メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

放送批評「NEWSコラム」

「放送批評」(「GALAC」の前身)のコラム「NEWS欄」に
1995年秋から96年夏まで書いた原稿です。
当時は放送批評の編集委員というのを務めていました。
特集を書くときは休んだりしています。
いまと考えていることがあまり変わりません。
筆者に相も変わらず進歩がないのか、
テレビに相も変わらず進歩がないのか。ま、両方でしょうけど(笑)。

≪このページの目次≫
崩壊したテレビ報道の常識
イライラ交通情報
「虚構」に近い「現実」
「なぜ」は何処へいった
報道番組不在の不思議
地震・津波情報は最優先
チグハグなおもしろ路線

崩壊したテレビ報道の常識

 阪神・淡路大震災、サリン・オウム、全日空機ハイジャックと、テレビを揺るがす大災害や大事件が立て続けに起こっている。

 1995年前半のニュース、報道系情報番組、報道特番の放送時間は、テレビ始まって以来どの半年と比べても、はるかに上回っているはずだ。視聴率もきわめて高い。テレビは「報道」で埋め尽くされているようにみえる。

 しかし、その「報道」の役割や手法が、今回ほど問われている時代もないように思う。

 テレビ局の報道や編成スタッフに会うと誰もがこういうのだ。

「大震災やサリン・オウムを通じて、これまでのテレビ報道の手法や常識が必ずしも通用しないということを思い知らされた。ただの大災害や大事件ではない、ニュースや報道の、つまりテレビの本質を震撼《しんかん》させる出来事が、立て続けに起こったんですよ」

 たとえば、阪神大震災でテレビ局は、当初、いま起こつている出来事をいかに速く、いかに全国に伝えるかという「報道」にとって当然のやり方で対応した。結果、全国むけ報道ではかなりの成果を上げたものの、被災者への情報提供がおろそかにされた。安否情報も効果はほとんどなかった。

 従来の手法では、神戸の人びとが「こんなにテレビに期待したことはなく、こんなにテレビに裏切られたこともなかった」と、怒りをあらわにするほどの役割しか果たせなかった。では、テレビ「報道」とは、いったい何なのか。

 サリン・オウム事件では、人びとは、いつサリンに遭遇するかもしれないという恐怖を抱きながらテレビに見入った。「劇場型犯罪」という言葉があるが、舞台上の事件を観客席の最前列に陣取って伝えるという従来のテレビ手法が問われた。事件が舞台上から観客席全体に降りてきたからだ。

 「4・15首都厳戒」を伝えれば視聴者の恐怖心をあおる。VTRを報道すれば信者へのマインドコントロールになる。幹部を出演させれば教団PRになる。生出演者がいきなり名誉棄損になるような不規則発言をする。局の幹部が脅迫される。こうしたことも、過去のテレビの常識にはなかった。

 あるいはハイジャック事件。テレビ報道が犯人への情報提供ツールとなってしまうとは、今まで誰が考えたろう。警官突入の際、各局はコックビットを大映しにしたが、次は犯人が飛行機全体を映せと要求するかもしれないのだ。

 戦後50年などと過去を振り返るどころではない、新しく困難な問題がテレビに噴出している。「報道」は、いったいどうすればよいのか。ニュースや報道における新しい常識、新しい手法の再構築が必要ではないか。(「放送批評」1995年09月号 ニュースコラム)

イライラ交通情報

 ニュースを見て、いつも気になることがある。毎朝、サラリーマンの出勤時に伝えられる「交通情報」の類いである。

 たとえば、8月9日朝のNHK「おはよう日本」。午前7時のニュースでは、7時半にローカルニュースに移行した後、42分から首都圏の交通情報が流れた。

 女性アナウンサーがいう。
 「7時42分を回ったところです。ここからは首都圏の鉄道と道路の情報をお伝えします。まず、JR東日本輸送司令室からお伝えします」

 ここで、画面はスタジオから東京駅の中継に切り替わり、JR東日本の担当者の音声が入る。
 「おはようございます。7時40分現在、首都圏管内のJR各線と東北、上越、および東海道新幹線は、始発から平常通り運転しております。以上、JR東日本よりお伝えしました」

 担当者はアナウンサーではないから、機械的な棒読みで、ちょっと聞き取りにくい。

 この後スタジオに切り替わり、なぜか「先ほど、あのコスモ信用組合のニュースの中で、字幕が信用金庫になっていました。失礼しました」と訂正をかませたあと、

 「午前7時30分現在、このほかの首都圏鉄道各線は平常通り運転しています」
 で、鉄道情報は終わる。ここまで約43秒かかった。何がいいたいか、おわかりだろうか。

 朝のNHKニュースで交通情報を見聞きするサラリーマンは、ただ「首都圏の鉄道はすべて平常通り運転中」というだけの「情報」を得るのに、なんと43秒も待たされるのだ。こんな間抜けな話があるだろうか。

 アナウンサーが一言、「首都圏の鉄道は、新幹線、JR各線、私鉄、地下鉄ともすペて平常通り運転中です」といえば5秒ですむ。

 それを映像や音声を切り替え、わざわざ何十秒もかけて伝えようとするのは、なぜなのか。伝えるべき目的と手段が混同され、目的はどうでも、手段はすペて見せる(手段の目的化)という本末転倒が起こっているのではないか。

 そして、このやり方を誰もおかしいと思わず、昨日もやったから今朝もやるというのは、堕落《だらく》というべきだ。別のニュースの訂正を鉄道情報の間に挟むのも、一刻も早く謝ればそれでいいという、視聴者無視のご都合主義である。

 鉄道の次に出る日本道路交通情報センターからの中継は、地図入りで渋滞を伝えるから、これはこれでいい。鉄道情報も、事故や運休があればJRとつなげばいい。

 だが、伝えることが何もないときは、素直に「何もない」といえばよい。それこそが、いちばんの「情報」なのだから。(「放送批評」1995年10月号 ニュースコラム)

「虚構」に近い「現実」

 1995年11月6日午後11時ごろ、東京・南青山のオウム真理教東京総本部前で発砲事件が発生した。

 事件は、秒読み段階に入ったオウム幹部・上祐史浩の逮捕を取材しようと東京総本部を取り巻いていた報道陣の目の前で起こった。

 銃声らしき音や、混乱する報道陣の様子が、テレビカメラに収められ、放送局はこれを直ちに報じた。とくにテレ朝とNHKが早かったようだ。

 たまたま収録されたと思われる発砲の瞬間(発砲者は映っていない)。「どうしたんだ」というようなスタッフの会話やつぷやき。カメラを高く掲げフラッシュをたき、罵声を上げながら、何ものかに殺到する報道陣。そうした映像が、ほとんど直接に家庭のテレビに届いた。

 少し時間がたつと、何者かがオウム東京総本部前で発砲したらしい、容疑者は警察に拘束された模様、怪我《ケガ》人などについては不明、といった現場レポートが流れた。

 感想を一言でいえばこうだ。目の前で起きたことを巨大な、深刻な「現実」のように思わせるテレビの怖さ、恐ろしさを、改めて感じる。

 たしかに、テレビカメラがとらえた銃声らしき音は現実だ。殺到した報道陣の姿も現実だ。

 しかし、そんな断片的な現実の映像を、次から次へと重ねられると、視聴者が受け取る現実のイメージは、実際に起こっている現実の意味や重みと、どんどんかけ離れたものになっていく。

 ようするに、あんな映像をいきなり突きつけられると、ものすごい事件が起こっているのではないかと錯覚する。逆に、穏やかな映像が流れたために、たいしたことはないと錯覚させたのが、阪神大震災の初期報道だった。

 テレビが切り取って家庭まで送り届ける現実は、本当は実際に起こっていることの、ほんの微小な部分に過ぎない。その微小な部分からイメージされる「現実」は、限りなく「虚構」に近いというペきなのだ。

 だが、テレビは、そのことを視聴者に忘れさせ、視聴者の脳裏にある現実のイメージを定着させてしまう大きな力をもつ。その力は送り手にとっても受け手にとっても、つねに両刃の剣となる。視聴者は、そのようなメディアとしてテレビと付き合わなくてはならないはずだ。

 たとえば、翌日の朝刊で「発砲5発、男逮捕」の記事を読み、もっと大きな見出しがついた伊豆連続地震の記事を読んで、ようやくそれぞれの「現実」 のバランスを取ることができるのだ。

 テレビ報道だけを見ていては、世の中の現実など、何ひとつわからないと思う。(「放送批評」1995年12月号 ニュースコラム)

「なぜ」は何処へいった

 テレビニュースを見ていると、健康によろしくない。

 最近何年か、少しずつだが、そんな気配を感じていた。とくに今年に入ってからは、そうだ。

 つまり、イライラするのだ。

 見た目はよくできているが、とても消化の悪いものを食べさせられた感じ。あるいは、口当たりのよいのは最初だけ、噛《か》めば噛むほどゲンナリして呑み込めない、という感じだ。

 ここ数年、テレビのニュースは見せ方がとてもうまくなった。

 ENGによって現場の絵がダイレクトに入る。ネットワークもフルに活用され、各地を結び画面が次々に切り替わる。上空からの映像も、海外からの映像も、ひと昔前とは比べものにならないほど充実している。

 CGもキレイだ。パネルやフリップの使い方もうまい。大きな事件や災害では、建物模型だのパノラマ模型だのが出てきてわかりやすい。政治家の人形を並ペて政争の行方を解説したり、法廷内を再現するといった手法も、手慣れたものだ。

 一言でいえば、ニュースは、ショーに近づいた。画面だけを追うと、バラエティに富んだ上手な見せ物にみえる。しかし、そのことと並行して、イライラが募ってきたと思うのだ。

 どの番組とはいわない。近ごろは、頭の中で、こうつぶやきながら二ユースを見ることが多い。

「えつ、これだけか。これで、このニュース、おしまいか」
「起こっていることはわかった。で、問題の核心は何なわけ?」
「だから、なぜそんな馬鹿な事件が起きたんだ。そこが知りたいんだよ」
「この問題の所管は××省だろ。なんで責任者が出てこないの?」

 切り取った事実らしきものは華々しく羅列されているが、肝心の「なぜ」がない。だから、消化不良を起こして、イライラする。

 たとえば、テレビニュースは河野外相が特別機でイスラエル首相の葬儀に出発する映像を流す。欧米からは誰が出席とも報じる。

 だが、なぜ、先進国のなかで日本だけが、首相を出席させないのか。誰がそう決めたのか。外務省か官邸か。国際問題の専門家は、首相が国会に出るのと、イスラエルに出かけるのと、どちらが国益に沿うと判断するか。そうしたことを、テレビは一切伝えない。

 欧米首脳は弔問外交で「ムラヤマは来ておりませんぞ」「非常識な国もあったものだ」「まったくですな。ところで……」とかやっているのじゃないか。

 テレビのニュースには「なぜ」がない。いったいなぜ、こうなってしまったのだろう。(「放送批評」1996年01月 ニュースコラム」)

報道番組不在の不思議

 今年の正月は、1日零時過ぎに同居人1名と世田谷の実家を出、早稲田の穴八幡にお参りした。穴八幡で、いつも神楽坂で飲んだくれている3家族と会い、休憩所でさんざん熱爛をやって、カラオケまで行ってしまった。

 元日から朝帰り、午後には同居人の実家へ移動、翌日は挨拶回りと、あまりテレビを見る時間がなかった。だから、今回はあまり責任ある発言ができそうにないが、あえて一言いわせてもらえば、正月テレビの「ニュースの不在」を問いたいと思う。

 当コラムは、ニュースコラムと銘打たれているのだが、困ったことに正月のテレビというのは、ニュースや報道をあまりやらない。これが不思議である。

 もちろん正月は、官庁も企業も商店も休みだ。役所の発表ものやビジネスものが激減するのは当然である。暴力団員やコソ泥も、正月くらいは休みたいだろうから、事件報道も減る。記者やキャスターも休む。

 だから、初詣風景や出初《でぞ》め式、帰省帰りラッシュはいつからといった正月関連ニュースを除けば、ニュースの絶対量は減る。そこでテレビは、おめでたい正月番組で埋めつくされる。

 しかし、そういうときこそ、ふだん流せないニュース番組や報道番組が流せるはずではないか。

 たとえば暮れに世間を騒がせた住専問騒がある。大蔵省がある。あるいは小沢一郎がある。

 だが、ふだんのニュースは、住専に税金を投入する方針が報じられたあと、キヤスターが「どうも納得できませんネ。国会でしっかり追及してもらいたい」と付け加えて終わってしまう。

 本当にそう思うなら、住専だけで報道特番を2〜3時間組んで、みんなが見ている正月休みにやればよいではないか。

 見せ方次第だが、その手の番組が絶対に視聴率が取れないとは、思えない。どのチャンネルも似たような番組で食い合うから、かえって人目を引く。新聞のコラムに紹介されたりもする。やってみる価値は十分あると思うのだが。

 お笑いやドラマがワンパターンというのは、つまらないだけで、まだ罪がない。しかし、テレビの言論報道が「不在」というワンパターンは、社会のモラルを荒廃させ、この国の未来を暗くする。言論報道の中身ではなく、電話番号のゴロ合わせによって読者を増やそうとする大新聞のワンパターンと同様、悲しむべき事態だ。

 結局、正月にまともに見たのは「ルパン三世・カリオストロの城」と「二十四の瞳」(ズタズタなので要CM抜き録画)だけ。これなら、テレビでなくても見られるのであった。(「放送批評」1996年03月号 ニュースコラム)

地震・津波速報は最優先

 近ごろ妙に地震が多い。国内だけではない。日本まで津波が達したインドネシアの地震もあった。北海道では火山が水蒸気爆発だ。

 それぞれ直接には関係ないと、頭で理解できても、イヤな感じが残る。

 専門家の話を総合すると、日本列島が地震の活発期に入ったことは確からしい。ここ数年に大地震が起こった頻度は、過去数百年来で異例の高さだという。東海大地震、小田原沖地震、関東直下型地震などは、いつ起こっても不思議ではないとされる。

 そこで気になるのが、テレビやラジオによる地震速報である。

 人によっては「ドラマに没頭していたら、たいした地震でもないのにキンコンキンコンとテロップが流れた。実にわずらわしい」という意見があるかもしれない。だが、こと地震や津波に限っては、これは仕方がないことだ。

 やめたほうがよいと思うテロップは、どこかの市長が当選したとか、山の中に小型飛行機が落ちたというニュース速報。どちらも見た記憶があるが、市長当選のニュースなど明日の朝刊で一向にかまわないと思った。小型飛行機の墜落も、市街地に落ちたわけではなく、乗員の数すらハッキリしなかったから、定時ニュースまで待って伝えるべきだと思った。

 しかし、地震は、ある場所でわずらわしいと思われても、違う場所で緊急事態となっている恐れがあるから、いちいち速報すべきである。津波も同じだ。

 ただし、いくつか注文がある。まず、スポーツニュースなどで生放送中に地震テロップが流れたとき、出演者がまともに対応しないケースがある。これはおかしい。スポーツ解説者か誰かがそのコーナーを仕切っていたとしても、その者にテロップの内容を読ませるべきではないか。

 また、津波注意報や警報のテロップで、発令の範囲がわかりづらいことも気になった。文字だけでは伝えにくいが、肝心の地図の出来が悪い。局によって色づかいが違うようでは困る。

 地震計を移動したら震度5のデータが伝わってしまったというミスもあったが、これは気象庁のシステムがおかしい。阪神大震災の震度発表ミスのあとだけに、気象庁と結んだ速報システムが万全かどうか心配だ。

 最後に、神戸市(最初に断層がズレ始めた淡路島から約4キロの対岸)に住む兄の話。大震災の前日に、あとから考えれば前兆と思われるこく小さな揺れが複数回あったそうだ。こうした局地的な揺れは速報されないし、その場所に気象台がなければ観測されにくい。

 そんな揺れを2度3度と感じたら、直下型地震への備えをお勧めします。(「放送批評」1996年05月号 ニュースコラム)

チグハグなおもしろ路線

 近ごろ、NHK朝のニュースが引っかかる。「おはよう日本」がどうも、ちぐはぐなのだ。

 7時から正統的なニュースを流している分には、どうということもない。けれども7時25分、40分と見続けていると、ほころぴが鼻についてくる。

 たとえば、NHKローカル局と結んだ生中継。農村の話題とか漁港の様子とか、お決まりのニッポンの朝なのだが、すこく無理している感じだ。

 まじめな顔で立派にニュースを読むキャスターが、ローカルアナに、どうでもいいような冗談を飛ばす。隣に座る女の子もしきりに軽口を叩く。

 あるいは、カメラがスタジオに戻ったとき、何か気のきいたコメントをいおうとする。

 ふたりとも感じはいいし、くだけたかけ合いで、親しみやすい雰囲気をつくろうとするのはよくわかるが、いまいち自然でない。

 明らかに、日本テレビの「ズームイン!!朝!」のノリを目指していると思われるが、民放の老舗《しにせ》ほどにこなれていない感じ。

 ギャグも、かえって、しらじらしい、とってつけたような感じ。

 ときには、情けない、一生懸命やっているスタッフが気の毒な印象すら受ける。

 ニュースの合間には、元気なオヤジの朝食をおもしろおかしく紹介する、なんてコーナーが挟まれたりする。

 これも家人によると、
「夕方のニュースショーならともかく、クソ忙しい朝のニュースでやるような企画かしら。テレビの前にどつかり腰をおろして見ている人なんていないんだから、もっとテンポよく『今日』や『今』を伝える企画をやればいいのに」
 だそうだ。

 聞けば日テレの「ズームイン」の視聴率は、NHKも含めた競合番組の中で圧倒的に高く、とりわけ視聴率2ケタを切ったNHKの焦りようは、タダゴトではないらしい。

 「早朝を制する者は、午前中を制する」とまではいえないとしても、この時間帯はチャンネルが固定されやすい。

 不評続きの朝の連続ドラマ(今回のは、まあおもしろいほうだと思う)以降の視聴者獲得につなげるためには、ニュースの改革だ。とりあえずライバル日テレのおもしろ路線を真似てみよう、ということか。

 しかし、いまのところは魂胆がミエミエすぎ、かえつてつまらない。全体として、ギクシャクした番組の印象につながってしまっている。

 試行錯誤は歓迎するが、もうちょっとNHKらしい勝負の仕方というのがあるのではないか。(「放送批評」1996年07月号 ニュースコラム)