≪特集全体のリード≫ ≪サイトup用のリード≫関西テレビ放送の「あるある」問題は、「情報」「バラエティ」など番組ジャンルにかかわる議論を沸騰させた。放送に対する社会の目、番組に対する視聴者の目は、かつてないほど厳しくなっている。そこで、その視聴者の目は何に向けられているのかを問う必要があるだろう。メディアや「情報」に対する視聴者のスタンス、視聴者のありようは、どうなっているのか? それがかつてと異なるなら、何がその変化を生じさせたのか? ≪参考 この特集の目次≫ ≪参考 この号の特集以外の主な記事≫ ※掲載誌では「バラエティー」という表記ですが、私は「取れる長音(音引き)は全部取る」主義なので「バラエティ」と書きます。これ以外にも、「一つ」と「ひとつ」など掲載誌と表記が異なるものがありますが、チェックしきれないのであしからず。 |
視聴者はテレビの何を見ているか──この問いに答える手っ取り早い方法は、まず手近にいる何人か、できれば二ケタの数の人に質問する。返ってきた答えを吟味し、適切な選択肢と自由回答欄を設けた質問票を作る。これを1000人単位の人に渡して回答をもらい、分析することだろう。
その時間はないから、筆者のテレビ観、自分を含めた視聴者の観察などを踏まえて、四つの論点を述べることにする。現代のテレビ視聴者像をおぼろげながらでも浮き上がらせて、制作者の参考になれば幸いである。
まず第一に指摘すべきは、視聴者の多くはテレビの「人」を見ているということだ。そんなことはわかってる、だから人気タレントの1年先のブッキングに苦労してるんだといわれそうだが、ここでいう「人」は何重もの意味が複合する、もっと広い概念である。
確かに「好きな人(俳優、タレント、ミュージシャン、グループ)が出ているから」ドラマ、バラエティ、音楽番組を見るという視聴者は多い。とりわけ、内容がわからない連続ドラマの初回は、人が視聴者を集める重要な要素となる。ニュースなど情報の中身が肝心な番組でも、自分が嫌いな人や嫌みに感じる人が出ているからと敬遠する人は多い。
しかし、実は多くの視聴者が「嫌い」「気にくわない」という人が出ていても、テレビはよく見られる。かつて久米宏は「自分の勘」と断りながら「売れっ子であり続けるためには、六割の人に好感をもたれ、四割の人から嫌われるというのがいちばんいい」と語ったことがある。5人中4人が嫌いでも、残り1人が見れば視聴率は20%に届く。「何だこいつは」「次にどんな間抜けなことをいうかな」という興味から見られることも少なくない。
よく週刊誌が俳優、タレント、スポーツ選手などの好き嫌いランキングを載せるが、好きの上位と嫌いの上位は、ほぼ同じ顔ぶれである。乱暴にいえば、好き部門の得票と嫌い部門の得票を加えたランキングは、露出度ランキングであり、つまりは視聴率と相関する。だから「嫌い」も興味を引きつける意味で重要な要素であって、テレビは好感度タレントを並べればよいという単純なものではない。
さらに、ドラマでは俳優が、当人そのものとは別の「人」を演じる。ここでも視聴者は多重な意味で人を見ているわけだ。
クイズ番組でも、実はクイズよりも人が見られている。かつて素人参加の『クイズグランプリ』は誰が出てもよかった。しかし、いまや素人参加では『サプリ』も『サル知恵』も『ヘキサゴン』も成立しない。視聴者は、難問に焦り苦しむ出演者、先に正答した者のからかいと反撃、二人一組の回答者の内輪もめ、司会者の突っ込みなどを見ている。小中学生でもわかりそうな問題を間違える一部回答者の姿をクローズアップし、「いかにバカか」を強調するクイズもある。そこではクイズは、ダシに使われているにすぎない。
筆者は「ひな壇バラエティ」と呼ぶが、最近の情報バラエティの多くは、ひな壇に多くのタレントが座るスタイルを採用する。みなでクイズに挑戦する、みなでおもしろビデオを見る、各人があるテーマに沿って体験や考えを述べ司会者と掛け合いするなど、それぞれ中身は違っても、形式は同じなのだ。ここで重宝されるのが「リアクション・タレント」である。視聴者は、出演する人、とりわけ彼らのリアクションを喜んで見ているのだともいえる。
『スター千一夜』や『徹子の部屋』に代表される芸能人とのトーク番組も、最近は何か食べながら、旅しながら、自宅を見せながら、何かにチャレンジしながらのトークが主流。スタジオから連れ出すのは、芸能「人」や有名「人」を重層的に、あるいは後に触れるように、ノイズ部分を強調して描こうとするからなのだ。
人間は、社会的な存在である。音声を意味を込めた象徴として使う「言語によるコミュニケーション能力」を高度に備えた唯一の動物ともいえる。だから、人は、人に興味を持ち、人との会話に触れたい。
このことは、人類史を100万年単位で遡《さかのぼ》れる一方で、テレビの歴史が数十年しかないから、テレビがスタートした当時も今日も、ほとんど変化がないはずだ。
それなのに、30年や10年という短期間を振り返っても、テレビ番組のあり方が大きく変化したように見えるのはなぜか。
地縁共同体や血縁共同体が崩壊し、近所付き合いや親戚付き合いが減った。核家族化・少子高齢化・晩婚化が進み、単身生活者や2〜3人を単位とする家族が増えた。つまり、周囲で人との接触が減ったから、テレビで人を見て擬似的な人との接触を得る視聴者が増えた、というのが理由の一つだろう。
この国にはテレビを通じて擬制的、幻想的な共同体が形成されており、テレビはあるときは全国規模の巨大「井戸端会議」であり、あるときはかつて村の長や年配者が若者に教えた社会規範や知恵を伝える巨大「掲示板」であるというのが、筆者の考えだ。
もう一つの大きな理由は、テレビというメディアに、すべてのことを「人」に還元してしまう生理というか機能が、もともと備わっているからである。
テレビは、最大多数の人が見るとき最大収益が得られるビジネスモデルである。これは民放だけに限らない。NHKは最大多数が契約するとき最大収益を得るが、視聴の有無と契約の有無は無関係とする放送法の規定が守られないことが多い。そこで見る人に契約してもらう。そのため見る人を増やすという経営方針である。結果的に、民放同様の視聴率重視モデルに傾く。
だからテレビは、何を扱うときも、万人にわかりやすく、親しみやすく、取っつきやすくする。微妙な議論を白か黒か、善か悪かに単純化する手法が典型的だが、これはテレビの原理から直接導かれるテレビ本来の生理や機能といえる。単純化と並んで、わかりやすく、親しみやすく、取っつきやすくする簡単な方法は、難しいことを「人」に還元してしまうやり方である。
難しい議論や判断は、たとえば小泉純一郎という「人」に丸投げし、任せてしまう。郵政民営化がどうたらこうたらと難しい問題を伝えてもわからないから、「命がけでやる」という人、「いや、ダメだ」という人、両者の人間的なケンカに還元して伝える。
あるいは「落語」という芸は、歴史や風俗の知識がなければ楽しめず難しい。だから、落語家には落語でなく、司会やレポーターやクイズ回答者をやらせる。「歌」も芸のうちだが、特定の歌手の歌を聴きたい人はそう多くないし、時間も取られる。本当に聴きたければCDを買うから、歌手には歌を歌わせず、別のおもしろい側面を見せる。いずれも芸を解体させ、人に還元してしまう。
そこに、もはや芸は存在しないのかといえば、微妙なテレビ芸の世界がある。たけし、さんま、タモリ、所ジョージ、太田光らはその大御所だし、レギュラーを持つジャニーズの若者たちは、そこらの落語家の弟子よりもはるかに研鑽《けんさん》と経験を積んで、おもしろい。
視聴者は、テレビでそんな「人」を見ているわけである。
第二に指摘すべきは、とくにテレビの「何を見ている」とは言い難い、つまりテレビを見るというよりは、長時間ただスイッチを入れている視聴者が多いことだ。
単身者の多くは、朝起きたときや家に帰ったときに、まずテレビをつける。お年寄りや下宿学生に聞くと「寂しいから」という人が多い。外出しない日曜などは、8時間やそこら、テレビをつけっぱなしだ。
もちろんテレビの前に座れば、そのとき放送中の複数の番組から好きなものを選ぶわけで、選択基準は「人」だったり「事件」だったりする。このとき、視聴者は人を見ている、あるいは事件を見ているといえないことはない。だが、「この俳優が出ているからドラマを見る」「地震のその後が知りたいからニュースを見る」という積極的な選択とは、明らかにレベルが異なっている。
ここでも地縁・血縁共同体の崩壊、核家族化、高齢化を背景として指摘できる。また、90年代の長期不況とその後のリストラで低所得者層が大量に生まれ、テレビに安い娯楽や暇つぶしの機能を求める人が増えたともいえそうだ。家庭・教育環境の長期的な影響で、昔より移り気で、我慢や忍耐力に欠けた視聴者が増えたことも確かだ。連ドラの不調は、10週間以上も毎週決まった日時にテレビの前に座る「付き合いのよい」視聴者が、減っていることの現れである。
何を選択するかは視聴者によって異なり、ときどきの気分にもよるわけだが、テレビの前の視聴者は非常に気まぐれで、自己中心的な存在だということは、強調しておいたほうがよいだろう。
当たり前のことだが、視聴者は自分を基準に、あるいは自分を棚に上げて、テレビを見る。世間を騒がす事件を見るときも「世の中にはなんて愚か者(またはかわいそうな人)がいるのか」「うちはあれほどひどくない」という意識が強く働く。
これは、占い師や霊感師の類《たぐい》が出る番組、人捜し番組、バカを強調するクイズ番組、『積み木くずし』『牡丹と薔薇』『渡る世間〜』の一群のドラマがウケる理由だ。テレビが、人や事件のエグさ、おぞましさを強調しがちなのは、視聴者を優位に立たせて喜ばせようとするからである。やりすぎれば、視聴者に媚びた番組といわれることになる。
第三に指摘したいのは、視聴者はテレビの「ノイズ」を見ているということだ。
映像と音声をセットで伝えるテレビは、出演者や制作者が伝えようとする以外の情報も含めて雑多な情報を伝える。万事を「人」に還元して伝えようとするから、なおさらそうなる。この、本来の伝達内容とはいえない情報は、音であれば「雑音」と呼べばいいが、映像に「雑映像」という言葉はないから、とりあえずノイズと呼んでおく。
たとえば、視聴者に何人かの政見放送を見せ、どの政治家がもっとも説得力があったかと尋ねる実験がある。それによると、政治家の説得力は、政治的な見解や政策とはあまり関係なく、その人物の表情や手振り身振りの大きさに強く関係する。
いわゆる「郵政解散」後の2006年9・11衆院選で与党が圧勝したのは、別にテレビが小泉自民党を応援したからではない。テレビからは、小泉自民党のほうが野党より説得力があると見えたからである。
視聴者は、テレビが流すノイズ含みの情報を、案外ちゃんと受け取っていると筆者は思う。NG大賞など楽屋落ちネタを全面に押し出す番組は、ノイズ好きな視聴者にノイズ部分を切り取って見せている。視聴者が見ている「人」の見せ方を重層化する作業も、政治家なら政治家、歌手なら歌手の普通は見せない側面、つまりノイズを強調して見せているのだともいえる。
ノイズを含めて丸ごと伝えるテレビの特性は、テレビの弱みよりは強みだと考えるべきである。この特性は、テレビが権力者や体制に取り込まれない限り、権力者や体制の権威をそぎ落とす方向に作用するからだ。
テレビは芸を解体したように、権威を解体する。エラそうなことを言う政治家も「ダッサいネクタイ!」「なんだ、ヅラじゃん」「居眠りしてやがる」とさらけ出す。自由なテレビが多くの家庭に普及した国では、独裁政治を維持することは不可能である。
第四に、視聴者はドラマ、お笑い、音楽、ニュース、ドキュメンタリーといった「見たいジャンルの番組」を見ている。あるいは、ニュースのうち今日のスポーツ結果というように「自分の見たいコーナー」を見ている。
これが四つのうち最後にくることが、筆者の見る今日のテレビ状況だ。
筆者が子どもの頃、日曜夜のNHK大河ドラマは必ず一家そろって見るものだった。10年ほど前、田舎のある家で「お爺《じい》ちゃんが見るから一家で大河を見る」と聞いた。そのお爺《じい》ちゃんがいない家が増え、しかも一家に2台、3台とテレビが増えた。視聴者が見る番組がバラけるのは当然だろう。
しかも、最大多数の人が見るとき最大収益が得られるテレビのビジネスモデルは、単純化や人への還元だけでなく、必然的にテレビのバラエティ化、番組ジャンルの曖昧化をもたらす。
好みが多様な視聴者の多くを集めるには、番組をブツ切りにして多様なコーナーを設けることが理に適《かな》うからだ。だから、純粋の歌番組は姿を消し、歌以上にトークやコントやゲームの要素を重視する歌番組が登場する。視聴者も、それに慣れ親しんでいる。純粋な歌番組はCSで見る、CDを買う、ネットで拾うという人も少なからずいる。
この状況に文句をつけても仕方がない。こうしたテレビの生理、視聴者の情報に接する態度の変化に柔軟に対応しつつ、いかに自分の伝えたいことを伝えるか。それがテレビ制作者に問われていると、筆者は考えている。
上記本文では、いきなり「人」という言葉を使っている。入口手前であれこれ説明するのは面倒くさいからだが、いくつか補足しておこう。
もちろん生物学的な存在としての人は、動物界脊椎動物門哺乳綱霊長目真猿亜目ヒト上科ヒト科に属する学名ホモ・サピエンス・サピエンスHomo sapiens sapiensのこと(現存するのは)で、「ヒト」「人類」などと表現されることも多い。ヒトの明確な(他の動物とハッキリ分ける)定義は、直立二足歩行・音声言語・人間家族などを組み合わせて述べるしかなかろうと考えられている(直立二足歩行ならニワトリやダチョウもそうだ、道具の使用ならチンパンジーやラッコもそうだ、という話を突き詰めていくと)。
ヒトの生物学的な定義の要素三つのうち二つまでに、音声によるコミュニケーション能力や、家族のあり方(多くの動物の母子家族、昆虫の大家族集団とは異なる)という、社会的な(社会学的な)要素を入れ込む必要があるならば、「ヒトは社会的な動物だ」といってよい。実際、アリストテレスは2400年近く前に、そんな意味のこと(ポリス的動物)を述べ、「人間が人間を生む」という言葉を好んで口にした。「人は社会的な存在」「人は、家族や社会との接触をへて人になる」という言い方は、まあ、だいたい同じことをいっているわけだ。
どうでもいい余談だが、以上のことは、広い意味での人類学に「社会人類学」「文化人類学」といった分野があり、それらがもともと民族学や言語学や心理学や行動学と密接に関係していて、ここ何十年かでは構造主義だの記号論だの哲学だの歴史学だのが入り乱れてゴチャゴチャやり、「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消えていく」(フーコー)とか「人間諸科学の究極目的は、人間を溶かす」(「レビ・ストロース)なんていったヤツもいれば、そんなのは古い、もう終わったというヤツもいることと、もちろん大いに関係がある。
ようするに「人は、人あっての存在」なのだから、「人は人が好き」「人は人に興味がある」といっていい。
ところで、私がわざと使わなかった「人間」(にんげん/じんかん)という言葉は、「人の間」、人と人との社会的・日常的なつながりを指している。つまり、そもそも「人間」=「社会的存在としての人」という意味である。人間=人間関係であって、日本では、もともと「関係あっての人」なのだというところが、たいへん興味深い。欧米では人間関係(human relations)と人間(human、human being)は別なのに、日本では一緒くたに考える傾向が強い。
この問題は、日本の役所や企業の根強い「一家意識」、それを近代的・合理的な個人や市民が集まって作る集団とは考えにくいこととも、大いに関係している。役所勤めの人は、役所内の人間関係あっての役人であり、その人間関係と自らの存在を切り離すことができない。だから、普通の個人や市民ならば放っておけないような重大事も、役所の人間関係のルールに基づいて黙っていたりする。
また、このことは、本稿の範囲を大きく越えるが、彼我のメディアのあり方の違いにも大きく関係している(本質的に関わっている)と、私は考えている。メディアとは、まさに「中間にあるもの」で、何の中間にあるんだといえば、人と人の間にある(個と個の間にある)。欧米流の考えでは、それは個人とは別のもので、自由で独立した合理的な存在としての個人(市民)が、時と場合に応じてうまく使うものという感じが強い。これに対して、日本流の考えでは、個人がそもそも人間関係あっての存在である以上、メディアが個人と明確に切り離された別個のもの、使う対象という感じが希薄である。むしろ、使うものではなく、浸るもの、いままさにどっぷりと浸っているそのものという感じがある。
この問題は、日本人が世界の中で極端にテレビ好きであること、テレビの普及率が極めて高く、視聴時間もかなり長いこと、テレビメディアに対する信頼性が異常なまでに高いことを、トータルでうまく説明できる理由の一つではないかと、私は思っている(もちろん論証が必要で、現段階では仮説)。
ちょっと脱線すると、「人間」という言葉と同じようにおもしろいのが「世間」という言葉だ。「世間=社会、世の中」という場合もあるが、多くの場合「世間=交際や付き合いの範囲、顔見知りのエリア」である。広辞苑の見出しをそのままコピペしておこう。
世間が狭い、世間が立つ、世間が詰る、世間が張る、世間が広い、世間虚仮《こけ》唯仏是真、世間に鬼は無い、世間に出る、世間になる、世間の口に戸は立てられぬ、世間は張物、世間は広いようで狭い、世間晴れて、世間を狭くする、世間を張る、世間男、世間気、世間口、世間騒がせ、世間師、世間者、世間知らず、世間雀、世間擦れ、世間僧、世間魂、世間智、世間体、世間的、世間寺、世間道具、世間並、世間の口、世間話、世間離れ、世間張る、世間見ず。
ようするに、世間=「人の間」=人間という感じがある。人間(人と人とのつながり)と世間とごっちゃになっているから、やっぱり「個人」がいない感じである。この世間とは、長いこと血縁・地縁共同体とほぼイコールで、多くの人びとはそこから外には出なかった。個人の主権なんてものよりも、共同体の掟が優先し、掟破りは村八分だった。
ところが、この血縁・地縁共同体が近年、大きく崩れてきていることは疑いを入れない。人を人にしていくのに、共同体が関わっていた側面が大きい。たとえば若衆組(若者組。明治中期まで全国の村落にあった)・娘組とか若衆宿なんかもその一つだったが、いまはない。そこで、かつて人びとがどっぷり使っていた世間の代わりを、ある意味でテレビが務めているのではないか、とも私は思っている。たとえば、世間話=テレビ話、世間に出る=テレビに出る、世間騒がせ=テレビ騒がせで、ほとんど意味が通じてしまうのは、そういうことではないか。
まあ、以上のようなことをグチャグチャいわずとも、ようするに「人は、人あっての存在」なのだから、「人は人が好き」「人は人に興味がある」。ならば、なるべく大勢に見てもらいたいテレビは、必ず人を出すのだ。伝えたいことが別にあっても、必ず人を出して伝えさせるのである。
ここ数年のバラエティ番組に顕著なのは、スタジオのひな壇席に芸能人その他を大量に並べ、その中で「何か」をやるという構造の番組が際立って多いことである。その「何か」は、クイズ、ギャグ、ものまね、海外や素人投稿のおもしろビデオ、あるテーマに沿ったトークなど、何でもいい。内容により「クイズ番組」「お笑い番組」「トークショー」などと分類はできるが、構造はどれも同じだ。このことが、十年前、二十年前のテレビとは、決定的に異なっている。
昔の「クイズ番組」は、四人ほどの回答者が横並びでボックス席につき、正面に問題パネルがあり、司会のアナウンサーが進行していくのが基本パターン。番組によって、ボックス席が上下する、オッズを決め回答者が持ち点を賭ける、海外ロケした珍しい映像を流しその中で問題を出す、ものの値段だけを当てる、正答者が陣地取りゲームをする、といった特色を出して個性を競う。しかし、クイズ番組としての基本構造は共通していたわけだ。
ところが、現在のバラエティにおけるクイズは、一部を除いて、伝統的なクイズ番組の形式を持たない。ようするに、同じスタジオに同じ出演者で、クイズを十問やらずにギャグを十発やっても番組は成立するという形式・スタイルだ。極言すれば、内容なんかどうでもいいのである。
この「ひな壇バラエティ」は、さんま、紳助、クリームシチューの上田晋也といった手練《てだれ》が仕切る。配置された出演者にも役割分担がある。今田耕司や磯野貴理子はじめ声がデカく元気で、ときに大ポカをやるタレント。中尾彬(「何いってるんだい、おまえさんは」と若い連中にいう)のようなオジサン系。アイドルのかわいい女の子。はずしてばかりいるズッコケ役。特別扱いされる比較的大物のゲスト俳優や歌手、などなど。女性だけを集めたり、若手芸人だけ、スポーツ選手だけ集める場合もある。
彼らに要求されるのは、何かが起こったとき、間髪を入れず気の利いた一言をいう、ものすごく驚いた顔をして呆然とする、奇態な叫び声を上げるといった瞬間瞬間の反応だ。これができる者は「リアクション・タレント」と呼ばれ、重宝がられている。
よく見るパターンは、クイズをやり、正答者が一抜け二抜けしていき、まだ答えられないでいるタレントを余裕でからかうというもの。正答者は別のひな壇に移るか別室に移動する。取り残された回答者はジリジリ焦ったり正答者に逆ギレしたりする。二択問題を出して回答者を部屋Aと部屋Bに分け、正解発表までやきもきした室内の様子を映すという工夫もある。
だから、視聴者はクイズだけを楽しんでいるのではない。クイズを火つけというかネタにして、タレントたちの丁々発止のやり取りや、馬鹿さ加減をも楽しんでいる。クイズ番組は、知恵や知識を競うものかと思ったら、いかにバカでズッコケているかを競っているわけだ。「視聴者に優越感を与える」のはヒット番組の定石の一つ。橋田壽賀子の「隣の芝生」「渡る世間」の高視聴率は「うちはあれほどヒドくない」と思わせるからで、クイズバラエティもその要素が色濃い。
ネタが若手芸人のギャグの見せ合いの場合は、いちばんヘタなギャグをやった者への罰ゲームが用意される。手っ取り早い罰は、青汁を飲ませるか、頭から水をぶっかけるかだ。頭にシャンプーを仕込んでおき、水がかけられたら洗髪を始める芸人もいる。青汁はわさび入りの何か、水は金だらいでも可。最近は尻に電気を流すのも増えた。
貪欲な芸人は、あらゆる瞬間をとらえて、1秒でも多く映り、笑わせようとしているのがよくわかる。司会者は「はい。つまらないので、ここはカット」と頻繁にいい、芸人は「かんべんしてくださいよ〜」と応じる。その芸人の見せ所は、つまらなかった芸ではなくて、泣き言や繰り言のほうなのだ。テレビでは、古い意味の「芸」が、とっくの昔に解体してしまった。
海外のおもしろビデオ映像を見せる場合は、ひな壇タレントたちが感想を語ったり、前に出てきて映っていたものを体験したりする。もとの映像は、事故に遭い九死に一生を得た生還者たちが登場するアメリカのドキュメンタリー番組だったりする。そのまま吹き替えて流しても十分おもしろいと思うのだが、必ずひな壇にタレントを配置し、短く切り刻んでしまう。
では、なぜそんな「ひな壇バラエティ」が全盛を迎えたのか。理由の一つは、端的に制作費が安くすみ、万事手っ取り早いということである。
ロケは必要なくスタジオでできる。決まったセットにふきだし字幕やCGで味付けすれば、装置も安上がり。タレントを大勢集めているようだが、ギャラが高いのは司会者ほか二〜三人だけ。「これができたら賞金百万円」などというが、ああいうものは大道具小道具の範疇に入ると思っていい。何をどの順番でやるとさえ決めておけば、あとは現場のタレントまかせだから、手の込んだ演出もいらない。
テレビでは昔から「不況のときはクイズ」といわれてきた。クイズ番組は、素人参加で賞品をスポンサー持ちにし、放送作家に問題を作らせ、局アナを起用すれば、制作費がかからない。クイズバラエティが多いのは、背景に日本語ブーム、ドリルブーム(百マス計算だの脳を活性化するゲームだのが売れている)や雑学ブームもあるが、何より安上がりだからだ。
テレビ局は、地上デジタル放送への移行で必要な投資に加え、有力スポンサーのテレビ離れによって、どこでもコスト削減に必死だ。トヨタ自動車は昨年、北米の若者むけブランドでテレビCMを一切打たず、インターネットによる広告宣伝戦略を採用して大成功を収めた。電通の資生堂CMによる売り上げは、前年比三割減というような惨状で、民放に衝撃が走っている。背に腹は代えられないから、安上がり番組が増殖していく。
もう一つの大きな理由は、「ひな壇バラエティ」は、視聴者のいい加減なテレビの見方に対応させた作りだからである。
NHK放送文化研究所が毎年調査するテレビの視聴時間は、一日平均四時間強。これは八〇年代末から漸増傾向で、背景に高齢化、週休二日制や学校週五日制の普及(余暇の増大)、大事件や大事故の発生、バブル崩壊以降の不況(安上がりな娯楽としてテレビを選ぶ)などがあるとされる。しかし、実は時間が緩やかに増えただけでなく、質的に大きな変化が見られる。「ながら視聴」や「BGM的な視聴」が増え、すぐにチャンネルを切り替えるザッピングも横行して、特定の番組をじっくり見続ける視聴者がどんどん減ってきているのだ。これは連続ドラマの視聴率が低迷する理由の一つでもある。毎週同じ時間にテレビの前に座る律儀で根気ある視聴者が、明らかに減っている。
「ひな壇バラエティ」は、始めも終わりもないような作りで、どこから見てもかまわない。テレビには「絶対に見逃せない」から見る番組と「途中で見るのをやめていい」から見る番組があり、後者の典型なのだ。出演者が大勢だから、誰でもまずまず好きなタレントが一人二人は入っており、万人むけ。クイズならば、だじゃれクイズ、とんち、雑学など、そこそこおもしろおかしく肩のこらない内容で、ヒマつぶしの娯楽としては悪くない。
そんな視聴者のいい加減なテレビの見方、テレビとの付き合い方に、うまく対応しているのが「ひな壇バラエティ」なのである。
このような番組の氾濫に、私たちはどのように応接していけばよいのか。
懸念される問題の一つは、現在のような番組づくりを続けていると、テレビ局(実際はテレビ制作会社)の制作力がどんどん低下するということである。優れたリアクション・タレントの仕込みさえできれば、たいてい何とかなってしまうからだ。それは短期的にはカネになっても、長期的には得策とはいえない。
アメリカで九死に一生ドキュメンタリーを作っている制作者は、放映時に稼ぎ、放映後は日本に売って稼いでいる。それを輸入し切り刻んで番組を作る者よりも、儲かるに決まっているではないか。そして、「ひな壇バラエティ」を作るプロダクションに、いざ九死に一生ドキュメンタリーを作ってみろといったら、作ることができない。これは具合が悪かろう。
もっとも、テレビは社会の鏡であり、視聴者という存在を映し出す鏡でもある。しっかりしたドキュメンタリーを作れといっても、誰も見なければ仕方ない。馬鹿バカしすぎると文句をいわれても、テレビは「できるだけ多くの人が見るとき、もっとも収入が得られる」というビジネスモデルだから、できるだけ多くの人の水準に合わせるほか手の打ちようがないメディアなのだ。
どうせタダなのだから、テレビはそのようなものと割り切って、手応えのあるドキュメンタリーはCSやCATVの専門チャンネルでカネを払って見るのも一法だろう。ディスカバリーチャンネルやヒストリーチャンネルには、そのような番組がたくさんある。子どもたちは、テレビが低きに流れるように、いい加減な番組になびくから、テレビ以外のおもしろい娯楽や体験を十分与えておく必要があるだろう。
たとえば、テレビが「全国学力テスト」のニュースを伝える場合を考える。このとき、人への還元というか、なんでもかんでも人を介在させることは、さまざまなレベルで起こる。思いつくままに挙げてみよう。
●全国学力テストとは何か→同
●郵政民営化が国会で議論されている状況→大臣の答弁、議員の質問など、人の絵で伝える
●郵政民営化に対する意見→識者へのインタビュー、コメンテータの意見、街で拾った人の声など、人を通して伝える(論文集の一説を映したり読んだりはしない)
●郵政民営化の問題点→専門家や記者の言葉で伝える。
●郵政民営化の現場→郵便局がどう変わったか、人が
以上を全部を伝える際に、キャスターやアナウンサーという「人」が顔出しして、進行する。
つまり、どこにでも人が顔を出す。そんなの当たり前じゃないか、といってはいけない。こんなメディアで身近なものは、テレビだけである。放送という意味ではテレビの兄弟分であるラジオは、人の声しか流れない。新聞や雑誌、単行本などの出版物には、人の会話や人の動静が文字で記してあるが、そこに人の顔はない。人が映っている写真はよく掲載させるが、声も出さなければ動きもしない。インターネットも、現時点では新聞、雑誌、単行本など出版物に極めて近いテキスト中心のメディアである。動画が多くなってきたが、テレビのクリップが多く、テレビのように人が出る映像も多い。当たり前の話で、人が話したり、行動したり、歌を歌ったりしないなら、その情報はだいたい写真やテキストで伝えることができるからである。
テレビのニュースを録画して、以上のようにとにかく「人」が映っている場面をストップウォッチで計測し、スタジオ内キャスター、コメンテータ、レポートする記者、専門家のコメントビデオ、事件や出来事などのビデオ映像で人が映っているシーンなどを分類してみることには大いに意味がある。
その結果わかることは、ニュースが流れているほとんどの時間で、人が映っていること。人が映っていない場面の多くに人の声がかぶっていること、である。映像そのものに伝える意味がある(9・11のビル崩壊シーン、噴火の瞬間、地震の揺れや台風の猛威をなど自然災害伝える映像、燃えている家やペシャンコになった自動車など事故を伝える映像、事件の起こった組織が入居する建物、場所を伝える映像)を除けば、ほとんど人が映っているはずである。
そのような映像を除けば、何が起こっているかは人が伝えたほうがわかりやすい。
うまい料理を何十分移し続けても、うまさは伝わらず、「うまい」と伝えている人を出さなければ
さまざまなメディアが新たに登場してきたが,マス・メディアの中でテレビはいまでも家庭内で人々の時間と費用をもっとも大きく吸収しているメディアである。人々はラジオ,新聞,雑誌に費やす時間以上の時間をテレビ視聴に振り向け,高い受像機を買い入れ,受信料,広告費,電気料を負担している。それだけのことをするのも,テレビが視聴覚メディアとして情緒性の強い訴求力をもっているからであり,また,放送局がそうした訴求力を最大限に活用した番組を,激しい局間競争の中で開発し送り続けてきたためである。他のマス・メディアは,放送のもつ即時性,同時性のうえに視聴覚への訴求力を併せもつテレビの存在を大きな前提として,それぞれのメディアの機能的な特性を生かした位置づけと活動の場所を見いだしている。例えば新聞はテレビの即時性,同時性に対しては記録性を,情緒性に対しては文字言語による解説性を強調することによって,結果としてはテレビとの間に補完的な関係をつくり出している。スポーツ報道などに,そうした関係は典型的に現れているといえよう。
マス・メディアはまた広告媒体として経済的に重要な機能をもっている。民放テレビに投じられる広告費は,1975 年を境にそれまでマスコミ 4 媒体 (新聞,雑誌,ラジオ,テレビ) 中で第 1 位であった新聞を上回り, 以来,広告媒体としてマス・メディアの筆頭の地位にある (広告)。テレビがもっとも強力な広告媒体として利用されているのも,テレビがマス・メディアの典型として,極度に大規模な受け手 (潜在的購買者) を動員しうるメディアであるからである。番組によっては全国何千万人という数の視聴者を,しかも同時的に獲得できるテレビは,マス・メディアの中でもとび抜けて巨大な規模で機能するメディアなのである。 ⇒視聴率
[社会,文化への影響]
テレビ放送は番組内容のさまざまの影響にもまして,なによりも人々の日常の生活の中で多くの時間を占拠している点で影響するところが大きい。 今日,日本人は平均して 1 日 3 時間半程度の時間をテレビ視聴に費やしている。勤労者の場合,1 日のうち家にいる時間は限られている。その在宅時間の中から寝る時間,家事その他に必要な時間を差し引いた残りのいわゆる自由裁量時間の中で,圧倒的な部分を占めているのがテレビ視聴である。いまや家庭における日常の生活とテレビとは切り離せない関係にまでなっており,テレビがあるということを前提にした生活を送っている。ことに家庭にいることの多い主婦,低年齢の子ども,年寄りにとって,テレビは重要な生活の伴侶なのである。
テレビは印刷物やラジオと違って,触覚を除けば現実の体験に近い〈疑似〉体験を味わわせてくれる視聴覚的な感覚訴求力をもっている。われわれは現実の対象そのものを現場でみずからの目と耳で前にしているような気持でテレビをみつめている。しかも,視聴者は安全な自分の家の中にいて,観客として画面をみているのである。また視聴する局を自由に変えることができるし,チャンネルを変え,スイッチを切ってしまうこともできる。日本のように多くの局が競争しているところでは,テレビ局は視聴者の関心を引きとめておくために最大限の努力を注いでいる。その結果,テレビ番組はいずれも広い意味で娯楽性を強調することになる。視聴者はおもしろいということが基準になってテレビ番組を選択している。ある程度物質的豊かさを享受しうる現代の社会で,そうした選択行動が,テレビ視聴についてだけでなく,他の消費行動にまで拡大していくのも自然のことである。テレビはこうしてわれわれの日常生活の中に深く浸透し,われわれの生活環境の一部として日常化してしまった。
もちろん,こうして拡大したテレビの影響について,さまざまの不安がいだかれ,批判もつきない。テレビ視聴が時間的に他の行動を排除する結果になることについて,ことに子どもの問題が指摘されている。また,内容面では大衆的関心への迎合,商業主義的な傾向,放送が免許制であるところからくるジャーナリズムとしての鋭さの欠如などが問題とされている。そうした批判を受けながら,テレビ放送はその速報性,同時性,視聴覚的訴求力,そして全世界的な番組情報収集力によって,人々の生活にとって欠かすことのできないメディアとしての地位を確立してきた。