや珍妙な答え、先生と生徒のおもしろおかしいやり取りで笑わせた。年度末には終業式があったが、生徒は留年するから、レギュラー解答者は「落第生」だった。
その他の生徒には、渋沢秀雄(渋沢栄一の四男。東京宝塚劇場・東宝会長)、内田誠(随筆家、明治製菓宣伝部出身)、大辻司郎(「漫談」という言葉を作った漫談家。1952年のもく星号墜落事故で死去)、宮尾しげを(漫談家)、柳家金語楼(落語家、喜劇役者)らがいた。
日本のラジオ放送は四半世紀ほどNHKだけだったが、1951年4月には民放16社が予備免許を受け、NHK・民放の併存体制が始まる。最初に放送を始めた民間放送は名古屋の中部日本放送(CBC)で、51年9月1日午前6時半、伝治山送信所から第一声を伝えた。同日の正午、大阪の新日本放送(NJB)も放送をスタートした。
このどちらにも、初日からクイズ番組があった。NHKのような人員・予算・技術・設備を持たず、NHKとまともに戦っても勝てない民放各社は、自局にチューナーを合わせて貰うために、どちらかといえばNHKが手薄な音楽、演芸、クイズ番組などエンターテインメント系の番組に力を注いだわけだ。
中部日本放送は、9月1日昼0時15分〜45分、レコードを一瞬だけ聞かせてすぐ止めたり、逆回転させたりして曲名を当てさせるクイズ番組『ストップ・ザ・ミュージック』を放送した。これが日本の民放のクイズ番組第1号である。
新日本放送は、9月1日夜8時5分〜30分(5分間のニュースに続いて)『クイズ・フラッシュ』を放送した。これは平日夜のベルト編成で、「うっかりテスト」「バイバイゲーム」といったクイズ番組を毎日流した。プロデューサーは新聞社整理部出身の筒井建司郎で、毎日の放送を基本的にたった1人で制作していたとされている。
1952年4月にスタートしたラジオ東京(現TBS)の30分番組『ぴよぴよ大学』も、民放初期を代表する人気クイズ番組。チキン総長の出題にオンドリ博士・メンドリ博士・チャボ博士がそれぞれ答え、出場した親子が正答を当てるというもの。それまでのクイズ番組になかった新機軸は、一問ごとに、なぜその解答が正しいかを丁寧に解説したことである。
これらクイズ番組は、聴取者からの反響も大きく、民放の主要コンテンツの一つとなった。これが、のちのテレビ時代へと引き継がれていく。『ぴよぴよ大学』は後にテレビでも放映されている。
ラジオ時代のクイズ番組に顕著だったのは、聴取者参加型で賞金がもらえるものが多く、その賞金や賞品が次第にエスカレートしていったことである。
実は、本邦初のクイズ番組『話の泉』でも、出題者に賞金が出た。採用された問題は30円、そのうち解答者が答えられなかった問題は50円で、1948年にはそれぞれ50円、300円に増額されている。戦後のハイパーインフレが垣間見えておもしろい。『私は誰でしょう』の賞金額はすでに触れたが、賞金が出るときに「ガチャン」というレジスターの音が鳴って、ラジオを聴く者をあおっていた。
1952年1月にNHKラジオ第1放送に登場した音楽クイズ『三つの歌』は、出場者が「みんなに親しまれた古い歌、誰でも知っている新しい歌」(司会の宮田輝アナウンサーのセリフ)を、ピアノ伴奏に合わせて正確に歌うというもの。3曲歌えれば2000円、2曲なら500円、1曲なら300円の賞金が出た(2曲の人が安すぎるようだが)。現在では、タレントやお笑い芸人がカラオケで同じことをやっている。賞金は200万円だが、やっていることは56年前と基本的に変わらない。
こうした賞金・賞品は、民放クイズ番組のスタート、テレビのスタートによって、次第にエスカレートしていく。1954年以降、ラジオの番組数が増えると、賞金・賞品の高額化が目立つようになり、タイトルに金額を出す露骨な番組も登場した。ニッポン放送『16万円の質問』(1955年。賞品は16万円相当のスクーター)、北海道放送『21万円の宿題』(1956年)、ニッポン放送『オリンピック基金募集100万円クイズ〜トップ・ライト・ショー』(1959年10月)という具合だ。
1955年1月には、小型自動車を賞品に出したニッポン放送のクイズ番組が、射幸心をそそりすぎるとして問題にされた。同年3月10日には、日本民間放送連盟(民放連)の考査小委員会がクイズ番組の実態を検討し、高価すぎる賞品の自粛を申し合わせている。クイズ番組は、制作費が安いことや聴取者の間で人気があった盛り上がること、スポンサーが自社製品を賞品に出せることなどの理由で、各局が力を入れた番組であった。
日本のテレビ放送は、1953年2月1日にNHK東京放送局がスタートさせた。直後に始まった『家族ゲーム ゼスチャアー』は、テレビならではのクイズ番組として大好評を博した。国民的、歴史的クイズ番組なお、本放送前(実験放送)の番組名は『ジェステュア遊び』で、本放送開始後に『ジェスチャー』と改題された。
第1回放送は53年2月20日(金)の夜8時〜8時半。紅組・白組にチームを分け、それぞれのキャプテンが、「××に来たが、△△を忘れてしまい、困っている□□」というような文章のお題を、身ぶり手ぶりで制限時間(4分)内に伝えて答えさせるクイズ番組。初回のゲストは渡辺紳一郎、藤浦洸、淡島千景、玉川一郎ら。キャプテンは石黒敬七、藤原あき、益田喜頓、沢村貞子らが交代で務めたが、後に柳家金語楼と水の江滝子で定着した。最初は月1回の放送だったが、あまりの人気に翌3月には隔週放送となり、7月からは毎週金曜日の放送になった。
初代の司会者は青木一雄アナウンサーで、以降、高橋圭三、佐々木敏全、小川宏が務め、放送は68年3月まで15年間続いた。
「事実は小説より奇なりと申しまして…」という高橋圭三アナウンサーの軽妙な語りで始まるクイズ番組『私の秘密』は1955年(昭和30年)4月14日放送が始まるとたちまち人気を集めた。
1回目だけ木曜午後8時30分から9時までの放送だったが、2回目以降は木曜午後8時から8時30分までに変わった。
NHK内では、テレビ放送が始まるとともにテレビにふさわしい番組はどんなものがあるか、アナウンサーやディレクターを中心にいろいろ検討された。最初に実験放送のときから登場したのが『親子クイズ』。有名人の親子が出演して、スタジオで目隠しした子どもに物のにおいをかがせたりしてそのものを当てさせるクイズで、夕方の『子供の時間』に放送された。
続いて始まったのが人気を博した前述の『ジェスチャー』。出演者がパントマイムで正解を解答者に当てさせるクイズで、テレビならではの本格的な企画だった。
こうした中で登場したのが『私の秘密』である。当時アメリカで人気を集めていた『MY SECRET』の輸入版である。企画が持ち込まれ、直ちに放送劇団の人たちを使って試してみると「面白い、これはいける」とたちまち放送が決定された。本放送まで、1か月ぐらいしかなかった。高橋圭三は「当時はNHKの組織も細分化されておらず、上層部から現場まで、良さそうなもの、できそうなものは直ちにやってしまおうという、家内工業的なスピードと弾力があった」と言っている。
解答者は、渡辺紳一郎(元朝日新聞記者、ラジオ『話の泉』の解答者)、藤浦洸(詩人、ラジオ『二十の扉』の解答者)、藤原あき(資生堂美容部長)の3人のレギュラーに加えて毎週変わるゲストの4人が、登場する珍しい秘密を持っている人に質問し、4分以内にその秘密を当てるというものである。会場の人たちにはビラで、視聴者には陰の声でその人の秘密を事前に知らせておいた。登場する人たちは、例えば、指紋のない人とか、「東西南北」「元旦」といった珍名の持ち主や、市電の車掌さんの名が「入口」、運転手さんが「出口」などさまざまで、川中島合戦の日には武田信玄と上杉謙信の子孫が並んで出演した。
あるとき、ちょうど「1ダースなら安くなる」というコマーシャルがはやっていたころ、子どもを12人生んだ中年の夫婦が登場した。と、藤原あきが「あなた方お2人だけでおつくりになった秘密ですか」と上品な山の手言葉で聞いた。会場はワーッと沸いた。司会の高橋圭三は、「それには違いないが『ハイそうです』と言うのもと、思わず上を向いてアアーと思案顔をしました。そのときカメラがアップで私の顔を映しており、『しゃべらないほうがいい。これがラジオとは違うところだ。表情がものを言う』と思った」と回想している。
秘密の持ち主探しは視聴者からの投書のほか、NHKの受信料を集金してまわる人たちがかなり協力した。
高橋圭三アナウンサーが冒頭で語る「事実は…」について高橋は「バイロンの詩だと思いますが、The fact is stranger than fiction. という部分の翻訳が、この番組の内容を表すのに最もふさわしいと思い自分で決めた」と話している。しかしやってみたものの何となく照れて2回目では言わなかったところ、電話や投書がどっと来て励まされ、3回目からは再び使いだしたという。
『私の秘密』ではその後、時間を調整するクッションとしてゲスト解答者と思い出の人を対面させる“ご対面”のコーナーがつくられた。サトウ・ハチローは相手がわからず、「私はあんたに借金ありましたっけ」などと笑わせた。戦争を経ての再会など、視聴者の共感を誘うものもあった。
テレビ初期の公開番組ではクイズショーに続いて、バラエティーやコメディーが続々登場した。
[編集] 日本における事例 第二次世界大戦後の1946年12月にNHKのラジオ番組『話の泉』、翌1947年11月には『二十の扉』というクイズ番組が登場して人気を呼んだ。以降、テレビ番組では『パネルクイズ アタック25』、『クイズダービー』、『アメリカ横断ウルトラクイズ』、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『マジカル頭脳パワー!!』、『クイズ$ミリオネア』などが放送された。近年では、クイズを企業活動の広報戦略や販促戦略に活かすビジネスブランディングツール、マーケティング戦略の一手法としての考え方が登場し、多くの企業に導入され始めている。 また、テレビ局などではなく、一般のクイズ好きが主催する「オープン大会」と呼ばれるクイズ大会でも、本格的な早押しクイズなどが行われている。最近では高校生によるオープン大会も数多く開催されている。 更に派生して、コンピュータゲーム、アーケードゲーム、家庭用ゲーム機のソフトにおいても「クイズゲーム」に分類されるものが多く販売、稼動されている。本格的なものから、クイズ番組をゲーム化したもの、そしてある特定のジャンルに絞ったものまで千差万別である。現在ではオンライン対戦を利用したアーケードゲーム『クイズマジックアカデミー』が有名であろう。なお『マジックアカデミー』は、これまでのクイズゲームの(致命的ともいえる)欠点であった「時代の変化による問題の風化」をアップデート機能によって克服することに成功している。 2008年に入ってからは、クイズブームといっても過言ではない、テレビ放送の番組編成がなされている。 [編集] クイズに関する本今、テレビ業界は空前のクイズ番組ブームだが、なぜクイズ番組が全盛を迎えているのか。これまでドル箱だった野球やドラマが落ち込んでいるほか、いくつかの要因があるようだ。 「1週間に放送されるクイズ番組は約30本。もっとも“正統派”は全体の3割程度。残りは、いわゆる“おバカタレント”が幅を利かせるユル〜イものばかり、業界では、このところ“ねえ、どこかにおバカタレントいない?”というのがあいさつがわりになっています」(芸能プロ関係者) それでも問題作りは真剣にやっている。 「たとえば『今すぐ使える豆知識 クイズ雑学王』(テレビ朝日)の場合、クイズ作家は100人以上。彼らが作った問題を一般の人に解いてもらい正解率が 50%以上だと、問題がやさしすぎるということでボツ。正解率20〜30%のものを本番で使うようにしています」(テレビ局関係者) とにかく作家たちは大変で、毎週、地獄のような苦しみに七転八倒しているという。 それにしてもクイズ番組はなぜ人気なのか? 「何と言っても、数字が取れるからです。『羞恥心』を生んだ『ヘキサゴンII』(フジテレビ)がいい例です。今、ドラマも野球も数字が取れませんからね」(テレビ局関係者) そして、制作費の安さも見逃せない。 「ドラマ1本作るのに4000万〜5000万円かかるのに比べれば激安です。しかも、スタジオで撮るからセット代も安い。収録も半日で済みますし、タレントのギャラも安い」(芸能ライター) 「ヘキサゴンII」では、司会の島田紳助ひとりのギャラが500万円で、ほかの18人のギャラの合計が同じという説があるほど。とにかく、ドラマと比べて制作費が格段に安いことは確かなようだ。 ところで、芸能界におけるクイズのキング、クイーンといえば、辰己琢郎や麻木久仁子の名前がすぐに浮かぶが、「Take2」の東貴博や伊集院光の健闘ぶりも目に入る。 「東は雑学に関する本をいつもそばに持っていて、休憩や移動の間に目を通しています。インターネットを使って、物事を調べることもあります」(芸能ライター) 女子アナ番組同様、しばらくはクイズ番組の天下が続くことは間違いなさそうだ。
安倍晋三事務所から出されたコメントを読むと、当時の内閣官房副長官は「公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した」だけで、介入や干渉には当たらないと考えているようだ。
しかし、「公正中立の立場」かどうかを判断すべきなのは、この場合はNHKであって、内閣官房副長官ではない。にもかかわらず、内閣官房副長官が、放送前でまだ制作中の番組についてNHK関係者に説明を求め、「明確に偏った内容である」(これは東京新聞が伝える安倍晋三のコメントの一部)との判断のもと、意見を述べたのである。表面的には「公正中立の立場で報道すべき」という差し障りのない言葉(それだけを見れば正しい言葉)を使ったとしても、それが「NHKが制作中の番組は、偏った内容だから、改変すべき」という意味の「干渉」であったことは、安倍晋三本人の証言から明らかだ。
以下に、放送法の関係条文を掲げておく。
なお、日本国憲法は第21条の2で「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」とも規定している。
今回の政府高官による番組介入は、事前に番組の内容を察知してNHKに注文を付けたのだから、「憲法が禁止している事前検閲に極めて近い行為が、政府高官の手によっておこなわれた」と見るべきである。日本には、制度としての検閲は原則としては存在しないが、似たようなことが白昼堂々とおこなわれ、実際に番組を改変したうえでの放送に結びついたこと――しかも、その事実が4年もの長きにわたって隠蔽《いんぺい》され続けたことは、極めて重大で深刻な問題だ。
私は、自民党郵政族の大物政治家(すでに引退)をよく知る人物から、「その大物政治家が、ある人物をNHKに出してほしいと、どこかに電話しているのを目の前で聞いた。その日の夜7時のNHKニュースを見ていたら、実際にその人物が出てきたので、電話の効果があったのだなと思った。そんなことをやっている放送局は、ジャーナリズムとしての機能を果たしているとはいえない」と聞いたことがある(政治家の名前は、ここでは匿名とする)。
私は、問題のETV2001特集「問われる戦時性暴力」という番組をちゃんと見ていないから、その評価は差し控える。ただし、確実にいえるのは、番組が取り上げた「女性国際戦犯法廷」にどんな不備があれ、また判決がどうであれ、それは、女性たちが戦時の闇の部分に光を当てようとした現代社会の出来事として報じる意味があるということだ。その報道を見て、「女性国際戦犯法廷」に問題があると思えば、抗議すればよい。あまりにも一方的な結論だと思えば、違う見方の番組を作れと、NHKに申し入れればよい。「男性日本無罪法廷」という模擬裁判をやって、放送せよと迫っても一向に構わない。
番組責任者が職と生活をかけて、政治介入を受け入れたとNHKの腐敗を告発したとき、政府高官が口にすべきは、政治介入の疑いを招く行為をして軽率だったという反省のはず。問題は一切ないと開き直り、内部告発者を個人攻撃するのでは、腐敗したNHKの上層部と同じ側に立っていると思われてしまう。【この項目は2005年1月14日未明に追加】